2017年12月11日 (月)

江南11 交流会

交流会
 滄浪亭は川のほとりにあった。M社のS社長が待ってくれていた。当初は中国へ来る予定はなかったが、予定していた通訳が来られなくなり、仕事かたがたこの日だけ通訳に来てくれたもの。知っている人に会うと心強い。

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 橋を渡って行く。観光客なのか近所の人たちなのか。たむろしている人たちがいる。ここは規模が小さいせいなのか、同じ世界遺産の庭園でも拙政園や留園といった大きな庭園とは違って観光客はそんない多くないようだ。

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 「鋤月軒」と額のかかった一室に案内され、交流会が始まった。

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 SR詩社のS社長とわが方のS田先生の挨拶と相互の紹介からはじまり、わたしもサークルの紹介と日本人と漢詩について少し話させてもらった。

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 当方のN野さんの依頼により「前赤壁の賦」が中国語で朗詠されると、G前詩社長など詩社の皆さんの漢詩の朗詠が次々続いた。民謡のように音楽的で、おまけにみなさん美声でよく声が通る。感動的だった。
 同じ詩を現在の中国の標準語である普通話と蘇州方言の両方で詠ってくださったりもした。残念ながら言葉の違いはよく判別できなかったが、どちらも素晴らしい。
 順にみなさんが詠われて、当方は間をぬってS先生が詩吟を披露されただけで、後は出番がなくなるくらいだった。詩吟の二番手、三番手も用意していたのだが。

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 そして書家のO氏、画家のK氏の席上揮毫があった。

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  朗詠を依頼した「前赤壁の賦」の中の「則物與我皆無尽也」から「物我無尽」の四文字を選んだもの。
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 当方はU山さんが同じく席上揮毫で応えた。U山さんは書家である。

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 和気藹藹の楽しい交換会で、このあと昼食も近くの新天倫之楽大酒店というホテルの蘇州料理店でいっしょにとった。

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 相手方にも漢詩が好きな日本人がやってきて楽しかったと言っていただけたそうだし、こちらも愉しんだ。特にあの朗詠を聞かせてもらったのは大きな喜びだった。
  暖かく迎えていただいた詩社の方々には感謝あるのみです。
 反省点はいくつもある。
 もっとお互いの意見交換をしたかったのに、通り一遍の挨拶と紹介ぐらいで中身のある話し合いはほとんどできなかったこと。ぶっつけ本番でどういう展開になるのかわからなかったから、時間配分をきちんと決めておかなかった。
  もっとも時間があっても中国語ができないと、個人的に親しくなるようなところまではいかない。通訳を介してでは対話も限定される。
 記録についても深く考えていなかった。あんな素晴らしい朗詠が出てくるなら、きちんと録音してくるべきだった。途中であわててICレコーダーを引っ張り出したけれど、うまく採れていなかった。 
 初めてのことでやむをえない点もあったけれど、もし次回があるとすれば、反省点をふまえて、もっとうまくやりたいと思う。
 しかし、ともかく皆さんに喜んでもらえたようで、成功裡に終了することができ、非常にうれしかった。団長としては、肩の荷が一つおりた。

 ということで、わたしはゆっくり庭園を見ているひまがなかったが、滄浪亭はいいところだった。他の大庭園とは違って、派手派手しさがなく、日本人好みの静かな庭園であるように見受けられた。

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2017年12月 7日 (木)

江南10 旅のはじまり

第3日(10月27日)

 さて、この日は今回のツアーの目玉、蘇州の漢詩愛好会との交流会と、蘇州大学の教授の講演会があった。これをやるためにこのツアーが組織されたようなものなので、ここでそのはじまりを説明しておこう。
 さらにその前に言っておかなければならないのは、わたしは3年前から小さな漢詩愛好者のサークルに参加していることと成り行きからその世話人になっていること。会場を確保したり会費を集めたり、会の運営にはあれこれ雑務が必要になる。それををやらされているわけだ。
 そのサークルが所属しているのが神奈川県漢詩連盟で、さらにその上には全日本漢詩連盟もある。そしてこれらの組織の特徴は漢詩愛好といっても漢詩を読むだけでなく、漢詩の創作を活動の中心にしていることだ。今どき? と思う人が多いだろう。そのとおり、連盟内では、われわれは「絶滅危惧種」だという声がよく聞こえる。
 

旅のはじまり
 サークルの例会のあとの飲み会の席上。今年は鎌倉あたりで吟行会をやろうという話から、いっそU村さんに上海を案内してもらったらどうかという話が出た。U村さんは某日中関係団体の委員をされていて中国には詳しい。上海にはしょっちゅう行っている。
 会のメンバーで行くなら漢詩に関するツアーにしたらどうか。「江南の春」のような風景や寒山寺を見に行こうと「江南漢詩ツアー」のアイデアが誕生した。
 さらに、わたしには現在の中国ではどんな人たちが漢詩を愛好しているのか、漢詩はどんな位置にあるのか、という興味があったので、できれば現地の漢詩愛好者との交流会をやろうと提案した。
 しかし中国の漢詩愛好者とどうやってコンタクトをとるか? われわれの会にはとてもそんな力はないが、現地の人たちと李白が好きだ、杜甫がいいという話ができればそれは立派な日中文化交流である。U村さんに力を貸していただけないか? と話は進んだ。
 そのためにまず会の公式行事にしようと例会で提案すると、「日中交流とかいって堅苦しいのはいやだ」という意見や「政治的に利用されることはないか」という疑念も出た。「堅苦しいことはしないようにするから」「政治的なことには関わらない」と説明し、了承を得た。
 県漢詩連盟の公認ももらって、関係団体の後援をいただくことになった。顧問格のS田先生、F田先生にも参加いただき、さらに他のサークルにも呼びかけて総勢13人になった。
 そしてU村さんから、M社を紹介してもらい、ツアーの企画及び現地との交渉にあたってもらった。M社は日中間で翻訳など主に情報サービスをしている会社で旅行業者ではない。S社長は中国人で女性である。
 S社長にはご苦労をかけた。まず現地の漢詩愛好者を探し出してもらわなければならない。蘇州市役所に愛好者団体の紹介を依頼するところから始めたそうだ。それが老人大学に漢詩の教室があるとか、民間の詩社があるという話に結びついていった。
 しかしなかなか話が固まらない。まだかと催促したら、社長に「中国では二週間くらい前になるまで話が決まらないんですよ」と言われたこともあった。経費の面でも無理をきいてもらった。
 最終的に、蘇州の民間漢詩愛好団体であるSR詩社との交流会と蘇州大学のG教授の日本人の漢詩に関する講演会を実施することができ、成功裡に終了した。漢詩のふるさとを尋ねるツアーは他にもあるだろうけれど、今回のツアーは、交流会と講演会のあるオリジナルなツアーになった。U村さんとS社長のおかげである。
 そのU村さんが、直前になって家庭の事情で参加できなくなったのはまったく残念だった。

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 できあがったM社の「旅のしおり」の名簿には、わたしの名前に「団長」の肩書きがついていた。おいおいサーカスみたいじゃないか。
 いつのまにかわれわれは「訪中団」になっていたんだろうか。向こうでは「世話人」と言っても通じないのかもしれない。まあ言い出した責任者ではあるのでやむをえない。
 こうなったら紀行文のタイトルは「団長亭日常」とか「団長の思い」とでもしようか。

蘇州へ
 また朝7:30に杭州のホテルを出発して、蘇州へ向かう。天気はよさそうだがすっきりは晴れない。薄いスモッグのようだ。上海もそうだった。北京の大気汚染が有名だが、その他の大都市もみな同じ問題をかかえているとみえる。
 今日、交流会をやるSR詩社は、M社の情報によると、民間の団体で、漢詩に興味をもっている弁護士、大学の先生、古典文学の研究者、定年退職した教育者などにより構成され、会員は百人未満。漢詩についてのセミナーの開催、漢詩、詞などの創作やコンテストなどの活動を行っている。詩の他に書道、絵画、琴、囲碁などに長けた人も多い、という。
 生活レベルも高そうだし、漢詩のレベルもかなり高そうだ。この情報をきいたとき、S田先生、F田先生のお二人に参加してもらってよかった、と思った。
 わがサークルは漢詩を始めて三年目の初心者ばかりで、漢詩について深い話になったり、漢詩の交換というようなことになると、とても太刀打ちできない。初めての試みなので、そう難しい話にはならないはずだが、お二人にいていただければ安心だ。
 S社長とのおおまかな打合せだけで、細かい進行予定はない。成り行き次第でやるしかない。実際にどんな人たちが来てくれるのか、行ってみなければわからない。
 これが今回のツアーの目的であり、目玉なので、成否に「団長」の責任がかかっている。そう思うとさすがにわたしも緊張した。 

滄浪亭(そうろうてい)
 先方が用意してくれた交流会場が滄浪亭というのもちょっとした驚きだった。わたしが買ったガイドブックにも「蘇州でもっとも古い庭園」として載っている名園である。
  実は行くまで知らなかったが、ユネスコの世界遺産「蘇州古典園林」のひとつなのだという。日本ではなにかひとつ選定される度に大騒ぎしている「世界遺産」が会場だったのだ。
 唐の末期に造営され、北宋時代、11世紀中期に詩人蘇舜欽(そしゅんきん)が買い取って改築したという。滄浪亭という名は、有名な屈源の「漁父の辞(ぎょほのじ)」から名づけられた。

      滄浪之水清兮  滄浪の水 清まば
   可以濯吾纓    以って、吾が纓
(えい)を洗うべし。
     滄浪之水濁兮  滄浪の水 濁ら
ば、
      可以濯吾足    以って、吾が足を洗うべし。

 蘇舜欽には、「初晴遊滄浪亭(初めて晴れ滄浪亭に遊ぶ)」という詩がある。意味は、竹内実『岩波漢詩紀行辞典』による。

  夜雨連明春水生  夜雨 明に連って春水生じ
  嬌雲濃暖弄微晴  嬌雲 濃暖 微晴を弄す
  簾虚日薄花竹静  簾虚しく日薄く花竹静かなり
  時有乳鳩相対鳴 時に乳鳩
(にゅうきゅう)有り 相対して鳴く

 夜の雨が明け方まで及んで池の水かさが増した。これは春のしらせの水だ。
 女性がしなをつくるような雲は濃く暖かく、わずかな晴れ間をつくってくれた。
 簾の奥には人の気配がなく日も弱く花も竹もしまりかえっている
 ときおり鳩のひなが親鳥と向き合って鳴いている

 ともかく由緒正しい庭園に招かれたということだ。心して行かねばならぬ。

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2017年12月 4日 (月)

江南9 西湖を歩く2

西泠印社
 博物館の次は、来た道を少し戻って西泠印社(せいれいいんしゃ)というところへ行った。ここの「れい」の字は「冷」ではなく、さんずいの「泠」が正しいそうだ。
 わたしは知らなかったが、中国における篆刻芸術の中心地なのだそうだ。清代末期に篆刻家四人がここに結社をつくったのが始まりで、篆刻の工房などがたくさん活動していたという。
 だから同行者の中でも篆刻や書をやっている人は、前にも来たことがあるようだった。

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 小さな山がまるごと篆刻文化村のようになっていたらしい。

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 坂を登っていくと小さな建物があちこちにある。

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 建物をのぞいてみると、工房というより事務所のような感じになっているところが多い。現在は篆刻云々より、「庭園」として観光地化しているように思われた。観光客は多い。

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西湖で疲れる
 この西冷印社からバスまで帰るのが大変だった。タクシーで戻るつもりだったのが、西冷印社前ではタクシーがつかまらない。「空車」が来ても止まってくれないのだ。
 それでまた博物館前まで、歩いて戻った。ここならタクシー乗り場があるという.。ところがタクシー乗り場だというところには、まったく車が来ない。それらしい表示がないので、本当にここがタクシー乗り場なのか疑うくらい来ない。
 空車に手を振ってもダメで止まってくれない。ガイドのSさんが話しても、近すぎるからダメだと乗せてくれない。管理員のような人に頼んでもダメ。
 何か他の方法はないのかとSさんに話しても要領を得ない。バス亭があって乗合バスは来るけれど、あのバスは行く先が違うという。違ってもいいから、われわれのバスを呼んで乗り換えられる場所まで行こうと言っても、承知しない。こちらは道路のことも規制のこともわからないからそう強くも言えない。一行のイライラは募るばかりだった。

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 われわれは再度歩いてもなんとかなるが、高齢の両先生や足の悪い人は割増しでもなんでも払って帰るしかない。管理員に頼みSさんが話してようやく1台がうんと言ってくれた。30元で話がついたという。1元17円として510円だ。なんだそのくらいで話がつくならもっと早くやってくれ。1台100元でもいいぞ。
 しかし次の車が見つかるまでまたしばらく時間がかかった。今度は40元だった。そして最後にわたしが乗った車は50元になった。これは本当は4人しか乗れないところを、残っていた5人全員が無理矢理乗ったから更なる割増しもやむをえない。
 それにしてもいったい正規料金はいくらだったんだろう。中国のタクシーシステムはよくわからない。

河坊街
 タクシーも困ったものだが、駐停車禁止の規制が厳しくて、観光地の入口でバスの乗降ができないのにも困った。このあとの河坊街(かぼうがい)でもバスを坂の上の駐車場に止めて、そこからずっと歩いて行かなければならなかった。
 ここが河坊街の入口で、この右手に交番があってバスの駐停車を厳しく監視しており、駐車場はその奧の坂の上にあるというわけだった。

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 河坊街というのは、清代の街並みを再現した街で、日本で言えば江戸時代の宿場町を再現した商店街のようなものか。ここもにぎやかである。

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 道路の真ん中に飾り物があったり屋台が出たりしている中に、布袋の弥勒があった。小さな人形がいっぱい取りついていて、ガリバー旅行記のように見える。いったいどういう意味の展示であるのか、コンセプトがよくわからないというやつだ。

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 この商店街、建物の区切り目にはみんな「ウダツ」が上がっている。これも司馬遼太郎が『街道をゆく19 中国・江南のみち』に書いていた。司馬は、日本のウダツは江戸期に杭州あたりの民家から取り入れたのではないかという。隣家との間に障壁をつくって火を防ぐものである。中国語では「風火墻(フォン・フー・チャン」というそうだ。
 それなりの工賃がかかるから、ウダツがちゃんとある店が立派な商店とされ、できない奴がウダツの上がらない奴と言われたというわけだ。
 この商店街はウダツだらけで、日本の再現宿場町より全体の規模が大きい。人も多い。

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 西湖でたくさん歩いて疲れたので、お茶を飲んで休憩しようと言ったら、間口の狭いお茶屋さんの奧へ連れて行かれた。杭州は龍井(ロンジン)茶の本場なので、もっとちゃんとした茶社のようなところを期待していたのだが、やむをえない。

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 ともかく龍井茶を飲んだ。

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 街を見物した後は「皇飯児」という名前のレストランで夕食をとった。ここでもけっこうおいしい料理を食べたはずだが、よく覚えていない。歩き疲れたところにビールと紹興酒が効いたらしい。
 わたしの万歩計では、この日は18,173歩。旅行中の最大歩数であった。初日から五日間の平均が15,247歩だから、この旅行がともかくよく歩く旅行だったことがわかる。
 観光地の中を見物しながら歩くのはわかる。ところがその上、どこでも駐車場から観光地の入口までけっこう歩かされたのが大きい。時間もその分余計にかかって、見物の時間が少なくなっている。
 観光バスの乗降をこんなに厳しく規制しているのに、自家用車がけっこう中まで入っていたりする。詳しい事情も知らずに外国人が勝手なことを言ってもいけないが、排ガス減少のためにももっと自家用車を規制して、バスはゆるやかにしろと言いたくなった。

 河坊街からホテル(浙江梅地亞(めでぃあ)賓館)へ行くとき、そのバスの乗降規制に関して、おもしろい出来事があった。
 前に書いたように、河坊街へ入るのに、バスは坂の上の駐車場に停めて、そこから歩いてきた。帰りはその坂を登らなければならない。高齢で足腰に問題がないとは言えない両先生にこれ以上無理はさせられない
 ガイドのSさんが、商店街入口前の交番で交渉した。この二人にこの坂は登れない。特別にここでバスに乗るのを認めてくれと。S田先生は腰が少し曲がっていて、F田先生も杖をついている。(ずっと「高齢」とだけ言っているが、お二人の歳は「アラエイティ」で、わたしのように古稀になったばかりは漢詩連盟の中ではまだ「若手」なのだ。)
 その姿に加えて、Sさんもがんばってくれたのだろう。OKが出て、しばし両先生を交番に預けて、われわれはバスに乗るため坂を登った。
 その後交番前で無事両先生を救出して、バスの中で話を聞くと、なんと待っている間、若いお巡りさんが「ソーラン節」を歌ってもてなしてくれたそうだ。とても上手でいい声だった。「北国の春」も歌ってくれた。S田先生も一緒にソーラン節を歌ってきたという。
 これも日中文化交流のひとつと言うべきか。S田先生曰く「日本広しといえども、中国の交番でおまわりさんと一緒にソーラン節を歌った男は、そうそういないぞ」

  

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2017年11月30日 (木)

江南8 西湖を歩く1

西湖を歩く

 さてこの日はここからが大変だった。
 例によってバスを停められないからレストランの駐車場に置いていく。目的の浙江省博物館へは、両先生にはタクシーで行っていただくが、その他は歩くことになった。30分ぐらいかかりそうだというが、帰りはみんなタクシーで帰るということで、歩き始めた。
 有名な西湖のほとりの散歩である。景色も道も悪くはなかった。

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 岳王廟の前を通る。岳飛(がくひ)の墓所である。見たかったが、ガイドのSさんはどんどん先へ行ってしまう。ここは予定外であるらしい。

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 北宋の滅亡後、中国北部は金の支配下にあり、南宋は杭州(臨安)を都としていた。岳飛は金との戦いで何度も戦功を挙げ主戦派の筆頭であったが、宰相の秦檜(しんかい)は金との講和を進め、岳飛を謀殺した。秦檜は毎年大金を金に貢ぐという屈辱的な和議を結んだ。
 岳飛は愛国の英雄とされ、秦檜は売国奴とされる由縁である。岳飛は背に「尽忠報国」の四文字を刺青していたという。
 後生、岳飛廟内には檻に入れられた秦檜夫婦の像が作られ、見物客が唾を吐きかけたり、叩いたりする習いだったそうだ。今は「唾を吐きかけるな」と看板が出ているらしい。
 その秦檜の像も見たかったのだが、かなわなかった。

 西湖の北岸から孤山という小島にある浙江省博物館を目指して歩く。水面に見えるのは蓮。

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 遊覧船が通り過ぎて行く。

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 西湖は中国四大美女の一人西施(せいし)にたとえられる。 蘇軾(そしょく、蘇東坡)の有名な詩がある。

飮湖上初晴後雨二首 蘇軾 

水光瀲灔晴方好

山色空濛雨亦奇

欲把西湖比西子

淡粧濃抹總相宜

 湖上に飲す 初めは晴れ後雨ふる二首   蘇軾 
水光瀲灔(れんえん)として晴れて方に好し
山色空濛として雨も亦奇なり
西湖を把って西子に比せんと欲すれば
淡粧濃抹(たんしょうのうまつ)総べて相宜し

西子西施。春秋時代の越の美人。呉王夫差に愛され呉の滅ぶ一因となった。

 「淡粧濃抹総べて相宜(あいよろ)し」 化粧が薄くても濃くてもすべて美しいということ。
 日本でも芭蕉が「奥の細道」で
  象潟(きさがた) や雨に西施がねぶの花
と詠んでいる。「ねぶの花」は「「眠り」をかけてあって、これは「象潟の雨に濡れたねむの花を見ていると、西施がなやましげに眼を閉じている姿が浮かんでくる」ということだという。
 ちなみに「ひそみにならう」という言葉も、西施が病気になり眉をしかめたのが美しく見えたのを、醜い女が真似をしたことからきているそうだ。主に他人のする通りに自分もすることを謙遜して言う。
 つまり西施は薄化粧でも厚化粧でも、目をつぶっていても、眉をしかめても美人だったというわけだ。是非一度お目にかかりたい。
 ともかく西湖は晴れて好し雨でも好し。この日の西湖もなかなかよかった。

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 蘇軾が杭州の知事時代に作ったという堤防が蘇堤、白居易の知事時代のものが白堤と呼ばれ、現在もあるが、歩いてきたのはそことは違う。

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 やがて浙江省博物館へ着いた。

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Photo 魯迅紀念館でもそうだったが、入館の際、荷物のX線チェックがあった。ガードマンのような人が立ち会っている。高速道路の料金所でも、大型バスは脇へ行ってチェックされていた。中国ではどこもセキュリティチェックが厳しいようだ。 博物館では土器から陶器、青磁の皿だの壺だのをたくさん見た。相当の量があるから、じっくり見ていると時間がかかる。
 わたしは、なんでも鑑定団に出したらいくらぐらいの値段がつくものかぐらいしか考えることがないから、まあ適当に見た。ここでも同行の人たちは熱心に見ていた。

 

 

 

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2017年11月27日 (月)

江南7 霊光菜館

霊光菜館
 昼食は西湖の近くの霊光菜館( 簡体字「灵光菜馆」 )だった。

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 昼間から中華のフルコースという感じで、ずいぶん品数があった。

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 地元の料理がいくつか出た。東坡肉(トンポーロウ)は杭州名物のひとつで、詩人の蘇東坡(蘇軾)が考案したとされる。この後の他の店でもよく出た。
 しかし本場の東坡肉は意外に素っ気ない味で、これなら日本の方がうまいと思われた。わたしはこれが好きなので、ちょっと残念だった。

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 これは叫化鶏(きょうかどり、チャオ・ホア・ジ)。叫化とは物乞いのことで、別名乞食鶏。英語名は”Beggar's Chicken”である。
 その昔、乞食がたまたま鶏を手に入れたが、調理器具がなく泥で鶏を包んで土の中に埋め、その上で焚き火をしたらとてもおいしかったのが始まりだという。
 鶏を蓮の葉でくるんでさらに粘土で全体を包み、丸ごと蒸し焼きにするのだそうだ。これはなかなかいけた。

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2017年11月23日 (木)

江南6 杭州霊隠寺

第2日(10月26日)

杭州へ
 朝6:30に朝食で、7:30にロビー集合・出発と今日も朝が早い。それでももう街には車がたくさん走り始めている。

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 上海を外れると車も空いてきた。今日の目的地は杭州(こうしゅう)。中国には広州もあるので、中国通は「くいの杭州」「広い広州」と呼び分けるらしい。上海から直線で160kmくらいあるが、ずっと平らな道で山がどこにも見えない。長江デルタ地帯は平らで広い。
 ガイドのSさんによれば、上海の人口は2,400万人、蘇州が1060万人で杭州はちょっと少なくて920万人くらいだという。この数字はどこまでを市域に含めるかでだいぶ違ってくるらしいが、それにしても杭州や蘇州に1.000万人もいるとは驚いた。
 漢詩の下調べはしたが、そっち方面の下調べはしてこなかった。なんとなく地方のひなびた風情がある都市だろうと思っていた。まったく認識不足で、どちらも大都会なのだ。横浜の人口は370万人だといっても、それが何か? と言われそうだ。

 二時間近く走って嘉興(かこう)のサービスエリアでトイレ休憩をとった。

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 嘉興あたりは粽(ちまき)が名物だそうで、売店で買って食べてみた。しょうゆ味が濃くてうまい。これに比べると昨日食べた南翔饅頭店の粽は薄味で上品だった。わたしは嘉興に軍配を上げる。

霊隠寺(れいいんじ)
 杭州に入り、目的地の霊隠寺に近くなって、ようやく山影が見えてきた。

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 霊隠寺に近づくと車がずっとつながっている。観光客で渋滞しているらしい。中国では観光地はどこも大賑わいになっているようだ。国にそれだけの余力が生じ、活力があるということだろう。

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 霊隠寺には、その昔インドの慧理和尚(えりおしょう)がこの地に至り、この山は天竺の霊鷲山(りょうじゅせん)が飛来してきたものではないかと、ここに寺を建てたという伝説がある。だから寺の前の山は飛来峰(ひらいほう)と呼ばれている。
 写真の建物は「霊隠飛来峰售票处」で「售票处」は切符売り場である。ところがここは飛来峰の部分の切符売り場で、霊隠寺の中へ入るのはまた別料金になっていた。中国の観光地もしっかりしている。

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 飛来峰のふもとの渓谷の崖にたくさんの石仏が彫ってある。五代十国の呉越時代から元の時代まで、約340の磨崖仏があるという。

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 中でも有名なのが、巨腹の布袋像で、さっき買った切符にも載っている。

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 腹の大きな布袋さんは中国で人気があるのかと思っていると、これがなんと中国では弥勒菩薩なのだという。
 それはないだろう。弥勒菩薩といえばほっそりと女性的で、いかにも慈悲に満ちたやさしく尊いお姿というのが日本の常識である。広隆寺や中宮寺の弥勒菩薩像が有名だ。
 しかし中国では本当にこれが弥勒なのである。証拠を見せよう。もう一つ同じような布袋像があった。

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 右足元の看板を拡大してみる。ほら、ちゃんと「布袋弥勒」と書いてある。

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 司馬遼太郎は、『街道をゆく19 中国・江南のみち』に書いている。
 布袋というのは後梁(907~923)のころ実在の禅僧で、家をまわって食を乞い、もらうと大きな布の袋に入れていた。そのため「布袋」と呼ばれた。腹が異様に大きく、常に半裸で、雪の中でもそのまま寝た。いわば異常人であった。だからその死後、布袋は弥勒菩薩の化身だったという伝説が生まれ、やがてそれが定着したのではないか、と。

 このお寺は中国禅宗十刹の一つで中国でも有名なお寺であったらしい。
 天王殿というお堂にかかる「雲林禅寺」の額は、清の康熙帝が書いたものだという。(下の「霊鷲飛来」は違う)

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 康熙帝は、けっこうポップな書体だったのだなあと思い、ここの主仏が金ピカの弥勒菩薩=布袋さんであるのを見ると、同じ仏教でもずいぶん違うと思わざるをえない。

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 いくつもある建物もずいぶん大きくて、色彩豊かである。

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 中の仏像も大きく派手やかだ。こんな大きくカラフルな像がたくさんあった。

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 敬虔な信徒らしい若い人たちがけっこういたのもちょっとした驚きだった。

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 現地の人たちのお参りの仕方は日本とは違う。両手でお線香を持ち頭の上にかざして、二拝三拝する。仏前にはひざまずくためのマットが置いてあって、そこでひざまずいて祈る。寒山寺でも同じだった。
 横浜の関帝廟は道教だが、同じように拝まれていたと思う。これが中国風参拝方式か。
 若い人たちが一生懸命祈っているのを見ると、中国共産党が宗教に寛容になったことはわかる。しかしこの先どうなるのかはまだわからない。
 真面目に祈っている人たちをパチパチ写真に撮るわけにもいかないので、下の写真はおおむね御一行の日本人である。

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 さて長くなった。厲鶚(れいがく)という清の文学者の漢詩を引いて終わりにしよう。

 霊隠寺月夜 厲鶚

夜寒香界白
澗曲寺門通
月在衆峰頂
泉流亂葉中
一燈群動息
孤磬四天空
帰路畏逢虎
況聞岩下風


霊隠寺月夜(れいいんじげつや) 厲鶚(れいがく)

夜寒く 香界白し
澗(たに)曲り 寺門通ず
月 衆峰の頂に在り
泉 乱葉の中を流る
一灯 群動息(や)み
孤磬(こけい) 四天空なり
帰路は畏(おそ)る虎に逢わんこと
況んや岩下の風を聞かんことを

○香界 仏の世界。霊隠寺境内。
○群動息 生き物が動きをとめて休息する。
○弧馨 馨(けい)は古代の楽器。ここでは禅寺の魚板(ぎょばん。たたいて時刻や食事を知らせる木の板)。カーンと鳴った後、四天が静まり返った。

 虎が出るのを心配するほど寂しいところだったらしいが、現在は観光客でにぎやかなところであった。

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2017年11月20日 (月)

江南5 田子坊・錦江飯店

田子坊
 田子坊(でんしぼう)を「たごぼう」と読んでいるガイドブックもある。どちらにせよ日本語読みで拼音(ピンイン)では  tián zǐ fāng だ。「ティエン・ズ・ファン」か。
 ここはいかにも中国風の豫園とは違って、今風の雑貨やブティック、カフェが並んでいる街のようだが、狭くてゴチャゴチャしていて人出が多いのはおんなじだ。

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 中国の若者たちの「こじゃれた街」なんだろうが、雑然感が高すぎる。
 それに日本でも「こじゃれた街」には縁が遠いから意気が上がらない。だいたい「こじゃれた」という感覚が気に入らない。洒落るんなら思い切り「大じゃれ」てみろ。ちょっときれいで、ちょっと高級そうで、値段もちょっとだけお高いけれど…なんてセコイ! これはこの街には関係ない、年寄りの日頃の鬱屈。上海で力んでみても仕方がない。

 ここもゴチャゴチャ全体の面積は相当広い。

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 無計画に街が拡張を続けた結果だろうか、電線が凄いことになっている。

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 表通りはプラタナス並木がきれいだ。バスで通りながら案内してもらったところによると、大きな並木の通りはほとんど外国の租界だったところらしい。バスに枝が触るくらい繁っていた。

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 ここでもひととおり観光が終わって次へ移動というときに、バスがなかなか迎えに来ない。バスを停められる所が限られているから遠くに停めているのに渋滞が加わってさらに遅くなる。
 この後に新天地というさらに現代的な繁華街へ行く予定だったが遅くなってしまったし、朝が早くてみんな疲れてきたので、省略して宿泊予定の錦江飯店へ向かう。

 

錦江飯店
 錦江飯店(ジンジャン・ホテル)は租界時代からのクラシック・ホテルで、アメリカのニクソン大統領も泊まったという。わたしのガイドブックでは5つ星がついている。
 改築・増築さてていて、われわれが泊まった建物はそんなに古そうではなかった。写真は翌朝撮ったもの。

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 夕食はまたバスで、黄埔区九江路の华盛大厦(華盛大廈)というビルの4階にあった「悦来大酒店」という上海料理の店に行った。

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 予約の時間より遅れたせいか、テーブルには料理がすでに全品並んでいた。おいしかったが、スープがぬるくなっていたのは残念だった。上海料理は全体に薄味というか、味がきつくないようだ。

 夜の外灘(ワイタン)の観光は、これも観光バスを停める所がなく、降りると2キロは歩かないといけないというので中止。バスの中から夜景を眺めるだけになった。高層ビルの展望台へ行くオプションも中止になった。
 しょうもない写真しか撮れなかったので小さく載せておこう。

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 ホテルへ戻って、S田先生の部屋でU山さんともどもウイスキーをご馳走になり、ともかく無事ツアーが始まったことを祝う。朝早かったので、けっこう長い一日だった。

 

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2017年11月16日 (木)

江南4 魯迅紀念館

 昼食の後は魯迅紀念館へ行った。魯迅公園の中にある。近くには魯迅故居と魯迅の墓もあるそうだが、そちらは行かなかった。

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 記念館だから型どおり、経歴や作品紹介、当時の写真、作品掲載誌などが並んでいる。わたしはざっと見るだけでよかったが、意外なことに同行の皆さんは熱心にあれこれ見ている。

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 魯迅は高校生のころ、『阿Q正伝』『狂人日記』などを読んだが、どこがいいのかよくわからなかった。若者がどかんと感動するような作品ではない。
 しかし中国ではきわめて評価が高い。革命運動の指導者的存在であったことが大きいのだろう。
 それに、わたしにはよくわからないことだけれども、「中国に近代文学を成立させた」と評価されるのは、文体の問題があるのだろうと思っている。新しい口語の中国語の文体を作った。言ってみれば、革命運動に参加した夏目漱石のような存在であったのではないか、と夢想する。

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 一室には壁の両面に魯迅の研究書ばかり数百冊展示してあった。多すぎる。これだけあると半分ぐらいは中身の薄いヨイショ本に違いない。
 しかし日本の漱石だって研究書や論文はこれに負けないくらいあるだろう。双方とも、文学研究者にとっては欠くことのできないメシのタネというわけだ。
 魯迅も漱石も尊敬している。研究と称する同工異曲で内容のない本が多いのにちょっとうんざりしているだけだ。

 第3日の蘇州の漢詩愛好団体との交流会で、魯迅の漢詩を書いた書をいただいた。

Dscf7137t 魯迅が1931年3月、日本人の劇評家升屋治三郎に贈った詩で、無題であったが、全集などでは「贈日本歌人」と呼ばれているようだ。

 無題 (贈升屋治三郎) 

            魯迅

 春江好景依然在

 遠国征人此際行

 莫向遙天望歌舞

 西遊演了是封神

  
 春江の好景 依然として在り

 遠国の征人 此の際行く

 遙か天に向かい歌舞を望むこと莫れ

 西遊 演じ了する是れ封神

  〇春江 春申江を指す。黄浦江の別名。

 この詩の意味がいまいちつかめない。西遊は京劇の西遊記のことだろうか。
 それはともかく、日本から漢詩好きが来るんだから、日本人にちなんだ詩を、とわざわざ書いてくださったものだ。ありがたい。

 この魯迅公園の近くが昔の日本人居留地で、内山完造の内山書店もあって日中文化人のサロンとなり、魯迅や郭沫若なども出入りしていた。升屋治三郎もその一因だったというわけだ。
 内山書店は今も神田にあって、中国・台湾系の書籍の専門店として有名である。
 

 追記:「贈日本歌人」について、魯迅全集で確認した(第9巻、学習研究社、1988年2刷)。
 読み下しと訳は次のとおり。

 春江の好景 依然として在り

 遠国の征人 此の際(とき)に行く

 遙か天に向かいて歌舞を望む莫(なか)れ

 西遊 演じ了(おわ)れば 是れ封神

 春申江のすばらしい風景は、昔のままに存在するが、遠い国からやってきた旅人たるあなたは、このときに、お国にお帰りになる。
 はるかかなたの日本の空から、中国の歌舞をながめようとは、なさるな。「西遊記」の上演が終われば、つぎは「封神演義」というありさまなのだから。

 起句、承句は升屋治三郎が日本に帰るという話で問題はない。
 転句、結句については、当時の蒋介石政権の状況を「西遊記」や「封神演義」の魔物たちの踊る姿に例えたものだという。
 また当時の京劇が「西遊記」や「封神演義」をゆがめて演劇化しているのを非難したものだという説もあるらしい。
 どちらにせよ、当時の状況を詳しく知らないと、この詩だけではわからない。

 

 

 

 

 

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2017年11月13日 (月)

江南3 上海へ

 さて最初に戻って出発の日から順に書いていくことにする。

第1日(10月25日)

空港バス

 朝が早かった。4時に起きて、港南台駅前5時発の京急リムジンバスに乗った。
 8時40分羽田発の便だから2時間前集合というと6時40分だが、平日でそんなに混んでいないだろうから遅くとも7時までに集合ということになっていた。
 このバスは空港のターミナルまで行くので一番楽だ。JRから京急またはバスへと、荷物を引き摺ってあれこれ乗り換えるのは面倒だ。だからターミナル到着が6時15分と少々早いがこれにした。
 5時前のまだ暗いバス停には数人の客が待っていた。細かい雨が降って風が冷たい。この時間、どのくらいの客があるのか興味があったので数えてみた。始発の港南台が9人、次の上永谷駅で5人、東戸塚駅で8人が乗って、合計22人だった。意外に客がいるものだ。ビジネスマン風が大半。女性も数人。

上海へ

 羽田では一行13人が順調に集合。今回の旅行の手配をお願いしたM社のM山青年も、早くから来てくれて、記入済みの入出国カードを配ってくれ、中国東方航空のカウンターでチェックインを手伝ってくれた。MU576便は無事定刻どおり出発した。
 上海浦東空港到着後、入国審査を終え荷物を引き摺りながら外へ出たときは、ちょっと心配だった。現地の旅行社のガイドさんがちゃんと迎えに来ているかどうか。一応わたしが今回の一行の代表ということになっているが、中国語ができるわけではないし、中国経験は前に一度、万里の長城を見にきたことがあるだけ。もし何かの手違いで行き違って会えなかったら、相当の苦労を背負い込まねばならない。どうかちゃんといてくれますように。
 通路の外には迎えの人たちが大勢待ち受けていて、「〇〇会社様」とか「××一行」とか書いた紙を持ってかざしている人もたくさんいる。
 どれだどれだ。こういうときに「目を皿のようにして」というのだろう。わたしが真っ先に見つけた。左手の方に「K県漢詩連盟13名様」と書いた紙を持った人。駆け寄って「K県漢詩連盟です」と名乗る。日本語が通じる。すぐ見つかってよかった。ガイドはSさんと言った。これであとはおまかせだ。

 バスは高速道路を上海市内へ向かう。Higer(中国語:海格 / ハイグァー)という中国製のバスだ。39人乗りなので、一行13人にガイドのSさんだからゆったり乗れる。

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  道路は広い。車線もたくさんある。中心に近づくにつれて車が多くなる。写真でよく見る風景が見えてくる。

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 上海というと下の写真の左端に見える丸い玉のついた468mのテレビ塔・東方明珠塔がランドマークになっているが、現在一番高いのは右端の上海中心大廈(上海センター)で632mだそうだ。Sさんは、上海には地震がないので高層建築ができるけれど、最近では地盤沈下の問題が出てきていると言っていた。

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 写真には写っていないが、492mで2番目の高さの上海環球金融中心(SWFC)には474mの高さに展望回廊(スカイウォーク)がある。夜のオプションツアーで行こうと思っていたが、このあとだいぶ歩いて皆疲れたのか、参加者が少なく中止になってしまったので、行けなくて残念だった。

豫園(よえん)
 豫園というのは明代の庭園である。今回は中は見ないで、隣接するマーケットである豫園商城へ向かった。
 中国では今、観光地でのバスの乗り降りが厳しく規制されており、離れたところの駐車場から歩かないといけないのだという。
 普通の住宅兼商店街のようなところを歩いて行く。
 公園のフェンスに布団が干してある。

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 高層ビル街の風景とはずいぶん差がある。
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 大都会の中の庶民の街である。よく使い込まれたバイクや自転車がたくさん並んでいる。

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 庭園の豫園の門の一つ。中には入らなかった。
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 ここが豫園商城。凄い人である。これでも水曜日だからすいている方だという。

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 濃いベンガラ色のような木造三階建ての建物が豫園商城で、中に食べ物や工芸品、日用品などの小さな店がいっぱい並んでいる。

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 規模が大きく、とにかく人が多い。建て増しに建て増しを重ねたという感じで、ほとんど迷路になっている。はぐれたら大変だ。最初は横浜の中華街を連想したけれど、歩いてみると規模的にここにはとてもかなわない。厚みがちがう。
 ほとんど中国の店だけど、一角にさりげなくスターバックスが入っていたりもする。

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 われわれの目指すは小籠包で有名な南翔饅頭店での昼食。日本のガイドブックにも「豫園に来たらハズせない小籠包」と書いてある。

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  入店するのも行列、テイクアウトも行列だが、われわれは予約してあったので、待たずに二階の一室に入ることができた。

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 飲茶セットコースの予約になっていたらしく、いろんなものが出てきて、どれもうまい。小籠包は、けっこう待たせてから最後に出てきた。
 日本で食べるものより中のツユが少なかったが、大きくてうまい。満腹になった。

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2017年11月 9日 (木)

江南2 無事帰国

 翌朝は5時発のホテルの巡回バスが来るのを待って乗り込んだ。ところがやっぱり先客ありで、最後に乗ったわたしとH原さんが乗れない。すぐ後のバスが来るからというので、皆と別れて別行動になった。
 まもなく次のバスが来たのでよかったけれど、今度は空港で降りるときに、停留場を間違えてしまった。国内線ターミナルを過ぎて、次が国際線ターミナルというわけで降りたのだけれど、どうもターミナル内の様子がおかしい。昨日搭乗しようとしてやってきたときと似ているけれどなんとなく雰囲気が違うのである。H原さんが受付で聞くと、なんとここは第二ターミナルだから第一ターミナルへ行ってくださいと言う。
 泡を食って外へ出てタクシーに乗ろうとしたが乗り場が見つからない。警官らしい人が、下の通路を通って歩いて行けと教えてくれた。戻ろうと向かうと見知らぬお兄さんが先導してくれた。このお兄さんはなんだ、怪しい人じゃないかと不安でいるうち、エスカレーターを教えてくれて、歩く方向を指し示してさりげなく去って行った。親切な人はどこにでもいるのだ。
 東京の地下鉄によくある長い乗換通路をもっと広くしたような感じだった。なんとか第一ターミナルにたどり着き、受付カウンター前で順番を待っているツアー一行と無事落ち合うことができた。

 あとは出国手続きをして飛行機に乗ってしまえば、というところでまた、ちょっとした波乱があった。
 わたしは先に手荷物検査をすませ出国審査を待つ列にいた。後から来たN野さんたちが、M本さんが手荷物検査で引っかかって別室へ連れて行かれた、何が原因かはわからないという。M本さんが変なものを持ち込むようなことはない。夫婦そろって物静かで上品なM本夫妻は、一行の中では一番怪しまれないタイプだ。
 ところがなかなか来ない。長い行列はじりじりと出国審査の受付へ近づいて行く。もし順番までにM本さんが来なかったらどうしよう。わたしにできることといってないけれど、ともかくこちら側で待っていないといけないだろうか。飛行機の時間はどうだろうか。
 そんなことを考えているうち、行列の彼方に小さくM本夫妻の姿が見えた。来た、来た! みんなで手を振って招き、われわれの列の中入ってもらった。
 なんと原因はカメラの予備のリチウム電池だという。もう使わないからとスーツケースに入れておいたら、それがひっかかって、別室で検査されて大変だったそうだ。
 カメラ用のリチウム電池ならわたしも持っていた。4センチ角くらいの小さなやつである。

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わたしは手荷物のバッグに入れてあった。これはセーフだった。ところが同じものをスーツケースに入れていたら、けしからん、これは何だ! と別室へ連れて行かれてスーツケース内全品洗いざらい検査になったらしい。わけがわからない。
 帰ってから調べてみると、リチウム電池は発熱、爆発の危険性がある。(それは聞いたことがある。)だけど手荷物内なら発熱してもすぐ気がつくからOKで、スーツケースに入れて荷物庫の奧で発熱・爆発を起こすと大惨事につながる恐れがあるからダメだという理屈らしい。
 わかったようで、いまいちストンと落ちないが、そうなっているなら今後は十分気をつけないといけない。酒などの液体は逆に、手荷物はダメでスーツケースならOKだからこんがらがってくる。
 ともかくその場はみんなで、無事済んでよかったねと出国審査を終え、一時間遅れの飛行機に全員搭乗したのであった。めでたし、めでたし。

 朝食を食べてウトウトしていたら、飛行機は少しずつ下がりはじめ、こんな景色が見えてきた。時間からすると伊豆七島のあたりのようだ。

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 これも帰ってから、グーグルマップで調べてみた。
 グーグルマップは素晴らしい。3Dで角度を変えて見る機能まである。地図をまわして、俯角を変えて見ると、左から新島、式根島、神津島だと確認できた。

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 一日遅れたが全員無事帰国。最低限の「団長」の役目は果たせたようで、まずはよかった。
 延泊分の宿泊代と食事代は現在旅行保険に請求中。保険がきくならもっと良いホテルにすればよかったと思うのは、喉元過ぎて熱さを忘れたから。あのときはどこでもよかった。
 世話になった方々へのお礼状など、まだ残務整理が少しあるが、旅行は終わった。

 

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