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2008年10月16日 (木)

横須賀線は死んだか

 原武史の『鉄道ひとつばなし』(講談社現代新書)に「横須賀線は死んだ」と題する章を見つけた。
  原武史は日本政治思想史を専門とする大学教授で、わたしは未読だが『大正天皇』(2000年、朝日選書)は、けっこう評判になった。
  鉄道マニアでもあるようで、『鉄道ひとつばなし』は、鉄道と専門の歴史をからめたエッセイを集めて、なかなか楽しい本になっている。

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  その中で「横須賀線が死んだ」とは、横須賀線がJRの単なる一通勤路線に成り下がってしまった、ということ。

 東京と古都鎌倉、葉山御用邸に近い逗子、そして軍港で鎮守府のあった横須賀を結ぶ横須賀線。戦前以来の国有鉄道の歴史の中で、これほどしばしば天皇や皇族、海軍軍人、文化人らが利用し、「帝国」の栄光を一身に集めてきた線は他にない。(P148)

  横須賀線は、当時としては驚異的なスピードを誇り、車両にもトイレや空気ブレーキなど最新のサービスが施されていたという。(こういうところで、きちんと所要時間や具体的な物を出して説明するところがいかにもマニアらしい)
 それが今は、スピードは当時と同じか、停車駅が増えたことから逆に若干遅くなり、車両も首都圏のどこにでもある4ドアの通勤車両になってしまったと嘆く。
  この没落は一九八〇年の東京地下鉄への乗り入れと総武本線や成田線などとの直通運転からはじまった。そして今や往年の栄光の横須賀線は「死んだ」というわけである。
 
  わたしは学生時代の一時期逗子に住んでいたので、その頃の横須賀線を覚えている。しかしその頃毎日利用していたのは京浜急行の逗子線だった。
  わたしたち京浜急行利用者の間では、東京・横浜間を平行して走る東急東横線との違いがよく話題になった。海側の京浜工業地帯を走る京浜急行と山手の住宅地帯を走る東横線。工場労働者の電車とホワイトカラーの電車。利用者にあわせたかのように、ガタガタ大きく揺れながらスピード第一で走る京急、悠揚におっとりと走る(かのように見える)東横線。
  当時、映画俳優のチャールズ・ブロンソンが男性化粧品マンダムのCMで大人気を博していて、わたしの競輪好きの友人はこう言った。
「ブロンソン、ブロンソンというが、あんな顔の奴は、競輪場へ行けばいくらでもいるぞ」
 沿線に競輪場や競艇場がいくつもあるのが京浜急行だった。

 それに比べると、ときどき乗る横須賀線はあきらかに客層が違っていて、それらしい高級な雰囲気があった。
  鎌倉駅のホームで小林秀雄を見かけたことがある。足取りがおぼつかず、最初は年齢のせいかと思ったが、よく見ると酒がはいっているようだった。逗子の駅では團伊玖磨を見た。こちらは意気軒昂という感じだった。
  彼らが横須賀線のグリ-ン車から降りてくるのに不思議はなかったが、京浜急行に小林秀雄が乗っている姿は想像もできなかった。
  だから横須賀線に津田沼行や成田行が走るようになって、だんだん変わってきたというのは、なんとなくわかるような気がする。

  原も書いているように、さらに二〇〇一年には湘南新宿ラインが開通し、東京駅を経由しないで埼玉方面へ行く電車まで走りはじめた。わたしも東海道線藤沢駅で上りを待っていて「籠原行」という電車がやってきたときは驚いた。東京行きでも品川行きでもない、これはいったいどこへ行くのか、ホームを間違えてしまったのか、一瞬わけがわからなくなった。今でも籠原というのはいったいどのあたりなのかよくは知らない。
 
  そういえば先月(九月十三日)のこと。友人宅で呑んだあと、横須賀線で電車を乗り過ごしてしまった。保土ヶ谷駅で乗って、わが家は大船駅で乗りかえないといけないのに、はっと目がさめたら暗くてさびしい北鎌倉駅。
 しまった、戻らなければとホームに降りたところ、向かいのホームに電車がやってきた。あれに乗らなくちゃと思うものの降りたところはホームの端。北鎌倉駅には跨線橋はないが、ホームの端から端まで走って乗りかえるのは、たとえ酔っていなくてもできそうにない。半分あきらめて歩いているとやはり電車は発車してしまった。まあ次でもいいやと思っているうち、向かいのホームの明かりが全部消えてしまった。なんと今行ったのが上りの最終電車だったのだ。
  時刻表を調べてみると、乗ってきたのが二十三時四十分の久里浜行、行ってしまったのが二十三時四十二分の品川行でやっぱり最終。下りはまだあるが、上りは本日終了というわけだった。
  あきらめて外へ出る。北鎌倉の駅付近は暗い。線路の反対側は円覚寺だから明かりはないし、数少ない駅前の店はとっくに閉まっている。どこかの田舎の駅と言ってもいいくらいだ。
  小津安二郎の映画で、大学教授の笠智衆と娘の原節子が住んでいたのが北鎌倉だった。(こういう設定が自然なところが昔の横須賀線の雰囲気である)なんだかあの白黒の映画とそれほど雰囲気は変わらないような気がする。ここで原節子のような娘が
「お父様、お帰りなさい」
と迎えに来てくれればいいが、現実は一人でとぼとぼと暗い鎌倉街道を歩かなければならない。そのうち通りかかった空車のタクシーをつかまえてなんとか帰宅したけれど、この夜の横須賀線は、上りが目の前で死んでしまったというわけだった。

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コメント

横須賀線にお詳しいようですので、伺います。
① 窓が板張りになり小さなのぞき窓がついていた。
② 車内中央付近に二つの椅子を残して椅子を取り去った。
③ 電気機関車牽引をしていた。
これらの始まりと終わりは何時でしたでしょうか。

投稿: 遠藤雅夫 | 2011年12月18日 (日) 09時41分

 わたしは横須賀線に詳しいわけでも、鉄道マニアというわけではありませんので、申しわけありませんが、わかりません。

投稿: 窮居堂 | 2011年12月19日 (月) 08時57分

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