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2009年2月13日 (金)

『パルムの僧院』

 スタンダール『パルムの僧院』(大岡昇平訳、中央公論社「世界の文学9」、1965)を読みました。
 高校生のとき『赤と黒』を読んでおもしろくなかったので、スタンダールの他の作品は読んでいませんでした。それを突然読むことになったのは、同業の二十世紀文庫さんhttp://homepage2.nifty.com/20seiki/ が主催している読書会酣(たけなわ)の課題図書になったからです。
 この読書会には、声をかけてもらっても出席できないことが多いのですが、こういう会には、自分から読もうとは思わない本を読む機会が与えられるという利点があります。
 いつかは読もうと思いながら、そのままになっている本はたくさんあります。しかし古典と言われるような作品はとりつきにくく、なかなか手が出ません。せっかくのいい機会ですので、読んでみました。

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<あらすじ>

 主人公、ミラノのデル・ドンゴ侯爵の次男、美少年ファブリスは、ナポレオンを崇拝するあまり、国を越えてワーテルローの戦いに参加するが、戦争に参加したかどうかもよくわからないまま怪我をして逃げ帰る。
 ところが反ナポレオン主義の兄アストニアがファブリスを密告、亡命を余儀なくされる。ファブリスを愛する叔母のピエトラネーラ伯爵夫人(のちサンセヴェリーナ侯爵夫人)は、愛人のパルム公国宰相モスカ伯爵のすすめで、ファブリスを宗門に入れ大司教への道を進ませる。
 五年後、僧としてパルムへやってきたファブリスは、旅回りの劇団の女優マリエッタをめぐり、その愛人ジレッチを殺害してしまう。
 この事件にモスカ伯爵の政争がからみ、サンセヴェリーナ侯爵夫人はパルム大公にファブリスを特赦させようと駆け引きをするが大公に裏をかかれ、結局ファブリスはファルネーゼの塔に幽閉される。そして捕らわれの身でありながらファブリスは、牢獄の司令官ファビオ・コンチ将軍の娘、清純で慎み深い乙女クレリア・コンチと恋に落ちる。
 牢内で毒殺される危険から、サンセヴェリーナ侯爵夫人の手引きとクレリアの助けでファブリスは脱獄に成功。しかしこのとき父を死の危険におちいらせた罪の意識から、クレリアは永遠にファブリスを見ないことを聖母に誓い、父のすすめる富豪クレセンチ侯爵との結婚を承諾する。
 サンセヴェリーナ侯爵夫人は、だました大公を急進的自由主義者をつかって毒殺し、後を継いだ新大公の気を引いて再審を約させ、そのためファブリスは再び入牢する。政敵により再度毒殺が企てられるが、侯爵夫人は新大公に身を任すことを約束してこれを阻止し、ファブリスは救われる。
 その後侯爵夫人はモスカ伯爵と結婚、一緒にパルム公国を去る。
 ファブリスは教会に戻ったが、クレセンチ侯爵夫人となったクレリアが忘れられず、説教で有名になることによって、クレリアと再会をはたし、ファブリスが忘れられなかったクレリアは、永遠にファブリスを見ない誓いを守るため、闇の中で密会するようになる。
 二人の間には子供ができ、表だって子供と会うことができないファブリスのために、子供を失踪させようとして、かえって子供を死なせてしまう。クレリアは罪の意識から数カ月後に死ぬ。
 ファブリスは金も地位も捨てて、パルムの僧院に引退した。

 読みはじめは、時代や背景になじみがないので、ちょっと苦労しました。
 ナポレオン軍に参加するところなど、当時(1815年)の軍隊はこんないい加減だったのか、ろくにフランス語もしゃべれない十七才の少年が、制服を都合してきたからといってこんな簡単に軍隊にまぎれこめるものなのか。当時の日本だったらどうだったろうか。従軍酒保の女がでてくるが、これは従軍慰安婦じゃないのかとか、いろいろ考えてしまいます。

 読み進んでいくとけっこうおもしろくなって、ファブリスが牢獄の窓から外の、清純で慎み深いクレリアと連絡をとるところなど、その昔の日活の吉永小百合の純愛青春映画を思い出しました。宮廷内での陰謀・駆引は、告げ口の手紙や、書類の日付をごまかしたり、色仕掛けだったり、潔くない話ばかりですが、それなりに話に浮き沈みがあって、先へ先へと読ませます。

 ところがいけません。最後、いよいよ大団円、というところで、決定的に引っかかってしまいました。
 あらすじの「クレリアは、永遠にファブリスを見ないという誓いを守るため、闇の中で密会するようになる」というところです。
 誓いをたてたけれど会いたくてたまらない、焦がれて誓いを破ってしまう、というのはわかるけれど、顔さえ見なきゃ子供ができたってかまわない、というのは、いったいなんなんだ。それで誓いを守っていることになるのか。
 聖母様はそれでOKなのか。あんたたちの神は万能だというが、いったいどこを見てるんだ。口先だけ辻褄があえばいいのか。天網恢々疎にして漏らさずということを知らんのか。誓いは言葉だけのもので、誓いの内実というものはないのか。

 これは理解できません。おもしろく読んでいた推理小説の最後の謎解きが、「そんなのありえねーだろ」というトリックだったという気分です。興醒めです。

 ヨーロッパの人々にとっては、この箇所は不自然でないのか、カトリックの信者にはよくこういう人間がいるのか。──世界の名作として通用しているのだから、あんまり奇異なこととは考えられていないのでしょうね。だからこそスタンダールもこういう設定にした。

 わたしの読んだ中央公論社「世界の文学9」の解説で、訳者でもある大岡昇平はこう書いています。

政治に気をとられた読者がよく忘れがちなのは、これが僧侶たる主人公と 信仰を持った自由主義者の娘の恋物語だと、ということです。
 彼らは浮世を離れた牢獄で恋し合い、姦通によって子供を産む。大司教となったファブリスとクレセンチ侯爵夫人となったクレリアとの恋物語を、バルザックは別の物語の主題だといっていますが、スタンダールの心の中では、ファブリスの生涯として一貫していたと考えられます。「恋人を見ない」という聖母への誓いのために、恋人に暗闇でだけ会うという奇妙なイタリアの狂信者クレリアと、恋の悲しみを語ることによって成功する説教者ファブリスとの間の恋は、カトリック教徒には冒涜かもしれませんが、スタンダールにはこの上もない幸福に映ります。(前掲書、P498)

 クレリアは「奇妙な狂信者」というだけですませていますが、わたしには清純で慎み深い乙女という設定と顔さえ見なければOKという行為を矛盾なく結びつけることができません。狂信者と言うなら、日活青春映画の清純可憐な吉永小百合が、実はオウム真理教で空中浮揚に熱中していたというくらいの奇異な話に感じられます。

 日本のフランス文学研究者の間では、これは問題にならなかったんだろうか。なにかこのあたりの研究はあるんだろうか。みんなこれをさもありなんと納得して読んでいるんだろうか。

 結局は文化の違いということになります。
 宮廷の陰謀・駆引の話でも、ファブリスの放免を約束した大公が、赦免状の日付をごまかして結局逮捕させるという話があって、これはごまかされた侯爵夫人の負けということになりますが、大公は汚いとか、悪人であるという話にはなりません。どちらかというと、大公はうまく立ち回ったということになっています。そのあげくに侯爵夫人に毒殺されることになりますが。
 日本の話では、こういうことをやるのは吉良上野のような悪役と決まっているように思います。

 なむや文庫http://homepage2.nifty.com/namuyabunko/の2月の本棚に取り上げた、『世界は腹黒い』の高山正之の本をまとめて読んだせいでしょうか、このあたりの感覚や考え方の違いがとても気になります。

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コメント

難解な世界文学です。未だ、読了していません、純愛が芽生えたところです。シニア

投稿: | 2015年2月13日 (金) 16時04分

こんにちは

パルムの僧院を少し前に読みました。

本を読んだ感動を忘れたくないと思ってブクレコに感想を書いておりますが、こちらのあらすじ紹介がとても見事で、窮窮自適さんのURLを私の感想の中で引用させていただきました。
私の備忘の為にも記録に残した次第です。

事後報告で済みません。もし不快なら削除しますので、ご連絡いただければ幸いです。

突然に失礼しました。

投稿: kaoru yahiro | 2015年3月19日 (木) 13時52分

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