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2009年6月

2009年6月29日 (月)

週刊平凡の創刊号2

 この頃の他の週刊誌に比べて、週刊平凡は、カラーのグラビアが多い。
 これは大映映画『山田長政 王者の剣』の長谷川一夫。タイに限らず、海外ロケそのものがまだ珍しい時代でした。

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 これは津川雅彦と南田洋子です。この頃、津川雅彦は人気があったんですね。

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 やはり芸能関係が記事の主力ですが、映画が中心で、テレビ関係の記事が少ないことに、今さらですが時代を感じます。テレビのページもあって、表紙の高橋圭三の「私の秘密」や、NHKの「私だけ知っている」などが取り上げられていますが、量的には少しです。

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 裕次郎に左幸子、ジェーン・マンスフィールドにジャクリーヌ・ササール。(このほかにも映画館関係のページはあります。)
 上の「邦画ガイド」と「ロードショウガイド」を拡大して、当時上映されていた映画を見てみましょう。クリックして、拡大画像でごらんください。

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 上が邦画、下が洋画です。洋画のほうで赤線を入れたのは「リオ・でラボー」、これは「リオ・ブラボー」の誤植ですね。
 ついでに、テレビ番組の案内も見ておきましょう。

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 巻末のグラビア「横綱ふるさとに帰る」は、当時の新横綱、朝汐です。

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 巻頭のグラビアが長嶋で、巻末が朝汐。目次を見るとわかりますが、対談には三島由紀夫が登場し、林家三平の「三平のスイマセン時評」というコラムもあります。
 さてここでクイズ。
 長嶋、朝汐、三島由紀夫、林家三平、この四人に共通するものは?

 それは胸毛です。当時、「日本三大胸毛」、という話があって、長嶋、朝汐は必ず入るのですが、三人目は三島だったり、三平だったりして、確定していなかったようです。由利徹という話もあったようです。
 最近は男も脱毛する時代のようですが、この頃胸毛はまだ男らしさを強調するものでした。

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2009年6月25日 (木)

週刊平凡の創刊号

 週刊平凡の創刊号は昭和34年5月14日号。前に紹介した『週刊文春』『週刊現代』『週刊公論』も同じ昭和34年(1959年)で、週刊誌創刊ラッシュの年でした。

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週刊平凡創刊号:表紙と裏表紙

 表紙は、高橋圭三と団令子。車はMGのスポーツカー。写真の解像度が低いですね。
 そして表紙を開けると、

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 グラビアのトップは長嶋でした。

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 目次を見ると、芸能、スポーツ、皇室と、いかにも「平凡」らしい記事が並んでいます。月刊平凡も週刊平凡も今はもうありませんが、両方とも全盛期には発行部数百万部をこえていた、それこそ日本全国津々浦々どこへ行っても見かけられた雑誌でした。

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 トップの記事は、この年ですからやはりというか、「皇太子ご夫妻奈良の休日」です。
 4月17日伊勢神宮へ着き、18日に神宮参拝(結婚ご報告の儀)を終えて、夕刻奈良ホテルで一泊、これがいわゆるハネムーンという話です。

 この記事の中で、ちょっとひっかかってしまいました。神宮参拝のあと、五十鈴川のほとりでのことです。

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 清流の中を五寸ぐらいの魚がスイスイと泳いでいる。
「あれがウガイだよ」
 と、魚学を専攻する皇太子さまは、ガクのあるところをしめされた。(P16)

 「ウガイ」ってなに?ひょっとすると「ウグイ」のまちがいじゃないの。長良川じゃないんだし。
 ごていねいに、写真のキャプションも「ウガイ」となっています。
 このあたりの地方名で「ウガイ」と言ったりするんだろうか。インターネットで検索してみましたが、ウガイという名前の魚はいないようで、出てくるのはインフルエンザ予防の話ばかりです。
 魚のことを何も知らない記者が書いたんでしょうけれど、デスクとか編集長とか、きびしくチェックしている筈ですよね。
 後で関係者はかなり怒られたんじゃないでしょうか。皇太子さまがガクのあるとこをみせて「ウガイ」じゃ、ちょっとまずいでしょう。
(もしウガイで間違いないということでしたら、関係者の方ごめんなさい。)

 ついでながら、上の五十鈴川の写真。
 対岸にカメラマンたちが並んでいます。現在の感覚からすると、数がすごく少なくて、けっこう近そうなところなのに、警官らしい姿もみえません。警備も取材制限も当然されていたのでしょうが、なんとなくのんびりした風景に見えます。これを古き良き時代と言っていいのかどうかは、わかりませんが。

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2009年6月21日 (日)

19 『ジョークで読む国際政治』

 「本のジョーク19」、今回は、名越健郎『ジョークで読む国際政治』(新潮新書、2008)から拾いました。

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 安倍首相が訪中の土産に自著『美しい国へ』を胡錦濤主席にプレゼントした。すると、胡主席はタイトルを見て腰を抜かした。
「日本はまだアメリカ一辺倒なのですか」
「どうしてです」
「『美国』とは中国語でアメリカのことです」(前掲書p53~54、以下同じ)

 これは、あんまりおもしろくありませんね。そんなことは知ってるし、日本がアメリカ頼みなのはこれまでどおり。

 クリントン大統領とヒラリー夫人の回想録がずいぶんネタになっています。

 問 ヒラリー夫人の回想録がクリントン氏よりずっと早く出版されたのはなぜか?
 答 フィクションはノンフィクションを書くより時間がかかる。(p79)

 問 ヒラリー夫人の回想録が『ハリー・ポッター』よりも売れ行きがよかったのはなぜか?
 答 読者はフィクションの魔女より、現存する魔女に魅せられる。(p80)

 ヒラリー夫人は、ジョークの世界ではこわもてのようです。
 旦那の方は、回想録でもやっぱりこっち方面の話。

 クリントン氏は一千万ドル、ヒラリー夫人は八百万ドルの契約料で回想録を執筆した。二百万ドルの差が付いたことについて、出版社が説明した。
「前大統領の手記には、性描写が含まれるので……」(p79)

 問 クリントン氏が回想録を九百五十七ページも書いたのはなぜか?
 答 彼は任期中も太めを好んだ。(p81)

 だから二人の生活はこうなります。

 ヒラリー議員の六百ページの分厚い回想録は、夫との出会いや結婚の感動から始まる。
 二ページ目からはトラブルが始まる。(p85)

 クリントンは「不倫」で、その後のブッシュ大統領は「軽さ」で、それぞれアメリカの政治ジョークに活況をもたらしたそうですが、残念ながらブッシュの方は、本がからんだジョークはあまりありません。

 米国の歴代大統領には、人に知られてはならない弱みがある。
 レーガン大統領に、記憶力を尋ねてはならない。
 クリントン大統領に、関係した女性の数を尋ねてはならない。
 ブッシュ大統領に、読んだ本の数を尋ねてはならない。(p62~63)

 ヒラリー夫人は回想録で、クリントン氏とはエール大の図書館で初めて会ったと告白した。
 これを知ったブッシュ大統領が捏造の可能性を指摘した。
「わたしもエール大にいたが、図書館など見たこともない」(p79)

 本に縁がないことがネタになっています。

 次はおまけ。このタイプは前にもとりあげました。

 世界でいちばん薄い本は──。
 米国の美術史。
 中国の人権史。
 英国の料理本。
 フランスの戦勝記。(p108)

(なむや文庫にはジョークの本がたくさんありますhttp://homepage2.nifty.com/namuyabunko/

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2009年6月18日 (木)

デイゴ、フェイジョア、グアバの花

 梅雨に入って、雨量は少ないけれど、ぱっとしない天気が続いています。
 夏が近づいています。
 デイゴの花が例年よりたくさん咲きました。

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 今年はじめて咲いたのがこれ。フェイジョアという南国果樹だそうです。実をつけてくれるかどうか、楽しみです。

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 南国果樹といえばこれも花が咲きました。グアバです。いつも実はつきますが、小さくて固く、食べておいしいほどにはなりません。

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 バラも咲きました。

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2009年6月17日 (水)

ハチの巣退治

 ここのところ垣根の下草が生い茂って見苦しいので、少しずつ刈っていました。特に白い花をつけたツユクサの勢いがすごい。ムラサキツユクサではなく、トキワツユクサと言うらしい。見た目きれいですが、放っておくとどんどん増えて、畑にも進出してきます。

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トキワツユクサ

 刈払機がなおったので早速その続きをはじめ、ついでに庭のキャラの木(キャラボク)の下のツユクサも刈りました。
 そうしたら、隠れていたこんな物があらわれました。

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 スズメバチの巣です。大きさは大人の握りこぶしくらい。昨年はベランダの棚に作られました。今年は庭か。はじめから巣があることがわかっていたら、気楽には刈れないところでした。
 さいわいまわりにハチの姿はないので大丈夫だろうと、ハチ・ジェットという殺虫剤を噴射したら、中から一匹大きなのが飛び出してきて驚きました。ハチが戻ってこないのを見すましてから、巣は処分しました。

 その後、ベランダのまわりで、こんなものも見つけました。

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 ハチの種類はわかりません。こんなところに巣を作りはじめています。
 これもハチのいないすきにハチ・ジェットをかけて処分。

 ここのところ、『奇跡のリンゴ』を読み、『自然農法・わら一本の革命』をひもとき、殺虫剤はつかわないとか、自然との共生とか、無為自然という境地にひたっていたのに、自宅のまわりではこうせざるをえません。自衛上の問題です。

 もうひとつ、ビワの木の虫退治もあります。
 わが家のビワの木の幹に何カ所か穴があいて、下にオガクズのような木の粉が落ちています。これはテッポウムシと言われる、カミキリムシの幼虫が内部を食い荒らしているせいです。
 放っておくと木を枯らされてしまう、早期に退治しろと本には書かれていますが、ビワの収穫が終わるまではと我慢していました。ビワの収穫は今回ですべて終わったので、これもやりました。

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 上の写真はまだ小さな木です。下にオガクズのような物が落ちています。上の方の皮の剥げたオレンジ色っぽいところに丸い穴があいています。
 ここから殺虫剤を注入してやると、下の穴から液がたれてきました。中が空洞になってつながっているわけです。濡れているところが液のたれた跡です。
 その後、上下の穴は、癒合剤をつめてふさぎます。(K田さんは、土をつめておけばいいと言ってました。)
 これでテッポウムシはめでたく成仏ということですが、なかなか根絶やしにはできません。

 こうやって自分でもやっていると、無農薬でリンゴを作るというのが、どれほど大変なことか、ほんの少しですが、わかるような気がします。毎日、手でバケツに何杯も虫を取った話が『奇跡のリンゴ』には書かれていました。
 とてもそのまま真似できる話ではありませんが、こういうことも考えながらやっていかなければなりません。

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2009年6月16日 (火)

刈払機の修理

 6月14日(日)、前にスターターのヒモが切れて修理に出しておいた刈払機を取りに行く。
 電話で連絡があった修理代は、なんと九千円。数千円の支出は覚悟していたけれど、ヒモが切れて九千円とは驚いた。新品を買うよりはとそのまま修理を依頼したが、この刈払機、以前にもオイル洩れがあってなおしており、そのときの修理代はもっと高かったから、これで購入金額を上回る修理代を払うことになる。

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これが刈払機(つまり草刈り機)

 ホームセンターへ行くと、修理代九千円というだけで、内訳が何もない。九千円も取るんだから、どこの部品を替えたとか、明細があってしかるべきだろうと言うと、その店へファックスで送られてきたメーカーからの修理明細書をくれた。
 故障状況は「リコイルロープがちぎれる」。これはそのとおり。
 修理内容のところの「その他}の欄にこう書いてある。

リコイルロープをまっすぐに引かれなかった為、リコイルケースに溝がついてリコイルロープが切れたと思われます

 おいおい喧嘩売ってんのか、こっちの使い方が悪いというのか。ムッとしたが、取り次ぎをしているだけのこの店に言ってもしょうがない。修理に出すとき、この店にあれこれ聞いても何も知らなかったし。
「このメーカーのものはもう買わないよ。」
とだけ言う。
 なにしろ前回オイル洩れが見つかったのは、一年の保証期間が切れてからわずか一週間後。それでまるまる修理代を支払わされて、それから一年もたたないうちに、こんどはヒモが切れて九千円である。
 保証書を確認してみたら、購入したのは2007年7月21日。まだ二年たっていない。感情的にもなるというものだ。

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このヒモが切れて九千円

 プロの農家じゃないから使用頻度はそんなに高くない。どちらかと言えば低い方だろう。「まっすぐに引かれなかった」と書いてあるけど、そんなとんでもない引っ張り方をしているわけではない。多少斜めに引かれることがあるくらいは想定内の話だろう。そもそも一発でエンジンがかからないから、何度も思い切り引っ張ったり、あれこれやってみたりすることになる、客のせいにする前に一発でかかるようにしろ。
 ロープが切れただけて、ケースごと替えないとなおせないのか。技術屋としてどう考えている。このロープの単価はいくらだ…
 いろいろ言いたいことはあるが、そのまま金を払って引き取ってきた。
 最近の機械はみんな、ブラックボックスをコネクターでつなげたものだとしか考えられていない。素人にはさわらせないで、修理といったって、うまく動くようになるまでボックスを交換するだけだ。これでいいんだろうか、日本の技術力はどうなる。

 夕刻、刈り払い機の試運転をしてみた。
 そうしたら、最初の一発でエンジンがかかったので、これはすごい、ひょっとしてこれが修理の成果なら…と思ったが、次回からはこれまでどおり、やっぱり何度か引っ張らないとかからない、やれやれ。

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2009年6月13日 (土)

『奇跡のリンゴ』

 『奇跡のリンゴ』を読みました。
 2006年12月に、NHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」というテレビ番組で放映されて評判となった内容を基に、本にしたものだということです。

 内容をわかりやすく言うと、こうなります。

 絶対に不可能といわれてきたリンゴの無農薬栽培に挑み、長年の極貧生活と孤立を乗り越えて、遂に奇跡のリンゴを生み出した男の感動の物語!

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(石川琢司著、NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」制作班監修『奇跡のリンゴ 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』、幻冬舎、2008)

 ※テレビは見ていませんが、NHKの番組紹介が下記URLにありました。
http://www.nhk.or.jp/professional/backnumber/061207/index.html

 ※YouTubeには、最初の3分ほどの映像がありました。
http://www.youtube.com/watch?v=DUcuaskVqw8

 読んでみると、なるほど感動的です。ライターが、盛り上げよう、感動させようと書いているのがよくわかって、ちょっと鼻につきますが、まあNHKのドキュメントの背景には重厚なクラシック音楽がつきものだからと思うことにしましょう。

 主人公の木村さんは、1978年頃から無農薬でのリンゴ栽培をめざし、殺虫剤のかわりに毎日リンゴの木から手で虫をとり、自然の堆肥を作って与え、雑草を刈り、害虫と病気を忌避できるものを探して、さまざまな食品-黒砂糖、胡椒、ニンニク、トウガラシ、味噌、酢…を散布して試し続けた。
 しかしリンゴは何年間も花を咲かせず、やがて貯えもなくなり、トラクター、自家用車からはじめて田んぼまで売り、一家七人の生活は窮乏した。1980年代のはじめ、日本中が豊かさを実感しはじめた頃、小さな娘三人には消しゴム一つを三つに切って渡した。まわりからは「カマドケシ」と呼ばれた。「竈消し」で、竈の火を消す=家を潰すという、津軽弁の最悪の渾名だという。
 すべてのリンゴ畑を無農薬にしてから六年目、1985年の夏、800本のリンゴの木は花も咲かず、半分近くが枯れ、死にかけていた。
 失敗の責任をとるために、死を決意して、木村さんはロープを手に、夜、岩木山に入った。そして、いざというとき、山のドングリの木が、月の光の下、美しいリンゴの木のように輝いているのを見た。農薬も何もなしに、雑草に囲まれ、たくさんの虫やカビや菌たちの中にいながら、きれいな葉を輝かせているのを見た。
 木村さんは、このとき、求めていたものが、この土の中にあるのではないかと気づいた。

「これだ、これだ、これが答えだとな。あの山中で、踊り出したい気分であったな。ほんとにバカだからさ、自分が何のために山を登って来たかも忘れて、ロープのことなんてすっかり忘れてよ、今度は駆け足で山を下りたわけだ。一刻も早く自分の畑の土の状態を見て、何をするか考えたかったからよ。下り坂だからな、一時間ちょっとで麓の畑まで下りたんでねえべか。それでも、夜中近くになっていたな。あんまり私の帰りが遅いもんで、美千子が子供を連れて畑まで様子を見に来ていたよ。心配していたんだろうけど、私があんまり意気揚々としているもんだから、狐につままれたような顔をしていたな」(p128)

 そして、リンゴ畑に大豆を蒔き、雑草を生やすなどして、土を山の土に近づけていくうちに、リンゴの木は少しずつ元気になり、すべての畑を無農薬にしてから八年目に、生き残っていた四〇〇本余りの木のうち一本の木に七つの花が咲き、二つのリンゴが実った。
 九年目には畑一面に花が咲いた。

 というわけで、めでたしめでたし、となります。

 このリンゴ、それほど大きくもなければ、見てくれがいいわけでもないが、ともかくおいしいのだそうです。ぜひ一度食べてみたいものです。子供の頃から、果物の中ではリンゴが一番好きでした。

 この本を読んで驚いたことが二つあります。
 一つは、木村さんがわたしより若いということ。1949(昭和24)年の生まれだそうです。
 表紙の写真をもう一度見てください。おとうさんよくがんばったね、と声をかけたくなるようないい写真ですが、この人がわたしより二つ若い。うーん、いろいろ考えてしまいました。

 もう一つは、木村さんが無農薬でリンゴを作ることを志したきっかけになったのが、偶然買ったという福岡正信さんの本だったことです。

表紙に稲の写真があって、本のいちばん最初のところに、『何もやらない、農薬も肥料も何も使わない農業』と書いてあった。ああ、こういう農業もあるのかなと。自分でやるやらないは別としてな、同じ百姓として、興味が湧いてきたのさ。それから何回、その本を読んだかわからない。本が磨り切れるほど読んだ。福岡正信さんの書いた『自然農法』という本でありました。(『奇跡のリンゴ』p50)

 おそらくこの本でしょう。この本ならわたしも同じ頃に読んでいるのです。

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(福岡正信『自然農法・わら一本の革命』、柏樹社、1975)

 違う本だったとしても、書かれていたことは同じでしょう。
 わたしの本は1978年4月発行の4版ですから、木村さんよりはちょっと後に読んだようですが、そんなに何年も違うことはなさそうです。わたしは、結婚したばかりの頃でした。
 農業をやりたかったとか、家庭菜園をやっていたというわけではありません。本屋で見つけて、おもしろそうだから買いました。
 読んでわたしも心ひかれました。なにしろ自然農法の四大原則は、「不耕起、無肥料、無農薬、無除草」だというんですから。
 しかし農業に手を出すどころか、その後、うちの奥さんのはじめた菜園もろくに手伝わず、多少の知識を仕入れただけで事足れりとしてしまったのでした。同じ頃に同じ本を読んで感心しても、このあたりが、木村さんのような、性格の過剰な人との大きな違いだと、あらためて感じ入りました。
 ただ現在、南房総で、うちの奥さんの畑の手伝いをしているのには、多少、この本の影響があるのかもしれません。 

 福岡正信さんは、この後も自然農法を一途に追求し、「無為自然」という老荘思想のような道にたどりついたようで、本当に仙人のようになりました。下のDVDブックは2004年、91歳のときの映像が収録されています。このときはまだ元気でしたが、2008年8月に亡くなられたそうです。合掌。

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(福岡正信『自然農法・福岡正信の世界』、春秋社、2005)

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2009年6月10日 (水)

今年のビワは…

 今年は、例年より一週間くらい早く、ビワの収穫のときがやってきました。
 南房総市富浦町は、国道沿いのあちこちに季節限定の直売店が店を開き、八百屋はもちろん雑貨店や豆腐屋さんにまで「びわ」の旗がひるがえっています。わが家への進入路の、車のすれ違いのできない狭い道にも、ビワを積んだ軽トラックがひんぱんに行き交っています。観光客相手の道の駅は大にぎわい、宅配便を扱っている店の軒下には「房州びわ」と書いた箱が山積みになっています。
 全般に今年はビワの値段が安い。豊作のようです。

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 さて、わが家の今年のびわは…

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 豊作です。上の写真はごく一部、例年よりたくさんとれました。見たところは立派なものです。ところが食べてみると……

 ショックでした。甘さがたりないのです。
 大ぶりで、柔らかく、果汁が多く、しつこくはないがきちんと甘い、というのがわが家のビワでした。自慢の品です。街道沿いのプロの店にもまけない自信がありました。
 それが今年は、大きさは変わらないが、一部に固いところが残っているのがある、果汁もたっぷりまではいかない、甘さがいまいち、と、減点だらけ。これはいけません。

 心配はしていました。6月1日に、盛岡からのお客さんを日帰りで連れてきたところ、ビワの実が地面にいっぱい落ちていました。ビワは熟すと自然に落ちてしまいます。例年よりずいぶん早いなと思いながら、拾って食べてみると、これがいまいち甘くない。
 うーん、これはと思っていると、わが家のビワの指南役、近所のK田さん(前にサツマイモの苗の植え方を教えてくれたおばあさん)がやってきて
「もうビワをとらないと、全部落っこっちゃうよ」
と言います。しかし、まだ甘くないから、あと一週間もたてばもう少し甘くなるのではないか、と淡い期待をして、その日は落ちたビワだけ拾って帰りました。

 毎年、友人たちに泊まりがけで来てもらって、「ビワ狩り」をやっています。今年は6月6日(土)~7日(日)の予定でした。ところが雨が続きそうだとの天気予報で、金曜の昼、中止を決めました。そうしたら6日の午後から雨があがって、7日は夏日の晴れ。判断ミスでした。決行すればよかった。

 その7日に南無谷へやって来て、まずビワの味を確認すると、やっぱり甘くない。がっかりです。
 こんなことははじめてです。もう五年くらいになりますが、毎年、大きな甘いビワがなっていました。不作で数の少ない年はあっても、味は変わりませんでした。だから時期が来れば自然にこの味になるものと思いこんでいました。甘かった、いや甘くなかった。
 今年は豊作で、いっぱい実をつけたのを喜んで、どんどん袋をかけて、ならせすぎてしまったのがいけなかったのか。思いあたる原因はそれくらいしかありません。

 毎年少しずつですが、親戚や友人たちのところへ、箱詰めにして送ってきました。今年は豊作だから、いつもは送っていないところへも送れそうだと期待していたのに、これではちょっと送る気になれません。季節のたよりですから、毎年送っているところへはいつもどおり送ることにしましたが、なんだか気合いが入りません。
 最初の頃は、古ダンボールを切り縮めて自作していたのを、今年はちゃんと新品の箱を買い揃えて用意していたんですが。

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 箱のシールは自作です。

 さて、来年はどうなるか。
 今年の反動で、数が減るのはたしかです。味が戻ってくれるかどうか。とりあえず、たっぷり「お礼肥え」をあげて、その後、枝の手入れもして、来年を待つことにしましょう。『奇跡のリンゴ』を読みはじめました。

 

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2009年6月 6日 (土)

三遊亭円丈『御乱心』

 先日の朝日新聞に「あのとき落語が変わった」という、こんな記事がのっていました。

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2009(平成21)年5月30日、朝日、朝刊

 三遊亭円生の落語協会分裂騒動(1978(昭和53)年)がきっかけとなって、弟子の三遊亭円丈の「奇才」が花開き、新しい創作落語の道が開けた。これに春風亭昇太、柳家喬太郎などが続き、上方の桂三枝にも影響を与えた、というものです。

 円丈は名古屋出身の落語家というくらいしか知りませんでしたが、たまたま去年の9月28日、浜離宮朝日小ホールで、対談を聞きました。
 ラジオデイズ一周年記念特別対談三連発『本日、戦後表現者論でご機嫌を伺います。』という催しです。内容は次のとおり

「この人の声が聴きたい。今、最もブッキング困難な役者を揃えて、対談・放談・漫談の三題噺。編集不能の危険なライブトークが炸裂する。」
 第一部 戦後落語家論  三遊亭円丈+本田久作
 第二部 戦後詩人論    高橋源一郎+小池昌代
 第三部 戦後マンガ家論 養老孟司+内田樹

 最近のお気に入り、第三部の内田樹と養老孟司が目当てで行きました。
 その第一部 の案内がこれ。

三遊亭円生の高弟にして、現代落語の旗手をつとめてきた三遊亭円丈。「円丈以前と円丈以後」の言葉があるとおり、三遊亭円丈の出現はひとつの革命であった。そこに、落語台本の賞を総なめにしている若き落語作家本田久作がからむ。落語ファン待望の(というよりは仰天の)新作落語黎明期の真相話が炸裂。大丈夫か。

 新作落語について「円丈以前と円丈以後という言葉があるのをはじめて知りました。
 対談相手の落語作家だという本田久作は酒を飲んでいて話がメロメロ、しょうもない奴でしたが、円丈はさすがにおもしろく聞かせました。ただ新作落語黎明期の話というより、協会分裂騒動当時の内幕話が中心でした。
 その頃ちょうど真打ちになったばかりで、寄席へ出たくてしょうがなかった円丈は、協会に戻りたいと円生に言ったら、「恩知らず」とさんざんののしられ辛かった。これで円生との間に溝ができてしまった。みんな裏で画策した兄弟子の円楽が悪い。そのうち円楽と円生の仲がおかしくなって、とうとう円生が急死してしまった…というような話です。

 本にも書いたというので、さっそく買って読んでみたのがこの本。
 『御乱心-落語協会分裂と、円生とその弟子たち』(三遊亭円丈、主婦の友社、1986)

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 副題のとおり、分裂当時の自分の体験談がこまかく書かれ、やっぱり、円生をそそのかした円楽が悪いんだという話になっています。おもしろい本でした。

 この手の話は、一方の言い分だけ聞いていてはいけないのですが、円楽は、この本に対し何の反論もしなかったそうで、ウィキペディアの「御乱心」の項には、こう書いてあります。

1986年の発刊当時、この本は暴露本の一種として世間を賑わせたものの、肝心の圓楽側からは圓丈の期待をある意味で完全に裏切る反応が返ってきた。圓楽側は反論や名誉毀損など訴訟などの行動を一切行わないどころか、むしろ逆にこの本の内容について「真実」と言い切ってしまったのである。やる気満々であった圓丈側としてみれば、物の見事に肩透かしを食らった格好になってしまった。この時点で暴露本としての存在意義が事実上形骸化してしまい、単に圓楽を否定的に描いてみせただけの実録小説になってしまった。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%B9%B1%E5%BF%83_%E8%90%BD%E8%AA%9E%E5%8D%94%E4%BC%9A%E5%88%86%E8%A3%82%E3%81%A8%E3%80%81%E5%86%86%E7%94%9F%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BC%9F%E5%AD%90%E3%81%9F%E3%81%A1

 それで、こんな本ものぞいてみました。
 『聞書き・寄席末広亭』(席主北村銀太郎述、冨田均、少年社、1980)。

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 末広亭の北村銀太郎は、『御乱心』には「怖い物なしの円生にとって唯一、頭の上がらなかった人」(p164)と書かれ、また、席亭会議では、北村銀太郎の鶴の一声で、分裂を認めないことが決定したとも書かれています(p139)。

 『聞書き・寄席末広亭』で、そのあたりを当たってみると、こんなふうに書いてあります。

 まあ、あの脱会騒動もね、円生さん次第だつたんだよ。彼が垣根をこさへて、その外だけでやらうとしてゐたからね、うまくゆかないわけだよ。そんなことぢゃ、人はついてこないもの。あんときだつてもう少しで成功するといふところまで行つたんだけど、それが一日、二日でふられちやふつていふのは円生さんの側に多少なりとも問題があるからなんだ。
 事前にあの人が私んところへ来て、今度かうしますから、よろしくつて、会員の名簿を見せてくれたんだけど、それ見たらなかなかいいメンバーだつたから、私もやれるもんならやらしてみたい、また私もやつてみようつていふ気があつたんだけど、いかにも浅いんだ、メンバーの底が。一人欠けたら、ぐんと落ちてしまふやうぢや困るわけだよ。鈴本は承知したんだけど、私だけがウンと言わなかつた。メンバーをもう少しふやして底を厚くしてくれれば、新しい会としてこつちだつて認めようと思つたんだが、円生さんが自腹を切らないんぢや仕様がねえよ。あんとき、うちと鈴本の両方が認めれば、うまく行つたんだけど。(P44~45)

 円生側が力量不足で、見通しが甘かったということでしょうか。
  円生が脱会したのは、年数さえたてば多少下手でも真打ちに昇進させるというやり方に異を立てたからでしたが、席亭の方は、そんなことより、協会が三つになって、交代で興業がうまくうてるようなら認めてやってもいい、ということですから、まるで立場が違います。

 この後の円生の死について、こう書いてあるのには思わず声を出して笑ってしまいました。

だけど。あの人も運の悪い日に死んだもんだよ。パンダの死んだ日だもん。よりによつてそんな日に死ぬこたあねえんだ。新聞見たつてパンダの扱ひの方がずつと大きいしね。テレビのニュースもパンダを長々とやつたあと、あの人がちょつと出てくる。パンダが終わつたから、今度あの人が映るなつて思つてると、決まつて映るんだもん。パンダが真打ちで、円生さんは前座並みの扱ひだよ。一日ずらしやあよかつたんだ、前か後に。そのくらゐの芸を見せたつてよかつたのにさ。あのくらゐの芸をもつてれば、そのくらゐ出来ただらうに。それとも、その程度の芸も出来ないほど弱つちゃつてたのかな。(P49)

 いくら名人円生でも、死ぬ日をずらすわけにはいかなかったでしょうし、なによりパンダが同じ日に死ぬことまでは見通せません。

 円生死後、協会に復帰した円丈は、入門する前からやりたかった新作一本に賭け、そして新境地を開いた、というわけです。
 でも、これらの本を読んだ後、去年の秋に教育テレビの「日本の話芸」で見た、円丈の「東京足立伝説」は、期待していたほどは笑えませんでした。一度、ナマで聞かないといけません。

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2009年6月 3日 (水)

井上ひさしと渡部昇一

 井上ひさしが上智大学の学生時代、当時大学の図書館で働いていた渡部昇一に腹を立てて悪さをしかけたという話。そこそこ知られている話のようですが、わたしは最近知りました。驚いて、以前読んだ本をひっくり返して確認してみました。

 井上ひさしの『本の運命』(新潮文庫、2000)と渡部昇一の『知的生活の方法』(講談社現代新書、1976)。
 『本の運命』は単行本が1997年だから十年くらい前、『知的生活の方法』は、これがベストセラーになったころだから三十年以上も前に読んでいます。読んだ時間が離れすぎているから、この二つを結びつけて考えることはできませんでした。

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 井上ひさしは、『本の運命』にこう書いています。

 もちろん大学には図書館がありました。釜石で感激してますから、ここも通いつめた。ところが、この上智大学図書館がひどかった。
 夜八時まで開いているんですけど、借りた本はそれまでに必ず返さなければいけない。返さないとバツ印がついて、次から借りられなくなる。ところが、こっちもアルバイトの都合やなんかで、そう時間通りにはいかない。遅れまいと必死で走っていくんですが、館員に厳格な人がいて、一秒でも過ぎると返却を受け付けてくれないんです。「これ受け取ってくれないと次の本借りられないんだ」って言うと、「いや、だめだ、規則だから」の一点張りで、融通が利かないんですね。八時ちょうどに鎧戸を下ろしはじめるので、下に足を突っ込んで何とか隙間から本を返そうとするんですが、逆に足を蹴飛ばされたり──(笑)。
 この館員に怒ってる学生がたくさんいたんです。そこで、みんなで「よし、あいつに一度、泡を吹かしてやろう」と相談一決、大学図書館が一番大事にしている本を盗んでしまおうということになった。(P113~114)

 渡部昇一の『知的生活の方法』を見ます。

 この、空間に苦しめられた(注:本の置き場に困ったということ)私が、二年間ばかり、異常な幸運に恵まれたことがある。それは海外留学から帰ってきた直後のことであった。留学中も同じく衣食を節して本を買ったのであるが、当時、東京には置くところがないので、大学宛に送った。そして帰ってくると上智大学の講師になり、志願して図書館の住込み宿直員になった。図書館のまだ空いているところに私の本を置いてもらい、同じ建物の中の夜警宿直者用の小部屋に住まわせてもらうことになったのである。普通の日は図書館は七時ころまでには閉まる。私は窓が全部閉まっているかどうか、三階建ての建物を見廻る。そして鍵をおろす。するとこの建物は私の城となった。正確に言えば、この建物にはもう一つの宿直室があり、若い哲学の研究者が住んでいたから、私たち二人の城となったと言うべきであろう。彼も読書家で議論好きで、しかも音楽に詳しかった。われわれは安物のステレオを廊下に出して、ベートーベンをかけたりした。三階までふき抜けになっている図書館の階段下のホールで、それは壮大な音楽となった。また、考えごとをするときは、真夜中の図書館を一人こつこつと歩くのである。なんという贅沢であったろう。(P97~98)

 ここのところ、一度くらいはこういう環境ですごしてみたいと、うらやましく思ったものでした。 この渡部が、厳格で融通のきかないわからずやの図書館員だったとは。

 井上は友人たちと、渡部が当番のときに、ガラスケースに入っていた貴重書を盗み出し、神田で売り払って、その頃流行していた「なんでも十円寿司」で腹いっぱい食べた。

 後で彼はすごく叱られたという噂を聞いて、溜飲を下げましたが、後日談を言いますと、彼はのちに有名な評論家になられました(笑)。(『本の運命』P115)

 というわけです。

 小役人風の杓子定規な対応はいけませんが、だからといって腹いせに本を盗んで売り払ってしまうというのは、今考えるとずいぶん乱暴な話です。1960(昭和35)年頃の話のようですが、実際に当時の若者は、これくらいのことは平気でやっていたのでしょうか。
 1960年は、わたしの中学入学の年です。若い体育の先生が、これに類する学生時代の武勇伝を話してくれたのを、尊敬とあこがれのまなざしで聞いたものでした。だから、井上の話にも武勇伝として多少の誇張があるかもしれませんが、戦後の焼跡・闇市の名残というか、これくらいやってしかるべきという気風はあったのでしょう。

 まあ、井上ひさしと渡部昇一では、若い頃から意見があったとは思えません。

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