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2009年7月11日 (土)

メルヴィル『白鯨』

 メルヴィル『白鯨』(幾野宏訳、集英社版世界文学全集38、1980)を読みました。これは読書会酣(たけなわ)の7月11日の会の課題図書です。用あって会には出席できませんが、提出用にまとめた読書感想文です。

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左:河出書房新社版、右:集英社版

 高校生か大学生だったときに読んでいるので、四十年ぶりの再読です。昔は河出書房版の阿部知二訳で読みましたが、今回は集英社版にしました。
 この小説の特徴であり面倒くさいところでもある鯨の百科全書的な部分を、若かったときは、けっこう楽しみながら一気に力業で読み切ってしまったと記憶していますが、今回は面倒なところにさしかかるたびに、とろーりとろりと睡魔に誘われ、読み終えるまで意外な時間がかかってしまいました。体力気力とも若い頃とはちがいます。

 この小説をきちんと全部読んだ人は少ないでしょうが、マンガや子供向きに書き直された本で、あらすじは誰もが知っていると思われます。
 上の集英社版の帯にはこう書いてあります。

巨鯨を追う船長の壮絶な戦いを描く!
エイハブ船長は、自分の片脚を奪った白鯨を追って、復讐の鬼と化した。海洋を舞台に人間と白鯨の壮絶な死闘が展開する…。

 なによりもこれは海洋冒険小説です。語り手のイシュメイルは、陸上には興味を引くもののがなくなったからと、船員になって水上の世界へ乗り出していきます。怪しげな船員旅館に泊まり、南の島から来た蛮人にして銛打ちの名人クイークェグと出会い、捕鯨船ピークォド号に乗り組むまでのところなど、大きな冒険が待ち受けている期待にわくわくさせられます。クイークェグが銛打ちの妙技を発揮する場面には、子供の頃読んだマンガで胸踊らせたことを、おぼろげに思い出します。

 クイークェグの他にも、一等航海士の沈着冷静なスターバック(あのコーヒー屋のスターバックスは、ここから名前をとったそうです)、二等航海士ののんきなスタッブ、三等航海士のフラスク、銛打ちにはアメリカ・インディアンのタシュテゴ、巨大な黒人のダグーと乗組員は多士済々。ナンタケットの港を出てからおもむろに真打ちエイハブ船長が登場し、船倉からは隠れていた拝火教徒のフェダラーの率いる謎の東洋人の一行までが現れる。
 まったく魅力的なキャラクターの登場人物たちです。だから、世界の海を経巡り、めざす白鯨モービー・ディックと出会って死闘を繰り広げるまで、息をも継がせず血沸き肉踊る冒険活劇が繰り広げられるかと思うと、ところがそうはなりません。
 冒頭の「語源の部」「文献の部」からはじまって、話の筋とは直接関係ない「鯨学」とか捕鯨の歴史、鯨の生態、解剖学など、百科全書のような、考証のような雑学のような、随筆のようなあるいは哲学のような章が全体にちりばめられていて、話の展開がそこらじゅうで中断されています。おまけにエイハブの言葉は大時代的でもったいぶっていて、読むのに骨がおれます。わたしもついつい読みながらとろーりとろりとしてしまったのでした。

 サマセット・モームは『世界の十大小説(下)』(西川正身訳、岩波新書、1960)で、メルヴィルは、いわばその最善を尽して読者の楽しみを妨げているらしいと、述べています。

なぜメルヴィルが、ところどころで物語の手を休めては、その大きさ、骨格、愛の営みなど、鯨の博物学を扱った章を挿入して、読者にせっかく呼び起こした興味を失わせるといった、犠牲を払うようなことをあえてしたのか、どうもよく分らない。『世界の十大小説(下)』(P107)

 そして、他の多くの独学の人と同様、メルヴィルもまた苦心の末ようやく身につけた知識を必要以上に重要視し、その知識をひけらかしたいという誘惑に抵抗することができなかったからにすぎないと思う、とまで書いています。しかし、メルヴィルはこんな風に書きたかったのだし、あとは読者の側がこれを受け入れるかどうかの問題だとも書いています。(前掲書P108から109)

 わたしも、この余計な部分を全部とり、純粋の活劇に仕立てたら立派な海洋冒険小説になって、売れない作家で終わったというメルヴィルも一躍人気作家になったのではないかと思います。そして『白鯨』は、冒険小説の名作の一つとして残ったでしょう。
 しかし、メルヴィルは、死後、1921年にレイモンド・ウィーヴァーという学者が評伝を出すまで、海洋冒険譚を書いた群小作家の一人にすぎませんでした。そしてこの評伝が契機となって世界的な作家として認められていくのですが、そうなったのは『白鯨』が単なる海洋冒険譚ではなく、ひょっとすると、わたしが「余計な」と言った部分が含まれているからこそなのではないでしょうか。

 海について、鯨の群について、天空について、歴史について、ゆったりといろんなことを瞑想しながら、そしてとろーりともしながら、白鯨を大洋に追いかけけていく物語を少しずつ読み進んでいくと、たしかに、筋の展開をひたすら追いかけていく現代の活劇小説とは違った、古典的というべき世界がひろがっていきます。そしてその中で、話は単なる怪物退治を超えて、世界とは何か、善とは悪とは何か、白鯨が悪なのか、エイハブが悪なのか、神は白鯨なのか、それともエイハブに宿るのか、大きく広がっていずれともわからぬまま、壮絶な戦いの末、イシュメイルを除いてすべては大洋の中へ消えていきます。
 何者かはわからないが、たしかに巨大なものが世界に存在しており、それに戦いを挑んでいるものがいることを感じ、考えさせてくれる作品です。話の筋に「余計な」ものが加わることで、小説の柄が大きくなっているのです。名作とされる所以でしょう。

 この「余計な」ものに関して、池澤夏樹は『世界文学を読みほどく』(新潮選書、2005)の中で、『白鯨』はデータベースである、と言っています。データベースとは羅列であり、世界は樹木状のディレクトリとして認識できるような構造をもっていないとメルヴィルは言いたかったから、鯨百科の羅列があるのだ、新しすぎたのだというのです。
 これは白鯨=鯨百科の羅列=データベースという自分の思いつきに引きずられすぎのように思えます。メルヴィルはやはり世界のディレクトリ=構造をとらえたかったのでしょう。鯨をとおして、時間を、空間を、全体をとらえたかったのでしょう。それに成功しているとは言えませんが、なにかしらよくわからないものを感じさせてくれるところまでは行ったのではないでしょうか。

 あとは、白鯨モービー・ディックとはなんなのか、エイハブ船長とは誰なのか、という問があります。いろんな説があるようです。
 しかしこれについては、イシュメイルとは「創世記」のイシマエルに相当し「追放者」のイメージを負うとか、エイハブとは旧約「列王紀」のイスラエル王アハブのことである、と言われてもなんのことか見当もつかない、薄弱な知識しかないので、神だ悪魔だという話には、かかわらないことにします。
 モームもこう書いています。

 それにしても、『モウビー・ディック』が、そこにどのような寓意ないし象徴が託されていようといまいと、そんなことには少しも煩わされないで読むことが、しかも絶大な興味をもって読むことができるのは幸いである。(前掲書P106)

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 また、捕鯨についてあれこれ書いてあるのを読み、子供の頃、少年雑誌でよく捕鯨船団の紹介記事、キャッチャーボートの絵や写真を見たことを思い出しました。鯨の肉だけではなく、骨からヒゲや皮まで、いかに無駄なく有効に利用しているか、細かく図解されていました。プロ野球の大洋ホエールズは少々負けたところで、鯨を何頭か余計にとってくれば経営は大丈夫だ、なんて話もあったように思います。

 昔、ハワイでホエール・ウォッチングに参加したとき、ガイドの白人のおばさんが、今日ここで鯨に会ったことを一生忘れないでね、とか、聖なる動物に巡り会えたことを感謝しましょう、みたいなことをしゃべっていて、異様に感じたことを覚えています。
 こちとら子供の頃から鯨食って育ってるんだ。そんなあがめたてまつるようなもんかい。南国土佐の生まれじゃないけれど、おらんくの池にゃ潮吹く魚が泳ぎよるんじゃ。
 『白鯨』に書かれているような無駄の多い捕鯨をやって乱獲しておきながら、今頃勝手にあがめたてまつって、強硬に捕鯨に反対している国には、一席ぶちたくもなります。でもそれほどの知識があるわけでもないし、まして英語で、となると何も言えませんが。
 

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