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2009年9月

2009年9月23日 (水)

『ジェネラル・ルージュの凱旋』

 最近売れている海堂尊の本を読みました。
 最初に読んだのは、たまたま手元にあった
『ジェネラル・ルージュの凱旋』(海堂尊、宝島社文庫、2009)

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 上巻裏表紙の売り文句はこうなっています。

『チーム・バチスタの栄光』『ナイチンゲールの沈黙』でおなじみ海堂尊が贈る、大人気<田口・白鳥シリーズ>みたび登場! 伝説の歌姫が東城大学付属病院に緊急入院した頃、不定愁訴外来担当の田口公平の元には匿名の告発文書が届いていた。”将軍(ジェネラル)”の異名をとる、救命救急センター部長の速水晃一が特定業者と癒着しているという。高階病院長から依頼を受けた田口は調査に乗り出す。

 正直なところ最初は、なんだこれ、と思いました。
 冒頭で、救急車に同乗した看護師と救命救急センターの医師との無線による会話がこれです。

「あんた、誰だ」
「如月です」
「え? 翔子ちゃんかい?本当なら証拠(傍点)を見せろ」
間の抜けた声が、打ち解けた語調に変わった。
「その寒いギャグは、ひょっとして……」
(中略)
「佐藤先生でしたか。当直が救命病棟の出世頭だなんてラッキー」(P14)

 死にかかっている患者を乗せて、なんとも緊張感のない会話です。これがユーモアのつもりなのか、出世頭だという状況説明をこんなところでやる必要があるのか。
 おまけに救命救急センターの将軍(ジェネラル)速水医師は、棒つきの飴(チュッパチャプス)をなめながらTVモニターを見て、指示を出します。これはマンガか。

 これなら途中で放り出してもいいやと思いながら読んでいくと、意外やおもしろくてやめられない。話がどうなるのか、ともかく先を読みたい。これはマンガではなくて、要するに劇画なのだ。
 心理描写や情景描写で勝負するのではなく、筋運びのスピードと面白さで勝負。そして、作者が現役の医師だからこその医療情報の提供と問題の提起があります。
 登場人物ははじめからキャラクターが決められていて、「ジェネラル」とか「行灯」などのあだ名で性格がよくわかり、そのとおりに行動するから余計な説明はいりません。仕事がテキパキできる看護師長が「ハヤブサ」なんて、ちょっと恥ずかしいネーミングだと思うけれど、作者はそんなことはまったく気にしていないようです。そのまま強引に押し切られてしまった感じ。こんな小説があるのか、これは劇画小説と呼ぶべきではないかというのが読み終えての感想でした。

 そして、これは東城大学付属病院シリーズの四作目で、話がそれぞれ関係しているというので、気になってその前の三冊を結局全部読んでしまいました。後をひきます。
 それぞれ、文庫本上巻裏表紙の売り文句を引用しておきます。数字は刊行順。

1 『チーム・バチスタの栄光 上・下』(海堂尊、宝島社文庫、2007) 

東城大学医学部付属病院の”チーム・バチスタ”は心臓移植の代替手術であるバチスタ手術専門の天才外科チーム。ところが原因不明の連続術中死が発生。高階病院長は万年講師で不定愁訴外来の田口医師に内部調査を依頼する。医療過誤死か殺人か。田口の聞き取り調査が始まった。第4回『このミス』大賞受賞、一気にベストセラー入りした話題のメディカル・エンターテインメントが待望の文庫化。

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2 『ナイチンゲールの沈黙 上・下』(海堂尊、宝島社文庫、2008)

第4回『このミス』大賞受賞受賞作、300万部を突破した大ベストセラー『チーム・バチスタの栄光』の続編が登場。大人気、田口・白鳥コンビの活躍再び! 今度の舞台は小児科病棟。病棟一の歌唱力を持つ看護師・浜田小夜の担当患者は、目の癌──網膜芽腫の子供たち。眼球摘出をせざるをえない彼らに心を痛めた小夜は、患児のメンタルケアを不定愁訴外来の田口に依頼し、小児科愚痴外来が始まった。

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3 『螺鈿迷宮 上・下』(海堂尊、角川文庫、2008)

医療界を震撼させたバチスタ・スキャンダルから1年半。東城大学の劣等医学生・天馬大吉はある日、幼なじみの記者・別宮葉子から奇妙な依頼を受けた。「碧翠院桜宮病院に潜入してほしい」。この病院は終末医療の先端施設として注目を集めていた。 だが、経営者一族には黒い噂が絶えなかったのだ。 やがて、看護ボランティアとして潜入した天馬の前で、患者が次々と不自然な死を遂げた! 彼らは本当に病死か、それとも……。

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 ストーリーもキャラクターも、やっぱり劇画だなとは思いましたが、ともかく最後まで一気に読ませる力があります。どれもおもしろく読みました。
 上に引いた『チーム・バチスタの栄光』の売り文句には、この本を「メディカル・エンターテインメント」と呼んでいます。作者は、最初の『チーム・バチスタの栄光』を、自説の死亡時医学検索の重要性を主張するために書いたのだといいいます(『ナイチンゲールの沈黙 下』解説)。そのためのメディカル・エンターテインメントとは、なかなかたいしたものです。

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2009年9月20日 (日)

「何野誰兵衛 建之」の読み方

 このブログの右下の方に「検索フレーズランキング」という欄があることは前にも書きました(ソーホース(ウマ)の作り方)。DIY関係の検索でこのブログがひっかかることがけっこう多いようですが、9月13日に突然、8位に「"建之" 墓 読み方」というのがランクされていて驚きました。
 よくお墓や石碑などにある「何野誰兵衛 建之」の読み方を検索しているのですが、わたしは墓の読み方のことなど書いた覚えがないので、どこがひっかかったんだろう、と思い返してみると、「右は高輪泉岳寺」に「四十七士の墓」とか「川上音二郎建之」と書いてあるので、これがひっかかったようです。

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 偶然、ついこないだ、これとまったく同じ質問をされて、
「之(これ)を建(た)てる」
と答えていたこともあって、この「"建之" 墓 読み方」の検索をクリックしてみました。
 
 そうするとやっぱりこういう答えがでています。

 「漢文で書かれた碑文は,「読み下し」で読むので,「これをたつ」と読む」──これが本則でしょう。
 「これをたつ」「けんし」「こんし」「これをたてる」──もし私が、その先生なら、学生がこの4通りのどの読み方をしても「良し」とします。

http://okwave.jp/qa4731066.html

 「この墓あるいは記念碑を建てた」という意味で、それを読み下しで読むか、そのまま音読みで読むかというだけのことで、特に問題はないと思いますが、中に、あっと驚く説がありました。

 じつは、この「建之」という言葉は日本では存在しない言葉です。
 もちろん、日本には無い言葉ですので、決まった読み方も存在しない訳ですが、私が関係していた時には「けんし」と呼んでいました。
 しかし、一般的に馴染みが無いというのと、決まっている事柄ではないという事で建墓者の方には「こんりゅう」と説明し、お墓の慣例で「建之」という文字を使っています、という風に説明していました。
 意味合い的には「建立」と同じなのですが、使われる場面はお墓や記念碑等に限られています。
 日本のお墓文化は、中国の影響を受けているので、そこから建之という言葉の意味を考えるとすると「之(これ)を建てた」という風になるのかもしれません。

 文章を読むと、お墓を作るとか売るとかに関係していた方のようですが、どうもこの業界には「建之者」という言葉があるようで、ある石材会社のページには、こんな文章もありました。

お墓の建之者彫刻
 お墓には、建之者の彫刻を入れることが多く、裏面または、側面に「平成○○年○○月 ○○建之」のように彫ります。建之は「之を建つ」という意味です。

 さらにこんな回答もあったようです。(書かれたもとのページの記載がないので確認はできませんでした。)

 お墓を建てた人、建之者(けんのうしゃ)の意味です。
 誰の誰兵衛建之(けんのう)と読みます。

 業界で、いちいち「『之を建つ』の上の名前はこれこれで」とか言うより、「『建之者(けんししゃ)』はこれこれで」と言った方が、なにかと便利そうなのは、なんとなくわかります。
 だから業界の専門用語として使うのはかまわないと思いますが、それが一人歩きして、日本語にはない「建之」という特別の熟語があるんだというのは、話が逆でしょう。中国語にも「建之」なんて熟語はないのではないでしょうか。
 「けんのう」と読むという話にいたっては驚くしかありません。

 以前読んだ『それ迷信やで』(今井幹雄、東方出版、1981)という本は、真言宗の僧侶が、檀家の年寄り連中が言ってくる「仏壇の花たてと蝋燭たてを一対にしておかないと後家になる」とか、「葬列を歩く人が後ろを向くと、後を引く(=また葬式が出る)」とかいう迷信への対応のあれこれを書いたおもしろい本でした。「迷信列島漫才説法」という副題がついています。

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 こんな一節があります。

世の中が一段落したとみえて仏壇購入や墓碑建立が盛んになったはいいが、それと同時に、さまざまな珍知識を仕入れてきては、「仏壇屋がああ言った」「石塔屋がこう言った」と言って、それを寺に押しつけてくるから閉口するのである。(p150)

 そして著者が白木に書いた「○○信士」という戒名が、仏壇屋が彫った位牌ではなんと「○○信七」になっていた、という話が紹介されています。くずし字が読めないばかりか、戒名には○○信士・○○信女等のつけ方があることも知らない。それでいて先祖供養のコンサルタントぶって、仏壇開眼にはこの日がいいの悪いのと根拠もなく檀家に吹き込む云々、と毒舌説法になります。

 迷信の話はまた別の話になるので、もとの話に戻ります。

 漢文が読めるのが普通の教養だった時代は終わりました。わたしは漢文に詳しいわけでも中国語ができるわけでもありません。そのわたしにとってさえ、あたりまえに思えることが、そうじゃなくなってきたようです。時の流れで、そのうち「建之(けんし)=建立のこと」と辞書に載るようになるのかもしれません。

 検索で出てきた中に、碑文の読み方の最後の箇所が、こうなっているのがあって、失礼ながら思わず笑ってしまいました。○○は日本人の姓です。

○○ 建之
○○ たけゆき

 その前までの読み方を見ると、回答者はわたしなどよりよほど学識の深い、ちゃんと読める方だとお見受けしましたが、最後が○○と姓だけだったので、勢いで名前として読んでしまわれたのでしょう。
 でも本当にこの人が「○○たけゆき」という名前だったらごめんなさい。わたしの不見識をおわびします。

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2009年9月17日 (木)

外科治療には『三国志』

 そんなに忙しかったわけではないのですが、いろいろあってブログから遠ざかっていました。
 いろいろのひとつが首筋にできたデキモノ。医者はニキビのようなものだと言いましたが、大きく腫れあがって、切開され、その後、ウミや油カスを出すといって、一週間くらい傷口をいじられ続けました。昨日ようやく傷口をふさいで様子をみることになり、ほっと一息ついだところです。

 いざ切開というときに思い出したのは、子供の頃、注射とか怪我の治療をしてもらうたびに『三国志』で読んだ関羽の話を思い浮かべて痛みを我慢していたこと。。
 ご存じの方も多いと思いますが、『三国志』には、腕に毒矢が当たった関羽が、治療のため肉を切られ骨を削られても顔色一つ変えず、碁を指し、酒を飲んで談笑していたという話があります。
 小学生の頃『三国志』を読んで感動したわたしは、それ以後、注射や怪我の消毒などの際には、この関羽を思い浮かべて、男らしく我慢していたのでした。歯医者でもそうでした。顔色一つ変えず、うめき声の一つもあげず、とはいきませんでしたが、けなげに痛みや恐怖をこらえてがんばっていたのです。
 さすがにこの歳で関羽を思い描いてというわけにはいきませんが、そうやって痛みをこらえていた自分の幼い姿を思い出すと、そうそう泣き言は言えないなという気にはなります。

 何年か前に、その頃読んだ『三国志』をもう一度読みたくなって探したことがあります。覚えているのは、名作全集のようなシリーズの一冊、単行本より一回り小さい変型サイズ、黄色い地に絵入りの表紙、講談社から出ていたような気がする、といったところ。
 神田の古本屋で同じシリーズの他の本がありましたが、『三国志』はありませんでした。

 最近入手したのがこの本。野村愛正『三国志物語』(クレスト社、平成5年)。
 昭和15年に講談社の『世界名作物語』叢書の一冊として刊行され、昭和21年にそれを書きなおして同じく講談社の『小国民名作文庫』の一冊として刊行されたものを復刊したものだそうです。

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 谷沢永一、渡部昇一の二人が、この野村愛正の『三国志物語』を少年時代に愛読したと、カバーの袖に推薦の言葉を寄せています。
「私の人生学、人間学の入門書(谷沢)」、「本書は、私の知的生活の出発点である(渡部)」と二人とも手放しでほめています。
 この二人の政治向きの意見についてはかなり異論がありますが、本・読書に関するものはおもしろく読み、かつ尊重しています。

 わたしもこの二人と同様、小学生の頃読んだ『三国志』に、傷の治療だけでなく、かなり影響を受けていると思います。大人になってから吉川英治の『三国志』も、子供に買ってやった横山光輝の『三国志』も読みましたが、最初の本が『三国志』の印象を決定づけているように感じます。
 しかし、これが本当に昔読んだその本なのかどうかは、どうもはっきりしません。読んでみるとやっぱりおもしろくて、一気に最後まで読んでしまいましたが、文章までは覚えていないので、これがそうだったとは断定できません。
 同級生だった造り酒屋の息子のヨシオくんから借りたような記憶があります。そうだとすると小学校一、二年の頃のことになりますが、そんな小さい頃にこんな文章が読めたんだろうか。しかし、あのころは少年雑誌だって活字がいっぱいだったし、難しい漢字にはたいていふりがながついていました。わからないところは特に詮索しないで飛ばして読んでいたから、こんなものだと思って読んでいたのかもしれません。
 ヨシオくんとは「宋江がどうした」とか、『水滸伝』の話をした記憶もありますから、ともかく二人ともこの手の本を読んでいたのはたしかです。

 関羽の手術のところはこう書かれています。

 華陀(かだ)という呉の名医が訪ねてきて診察して、
「これは烏頭(うず)という毒のためで、早く治療しないと腕が駄目になります。今、静かな部屋に柱を一本立て、それに鉄の環(わ)を取り付けて臂を縛りつけ、私が肉を裂き骨を削って手術すれば必ず治ります。ただ並大抵のことでは到底我慢ができないでしょう」
 と言う。現在のような麻睡(ますい)薬がなかったので、こんな方法で手術するよりほかはなかったのだ。関羽は笑って、
「それはたやすいことだ。子供ではあるまいし、柱を立てたりするには及ぶまい」
 と言って、馬良を呼んで碁を囲み、酒を飲みながら右の腕を差し出す。華陀が刀をとって傷を切り開いてみると、すでに骨が毒に染まって青くなっている。それを削り取って治療する間に、血は兵が捧げた盆に一杯になったが、関羽はふだんのとおり談笑していて、顔色一つ変えなかった。
 これには華陀も驚いて、自分は長く医者をするが将軍のような人は一生にはじめてだ、真(まこと)に天神(てんしん)だと言って、礼物を受けずに帰って行った。この手術によって、さしも重かった関羽の矢傷も百日あまりですっかり全快した。(P228~229)

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 華陀(=華侘)は実在した伝説的名医ですが、実際に関羽を治療してはいないようです。麻酔を発明したとされていますが、この話では麻酔はつかっていません。まあ麻酔で手術しては豪傑の話にはなりませんし、わたしの心の支えにもなりませんでした。
 この『三国志物語』には出てきませんが、原本の『三国志演義』では、このあと華侘は、病気になった曹操に脳の切開手術をすることを申し出て、殺そうとするのかと疑われて、獄死してしまいます。このときにはちゃんと麻酔すると言っています。

 小説の『三国志』ではなく、正史の『三国志』にも「華侘伝」があって、いろんな話が書かれているそうですが、ウィキペディアのこんな話が目にとまりました。

・李痛の妻が重病にかかると、流産した胎児が残っているためと診断した。李通は胎児はもう降りたと言ったが、華佗は胎児は双子で、一人が残っているのが病因と診断し、果たしてその通りだった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%99%80

 これは、TVドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」で、医女になったチャングムが皇后の病気を見事にあてたという話そのままではありませんか。なるほどこれをネタにしていたのか。

 『三国志』は、韓流ドラマにも外科治療にも役立っていたという話でした。

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2009年9月 8日 (火)

芸能鑑賞二題

映画『剣岳 点の記』

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 9月4日(金)、地元の映画館での上映最終日。

 山の映像がきれいです。山岳をうつした映画は、いつもその壮大な景色に感心するとともに、どこからどうやって撮ったんだろうと不思議に思います。登山者を上から撮っているということは、カメラはすでに上に登っているわけで、それだけでもたいしたものですが、岩のてっぺんに立つ姿など、どこを足場にして撮影しているんだろうと思うようなのがあります。一部には合成もあるかもしれませんが。

 山の風景に味をつける人間ドラマ──陸軍測量部と日本山岳会との登頂競争、案内人の親子対立などは、ちょっと生煮えで中途半端な感じでした。
 新田次郎の山岳小説は、昔ずいぶん読んでおもしろかったのですが、今や内容はほとんど覚えていない状態で、『剣岳 点の記』を読んだかどうかも不明です。

 ともかく山の景色だけは堪能して納得した映画です。

狂言「萩大名」・能「野宮」

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 9月5日(土)、大船の鎌倉芸術館で。

 狂言はおもしろく見ましたが、能の方は、はじまってすぐ睡魔に襲われ暫時寝てしまいました。目がさめたあとはちゃんと見ましたが、よくわかりません。二時間の上演時間は長かった。
 あと何度か見たら、おもしろいとかなんとか言えるようになるものなのでしょうか。ともかくもう少し努力してみたいとは思います。

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2009年9月 4日 (金)

川合玉堂が赤塚不二夫に

 川合玉堂が赤塚不二夫になりました。

 9月2日(水)、前から一度行きたかった、奥多摩の川合玉堂美術館へ出かけました。横浜のわが家から、東京都内とはいえ青梅線御獄(みたけ)駅までは片道三時間近くかかります。とことこ電車を乗り継いで、昼ごろ御獄駅につき、橋を渡ると渓流の向こうに美術館が見えます。
 玉堂の絵にそのまま出てきそうな場所です。

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真ん中上の白い建物が玉堂美術館

 ところが、美術館に着くと、意外な貼り紙が…

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 「9月1日(火)、2日(水) 臨時休館させていただきます」
 月曜休館は確認してあったのですが、これはまいりました。

 天気が良ければ山の方の御獄神社などへ行ってもいいのですが、山には写真のとおりガスがかかっているし、時おり細かい雨がぱらつきます。

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 山はあきらめて、駅に置いてあったパンフレットにあった、赤塚不二夫会館へ行ってみることにしました。「昭和レトロ商品博物館」「青梅赤塚不二夫会館」「昭和幻燈館」の三館がセットになっています。

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 青梅はどういうわけか「昭和レトロ」を売り物にしていて、青梅駅にはこんな展示もありました。

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 これが赤塚不二夫会館。昔から赤塚は大好きですが、原画や写真の展示を見て、玉堂の絵のような感慨にふけるわけにはいきません。寝っころがってセンベイでもかじりながら本を読むのが正しい赤塚の鑑賞方法です。 そういう部屋をひとつ作ったらいかがなものでしょうか。
 青梅でなぜ赤塚なのかは、よくわかりませんでした。

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 これは「昭和幻燈館」。幻燈をやっているわけではなく、映画の看板と、灯りの入った昭和の町のジオラマが展示されています。

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 こういう昭和レトロが流行りだしたのは、新横浜にラーメン博物館ができた頃からだと思います。あそこへ初めて行ったときはたしかに驚きました。映画「地球防衛軍」の看板がなつかしくて郷愁にさそわれました。
 でもそうそういつまでも驚きは続きません。

 昭和の時代、まだ小さかった頃は、なんて上手に描いてあるんだろうと思って映画の看板を見上げていました。それが中学生くらいになると、微妙に顔が歪んでいたり、少々目つきが悪かったりするのがわかるようになりました。
 高校・大学生になると、「映画の看板は、あの俗悪で品のないところがいいんだよ」などと生意気なことを言っていたことを思い出します。ちょうど横尾忠則が登場し、「キッチュ」という言葉が流行りだした頃でしょうか。

 青梅の町にかざってある映画の看板も、キッチュな、映画看板の正道を行くものです。しかし上映案内という本来の機能を失ったものを、博物館の中ならともかく、町のあちこちにいつまでも飾っておくというのはいかがなものでしょうか。
 下の写真は青梅駅の地下通路です。左側にも同じ様な看板(洋画の「鉄道員」!他)が飾ってあります。観光客のわたしは一瞬ハッとしましたから、そういう意味では目を引きますが、毎日通勤でここを通るとしたら、ちょっと疲れそうです。高倉健も大友柳太朗の怪傑黒頭巾も大好きでしたけど。

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 赤塚不二夫館へもう一度行くことはないでしょうけれど、川合玉堂美術館は、天気の良さそうな、ちゃんと開館している日に、もう一度行ってみることにします。

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2009年9月 2日 (水)

歴史的文書?

 8月30日の衆議院選挙では、民主党が308議席と大勝し、自民党は3分の1余に激減。政権交代です。

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 これで現在の社会の閉塞感に風穴があくかどうか。
 小沢一郎や田中真紀子では自民党と変わりばえしないけれど、大して変わらないから安心して投票した人もいたことでしょう。ともかく自民党は一度やめさせる、風穴をあけたいというのが民意でした。
 これで、自民党がかつての社会党のようになっていくのか、それとも民主党が分裂、政界再編になるのか。いろいろおもしろそうではあります。

 民主党のマニフェスト。

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 駅頭でもらったものですが、古本屋のオヤジとしては、数十年後に値が出ることを期待して、これをまとめて仕入れておくべきだったかもしれません。
 でもこれが歴史的文書として残るのか、それとも、うたかたのチラシとして消えていくのか、さてどちらでしょう。

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