« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »

2010年2月

2010年2月26日 (金)

中国でも「エロ」は「えろ」

 ときどきのぞいている「北京東京趣聞博客(ぺきん・とうきょうこねたぶろぐ)」http://fukushimak.iza.ne.jp/ 」というブログに、先日、おもしろい記事がありました。

 昨年、中国当局がエロ(ポルノ)などの有害情報から若者を守るという建前で、新規販売パソコンに導入しようとした「グリーンダム(緑●=土貝)」という検閲ソフトに対し、若いネットユーザーたちはゆるい抵抗を示したという話で、その一例として、こんなイラストが紹介されていました。

このグリーンダム問題がネット上でたけなわのとき、若いネチズンはこういう、日本のエロゲームに出てくる妹系キャラを描いて「グリーンダムたん」と名付けて、ゆる~い抵抗の意志を表現していた。
http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/entry/1473042/ 以下の引用も同じ。)

Photo

 紅衛兵風の帽子の蟹の模様とか、手に持っている醤油桶にも、政府を揶揄する意味があっておもしろいのですが、それはブログ本体を読んでもらうとして、絵の下のセリフに注目してください。「緑(土貝)子」=「グリーンダムたん」は、こう言っているのだそうです。

このエロげー妹キャラのグリーンダムたんは、「エロなんて一番きらい、絶対絶対みせてあげない!」とかわいくセリフを吐いている。ちなみに胸にだいている兎はグリーンダム検閲ソフトのキャラクター。

 セリフを、繁体字にするとこうでしょうか。(間違っていたらごめんなさい)

 「工口什么的討厭了、絶、絶対不你看!」

 なんと日本語の「エロ」がそのまま使われています。これには驚きました。
 たしかにカタカナの「エロ」は漢字の「工口」と見た目同じですが、翻訳しないでそのまま使われていて、そのうえブログの作者によれば、中国でもそのまま「えろ」と読んでいるようだというのです。「エロ」が専門用語化、日中共通用語化しているわけだ。
 日本のマンガが世界中で人気だという話はよく聞きますが、日本のエロゲームも世界を席巻しているのでしょうか。こんなことも書いてありました。

髪のチョウチョリボンはおそらく、雅蠛蝶(ヤーミィーディー)。日本のエロビデオで女性が叫ぶ言葉を中国語の音にあてたもの。

 雅蠛蝶(ヤーミィーディー)──これは「ヤメテ」なんでしょうね。こんなのまで通用しているのか。やめてもらいたいなあ。

 現在、トヨタの社長がアメリカ議会に呼びつけられて脅かされています。日本の若いネチズンたちは、「あの「こども社長」ではだめだ」とか言って揶揄していますが、これで製造業が衰退したら、近い将来の日本の輸出は、マンガとエロゲームが頼りということになってしまうのでしょうか。マンガはともかく、エロゲーの方は「ヤーミィーディー」です。

 このグリーンダムという検閲ソフトは、ユーザー、メーカーの抵抗の他に、ソフト自体に大きな問題があって、導入は無期延期となったそうです。
 ブログの作者福島香織さんは、産経新聞を先日辞めたばかりの元中国総局記者で、こんな本も出しています。『危ない中国 点撃(クリック)! 福島香織の「北京趣聞博客(ぺきんこねたぶろぐ)」!』(産経新聞出版、2007)

Photo_2          『危ない中国 点撃! 福島香織の「北京趣聞博客」!』

 政治的には、いかにも前産経新聞記者らしい立場で、わたしとは意見の違うところがありますが、中国の具体的な生活事情などが書かれていて、おもしろいブログです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月24日 (水)

スチャラカ社員

 はじめて藤田まことを見たのは、中田ダイマル・ラケット主演の「スチャラカ社員」というテレビ番組でした。女子社員の尻を追いかけてばかりいるという役どころで、最初は女優の長谷百合を「ハセく~ん」と追いかけ、その後、藤純子(=富司純子)に代わって、「フジく~ん」になりました。藤純子はまだその頃高校生で、素人っぽくて、後に「緋牡丹のお竜」さんになるとは、とても考えられませんでした。        

Photo                 澤田隆治『笑いをつくる』P188

 「スチャラカ社員」もかなりの高視聴率を上げた人気番組でした。「てなもんや三度笠」と同じ香川登志緒(かがわとしお)作、澤田隆治(さわだたかはる)演出というコンビで、この二つの番組を何年も並行して作り続け、高い人気を保っていたというのはたいしたものです。
 番組制作の裏話などが、澤田隆治の『笑いを作る 上方芸能笑いの放送史』(放送出版協会、2002)に書かれています。これは1994年にNHK人間大学で放送された「上方芸能笑いの放送史」のテキストを本にしたものです。澤田隆治が講師でした。

Photo         左が、『笑いを作る 上方芸能笑いの放送史』、右がテキスト                   

 放送されたとき、テキストを買って読んだら、この「スチャラカ社員」のところにこう書いてあって、ちょっとがっかりしました。

清潔な色気が売物の長谷百合は、娘役として売り出していたが、出社すると「ハクセーン」を連発する藤田まこととのコンビは、サラリーマンの観客に大いにうけた。「ハクセーン」がギャグになっていったのだ。(テキストP153)

 「長谷くーん」が「ハクセーン」とは、何だこれは。番組を見たことのない奴がテキストを編集しているな。藤純子は「フクジーン」になるとでもいうのか、と思っていたら、八年後の単行本の『笑いを作る』も「ハクセーン」のままで、訂正されていませんでした。作者もチェックしなかったんでしょうか。ドラマ「白線流し」というのもありましたが…

 小林信彦の『日本の喜劇人』(新潮文庫、1982)にも、この二つの番組の全盛期の頃、大阪で香川や澤田に会っていろいろ聞いた話などが書かれています。
 前述の藤純子については「年齢のわりに色気のある顔立ちで、陰気であり、足が太かった。」とあります。

Photo_4

 小林信彦は中原弓彦名義の『虚栄の市』から読んでいて、好きな作家の一人です。中でも『唐獅子株式会社』などのパロディものは大好きですが、エッセイや私小説風の作品にときどきでてくる「東京中心主義」が、ちょっと気に入りません。
 『日本の喜劇人』にも、藤山寛美の昭和46年の新橋演舞場の舞台がエポック・メイキングであった、喜劇の新しい時代がきたなどと書いていますが、東京の人はそれまであまり寛美を見る機会がなかった、小林もそれまで見たことがなかったというだけのことでしょう。その頃大阪では、寛美の芸はすでに確立されており、知らない人はいないくらいのものだった筈です。
 大阪のテレビ番組『やりくりアパート』や『番頭はんと丁稚どん』についても、ためらうことなくこう言います。

 しかしながら、これらは、あくまでもローカルなものであり、しょせん、まともな喜劇愛好家の対象となるものではなかった。(『日本の喜劇人』P214)

 楽しんでみていた大阪人は怒るぞ、と思います。実際、東京嫌いの香川登志緒に「香川さんのショウ感覚は、東京で、完全に通用するものですよ」と言って、叱られた話も書いています。
 小林も「スチャラカ社員」や「てなもんや三度笠」は認めていて、その後香川と澤田が決裂してしまったのは、大阪のコメディのために大きな損失であった、とも書いてあります。(同書P233)

 わたしの不満はともかく、『日本の喜劇人』は名著です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月22日 (月)

てなもんや三度笠

 俳優の藤田まことが2月17日に亡くなりました。

 藤田まことと言えばなんといっても「てなもんや三度笠」です。
 こんなものを持っています。

 DVD「てなもんや三度笠爆笑傑作集」1~5です。定価は1枚三千円ですが、以前特価セールに出ていたのを見つけて5枚まとめて買ったものです。

1

 「てなもんや三度笠」は、わたしの若い頃の超人気番組で、DVDの帯には「超高視聴率で昭和37~43年のテレビ界を席巻したお化け番組」とあります。
 主に中学時代の番組だと記憶していたのですが、わたしの中学三年から浪人時代を含んで大学二年までということになります。大学の下宿時代はテレビなんか持っていませんでしたから、主に見ていたのは高校時代ということになります。

 日曜6時、鐘が鳴ると、お堂の中から三度笠で顔を隠した藤田まことがあらわれて、そこへ刺客が襲いかかってくる。それをやっつけると、
「俺がこんなに強いのも、当たり前田のクラッカー」
という決めぜりふ。これが毎回の始まりでした。

 とにかくおもしろくて、ばかばかしくて、笑い転げながらみていました。中学時代の記憶が強いのは、その頃の学校からの帰り道、クラブ活動の仲間たちと、こないだの「てなもんや」がいかに面白かったか話し合ったり、目明かし役の平参平の「アーホー」というギャグの真似をしたりしながら歩いた思い出が大きいからでしょうか。
 あるときその帰り道で、仲間の一人が向こうから歩いてくる若い女性を見て、大きな声で
「わあー、きれーなねーちゃんやわあ!」
と藤田まことの真似をしました。
 そのお姉さんは、うつむいてクスクス笑いながら、ちょっと頬を赤くして恥ずかしそうに、それでもうれしそうに、すれ違っていきました。あのお姉さんはほんとうにきれいだったなあ。

 DVDには、当時の三十分番組が一枚につき二本ずつ収録されています。五枚で五時間、十回分です。各巻に、プロデューサー沢田隆治のマル秘裏話がそれぞれついています。収録作品は昭和42年以降のもので、わたしの大学時代、もう番組も終わりに近い頃のものです。だから見た記憶のない番組ばかりでしたが、話の筋立ては同じようなものです。
 財津一郎が写真師の役で藤田まこと・白木みのるとトリオの準主人公になっていましたが、これはわたしの記憶にはありませんでした。なんといっても財津一郎は、この番組の怪浪人「蛇口一角」役で売り出したはずです。
 毎度まぬけな悪役があらわれ、毎度ばかばかしい話がドタバタで終わるのは変わりません。なつかしく見ました。
 しかし残念ながら画像が悪い。がっかりするくらい悪い。みんなピンぼけみたいな顔になっている。テレビ局の番組製作用のビデオは何も残っておらず、このDVDは、なんと沢田隆治が自分用に家庭用のビデオで録画したものが元になっているそうです。だから終わりの方は番組の途中に「カラー放送」と字幕が出るのですが、まだカラーの家庭用ビデオなんかなかった時代で、このDVDは全編モノクロです。
 そんなわけで、ちょっと残念なところもありましたが、例えばDVDの第1巻第1作「月の鰍沢」の配役を見ると、てんぷくトリオ、唄子・啓助、平凡太郎、やすし・きよし、という豪華な顔ぶれです。てんぷくトリオは三波伸介、戸塚睦夫、伊東四朗の三人がそろっているし、やすし・きよしはちょうど売り出し中で、ドツキ漫才をやっているところです!貴重な映像と言えるのではないか、と自分なりに納得しました。

 藤田まことの自伝という 『人生番狂わせ』(1999、集英社)も、以前読んでみましたが、あまりおもしろくなかった。 「ああ借金―藤田まことの火だるま人生。借金返済法、教えます。」という売り文句ですが、ライターの腕が悪いのか、ちっともおもしろい話がでてこない。
 そのなかで、売れて、大阪のミナミを中心に遊び歩いていた頃

 キタの雄二か ミナミのまこと 東西南北藤山寛美

と言われていたというのがおもしろかった。雄二はミヤコ蝶々の相方の南都雄二です。「東西南北藤山寛美」というのがなんともおかしい。遊びの横綱ですね。

 Youtubeに「てなもんや三度笠」の冒頭シーンがありました。映像はよくありません。おそらく同じDVDからとったものでしょう。
 →http://www.youtube.com/watch?v=v9yR7z5Ldnc&feature=related

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月19日 (金)

『吉宗と宗春』そして「むねハルくん」

 しつこいようですが、また尾張宗春の話。

 海音寺潮五郎に『吉宗と宗春』(1995、文春文庫)という作品があるのを知り、早速、読んでみました。

Photo

 さすがというか、うまいものです。戦前の作だそうですが、少しも古びていないし、時代のつけ方というか、全体の雰囲気が清水義範とは一味違います。いかにも時代小説らしい。
 この作品の宗春は、わたしが前に書いたように(『尾張春風伝』)、幕府への謀反も覚悟して準備も進めますが、尾張藩の存続大事の家老たちが幕府にとりこまれて敗北、という筋書きになっています。やっぱりこの結末は避けられません。
 中編にまとめられていますが、もう少し内容を濃くして、いろいろ書き込んでくれるとよかった。そうすれば宗春ももっと有名になったにちがいありません。
 昭和14年(1939)から15年(1940)にかけて「風流大名」の名で雑誌「現代」に連載し、昭和18年(1943)の単行本は『尾藩勤皇伝流』と題して刊行。昭和62年(1987)には旺文社文庫から『宗春行状記』として出ているそうです。
 出版されるたびに題名が変わっているというのは、あまり認められていなかった作品ということでしょう。今回の『吉宗と宗春』で定着するでしょうか。

 清水義範の『尾張春風伝』は中日新聞に連載された(平成8年~9年(1996~97))そうで、最近の名古屋では宗春はかなり有名になっているようです。

 「むねハルくん」という名前のマスコットキャラクターが、できていました。

Mune01_4

 「ムネを張って元気で頑張ろう」というメッセージを込めたNHK名古屋のデジタルキャラクターです。今の名古屋の街の基礎を創ったとも云われる尾張藩7代藩主の徳川宗春公にちなんでつけられました。http://www.nhk.or.jp/nagoya/ti_degi/08-mune/index.html

 「むねハルくん、かわいーい!」というのは、宗春を評価することとはちょっと違うけれど、まあ名前も知らないよりはいいだろう、ということにしておきましょう。

追記:旺文社文庫の『宗春行状記』(1987)を見つけたので、画像をのせておきます。(2010/08/06)

Photo

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2010年2月13日 (土)

三遊亭円丈「悲しみの大須」

 雨がふって寒い中、2月11日(木)は三遊亭円丈をお目当てに、また横浜にぎわい座へ行ってきました。

Photo

 太神楽(だいかぐら)の鏡味初音(女性)の、おっとりと間延びした口上がよかった。
 落語の演目は次のとおり。

 柳家さん市        子ほめ
 柳家初花(しょっぱな) CR落語協会
 三遊亭夢太郎      死神
 三笑亭遊吉       人形買い
 三遊亭円丈       悲しみの大須

100211

 お目当ての円丈の「悲しみの大須」は、名古屋の寄席大須演芸場をネタにした創作落語です。名古屋ゆかりのわたしとしては期待の一席、なのですが、残念ながらあんまりおもしろくなかった。
 大須演芸場がいかにオンボロで、珍奇怪奇な芸人が出没しているかという話で、まずラジオドラマのような語りで情景を描写しておいて、どーんとギャグをかます、というスタイルですが、これがどうもうまくない。笑わせようと思っているところで客が笑わない。そんな感じだから、話がうまく流れない。あちこちでつっかえる。言いよどんだり、間違えたりして、年のせいじゃないかと心配になるくらい。
 だから大須演芸場も、さてどんな演芸場なんだか、どうもよくわからない。法螺話でも与太話でもホラーでもいいけれど、今度名古屋へ行ったら大須演芸場をのぞいてみようかと思わせるようなものがありませんでした。ちょっと残念でした。

 そうしたら昨日、こんな記事が目にとまりました。

「円生」襲名 直接対決 円丈・鳳楽が来月落語会
(産経新聞 2010年2月6日(土))
 昭和54(1979)年に79歳で死去した古典落語の名人、三遊亭円生の名跡襲名をめぐって、弟子の三遊亭円丈(えんじょう)(65)と孫弟子にあたる三遊亭鳳楽(ほうらく)(62)がともに名乗りを上げ、3月17日、東京・浅草の東洋館で“円生争奪戦”の落語会を開催することになった。(生田誠)
(中略)
 円生の名跡は長く継ぐ者がいなかったが、円楽が生前、弟子の鳳楽を指名、早ければ、今秋にも七代目円生の襲名が決まるのではないか、とみられていた。
 ところが、月刊『正論』3月号(2月1日発売)の記事で、塚越孝フジテレビアナウンサーのインタビューを受けた、円丈が「鳳楽くんの円生襲名に異議あり!」として、自ら七代目襲名に手を挙げたことで、後継者争いが混迷。円丈は「もし円生争奪杯が開催されるんだったらぼくも立候補しますよ。そして絶対に勝つ」と発言。開かれた形で決着をつけることを提案した。
 “挑戦状”をたたきつけられた形の鳳楽も、落語会の開催を承諾。「直接対決」による“円生争奪戦”が実現することになった。当日は、お互いが円生が得意としたネタ(演目)の落語を1席掛けて、関係者を交えた対談も行われるという。http://news.goo.ne.jp/article/sankei/entertainment/m20100206018.html
 円丈は、「円生」の名跡にそんなにこだわっているんでしょうか。そうは思えないけれど、いろいろいきさつがあった(→三遊亭円丈『御乱心』)から、そんな気にもなるんでしょうか。
 円丈のホームページには、直弟子に何の相談もなく、なんで孫弟子に、とか書いてあります。 (→http://www.enjoo.com/rakugo/
 『正論3月号』に「鳳楽くんの円生襲名に異議あり!」という記事も書いたそうですが、円生襲名を盛り上げるための仕掛けなのかなあという気がします。
 ともかく3月17日浅草東洋館「緊急!!圓生争奪杯」へ行ってみようかと思ったら、あいにくその日は他の予定が入っている。円丈は「居残り佐平治」、鳳楽は「妾馬」をやるそうです。どうしようか。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月11日 (木)

北仲スクール開校記念シンポジウム

 内田樹(うちだたつる)のブログを見ていたら「北仲スクール開校記念シンポジウム」に出るという記事が目に留まりました。この「北仲」というのは横浜市中区の北仲通のことで、しかも予約不要、入場無料だったので、2月4日(木)、行ってきました。
 北仲スクールというのは、横浜にある七つの大学が連携して都市文化創造と都市デザインの担い手を育てるための講義や公開講座などを行うもので、連携大学の学生は、自分の大学の単位にもなるのだそうです。(→http://www.kitanaka-school.net/

Photo_4

 だから参加者はほとんどが学生のようで、わたしのような年寄りは一般聴衆にはあまりいませんでした。

 シンポジウムは、内田樹と東大教授の吉見俊哉、それに司会の横浜国大教授の室井尚による「ポスト戦後社会と都市文化の行方」というタイトルで、日本の戦後社会の変容を中心にした、雑談というか漫談のようなもので、主に内田樹の話が聴衆にうけていました。

 内田樹の話というのは、こんなものです。

「小泉純一郎は、自分のやった政策のことごとくが失敗に終わったのに、実に晴れやかな顔で引退した。本人は意識していないけれど、小泉は実は反米で、親米をよそおってアメリカの言うとおりの政策をいろいろ実施して、全部失敗した。そして『ほーらやっぱりアメリカの言うことなんか聞いてたらだめだろう』と無意識で思っている。そうでなければ、あんなに晴れやかな顔で引退できるわけがない」
 これには、こういう説明がつきます。

 横須賀で育った小泉少年はある日帝国海軍司令部に翩翻と翻っていた日章旗が星条旗にとってかわられるのを見た。
そのとき小泉少年は「星条旗と日章旗は同一のものである」という妄想を病むことによって「死んだ兄たち」への崇敬と愛情を保持するという大技を繰り出した。
小泉少年が帝国海軍軍人たちに向けた憧憬のまなざしはそのままアメリカ兵たちのうえに投影されたのである。(ブログ「内田樹の研究室」http://blog.tatsuru.com/2009/12/より)

 「死んだ兄たち」というのは実の兄ではなく、比喩的に帝国海軍軍人たちをさしています。
 たしかに昭和17年(1942)に横須賀に生まれて育ったということは、物心がつきはじめた頃に、帝国海軍の「軍都」が米軍の「ベース(基地)」と「どぶ板通り」の街に変貌していくのを目の前で見ていたということです。だからそういう屈折した心理があったとしてもおかしくはありません。しかし実証することはできません。本人にもわからない無意識の話です。

Photo_3              最近のどぶ板通り。きれいです。

 また、吉見俊哉の1970年代に日本は変わりはじめたという話を受けて、それはその頃明治生まれの人間が定年で、社会の第一線から離れるようになったからだ。明治人というのは、自らの「明治人」という幻想に向かって自分を作り上げ、大正人とは差別化を図ってきた、というような話もありました。
 まあ明治45年(1912)生まれが昭和47年(1972)に六十歳。当時はまだ五十五歳定年が普通でしたから、その頃明治生まれが現役から引退していったのはたしかでしょう。
 しかし明治人が「明治人」にこだわっていたという内田の論拠は、自分の父親が明治45年生まれで、「俺は明治人だ、大正人とはちがう」と非常にこだわっていたというだけの話で、これもちゃんと実証されたとは言えません。
 わたしの父は明治39年(1906)生まれでした。たしかに「明治生まれの誇り」のようなものはありましたが、それほど「明治人」にこだわっていたようには見えませんでした。
 内田の父親の「明治45年生まれ」というのがポイントではないかという気がします。明治最後の年で、7月30日からは大正元年になっているので、同学年に明治生まれと大正生まれがいます。子供の頃からこの人たちは、どちらの生まれかにこだわっていたのでしょう。わたしの父などはまわりが全部明治生まれですから、それほど気にする機会も必要もなかったと思います。
 わたしは戦後、昭和22年の生まれですが、ときどき「おまえたちは戦争を知らないからダメだ」と言う上級生がいました。そんなこと言うのはたいてい昭和19年か、20年の8月15日までに生まれた上級生で、要するに冗談なのですが、これも言い募っていると、本人は戦争を知っているような気になってくるのかもしれません。

 個人的な、自分の父親がそうだったというだけの話を、もっともらしく一般化してしまう。内田の話は、ブログや本で読んでも「ホントかな」と思うことが多いけれど、趣向、見立てとしてはけっこうおもしろくて、なんとなくそんな気になってしまうところがあり、最近愛読しています。これも芸のうちでしょうか。
 ナマで聞いていると、早口で聞き取りにくいところもふくめて、なるほどこの話はこういう口調で語られるものだったのかと、腑に落ちるところがありました。
 学問として、ということになると疑問もありますが、社会漫談として有益でした。

 今回はおまけに、横須賀の歌「タイガー&ドラゴン」の桑田佳祐版へのリンクをつけておきます。→
http://www.youtube.com/watch?v=ab_kb1cuHk4&feature=related

 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010年2月 6日 (土)

『尾張春風伝』

 尾張徳川家七代目藩主徳川宗春の一代記を小説にしたのが名古屋出身の作家清水義範の『尾張春風伝』(幻冬舎、1997)です。
 下巻の帯にはこう書かれています。

貫いて見せよう、自由なり。
人間に規律をあてはめ、禁欲を求めた将軍吉宗とは対照的に、人の欲望を肯定した政治で庶民の喝采を浴びた破天荒な殿様・徳川宗春。思いがけず、時代の中を一陣の突風として吹き抜けた男のオリジナリティあふれる空前絶後の生涯

Photo_2
 藩主の二十男であって、尾張藩を継ぐことなどほとんど考えられなかった部屋住みの宗春は、自由・平等・伊達を愛する快男児だった。先代将軍家宣の側室への恋、そして尾張を狙う紀州の忍びの者などがからんで、思いがけず尾張藩主になった宗春は、人生は楽しみがあってこそと、民にも欲望や自由を認め、享保の改革にさからう大胆な藩政改革を進める。しかし吉宗の陰謀と幕府の権力、尾張藩に巣くう因循姑息な体質に、宗春は敗れざるをえなかった。

 恋とか忍びとか架空の話もありますが、幕府との関係や施策などは、おおむね「将軍吉宗と尾張宗春」のとおりです。

 小説の前半で宗春が快男児であればあるほど、後半で幕府にも尾張藩の旧勢力にも認められないのが理不尽に感じられてきます。
 清水義範は、吉宗も尾張藩の姑息な家老たちも、よく時代劇にあるような悪人としては書いていません。時代の枠の中でそのように動くことはある意味当然であったと認めています。宗春が時代としては突出していたがゆえの悲劇だ、ということになりますが、どうもそのあたりが尻すぼみで、これだけの快男児が、たいした抵抗をすることもなく幕府に恐れ入ってしまうことが、うまく了解できませんでした。
 歴史的にはそうだったので、それを踏み外さないとすればこうなるしかなかったのでしょうが、わたしとしてはちょっと不満が残る作品でした。

 宗春をここまで快男児にしたのなら、思いきって吉宗をそれに匹敵するくらいの悪役、「暴れん坊将軍」の敵役くらいにしたらどうだったでしょうか。
 主人公がスーパーマンなら、悪役も同じくらい強くないと話が引き立ちません。さいわい吉宗には、悪い噂もあります。
 まず紀州の藩主になれたのは、長兄、父、次兄が一年のうちに相次いで死んだため。将軍になれたのは、六代将軍家宣、尾張藩主吉通、七代将軍家継がこれも一年の間に相次いで死んだため。尾張藩では吉通の後継五郎太も三カ月後に急死し尾張の正系が絶えている。
 これらについては、吉宗は紀州時代から横目を駆使し、幕府にはお庭番をおいたように、隠密を使った情報収集や工作を得意で、当時から不審がる者があったというくらいです。尾張人の目から見れば、吉宗がやったに決まっている。
 清水はそういうこともあったかもしれないとほのめかしているだけですが、はっきり吉宗の仕業として(そういう小説もあったような気がします)、宗春にもはっきり対抗意識をもたせて二人を対決させたらどうだったでしょうか。もっと盛り上がっておもしろくなったに違いないと思います。
 しかしそうすると、反旗を翻して名古屋城に籠城するというような話になって、史実とうまく折り合いをつけられなくなってしまいそうでもあります。まあしょうがなかったのかもしれません。

Photo_3             幻冬舎文庫版『尾張春風伝』(2000年)
              写真は宗春所用の火事頭巾と火事羽織

 清水には、『金鯱の夢(きんこのゆめ)』(集英社、1989)という作品もあります。
 秀吉には秀頼の他に秀正という息子がいて、これが大阪城の秀頼を倒し、名古屋に豊臣幕府を開く。日本の公用語は名古屋弁になり、泰平と狂乱の名古屋時代の260年が続くという、尾張人にとってはなんとも楽しい話でした。
 『尾張春風伝』は、これとはちがって、史実をふまえて書いたということでしょうが、わたしとしては『金鯱の夢』の方が、ずっとおもしろかったなあ。やっぱり清水は、ハチャメチャ系の話がいい。

Photo              集英社文庫版『金鯱の夢』1992

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 4日 (木)

将軍吉宗と尾張宗春

 先日テレビの「暴れん坊将軍」を見るともなしに見ていたら、尾張の藩主徳川宗春が吉宗を暗殺して将軍にとってかわろうとしているという話でした。
 尾張出身者としては、尾張がこんな悪者になるのはおもしろくありません。しかし、こういう話が出てくるのにはそれなりの背景があります。名古屋城の金の鯱の話(旭輝黄金鯱)をしたところなので、今度はその徳川宗春の話。

 大石慎三郎の『徳川吉宗とその時代』(中公文庫、1989)というおもしろい本があります。その第一部に「将軍吉宗と尾張宗春」と題して、八代将軍吉宗と尾張徳川家七代目藩主徳川宗春が取り上げられています。

Photo

 御三家筆頭の尾張をさしおいて紀伊の吉宗がどうして将軍になったか、この本によればだいたい次のようなことになります。

 六代将軍家宣が病の床につき明日をも知れぬ状態になったとき、新井白石を枕元に呼び、自分が死んだあとは英邁の誉れ高い尾州の吉通に将軍職を譲ろうと思うがどうか、と言った。しかし白石は、幼少であろうと子供がいる以上そちらに譲るべきであると答え、家継が四歳で七代将軍を継いだが、家継は生来病弱で八歳で死亡し、徳川本家の血筋が絶えた。
 だからこのとき尾州の吉通が生きていれば当然八代将軍になっていただろうが、吉通は家宣が死んだ翌年に死んでしまい、後を継いだその子も同じ年に死に、尾張藩主は吉通の弟、継友になっていた。
 正徳六年(1716)、この七代将軍家継が死亡したとき、紀州の吉宗はこのことあるを予期して、ふだんより供回りも多く家老も二人従えて、最初に江戸城に登城した。それにひきかえ、尾州ではうろたえ騒ぐばかりで駕籠の用意もととのわず、継友は一人馬で藩邸を飛び出すありさまで、それでも着いたのはどんじりだった。そしてその後の御三家と幕府老中との話し合いで吉宗が将軍後見職に決まったのだという。

 「紀州」という落語では、このとき尾州継友は、いよいよ将軍になれると期待して登城する途中、遠くから鍛冶屋が鉄を打つ音が「テンカトッタ、テンカトッタ」と聞こえたのでおおいに気をよくした。ところが紀州吉宗が将軍に決まり、意気消沈して帰る途中、さきの鍛冶屋の前を通ると、焼けた鉄を水にひたすと「キシュウ、キシュウ」と聞こえ、ますますうなだれた、ということになっている。

 尾張藩の対応は非常にまずかった、というか、御三家筆頭なのだから当然こちらに来るはずだと考えて、将軍になるための運動や工作は何もしていなかったらしい。これに対して紀州の方はこの日に備えて尾張、水戸の様子を探り、老中などへの根回しも着々とすすめていた。このあと江戸市中で
「尾張衆はこしぬけじゃ、尾張大根もくさってはくらわれぬ。岐阜あゆのすしおしつけられて、へぼ犬山の城主も、ここでは声が出ぬ」
などと言われて、犬山の城主=尾張藩の御付家老の成瀬隼人正が紀州に内通していたのではと噂されるくらいだった。
 吉宗の紀州での藩主としての実績も評価されたのだろうが、尾張はトンビにアブラゲをさらわれたような結果になってしまった。

 どうもこのあたりの話は、名古屋がオリンピックをソウルにさらわれたときの話を思い出させます。もう三十年近く前の話ですが、去年、東京がオリンピック招致に失敗したときに関連としてこんな記事がありました。(産経ニュース 2009.10.3)

 第24回大会(1988年)の五輪招致には名古屋が名乗りを上げた。有力候補とみられたメルボルン(豪州)が招致を取り下げ、ソウル(韓国)との一騎打ちに。招致レースは東西冷戦下の77年から81年にかけて行われた。
 当時はソ連や東欧諸国が北朝鮮と親交が厚く、日本側は「仮にソウル開催となっても東側は不参加」と予測。IOC委員の投票行動にも影響が出ると踏んだ。投票直前には「名古屋が圧倒的に優位」との楽観ムードが漂い、日本オリンピック委員会(JOC)は事務局の一角に祝勝会場を設けて開催地決定の吉報を待った。
 しかし、韓国側の巻き返しは猛烈で、IOC委員への接待攻勢で情勢は一変。81年9月に西独で開かれたIOC総会では、名古屋が27-52と大敗する大どんでん返しが起こった。結局、ソウル五輪には東西両陣営が参加。歴史に残る大会になると同時に、日本側の目算違いという苦い教訓も残った。http://sankei.jp.msn.com/sports/other/091003/oth0910030038043-n1.htm

 名古屋で決まりと安心していたら、相手方の裏工作で大逆転、というのはまったく同じじゃありませんか。名古屋人は昔から修羅場に弱いのでしょうか。
 石原慎太郎が、IOCにはいろいろ裏があってそのせいで東京が負けた、みたいなことを言ってましたが、そんなことは名古屋のときから十分わかっていたことじゃないか。名古屋の経験を生かすことができなかったのか。──まあ、慎太郎に「名古屋の経験を生かして」と言ったところで、はなから相手にしなかったでしょうね。

 話を元に戻すと、つまり吉宗が将軍になるにあたっては、尾張と紀伊の間に確執があって、そのことは広く世間にも膾炙されていたということです。
 そして吉宗におくれをとった尾張の継友は享保十五年(1730)に急死し、その後を継いだのが、尾張徳川家七代目藩主徳川宗春です。これも大石慎三郎の前掲の本によれば、宗春は次のようなことをやりました。

 宗春は派手好みで、行列をきらびやかに飾って尾張入りし、また異様ななりをして人々を驚かせた。菩提寺に参詣したときには、二間(3.6メートル)もある長煙管の先を茶坊主にかつがせ、プカリ、プカリと煙草を吸いながら帰ったという。
 そして先代の倹約令を撤回し、武士の芝居見物を自由にし、遊女町をどんどん許可し、倹約・綱紀粛正を軸とする吉宗の享保改革にことごとく逆らう政策を尾張で実施した。その結果、吉宗のきびしい緊縮政策で火の消えたようになっていた諸都市の中で、名古屋だけがあかあかと灯がともったように栄えていたといわれている。

 この宗春の大胆な行為には、本人の豪放な性格と吉宗に対する対抗意識があったことは間違いないだろうが、それだけではなく、自分で書いて藩士たちに配った『温知政要』という本には宗春の政治観・人生観があらわれている。
 これには、すべて人には好き嫌いがあるから、衣服食物をはじめ自分の好き嫌いを人に強制してはいけないとか、法令は数少ないほうがいいとか、質素倹約も大事だが限度があるとか、吉宗の神経を逆なでするような考えが述べられている。
 享保十七年(1732)、幕府から倹約令を守らず奢侈遊蕩にふけっていると詰問を受けたときには、為政者にとっての倹約とは、民をむさぼらす、万民の生活と心を安んじるところに本義があるので、自分自身がむやみに倹約して、それを他人に強要するなどもってのほかだ。上の華美は下の助けになる。つまり領主が金をつかうことによって、下々に冨が社会的に還流されることになるという「浪費の経済論」を展開している。

 しかし、こういう宗春の主張や行動は、享保改革を進める幕府に認められるわけもなく、また後を継いだときには黒字であった尾張藩の財政も膨大な赤字となり、元文四年(1739)、とうとう宗春は、幕府の命により強制的に隠居させられてしまった。たいへん厳しい処分で、明和元年(1764)に死亡した後も、罪人として、墓に金網をかけられていたという。

 吉宗と宗春にはこんな経緯があったわけですから、いまだに「暴れん坊将軍」など吉宗を主人公とする時代劇や小説で、宗春が将軍の座を狙う悪者にされているのも無理はないのかもしれません。
 しかし名古屋人の目から見れば、天下の将軍に刃向かって、名古屋を繁栄させたというのはたいしたものです。御三家というのは江戸徳川、尾州徳川、紀州徳川の三つで、江戸も名古屋も対等だ、と主張していたそうです(水戸は格が一段下、だから副将軍)。そうだそうだと応援したくなります。「名古屋は芸どころ」というのは、名古屋人の自慢の一つですが、その基を築いたのはこの宗春の施策だということにもなるでしょう。
 だから宗春を悪役にするような時代劇は名古屋でボイコットされてもいいような気もしますが、なにしろ墓に金網をかけられたくらいですから、尾張藩でも宗春のことは忘れたいくらいで、宗春を称賛するようなことはできなかったのでしょう。記録もあまり残されていないようです。

 宗春の『温知政要』は、岩波書店の『日本思想体系33 近世政道論』に吉宗作と伝えられる『紀州政治草』などと並んで収録されています。

Photo

 これはちゃんと読んでいないので、とりあえず、付録の月報に載っている杉浦明平の「名君論」という文章から、次の部分を引いておきます。

「温知政要」に目を通すと、宗春がいかに鷹揚であったかが浮彫りされて見える。宗春も吉宗同様尾張公の二十男で養子に行ったところ、兄が次々になくなって尾張の太守になった点では共通しているが、吉宗とちがってのびのびとした大殿様だったらしい。将軍になって享保の改革に取り組んでいるさいちゅうの吉宗の施政方針にたいして若干皮肉を言っている部分もそれほどきびしくひびかない。そのかわり、この「温知政要」においては、宗春じしんの主張も強くなく、一般的な大名心得を述べているだけで、とても実務に精通している事務官僚吉宗に太刀打ちできっこない。しかし将軍にせよ、大名にせよ、吉宗が異例であって、宗春がごくふつうなのであろう。宗春は、吉宗の尚武・勤倹政策に反対して、名古屋に芝居や寺社の祭りや贅沢な衣裳や遊里の繁盛をもたらすのにつとめたため、結局幕命によって隠居謹慎を命じられて、不遇な後半生をすごした。だが宗春は、進歩的な名君だったとはいいがたく、むしろ天下泰平の世の中で刀を振り廻すよりお互に遊びたのしもうという考えだったのであろう。

 大石慎三郎も、吉宗が財政難だった幕府を黒字にしたのに、宗春は黒字だった尾張藩を大幅な赤字にしてしまったことをあげて、「政治というものは、掲げた理想の高邁さからではなくて、あくまで現実をどう解決したかで判断するものとすれば、これは明らかに勝負あったというべきであろう。(前掲書P52)」と、吉宗に軍配をあげています。
 ちょっと残念ですが…

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2010年2月 2日 (火)

今年のビワは不作?

 1月29日から2月1日まで、二カ月ぶりくらいで南無谷へ行ってきました。

 畑はずっと放りっぱなしになってしまったので、特に収穫できるものはありません。
 庭には水仙が満開──黄色い水仙があまり見えませんでしたが、留守の間に終わってしまったのでしょうか。

Photo
 気になっていたのはビワに寒肥をやること。早く行かなければと思いながら、ずいぶん遅くなってしまいました。
 ビワを見ると、花が枯れたままで実がふくらんでいないのがずいぶん目につきました。寒さのせいでしょうか。全体に花のつきが悪かったところへこれでは、今年はわが家は不作の年になりそうです。

 あとの作業は畑の寒起こし。
 去年買った家庭菜園用耕耘機(耕耘機買いこむ)でやりました。パワーが小さいので途中イライラするところもありましたが、人力で起こしていくのとは、かかる時間がまるで違います。途中、少し身体も使わなければと、クワでやってみたら、どっと疲れました。
 ただ作業を終わった後も、エンジンの振動の影響で、ハンドルを握っていた手がずっと痺れていました。こういう職業病もあるんでしょうね。

 デジカメを持っていくのを忘れて、携帯で写真を撮りましたが、安物の携帯なので写りが悪く、お見せできるような写真がほとんどありません。
 枇杷倶楽部の菜の花畑の写真もこんな色です。本当はもっと鮮やかな黄色です。

Photo_2              青い屋根の建物が道の駅「枇杷倶楽部」

 これはわが家でとれたシイタケ、と言いたいところだけれど、いっぱいついている木は、今回買ったもの。
 ひとつだけついている右端の木と何にもついていない木が前からやっているわが家の木。うまくいかないので、富浦町の福原農園さんで、いろいろ教えてもらい、ついているシイタケごと木をわけてもらってきました。今後に期待です。

Photo_3

 2月1日(月)、横浜へ帰る途中、雨が降り出し風も出てきて荒れ模様になってきました。夜には東京でも雪がつもるだろうという予報で、そのとおり今朝は横浜にもうっすらと雪がつもっています。ビワは寒さに弱いので、また不作の心配です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »