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2010年2月 4日 (木)

将軍吉宗と尾張宗春

 先日テレビの「暴れん坊将軍」を見るともなしに見ていたら、尾張の藩主徳川宗春が吉宗を暗殺して将軍にとってかわろうとしているという話でした。
 尾張出身者としては、尾張がこんな悪者になるのはおもしろくありません。しかし、こういう話が出てくるのにはそれなりの背景があります。名古屋城の金の鯱の話(旭輝黄金鯱)をしたところなので、今度はその徳川宗春の話。

 大石慎三郎の『徳川吉宗とその時代』(中公文庫、1989)というおもしろい本があります。その第一部に「将軍吉宗と尾張宗春」と題して、八代将軍吉宗と尾張徳川家七代目藩主徳川宗春が取り上げられています。

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 御三家筆頭の尾張をさしおいて紀伊の吉宗がどうして将軍になったか、この本によればだいたい次のようなことになります。

 六代将軍家宣が病の床につき明日をも知れぬ状態になったとき、新井白石を枕元に呼び、自分が死んだあとは英邁の誉れ高い尾州の吉通に将軍職を譲ろうと思うがどうか、と言った。しかし白石は、幼少であろうと子供がいる以上そちらに譲るべきであると答え、家継が四歳で七代将軍を継いだが、家継は生来病弱で八歳で死亡し、徳川本家の血筋が絶えた。
 だからこのとき尾州の吉通が生きていれば当然八代将軍になっていただろうが、吉通は家宣が死んだ翌年に死んでしまい、後を継いだその子も同じ年に死に、尾張藩主は吉通の弟、継友になっていた。
 正徳六年(1716)、この七代将軍家継が死亡したとき、紀州の吉宗はこのことあるを予期して、ふだんより供回りも多く家老も二人従えて、最初に江戸城に登城した。それにひきかえ、尾州ではうろたえ騒ぐばかりで駕籠の用意もととのわず、継友は一人馬で藩邸を飛び出すありさまで、それでも着いたのはどんじりだった。そしてその後の御三家と幕府老中との話し合いで吉宗が将軍後見職に決まったのだという。

 「紀州」という落語では、このとき尾州継友は、いよいよ将軍になれると期待して登城する途中、遠くから鍛冶屋が鉄を打つ音が「テンカトッタ、テンカトッタ」と聞こえたのでおおいに気をよくした。ところが紀州吉宗が将軍に決まり、意気消沈して帰る途中、さきの鍛冶屋の前を通ると、焼けた鉄を水にひたすと「キシュウ、キシュウ」と聞こえ、ますますうなだれた、ということになっている。

 尾張藩の対応は非常にまずかった、というか、御三家筆頭なのだから当然こちらに来るはずだと考えて、将軍になるための運動や工作は何もしていなかったらしい。これに対して紀州の方はこの日に備えて尾張、水戸の様子を探り、老中などへの根回しも着々とすすめていた。このあと江戸市中で
「尾張衆はこしぬけじゃ、尾張大根もくさってはくらわれぬ。岐阜あゆのすしおしつけられて、へぼ犬山の城主も、ここでは声が出ぬ」
などと言われて、犬山の城主=尾張藩の御付家老の成瀬隼人正が紀州に内通していたのではと噂されるくらいだった。
 吉宗の紀州での藩主としての実績も評価されたのだろうが、尾張はトンビにアブラゲをさらわれたような結果になってしまった。

 どうもこのあたりの話は、名古屋がオリンピックをソウルにさらわれたときの話を思い出させます。もう三十年近く前の話ですが、去年、東京がオリンピック招致に失敗したときに関連としてこんな記事がありました。(産経ニュース 2009.10.3)

 第24回大会(1988年)の五輪招致には名古屋が名乗りを上げた。有力候補とみられたメルボルン(豪州)が招致を取り下げ、ソウル(韓国)との一騎打ちに。招致レースは東西冷戦下の77年から81年にかけて行われた。
 当時はソ連や東欧諸国が北朝鮮と親交が厚く、日本側は「仮にソウル開催となっても東側は不参加」と予測。IOC委員の投票行動にも影響が出ると踏んだ。投票直前には「名古屋が圧倒的に優位」との楽観ムードが漂い、日本オリンピック委員会(JOC)は事務局の一角に祝勝会場を設けて開催地決定の吉報を待った。
 しかし、韓国側の巻き返しは猛烈で、IOC委員への接待攻勢で情勢は一変。81年9月に西独で開かれたIOC総会では、名古屋が27-52と大敗する大どんでん返しが起こった。結局、ソウル五輪には東西両陣営が参加。歴史に残る大会になると同時に、日本側の目算違いという苦い教訓も残った。http://sankei.jp.msn.com/sports/other/091003/oth0910030038043-n1.htm

 名古屋で決まりと安心していたら、相手方の裏工作で大逆転、というのはまったく同じじゃありませんか。名古屋人は昔から修羅場に弱いのでしょうか。
 石原慎太郎が、IOCにはいろいろ裏があってそのせいで東京が負けた、みたいなことを言ってましたが、そんなことは名古屋のときから十分わかっていたことじゃないか。名古屋の経験を生かすことができなかったのか。──まあ、慎太郎に「名古屋の経験を生かして」と言ったところで、はなから相手にしなかったでしょうね。

 話を元に戻すと、つまり吉宗が将軍になるにあたっては、尾張と紀伊の間に確執があって、そのことは広く世間にも膾炙されていたということです。
 そして吉宗におくれをとった尾張の継友は享保十五年(1730)に急死し、その後を継いだのが、尾張徳川家七代目藩主徳川宗春です。これも大石慎三郎の前掲の本によれば、宗春は次のようなことをやりました。

 宗春は派手好みで、行列をきらびやかに飾って尾張入りし、また異様ななりをして人々を驚かせた。菩提寺に参詣したときには、二間(3.6メートル)もある長煙管の先を茶坊主にかつがせ、プカリ、プカリと煙草を吸いながら帰ったという。
 そして先代の倹約令を撤回し、武士の芝居見物を自由にし、遊女町をどんどん許可し、倹約・綱紀粛正を軸とする吉宗の享保改革にことごとく逆らう政策を尾張で実施した。その結果、吉宗のきびしい緊縮政策で火の消えたようになっていた諸都市の中で、名古屋だけがあかあかと灯がともったように栄えていたといわれている。

 この宗春の大胆な行為には、本人の豪放な性格と吉宗に対する対抗意識があったことは間違いないだろうが、それだけではなく、自分で書いて藩士たちに配った『温知政要』という本には宗春の政治観・人生観があらわれている。
 これには、すべて人には好き嫌いがあるから、衣服食物をはじめ自分の好き嫌いを人に強制してはいけないとか、法令は数少ないほうがいいとか、質素倹約も大事だが限度があるとか、吉宗の神経を逆なでするような考えが述べられている。
 享保十七年(1732)、幕府から倹約令を守らず奢侈遊蕩にふけっていると詰問を受けたときには、為政者にとっての倹約とは、民をむさぼらす、万民の生活と心を安んじるところに本義があるので、自分自身がむやみに倹約して、それを他人に強要するなどもってのほかだ。上の華美は下の助けになる。つまり領主が金をつかうことによって、下々に冨が社会的に還流されることになるという「浪費の経済論」を展開している。

 しかし、こういう宗春の主張や行動は、享保改革を進める幕府に認められるわけもなく、また後を継いだときには黒字であった尾張藩の財政も膨大な赤字となり、元文四年(1739)、とうとう宗春は、幕府の命により強制的に隠居させられてしまった。たいへん厳しい処分で、明和元年(1764)に死亡した後も、罪人として、墓に金網をかけられていたという。

 吉宗と宗春にはこんな経緯があったわけですから、いまだに「暴れん坊将軍」など吉宗を主人公とする時代劇や小説で、宗春が将軍の座を狙う悪者にされているのも無理はないのかもしれません。
 しかし名古屋人の目から見れば、天下の将軍に刃向かって、名古屋を繁栄させたというのはたいしたものです。御三家というのは江戸徳川、尾州徳川、紀州徳川の三つで、江戸も名古屋も対等だ、と主張していたそうです(水戸は格が一段下、だから副将軍)。そうだそうだと応援したくなります。「名古屋は芸どころ」というのは、名古屋人の自慢の一つですが、その基を築いたのはこの宗春の施策だということにもなるでしょう。
 だから宗春を悪役にするような時代劇は名古屋でボイコットされてもいいような気もしますが、なにしろ墓に金網をかけられたくらいですから、尾張藩でも宗春のことは忘れたいくらいで、宗春を称賛するようなことはできなかったのでしょう。記録もあまり残されていないようです。

 宗春の『温知政要』は、岩波書店の『日本思想体系33 近世政道論』に吉宗作と伝えられる『紀州政治草』などと並んで収録されています。

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 これはちゃんと読んでいないので、とりあえず、付録の月報に載っている杉浦明平の「名君論」という文章から、次の部分を引いておきます。

「温知政要」に目を通すと、宗春がいかに鷹揚であったかが浮彫りされて見える。宗春も吉宗同様尾張公の二十男で養子に行ったところ、兄が次々になくなって尾張の太守になった点では共通しているが、吉宗とちがってのびのびとした大殿様だったらしい。将軍になって享保の改革に取り組んでいるさいちゅうの吉宗の施政方針にたいして若干皮肉を言っている部分もそれほどきびしくひびかない。そのかわり、この「温知政要」においては、宗春じしんの主張も強くなく、一般的な大名心得を述べているだけで、とても実務に精通している事務官僚吉宗に太刀打ちできっこない。しかし将軍にせよ、大名にせよ、吉宗が異例であって、宗春がごくふつうなのであろう。宗春は、吉宗の尚武・勤倹政策に反対して、名古屋に芝居や寺社の祭りや贅沢な衣裳や遊里の繁盛をもたらすのにつとめたため、結局幕命によって隠居謹慎を命じられて、不遇な後半生をすごした。だが宗春は、進歩的な名君だったとはいいがたく、むしろ天下泰平の世の中で刀を振り廻すよりお互に遊びたのしもうという考えだったのであろう。

 大石慎三郎も、吉宗が財政難だった幕府を黒字にしたのに、宗春は黒字だった尾張藩を大幅な赤字にしてしまったことをあげて、「政治というものは、掲げた理想の高邁さからではなくて、あくまで現実をどう解決したかで判断するものとすれば、これは明らかに勝負あったというべきであろう。(前掲書P52)」と、吉宗に軍配をあげています。
 ちょっと残念ですが…

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コメント

尾張の人は宗春を自慢していいと思います。

なにしろ
1ケインズよりえらく前に実践して景気を上げた
2民も楽しんだし、儲けた人や飯を食えた人がいる
3尾張藩は破たんしていない
4名古屋文化の振興になった

1は、現在も財政出動は継続して有るものの全く効果が上がらず不景気のままと言うのに比較すれば、実際景気が良くなったというのは価値ある成功と言えます。

2は幕府財政のため民は増税に苦しみ、楽しみを奪われた事と比較して、一時期でも良い思いが出来て楽しかったらどちらが良いか明白であります。

3は金を貯めこむのが好きな人は金が減るのは問題外でしょうが、お上は蓄財すればいいものでは無く、出費は行政上必要であります。破綻寸前にならないなら赤字でも絶対悪ではない。

4は文化振興になるなら金をかけてもやる価値があるのは現代なら当然でもあります。

当時は年貢制度で、好景気の揚がりを藩にもたらす制度を構築できなかったのは残念でありますが、好景気が一時的なら、幕府の不景気と引き換えに財政がましになったのも一時的であって相対的であり、吉宗が勝ちとも言えないというのが私の持論です。

投稿: 団長 | 2014年1月22日 (水) 17時58分

民を苦しめてはならないという方針は、大切なものだと思います。
それと、尾張公は中尾彬みたいなおっかない顔はしてませんな(笑)

投稿: 脇坂中務大輔安宅 | 2017年1月 7日 (土) 12時00分

徳川吉宗の質素倹約は今の政権に見られない事です。
ただ民にまで質素倹約させるのは少し考えさせる事案ですね。
財政が悪いのは江戸幕府であって、民ではないのです。
江戸幕府の借金を縮小しようと、年貢は例年より割り増しだったと聞きます。
ただ徳川吉宗は今でこそ良く言われてますが、当時は民から嫌われていた逸話もあります。
徳川吉宗は江戸幕府が逼迫してるからと借金を減らす為に質素倹約の名の元、民に借金返済を押し付ける行為としか見られないので、それは今の政権にも言えます。
だけども擁護すると、今の政権は質素倹約しないけど国民には質素倹約を押し付けてるのですが、徳川吉宗は自身も質素倹約してました。
しかし徳川吉宗は江戸幕府のみ質素倹約させて、徳川宗春と同じような政策をしたら財政の黒字は数年で達成が出来ていたと思われます。
徳川吉宗は財政が黒字になっていても質素倹約を進めていたとの話もあり、尾張徳川からも江戸や全国の民からも嫌われていたので、そこからの性格を考えると徳川宗春みたいに寛大な性格じゃなかったように思います。
つまり特定の人以外は人付き合いが苦手なのかも思ってしまいます。
徳川吉宗は自分が気に要らなかったら悪者との考えにより、今で言う処の自己チューですね。

投稿: きまぐれ★オレンジロード | 2019年8月17日 (土) 09時13分

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