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2010年4月

2010年4月30日 (金)

世界は腹黒い

 前回(インディアスの破壊についての簡潔な報告)、高山正之の文章を紹介しましたが、これと同じ趣旨のものが『変見自在 サダム・フセインは偉かった』(高山正之、2007、新潮社)にありました。「スペインの蛮行」(P45)と題して、マヤ族の末裔のことが書かれています。

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 これは週刊新潮のコラム「変見自在」をまとめたシリーズの一冊です。タイトルが『スーチー女史は善人か』、『ジョージ・ブッシュが日本を救った』と続いて、最新刊は『オバマ大統領は黒人か』ですから、世の常識にさからおうとしている本であることがわかります。
 これらの前に書かれた産経新聞のコラム「異見自在」をまとめた、『世界は腹黒い 異見自在』(高木書房、2004)もあります。

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 基本は、白人を先頭に「世界は腹黒い」、日本人はお人好しでだまされている、という視点です。書かれていることをすべて鵜呑みにしているわけではありませんが、なるほど「世界は腹黒い」と思わせる、毒ありのおもしろい本でした。

 右の立場から見ている高山正之とはまったく反対の、左の本多勝一にも、大航海時代・新大陸での白人の所業については、同じ趣旨の本があります。
 『マゼランが来た』(本多勝一、1989、朝日新聞社)です。

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 帯には「「悪魔の死者」マゼラン」と題して、こう書いてあります。

 初の世界一周をなしとげ、「栄光」に輝くマゼラン艦隊。しかし、その艦隊が寄港した南米大陸、マリアナ諸島などの先住民からみれば、マゼランたちは略奪・暴行・虐殺を尽くす民族絶滅の尖兵だった。

 マゼランが寄港した現地を実際に訪れながら、五百年前に何が行われていたのかを探ろうとするルポルタージュです。なにしろ五百年前のことなので、本多勝一の他のルポに比べると迫力に欠けますが、マゼランも「落ちた偶像」でした。

 右も左も、新大陸における白人の暴虐については、意見が一致しているようです。最近の世界史の教科書では、このあたりのことはどう書いてあるのでしょうか。「世界は腹黒い」という見方があることも教えないといけません。

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2010年4月28日 (水)

インディアスの破壊についての簡潔な報告

 ラス・カサスインディアスの破壊についての簡潔な報告』(岩波文庫、1976)を読みました。

 この本の表紙カバーには、こう書かれています。

1542年に書かれたこの『簡潔な報告』は、キリスト教と文明の名の下に新世界へ馬を駆って乗込んだ征服者=スペイン人たちによる搾取とインディオ殺戮が日常化している植民地の実態を暴露し、西欧による地理上の諸発見の内容を告発した。形態は変貌しつつも今なお続く帝国主義と植民地問題への姿勢をきびしく問いかける書である。

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 「大航海時代」「新大陸の発見」と、われわれが昔習った世界史ではポジティブにとらえられていたできごとが、いかに胴欲で狡猾な人々による残虐な行為であったかを告発する記録です。著者は、同時代に現地でその行為を目撃していたカトリック司祭。
 簡潔でない大部の報告は、岩波書店の大航海時代叢書に『インディアス史1~5』として収められています。ちょっとこちらまでは手が出ません。

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 この本のことは前から知っていましたが、なかなか読もうという気になりませんでした。スペイン人がインディオに加えた様々な残虐行為が多々書かれているということで、そういう内容だとわかっていると、簡単には読み始められません。今回は、ネットでの読書会の課題図書に取り上げられたので、ようやく読むことができました。

 スペイン人の所業はまったくひどいものだ、と言わなければなりません。こんな胸の悪くなるような話の連続です。(この箇所は有名で、よく引用されています)

ある日、ひとりのスペイン人が数匹の犬を連れて鹿か兎を狩りに出かけた。しかし、獲物が見つからず、彼はさぞかし犬が腹を空かしているだろうと思い、母親から幼子を奪ってその腕と足を短刀でずたずたに切り、犬に分け与えた。犬がそれを食いつくすと、さらに彼はその小さな胴体を投げ与えた。」(P.93)

 書き写すのもいやになるので、この手の話はこれ以上は引用しませんが、、スペイン人たちは、インディオを脅し、騙し、約束は守らず、ひたすら殺戮と略奪を続けます。ラス・カサスは、四〇年間に一二〇〇万人以上が殺されたのは確実で、おそらくは一五〇〇万人以上のインディオが犠牲になったであろうと書いています。
 こんな挿話もあります。
 キューバ島のカシーケ(インディオの首長)の一人は、キリスト教徒に捕まって、生きたまま火あぶりにされます。木に縛りつけられたカシーケに、フランシスコ会の聖職者が、キリスト教の神と信仰について説いて聞かせます。

彼はカシーケに、もし言ったことを信じるなら、栄光と永遠の安らぎのある天国へ召され、そうでなければ、地獄に落ちて果てしない責め苦を味わうことになると語った。カシーケはしばらく考えてから、キリスト教徒たちも天国へ行くのかと尋ねた。彼はうなずいて、正しい人はすべて天国へ召されるのだと答えた。すると、そのカシーケは言下に言い放った。キリスト教徒たちには二度と会いたくはない。そのような残酷な人たちの顔も見たくない。いっそ天国より地獄へ行った方がましである、と。(P42)

 読むとまず第一に、征服者たちの残虐性に胸が悪くなります。そしてそれがずっと続くのにうんざりします。
 子どものころのわたしにとって、アステカやインカの征服者(コンキスタドール)たちはあこがれの冒険者でしたが、およそそういう存在ではありませんでした。
 うんざりしてくると次に、どうしてインディオはここまでやすやすとやられてしまったのか、イライラしてきます。馬と鉄砲を知らなかったことが大きいと言われていますが、人数は圧倒的に多く、スペイン人は地理もわからないのですから、もう少しなんとかできたのではないか、と考えてしまいます。文化の違いも大きかったのでしょう。狡猾で残虐な白人に対する、無知で純朴な原住民という図式ができています。
 当時、一五世紀から一六世紀にかけては日本ではちょうど戦国時代です。白土三平の『忍者武芸帳』にでてくる影丸のような反乱の組織者があらわれれば、などと夢想してしまいました。
 そしてさらに、もし当時の日本人が乗り込んでいったならどうだったかも、ちょっと考えました。植民地化する側になっただろうけれども、このスペイン人たちと同じ程度に残虐であったとは考えたくありません。

 そしてもうひとつ考えさせられたのは、解説の、ここです。

この『報告』が、印刷公刊されると、彼の予想もしなかった、とりわけ政治的、宗教的脈絡の中でいわばスペイン攻撃、スペイン批判のかっこうの武器となった。(P184、解説)

 やってきたことにスペインとそれほど差があるとも思えない西欧他国からの攻撃材料とされ、さらにスペインからの独立運動のための宣伝にもつかわれた。そのためスペインの保守主義者たちは、ラス・カサスの『報告』を、捏造された「黒い伝説」にすぎないとして歴史的意義や資料的価値を否定した、ということです。

 「国益」がからんでくると、立場が違うと、ひとつのことが違って見えてきます。

 最近、毎週、週刊新潮を裏表紙の方から開いて、高山正之の「変見自在」というコラムを立ち読みするのを習慣にしています。この人に全面的に賛同しているわけではありませんが、なるほどこういう見方や立場があるのか、世には知られていないこういう事実があるのかと考えさせられることが多いコラムです。

 白人の残虐性については何度も書かれていて、新大陸の話もありました。  
 ネットで調べてみたら、天理大学アメリカス学会のHPに、高山正之がマヤのインディオについて書いている文章がありました。要約すると、おおよそ次のようになります。

 ラス・カサスが書いたような略奪と殺戮の後、エンコミエンダ(委託)による植民地経営に移行すると、男は強制労働を強いられて社会的に断種され、女は強姦されて生まれた混血児は植民地防衛の先兵とされた。そしてそれが現在のメスティソとなっている。
 メキシコ社会は現在でも白人の血が濃い者ほど社会的に高い地位につける。逆に白人との混血度が低ければ社会的地位も下がる。
 マヤ族の中には、白人からの陵辱を逃れて密林の奥深く隠れて人たちもいたけれども、その文化と純血を守ってきたマヤの末裔は、現在、定住化政策で山を下り、白人度が高いほど社会的地位が高いという社会の現実に直面している。
 若い者の中には、なぜ祖先は山に逃げ通婚政策を拒否したのか、その残酷さを受け入れていてくれれば私たちは村を降りられたのにと愚痴るのものもいると聞かされた。
(→http://www.tenri-u.ac.jp/tngai/americas/files/newsltrs/41/no41takayama.html

 祖先が陵辱を逃れたことを恨まないといけないとは、なんと悲しいことか。
 キリスト教でいう「原罪」がどういうことかは知りませんが、この言葉を借りれば、「原罪」があるのはスペイン人やポルトガル人の方なのに、無実のマヤの末裔が負い目を背負って生きて行かなければなりません。不条理、理不尽です。理屈で解決できることではありませんが。

 

 
 

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2010年4月23日 (金)

23 駆け出し作家たち

 ひさしぶりの「本のジョーク」です。今回は売り込みに苦労する駆け出しの作家たちのジョーク。いずれも植松黎編・訳『ポケット・ジョーク15 芸術家』(1985、角川文庫)からです。

 15

共同謀議の証拠

 駆け出し作家が友人に打ち明けた。
「どうやら出版社どもが、共謀してぼくの邪魔を始めたらしい」
「どうしてそう思うんだい?」
「見たまえ。この小説を送った十二の出版社がみな同じ理由で出版を拒否してきたんだ」(P192)

皆なが知っている

「よく書けている」出版社の社長が言った。「しかし、ウチの社の方針として、誰れでも知っている名前の作家しか、出さないことにしてるんでね」
「それはちょうどよかった」新米作家が言った。「ボクの名前はスミスなんです」(P192)

水路

 イギリスのある有名な作家のところに、作家志望の青年から一束の原稿が送られてきた。有名作家はその男を知らず、名前もきいたことがなかった。その未知の男は、原稿にそえて、この作品を世に送り出すべき”良い水路”があったら教えてほしいとも頼んできたのだった。
 大作家はそこで、次のような手紙をそえてその原稿を送りだした。
「貴作読ませていただきました。この作品にとっての最良の水路は、英仏海峡であると小生は考えます。英国自慢の排水溝を経由して」(P186)

三要素

 編集者が、かけ出しの作家にいいきかせた。ベストセラーを書くには、まず冒頭から読者の心をとらえなければならない。それには、最初の一節にセックス、上流社会、それに意外性といった読者が関心を持ち、同時にどぎもを抜かれるような要素をとりそろえておくのが望ましいと。
 まもなく編集者は、その若い作家の作品を受け取った。その作品の冒頭は──。
「『王さまのこん畜生めっ!』公爵夫人が言った。『ヒザの手を、とっととよけやがれ、このクソッタレ!』」(P184)

馴染みの人物

 ある若い作家が、書き終えたばかりの悲劇を読んできかせていた。聴き手のひとりがしょっちゅう帽子をとっては、あいさつするような様子をしているのが目にとまった。作家がその理由を尋ねた。
「いや、どうってことはないんだが」その批評家が言った。「旧知の人物とあうと、どうしてもあいさつなしですませる気にはなれないんでね」(P187)

対面

「この詩はきみが自分で書いたのかね?」と編集者がたずねた。
「ええ、すべてぼくが書いたものです」
「そうですか」と編集者は生真面目な顔で言った。「お目にかかれて光栄です。エドガー・アラン・ポーさん、私はあなたはずい分以前にお亡くなりになったのだと思っていましたよ」(P187)

勇気

「キミがとりかかっていた『為せばなる、必要なのは勇気だけだ』という本、もう完成したかね?」友人が、ライターのジョンソン氏に尋ねた。
「ああ、完成したよ」ジョンソン氏は憂うつそうだった。「だが、出版社に勇気がなくてね」(P191)

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2010年4月15日 (木)

I田さんのこと

 今回の南無谷行きの中でショックだったのは、昨年の12月にI田さんが亡くなられていたことでした。がんだったそうです。

 南無谷に家を買ったのは六年前、2004年(平成16)の夏でした。その秋でしょうか、小柄でちょっと背中の丸くなったおばあさんがやってきて、ビワの木の手入れについて、あれこれ教えてくれました。それがI田さんでした。
 なんでも、この家の前の持ち主の親戚にあたるとかで、これまでもここのビワの木の面倒をみていたということでした。

 それ以来、ビワの花もぎ、摘果の仕方から袋かけまで、時期に合わせて、その都度、実地に教えてもらいました。遠くの枝をひっかけてたぐり寄せるための、木の叉のところを切り取った棒を持ってきてくれたり、最初の袋掛けの時期には、袋まで持ってきてくれました。
 摘果のとき、われわれが、もったいない、ひとつでも余計に実をならせたいと、なかなか実を落とせないでいると、
「もったんないなんて言ってちゃだめ。ひと枝にひとつだけ。」
と、どんどん実を落として見せてくれました。本で読んでいても実際にやろうとすると、どの程度やればいいのか迷うことが多いけれど、目の前で見ると、なるほどこうやるのか、とよくわかります。
 それでも、うちのビワは摘果の数が少ない、残しすぎだとしょっちゅう言われていました。「素人だから、まあいいか」とも言ってくれましたが。
 このブログで、ビワの花もぎ、袋かけのやり方とかえらそうに書いていますが(→ビワの花もぎビワの袋かけ )、みんなI田さんに教えてもらったことです。今でもI田さんのように手際よくはできません。

 その他にもサツマイモの苗の植え方とか畑仕事のいろいろを指導してもらい、あるときには、自宅の分があまったからと、わざわざ干した大根を持ってきていただいて、タクアンの漬け方を教えてもらいました。わが家の農事指南役でした。

 自宅はちょっと離れたところでしたが、南無谷にも家と畑があって、電動自転車で、元気に行ったり来たりされていました。途中の国道に狭いトンネルがいくつかあるので、大丈夫ですかと聞いたら、脇を走るとかえって危険だから、追い越されないように道の真ん中を走るんだとおっしゃってました。
 畑仕事が大好きで一番楽しいという働き者でした。

 この冬は、南無谷へ行ってもI田さんに会うことがありませんでした。こちらが体調が悪かったりしてあまり行かなかったので、たまたま行ったときに会えなかっただけだと思っていました。
 最後にお会いしたのは、はっきりとは覚えていませんが、秋のうちでしょう。まだまだお元気そうで、とてもこんなことになるようには見えませんでした。
 娘さんのお話では、わかったときにはもう手遅れで、入院して五日で亡くなられたそうです。ただ、そう苦しまずに、おだやかだったとのことでした。その前はずっとがまんしていらっしゃったのかもしれませんが。

 残念です。まだまだ教えていただきたいことはいっぱいありましたし、なにより、南無谷で一番親しくさせていただいていた方でした。

 謹んでご冥福をお祈りします。 合掌。

2004612_2              2004年当時のビワの木

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2010年4月14日 (水)

山菜天ぷらパーティ

 南房総市富浦町の福原農園の「山菜天ぷらパーティ」に、昨年は無理にお願いして参加させてもらいました。(→畑仕事とタケノコ掘り
 4月10日(土)、今年は声をかけていただいての参加です。

 福原農園は、「道の駅おおつの里 花倶楽部」のすぐ近く、農園の中の山も野もすっかり春色です。(→http://www4.ocn.ne.jp/~farmfuku/index.html

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 山菜採り。フキやミツバ、セリ、ヨモギ、タラノメその他を採りました。

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  こちらは料理のメインとなるタケノコ掘り。今年は山菜採りにまわったので、われわれは掘りませんでした。

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 これが当日掘ったタケノコ。大きいのは5㎏以上あります。

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 ここが宴会場。前で、採ってきた山菜やタケノコの天ぷらを揚げています。

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 料理の数々。この後まだ天ぷらが出てきます。

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 タケノコの刺身。とれたてのタケノコは、柔らかくてえぐみもなく、うまい。

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 当日は、車なので酒は飲まず、山々の珍味を食べるだけ。少々不満が残ったので、夜、南無谷へ帰ってから、やっぱりタケノコで一杯やりました。
 今回の南無谷での作業は草刈り・草取りと夏野菜に備えての畑起こし。久しぶりの肉体労働で、身体のあちこちがみしみし言いだしましたが、その分、夜の酒がうまくて、ききが早い。うまいタケノコと少しの酒で、連日ころりと寝てしまいました。歳ですね。

 4月12日、横浜へ帰る前に、また福原農園へ寄って、堀りたてのタケノコをわけてもらいました。一番大きいのは6.2㎏。
 帰ってから、食べる前に、うちの奥さんがその大タケノコをスケッチしはじめたので、わたしも見習って、何十年ぶりかにやってみました。
 うまくかけなかったので、写真にしたら少しはきれいに見えるか、と撮ってみたのがこれです。

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2010年4月13日 (火)

花はさかりにのみ

 今年も、南無谷のわが家の桜の満開を見ることはできませんでした。4月9日(金)に行ったときには、もうずいぶん散っていました。

 まず門を入ると、花びらがびっしり。

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 葉桜になってきています。

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 近くでウグイスの声が聞こえ、風に花吹雪が舞います。徒然草にありました。「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」です。

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 下に停めておいた車が、すっかり桜模様になってしまいました。

 そのほかの花もすっかり春です。
 チューリップはもう開きすぎ。

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 赤木蓮も咲きました。

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 アネモネ。

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 勝手に咲いているタンポポです。

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2010年4月10日 (土)

はん治・喬太郎二人会

 4月8日(木)横浜にぎわい座,、「はん治・喬太郎二人会」。先月に引き続き喬太郎です。

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  演目は、

入船亭辰じん  道灌
鈴々舎わか馬  新聞記事
柳家喬太郎     寝床
中入り
柳家小菊        俗曲
柳家はん治     背なで老いてる唐獅子牡丹

 前座の辰じんは、声がいいのに大きすぎて聞き取りにくい。まだこれから。

 わか馬の「新聞記事」はそこそこ。

 やっぱり喬太郎の「寝床」が一番笑えました。有名な、義太夫が下手なくせに大好きな主人が、奉公人や長屋の連中に酒や肴でもてなして、無理矢理自分の下手な義太夫を聞かせる話ですが、喬太郎風に、前の「新聞記事」に出てきた「天ぷら屋のタケ」はまだ来ないのか、他の落語の主人公(「芝浜」の魚屋とか)はどうしたとか、当意即妙にやっていました。
 普通、主人の義太夫は殺人的なくらい下手だというだけで、下手の実演はやりませんが、喬太郎は、どのくらいひどいか、短時間でしたが大音量で実演してみせました。これが凄かった。なるほどこれでは、と納得してしまうくらい。思い切り笑いました。

 はん治の「背なで老いてる唐獅子牡丹」は、ヤクザが高齢化して、老人ホームに入っていたり、おしめをしたりしているという話。歳をとればこうなるだろうという、あたりまえの話で、いまいちでした。もっと突拍子もない話にしたらどうか。
 そうでなければ、小林信彦の傑作パロディ小説『唐獅子株式会社』のような、現役のヤクザが頓珍漢なことをする、という話の方がおもしろいのではないか、と思いました。はん治の声と語り口は、ヤクザものにあっていそうな気がします。はん治ははじめて聞きました。ひょっとして、もうその手の話をやっていたんならごめんなさい。

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2010年4月 6日 (火)

久良岐公園の桜

 4月4日(日)、南千住へ行ったとき、道路から見える桜は、横浜も東京もどこも満開でした。夜から雨になるという天気予報だったので、今日が見ごろの最後になるかと、家へ帰る途中、横浜市の久良岐(くらき)公園へ寄って花見をしてきました。

 久良岐というのは昔の郡の名前です。港南区と磯子区にまたがる約23万㎡の広い公園です。(→http://www.city.yokohama.jp/me/kankyou/park/yokohama/kuraki.html

 中に桜の森がありました。花曇りで寒いけれど、花見の客もずいぶん出ています。

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 満開で、本当にきれいでした。

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 これは山桜です。右手の緑の木々は、梅林です。

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 南房総南無谷のわが家の桜も咲いているのでしょうが、すぐには行けそうにありません。今年も見ごろを逃してしまいそうです。

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2010年4月 5日 (月)

カーナビを買いました

 何年か前、旅先の盛岡で借りたレンタカーにカーナビがついていました。それまでは、カーナビなんか使ったら、地図を読むことや土地勘を養うことができなくなる。男はちゃんと地図が読めなければ、と思っていましたが、使ってみて、その便利なことに驚きました。観光施設の一つ一つが地図に載っていて、ちゃんとその地点まで案内してくれます。どこで曲がったらいいのか、この道は通れるのかどうか、あれこれ悩む必要がありません。
 それ以後、欲しいなと思いつつ、もっと安くなってからと先延ばしにしていましたが、だいぶ値段もこなれてきたようで、そろそろいいかと、先日購入しました。

 三洋電機のポータブルカーナビ、ゴリラ GORILLA NV-SB541DT です。

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 「大容量8GB SSD(Solid State Device)を活かして、全国1,157エリアの詳細市街地図を収録。地図の詳しさは、HDDナビゲーションと同等の地図情報となりました。」という売り文句で、渋滞情報を知ることができるVICS(Vehicle Information and Communication System)もついていて、5.2V型の画面でワンセグのテレビも見られます。ネットで調べてみると、評判もなかなかいいし、最安価格は45,550円ということで、これに決めました。安くなったものです。
 これは16GBの新型がまもなく発売になるため安くなってきているので、この後さらに安くなるのでしょうが、買うと決めたら、そういつまでも待っていられません。ネットで代引き注文して、翌日には受け取りました。

 下は、おんぼろ愛車に取り付けたところ。
 VICSは、アンテナの配線を通すために左のフロントピラーを取り外す必要があり、自分でやって元へ戻せるかどうか心配なので、まだ使えませんが、とりあえずナビとワンセグテレビは使えるようになりました。

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  4月4日(日)、カーナビの試運転をかねて、東京まで行って来ました。長男が岐阜から東京へ転勤になって、南千住に引っ越したので、状況視察です。

 出発しようとしたらなんと左の後輪がパンクしていました。近くのガソリンスタンドで見てもらったら、エアーバルブが古くなってダメになっているとのこと。なおしてもらって、ようやく出発しました。
 ところがカーナビの操作にまだ慣れないので、あれこれいじっているうちに、いつのまにか行先が「自宅に戻る」設定になってしまっていました。気づかずにナビの言うことを聞いているうちに少し後戻りしてしまい、また時間をロスしてしまいました。
 土地勘のあるところなので気がつきましたが、これが知らないところだったら相当走ってしまったことでしょう。操作方法を早く覚えないといけません。

 カーナビと意見が違うところもありました。これまで、わが家から東京方面へ行くには、直接首都高速湾岸線に出ていたのですが、ナビは横浜横須賀道路から横羽線を走らせようとします。行きは指示どおり横羽線経由で行ってみましたが、帰りはやはり湾岸線で帰りました。多少遠まわりになるのかもしれませんが、こちらの方が道路がよくて混雑度も小さく、ずっと走りやすいのです。

 それでもカーナビは十分役に立ちます。初めて行く道でも、そろそろ左へ寄った方がいいとか、右へ行くとか、頭をつかわなくてもわかるので、運転にかかるストレスがずいぶん少なくなります。迷うことなく南千住に到着し、帰ってきました。

 建設中の東京スカイツリーが遠くに見えました。

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2010年4月 2日 (金)

次郎長でも読める「建之」

 お墓などにある「建之」は「これを建つ」と読むのだという話を前に書きました。(→「何野誰兵衛 建之」の読み方
 今でもときどき右下の「検索フレーズランキング」には「墓 建之 読み方」のような言葉が入っているので、先日ネットを見てみたら、やっぱり業界では「建之者」とか「建之日」という言葉がつかわれているようだし、「『建つ』は自動詞だから、『これを建つ』はおかしい」と言っている人もいました。これは漢文だということも、文語だということも、もう若い人にはわからなくなっているようです。

 先日、清水次郎長伝のことをちょっと書いたので(→第四回日向ひまわり独演会)、ついでに子母沢寛の『仁侠の世界』(1972、新人物往来社)をのぞいてみたら、「次郎長外伝」の章の「真伝次郎長ばなし」の中に、こんなところがありました。

もっとも次郎長はまるで文字が書けない。一説に漢字は晩年になっても「清水山本長五郎」の七字より書けなかった。ただし仮名は読めたし書きもしたようである。かつて例の有名な清水港巴川畔の「壮士之墓」の改修をしたときに、榎本武揚が「旧友建之」と書いた。
 次郎長がこれを見て、そばにいた紺屋の久蔵という者に「われゃこの字を読めめえ」といった。久蔵は首をふって「一番上の字がわからない」といったら、「きゅうゆう、これをたつと読むのだ」と大いに威張ったという話がある。どうせだれからか教わった鵜呑みだが、まず次郎長はその程度のものであったようだ。(『仁侠の世界』P212)

 当時は、「その程度のもの」でも「建之」は読めた、ということです。

 「例の有名な「壮士之墓」」というのは、こんな話です。
 明治元年(1868)幕府の脱走兵をのせた軍艦咸臨丸が清水港で官軍に包囲・砲撃され、官軍は死体を海に投げ捨て、咸臨丸を戦利品として曳航して去った。湾内に漂う死体を誰も拾おうとしなかったのを、次郎長が子分達と引きあげ、手厚く葬った。これが後に問題になったが、次郎長は「賊であろうが、敵であろうが、それは生きている間だけの話だ」と盛大な供養を行った。
 これを聞いた山岡鉄舟が次郎長の行為を称賛し、墓の碑面用の「壮士墓」の揮毫を快諾して、この後、次郎長は鉄舟の知遇を得るようになった。

 榎本武揚は、「侠客次郎長之墓」の揮毫もしているそうです。

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 この本の冒頭には「座頭市物語」という章があります。たった六頁の短い作品ですが、これが映画の座頭市の原作になりました。

 飯岡の助五郎に、「座頭市」という盲目の子分がいた。
 盲目だが博打にも凄い程の勘をもち、大酒をするが乱れない。しかも居合い術の達人で、徳利を宙へ投げあげさせて、落ちてくるのを縦に真っ二つに斬ってみせた。
 助五郎が二足の草鞋をはいて、巧みに世渡りするのにだんだん嫌気がさし、助五郎が小僧っ子のような笹川の繁蔵を暗殺すると、とうとう助五郎の前の酒徳利を居合いで真っ二つにして、「盃はけえしたよ」と、どこへとも知れず姿を消したという。

 助五郎に嫌気がさした座頭市のことば。

「(前略)な、やくざぁな、御法度の裏街道を行く渡世だ、言わば天下の悪党だ。こ奴がお役人方と結託するようになっては、もう渡世の筋目は通らねえものだ。おれ達ぁ、いつもいつも御法というものに追われつづけ、堅気さんのお情でお袖の裏に隠して貰ってやっと生きて行く、それが本当だ。それをお役人と結託して、お天道様へ、大きな顔を向けて歩るくような根性になってはいけねえもんだよ。え、悪るい事をして生きて行く野郎に、大手をふって天下を通行されて堪るか」(『仁侠の世界』P14)

 映画の座頭市の性格がはっきりと描かれています。
 勝新太郎があのキャラクターを作ったんだとばかり思っていましたが、基本は原作にちゃんと書かれていたんだと、今さら知りました。

 「座頭市物語」は、ずっと前に読んでいるはずなので、今さら知ったというのも変な話ですが、二十代くらいに読んだ本はけっこう覚えているのに、それ以降の本は読んだことも忘れいていて、終わり近くまで読み進んでから思い出すことも、ままあります。嗚呼。

 

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