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2010年4月 2日 (金)

次郎長でも読める「建之」

 お墓などにある「建之」は「これを建つ」と読むのだという話を前に書きました。(→「何野誰兵衛 建之」の読み方
 今でもときどき右下の「検索フレーズランキング」には「墓 建之 読み方」のような言葉が入っているので、先日ネットを見てみたら、やっぱり業界では「建之者」とか「建之日」という言葉がつかわれているようだし、「『建つ』は自動詞だから、『これを建つ』はおかしい」と言っている人もいました。これは漢文だということも、文語だということも、もう若い人にはわからなくなっているようです。

 先日、清水次郎長伝のことをちょっと書いたので(→第四回日向ひまわり独演会)、ついでに子母沢寛の『仁侠の世界』(1972、新人物往来社)をのぞいてみたら、「次郎長外伝」の章の「真伝次郎長ばなし」の中に、こんなところがありました。

もっとも次郎長はまるで文字が書けない。一説に漢字は晩年になっても「清水山本長五郎」の七字より書けなかった。ただし仮名は読めたし書きもしたようである。かつて例の有名な清水港巴川畔の「壮士之墓」の改修をしたときに、榎本武揚が「旧友建之」と書いた。
 次郎長がこれを見て、そばにいた紺屋の久蔵という者に「われゃこの字を読めめえ」といった。久蔵は首をふって「一番上の字がわからない」といったら、「きゅうゆう、これをたつと読むのだ」と大いに威張ったという話がある。どうせだれからか教わった鵜呑みだが、まず次郎長はその程度のものであったようだ。(『仁侠の世界』P212)

 当時は、「その程度のもの」でも「建之」は読めた、ということです。

 「例の有名な「壮士之墓」」というのは、こんな話です。
 明治元年(1868)幕府の脱走兵をのせた軍艦咸臨丸が清水港で官軍に包囲・砲撃され、官軍は死体を海に投げ捨て、咸臨丸を戦利品として曳航して去った。湾内に漂う死体を誰も拾おうとしなかったのを、次郎長が子分達と引きあげ、手厚く葬った。これが後に問題になったが、次郎長は「賊であろうが、敵であろうが、それは生きている間だけの話だ」と盛大な供養を行った。
 これを聞いた山岡鉄舟が次郎長の行為を称賛し、墓の碑面用の「壮士墓」の揮毫を快諾して、この後、次郎長は鉄舟の知遇を得るようになった。

 榎本武揚は、「侠客次郎長之墓」の揮毫もしているそうです。

Photo

 この本の冒頭には「座頭市物語」という章があります。たった六頁の短い作品ですが、これが映画の座頭市の原作になりました。

 飯岡の助五郎に、「座頭市」という盲目の子分がいた。
 盲目だが博打にも凄い程の勘をもち、大酒をするが乱れない。しかも居合い術の達人で、徳利を宙へ投げあげさせて、落ちてくるのを縦に真っ二つに斬ってみせた。
 助五郎が二足の草鞋をはいて、巧みに世渡りするのにだんだん嫌気がさし、助五郎が小僧っ子のような笹川の繁蔵を暗殺すると、とうとう助五郎の前の酒徳利を居合いで真っ二つにして、「盃はけえしたよ」と、どこへとも知れず姿を消したという。

 助五郎に嫌気がさした座頭市のことば。

「(前略)な、やくざぁな、御法度の裏街道を行く渡世だ、言わば天下の悪党だ。こ奴がお役人方と結託するようになっては、もう渡世の筋目は通らねえものだ。おれ達ぁ、いつもいつも御法というものに追われつづけ、堅気さんのお情でお袖の裏に隠して貰ってやっと生きて行く、それが本当だ。それをお役人と結託して、お天道様へ、大きな顔を向けて歩るくような根性になってはいけねえもんだよ。え、悪るい事をして生きて行く野郎に、大手をふって天下を通行されて堪るか」(『仁侠の世界』P14)

 映画の座頭市の性格がはっきりと描かれています。
 勝新太郎があのキャラクターを作ったんだとばかり思っていましたが、基本は原作にちゃんと書かれていたんだと、今さら知りました。

 「座頭市物語」は、ずっと前に読んでいるはずなので、今さら知ったというのも変な話ですが、二十代くらいに読んだ本はけっこう覚えているのに、それ以降の本は読んだことも忘れいていて、終わり近くまで読み進んでから思い出すことも、ままあります。嗚呼。

 

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