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2010年6月

2010年6月30日 (水)

吉本隆明と谷沢永一 2

 まず最初に吉本が、谷沢にかみついた。
 谷沢が雑誌『文学』Vol.45(1977、岩波書店)に書いた「文学研究に体系も方法論もあり得ない」という文章を、吉本隆明は、自分がやっていた雑誌『試行』41号(1977、試行社)の「情況への発言-きれぎれの批判-」で取りあげ、谷沢を罵倒した。冒頭から

 谷沢の論議のうち「文献の批判的処置」を論じた部分には、あまり関心がない。また、かつていっぱしのマルクス主義批評家づらをして、恣意的な党派的な「評論」を書いていた谷沢が、いつの間にか「証拠と理由を挙げて個々の解釈の当否を決する文学研究」者と自称する解釈学至上主義者に成り果てたのかについてもそれほどの関心があるわけではない。(『試行』41号、P2)

と始まる。

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 谷沢の文章は、勝本清一郎編の「透谷全集」の校訂方法への批判をめぐり、東大教授三好行雄にかみついて近代文学研究の方法論をめぐる論争となった、けっこうおもしろいものなのだが、上記のとおり吉本は、どうせ谷沢のような連中のやることに特別の興味はない、ただ自分は、谷沢に被害を蒙った一人である、と切り出す。

 しかし、わたしは「文学研究の精髄は技術である。」などという珍妙な主張を臆面もなくわめき散らし「技術の習得と錬磨をなおざり」にしないようなきれいな口をたたき「文学研究の技術は、博覧と精査によってしか身につけ得ない」などと大口をたたいている谷沢永一の「博覧と精査」の被害を蒙った一人である。当然この男が方々でわめき散らしているデタラメな放言を「批判的処置」する権利があろうというものだ。(『試行』41号、P2)

 その被害の内容がどのようなものであったか、ちょっと長くなるが、この後の文章を引用する。

 谷沢永一の「博覧と精査」がどの程度のものかを検証するのに、べつに谷沢の著書などをとりあげる必要はない。以前に筑摩版のある大系本のひとつに、私の文章をひとつ載せたいという連絡が書店からあり、承諾したのかどうかさえも忘れはて時効になったころ、こんどは編者谷沢の研究室から一枚の往復葉書が舞い込んだ。その文面が谷沢自身の手になるものか、谷沢の研究室にたむろしている助手や院生やアルバイト学生の手になるのかどうかは確かめなかったからわたしには判定できない。その文面がふるっているのだ。お前の文学的略歴を、往復ハガキのもう一面に書いて送り返してくれというのである。わたしは驚き呆れた。当人の仕事と年譜は、当人に訊ねれば、もっとも手っとり早くまた精確だなどと考えるようなら、「文学研究」の初歩すら解しない者だと断定されても仕方がない。まったくの失格者なのだ。これは、少しでも「研究」や「評論」の真似事をしたことがある者なら誰でも知っていることである。太宰治の大げさな口振りをまねていえば、こういうのが大学で「博覧と精査」の文学研究者を装い文学を講じていることの犯罪にりつ然としたとでもいおうか。わたしが谷沢の耻をさらすまいとして、その葉書をそっと書店の担当者に返し、書店の担当者もまた谷沢の耻をさらすまいとしてその葉書を「批判的処置」したことは推察できよう。何となれば、わたしは文字通りこんなものを残しておいたら谷沢の耻なるとおもったし、書店の担当者もそう思ったことは疑いない。(中略)もちろんわたしは、谷沢の耻をさらす証拠を残さないための<心づくし>の「批判的処置」はしたが、きっぱりとわたしの文章の収録を拒否する旨、書店の担当者に伝えたことは申すまでもない。理由はこんな「文学研究」の初歩すら心得ない安直なことをやらかす編者の手では、本文の命運すらわからないということである。(『試行』41号、P3)
(注:下線部の原文は傍点、以下の引用も同じ)

 筑摩の文学全集に吉本の文章を収録するにあたって、編者である谷沢から往復ハガキで、返信欄に「文学的略歴」を書いて送れと言ってきた。こんな安直な文学研究があるか、これが「博覧と精査」か。あんまり馬鹿馬鹿しいから、全集への収録を拒否した、というわけである。
 なるほど週刊誌のアンケートじゃあるまいし、往復ハガキの返信欄に書かれた「文学的略歴」で研究などができるものかどうか、素人でも疑問に思う。

 そして谷沢の文章の主題については、何がいいたいのかよくわからぬとしたうえで、そこに隠された「私憤」のようなものがあると述べて谷沢への言及は終わる。

 ところで谷沢は何に憤りを感じて、こういう馬鹿気た幼稚なことを口走っているのか。勝本清一郎編『透谷全集』の校訂のヅサンさを瞋っているのか。それを擁護した三好行雄を怒っているのか。あるいは橋詰静子の勝本本の校訂批判を擁護したいのか。それらすべてであるかも知れぬが、その奥にくすぶっている私憤のごときもの、あるいは自己に対して抱いている憤怒のようなものの正体が判らぬ。もちろんこの判らぬというのは言葉の綾で、判るといってもおなじようなものである。とうてい文献の「批判的処置」などという高級な問題でもないし、谷沢自身が高級な手続などいつでも踏んでいるわけではないから、偉そうな口を叩く柄ではないといえば、それまでである。(『試行』41号P5)

 勝本清一郎編『透谷全集』の校訂がずさんだという話は、わたしにはけっこうおもしろかったのだけれど、吉本にはおもしろくなかったらしい。
 それはともかく、文学全集に収録しようとする著作の作者に対して、その文学的略歴を「往復ハガキ」で問うというのは、まず失礼だろうし、そんなものに書ききれるものなのかどうか、事実とすればまったくおかしいと言わざるをえない。
 しかし「谷沢の耻をさらすまいとして」と言うならはじめからこんな文章を書かなければいいのにとも思うが、そう言いながら臆面もなく罵倒してのけるのが吉本の芸か。

 これに対し谷沢がどう反論したかは、また次回。

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2010年6月29日 (火)

吉本隆明と谷沢永一 1

 谷沢永一(たにざわえいいち、文芸評論家)が、その昔、吉本隆明と論争して勝ったという話をネットでときどき見ます。しかし、具体的にどんなことを言い争ったのかよくわからないので、ちょっと調べてみました。

 ウィキペディアの谷沢永一の項にはこうあります。

 1977年前後に思想家の吉本隆明とのあいだで論争(罵倒合戦)があった際には、谷沢嫌いの呉智英をして「吉本の敗北が明白だった」(『バカにつける薬』)といわしめる結果を収めた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E6%B2%A2%E6%B0%B8%E4%B8%80

 吉本隆明の項にもこう書いてあります。

1970年代に谷沢永一との間にかわされた論争では、谷沢の理路整然とした反論に、感情的な言葉を返すのみであり、「吉本の数少ない敗北」とされた。
( 『バカにつける薬』呉智英より )
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E6%9C%AC%E9%9A%86%E6%98%8E#.E9.96.A2.E3.82.8F.E3.81.A3.E3.81.9F.E8.AB.96.E4.BA.89.E3.81.AA.E3.81.A9

 このあたりが話の出所のようです。
 呉智英の『バカにつける薬』(双葉文庫、1996)を見てみると「吉本隆明は何故強いのか」という章があって、こう書いてありました。

 吉本隆明が強いということについては、吉本隆明主義者には、もちろん反対はあるまい。彼らは、吉本隆明のくり出すパンチの圧倒的な威力の見事さに魅せられているからだ。別に吉本主義者でもなく、したがって、必ずしもそう多くの著作を読んでいるわけではない私も、これまで吉本があらゆる論戦者にKOかTKOで勝ってきたのを知っている。吉本隆明の敗北が明白だったのは、ごく小さな論戦だったが、谷沢永一との間に交わされた、方法論がどうこうということから派生したものだけである。吉本は、日頃の勢いにも似ず、ただへどもど言い訳をするばかりで、途中からうやむやになってしまった。(P158)

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 吉本隆明がなぜ強かったか。呉智英は、神を信じない立場からすれば神学などたわごとにすぎず誰でも勝てる。吉本の殴り込んだ当時の左翼は神学界のようなものだったと、次のように書いています。

 吉本隆明は神学界に殴り込みをかけたシロートなのである。この神学界というのは、むろん左翼神学界のことである。因循姑息で旧弊な日共中枢が、善良な庶民信者から正統的知識人信者にまで広く支持されているローマ法王だとすれば、斬新に見える神学を持っている花田清輝は、学生など懐疑主義者の知識人に人気のあるブルトマンやバルトなのだ。彼らは、エホバ信仰が成立している世界で、お互いに異端だの旧弊だのと批判し合い、論争に勝った負けたと戦果を誇示し、除名だ破門だ裏切りだと、かまびすしくやってきた。むろん、そんなことは、エホバなんていうものを信じてはいない外部の人たちにとって、どうでもいいことであった。しかし、神学者たちは、そういうシロートの存在にすら気づいていなかった。シロートを完全にしめ出した中で、砂上楼閣の作りっくらをしていた。そこへ、吉本隆明が殴り込んだというわけなのである。吉本隆明が強いのは、基本的には、これだけの理由なのだ。(P162)

 わたしには実感がありませんが、戦後すぐ、「政治と文学」と言ったときの「政治」が、日本共産党をめぐるあれこれを指していた時期があったようです。その頃の左翼信仰についてある程度見当がつかないと呉智英の言っていることもわかりません。
 しかしその話は今回の趣旨ではないので置いておくとして、吉本・谷沢論争の内容については、上記のとおり「方法論がどういこうということから派生したもの」というだけで、これ以上の記載はなく、次のように言及されているだけです。

初めに言った、吉本が一度だけ敗北した論戦の相手が、谷沢永一であったことは偶然ではない。左翼からの転向者であり、神学を全く信じておらず、憎悪さえ感じている谷沢にとって、吉本隆明のごときは、少しも恐るるに足りなかったのである。(『バカにつける薬』1996、双葉文庫、P161)

 もうちょっと具体的な中身を書かなければ、呉智英の言い分が正しいかどうかもわからないじゃないかと思いつつ、谷沢に方法論云々の論争があったことを思い出しました。若いころから開高健が好きだったので、その友人谷沢永一もけっこう昔から読んでいたのです。

 『牙ある蟻』(谷沢永一、冬樹社、1978)にありました。第一部の「方法論論争」の中に「捏造は想像力の行使であるか」と題して、吉本隆明とのやりとりが書いてあります。
 これは出た当時、新刊で買って読んでいるのですが、そのときはこれが「論争」だなどとは思わなかったので、吉本・谷沢の論争と言われても思い出せませんでした。

 これでだいたいの経緯はわかりました。ちょっと長くなるので、次回以降、どういう話だったのか書いてみることにします。

 

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2010年6月24日 (木)

梅雨の晴れ間

 梅雨の晴れ間をねらって、6月17日(木)~19日(土)まで南無谷へ行き、残っていたびわを全部収穫してきました。今年のびわは残念ながら質・量ともに納得のいくものではありませんでした。気象次第ではありますが、来年を期したいと思います。

 庭ではデイゴが元気です。暑い花です。

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 ユリも咲きました。

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 スイレンです。

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 初登場、ラズベリーです。

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 畑ではトマトが大きくなってきました。

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 植物が元気なら動物も元気になります。
 農具庫の中のクモが、こんなものを持っていました。去年の12月に、謎の空中浮遊物体として写真を載せた丸い物体は、やはりこのクモの卵のようです。
 このクモ、特に害はないのですが、大きいので雨戸を開けたときなど突然ササッと出てこられてビックリします。

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 うちの奥さんの話では庭に青大将もあらわれたそうです。最近わが家にはモグラが多いので、モグラ目当てにやってきたヘビが、降り続いた雨で穴から外へ出てきたのかもしれません。
 田舎ではこれらの生き物と共存していくしかないのですが、クモやヘビにはなかなか慣れて平気というわけにはいきません。
 そしてこれからの季節、一番の難敵は蚊ということになります。

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2010年6月23日 (水)

六月喜劇特別公演

 農閑期が終わってしまったので、5月は芸能鑑賞から遠ざかっていましたが、6月16日(水)、新橋演舞場で「藤山寛美没後二十年六月喜劇特別公演」をみてきました。
 売り文句は

稀代の喜劇役者・藤山寛美の歿後20年を偲んでよみがえる、大爆笑と感動の傑作喜劇。
父親譲りの藤山直美が、西郷輝彦を迎えて、4演目オール主演の大奮闘!
腹の底から笑って、泣いて、元気が出ること間違いなし!!

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 藤山寛美は大好きでした。とにかく面白かった。
 わたしが青少年だった昭和30~40年代、名古屋のテレビでは毎週松竹新喜劇の中継をやっていました(と思います)。吉本新喜劇もやっていました。
 大学生になって横浜へ行ったら、東京のテレビではどちらもやってなくて、文化のギャップを感じました。前に小林信彦について次のように書きましたが、これはその当時の感想がもとになっています。 

 『日本の喜劇人』にも、藤山寛美の昭和46年の新橋演舞場の舞台がエポック・メイキングであった、喜劇の新しい時代がきたなどと書いていますが、東京の人はそれまであまり寛美を見る機会がなかった、小林もそれまで見たことがなかったというだけのことでしょう。その頃大阪では、寛美の芸はすでに確立されており、知らない人はいないくらいのものだった筈です。(スチャラカ社員

 それで娘の藤山直美をというわけで、昼の部を見ました。演目は

  一、女房のえくぼ

  二、幸助餅(藤山寛美二十快笑の内)

 「女房のえくぼ」は、藤山直美が、亭主からうとまれる不美人の女房という役で、がに股で歩いたり、シナをつくってたり、体を使っていろいろ笑わせてくれます。小島秀哉、小島慶四郎という、青少年時代から見ていたなつかしい役者も出てきました。ただ、もう少し笑いたかった、ちょっと不満が残ります。

 「幸助餅」は西郷輝彦が主役。直美はその女房役で特に目立ちません。人情劇としてまとまってはいますが、これもやっぱり笑いが足りない。女の直美に主役の幸助ができないのはやむをえませんが、寛美の「幸助餅」はもっとおもしろかったのではないかという気がしてなりません。

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2010年6月21日 (月)

第三十三番 那古寺

 第一番の次は、6月12日にいきなり最後の第三十三番札所補陀洛山那古寺(ふだらくさんなごじ)、那古観音へ行ってきました。千葉県館山市那古にあって、南無谷から買い物で館山の街へ行くときにときどき前を通る、なじみの寺です。

 これで最初と最後がつながってキセル三十三カ所巡礼の完了!というつもりではありません。
 しかし観音様には四万六千日(しまんろくせんにち)という縁日があって、その日に参拝すると四万六千日分の御利益があるということになっています。八代目桂文楽の「船徳」の「四万六千日、お暑いさかりでございます」という文句が有名です。
 チベットあたりでは、筒の中にお経を入れたマニ車というのがあって、一回転させると一回お経を読んだことになるそうです。
 これだけお手軽にしてるんだから、そのうちキセル巡礼でもいいことになるのではないでしょうか。

 ちょっと坂を登ると山門です。

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 多宝塔の前を通ります。

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 そしてこれが本堂。

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  おまいりをすませて納経。第一番の杉本寺では「発願」の印をおしてもらいましたが、ここでは「結願(けちがん)の印はまだ押せません」と言われてしまいました。全部まわってからもう一度来なければなりません。まだキセルではだめなようです。
 書いてもらった一番上の文字はキリークという千手観音をあらわす梵字で、その下の大悲殿は、観音様の慈悲の殿堂というような意味だそうです。

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 ご詠歌は

 ふだらくは よそにはあらじ 那古の寺 きしうつなみを みるにつけても

 補陀洛というのは観音菩薩のいるところ、観音浄土というような意味で、若いころ井上靖の「補陀洛渡海」という小説で知りました。これは那智の補陀洛寺からはるか南方の彼方にあるという補陀洛浄土をめざして僧侶が船出するという話です。
 那古寺から海はすぐそこですし、昔は補陀洛渡海が行われていたのでしょうか。ご詠歌ではこここそが補陀洛であるとうたわれていますが。

 ひとつ余計な話をつけ加えておくと、松本清張に『Dの複合』という推理小説があります。「僻地に伝説をさぐる旅」という連載をはじめた作家が、次々に事件にまきこまれるという筋書きで、その中で作家は補陀洛渡海伝説を求めて千葉県へ行くのですが、館山まで行きながらそこでは見つけることができず、鋸南町保田(ほた)の鋸山(のこぎりやま)の日本寺がそうではないかということになってしまいます。「ほた」は「ふだらく」が転訛したものだなどという前に、どうして補陀洛山那古寺が目にとまらなかったのか、不思議です。

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 この近くには崖観音と呼ばれる船形山大福寺があって、崖の中腹に磨崖仏の観音様がまつられています。

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下から見上げてもなかなかのものですし、登るとすぐ目の前に海が広がっています。補陀洛渡海はこのあたりでも行われていたのではないかという気になってきます。

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2010年6月16日 (水)

夏野菜その後

 5月に植えた野菜苗やまいた種が大きくなってきました。

 キュウリはもう食べられます。ナス、ピーマン、トマトも実がついてきました。

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 種からの方はまだこれからですが、このくらい育ちました。

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 インゲン               エダマメ

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 落花生                   トウモロコシ

 ジャガイモと大根は、うちの奥さんの友人夫妻に収穫してもらいました。植えたのが遅く、しかもちゃんとした種芋じゃなかったから、小さいジャガイモばかりでした。

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 もうすぐ食べられそうなのはアンズ。前回網をかけたおかげで、このとおり鳥からちゃんと守られて、赤く色づいてきました。

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 南国果実のフェイジョアは、去年は実をつけませんでした。今年もにぎやかに花が咲きましたが、実はどうなるでしょう。

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2010年6月15日 (火)

びわは不作

 今年は南房総地区全体のビワが不作で、わが家も例年に比べて数が少ないのは袋かけのときから承知していました。それが春先の天候不順で収穫の時期もいつもより遅れ、6月11日(金)、そろそろいいかと南無谷へ行ってみると、これがさらにがっかりでした。

 熟してくると自然に実が落ちるので、木の下にはビワが袋ごといくつも落ちていました。まずこれを拾って食べてみると、固いのや酸っぱいのがずいぶん混じっていました。
 下の写真の、袋が破れているビワは、黒い傷跡があるのはしょうがないとしても皮がでこぼこしていて固い。こんなことは今までほとんどありませんでした。

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  袋が目一杯ふくらんで、これならと思うものでも、とって食べてみるといまいち甘くなかったりします。数が少ない上に、おいしくないビワの割合が例年になく高い。本当にがっかりです。

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 ただ、ときどき大きな実がなっているのは、全体の数が少ないせいでしょう。

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 6月12日には、うちの奥さんの友人夫妻が遊びに来たのですが、こんな状況だったので、当初予定していた「びわ狩り」とはいきませんでした。

 全部とってしまうにはまだちょっと早そうだけど、いよいよ梅雨入りで雨が続きそうなので、帰る前にとりあえずこの程度は収穫しました。去年の三分の一くらいでしょうか。

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 毎年あちこちの親族・友人宅に、少しずつ季節のたよりとしてびわを送っているのですが、今年は休みにさせてもらうお宅が多くなりそうです。関係各位はあしからずご了承ください。

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2010年6月10日 (木)

第一番 杉本寺

 2010(平成22)年6月5日(土)、まずは第一番、大蔵山杉本寺(だいぞうざんすぎもとでら)、杉本観音へ行きました。

 鶴岡八幡宮から岐れ路をすぎて十二所・朝比奈方面へ向かう金沢街道をちょっと行ったところ、道路脇がすぐ入口の階段になっています。

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 途中の山門。奥にまた階段が見えます。

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 この苔の階段は使用禁止。脇の階段を登ります。

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 そして茅葺きの本堂。ここは天平6(734)年に行基が開いたという鎌倉最古の寺です。

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 本尊の十一面観音の来歴などのこともありますが、まずはお詣りをすませて、これをもとめました。納経帳です。通常のスタンプラリーとは違って、なんとなくありがたそうではありませんか。

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 そして第一番の頁ご印をいただきます。文字も書いていただきます。
 よく読めないのが情けない。一番上は十一面観音をあらわす梵字のようです。その下は「十一面大悲(殿?)」でいいのでしょうか。

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 この頁の裏には、

 たのみある しるべなりけり 杉本の ちかひはすえの 世にもかはらじ

という詠歌が記載されています。

 なにはともあれこれで第一歩を踏み出しました。
 「巡礼に御報謝」です。

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2010年6月 9日 (水)

板東三十三カ所巡礼

 南無谷から館山の街へ行くときに、ときどき那古寺(なごじ)というお寺の前を通ります。一度寄っておまいりしたことがありますが、ここは板東三十三カ所巡礼の第三十三番目、最後の結願の寺となっています。最近ほかの三十二カ所はどことどこで、どうまわるのか気になってきました。
 
 とりあえず『板東三十三観音巡礼 法話と札所案内』(板東札所霊場会編、1987、朱鷺書房)という本を見てみました。

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 『板東三十三カ所 観音霊場めぐり』(平幡良雄、1981、満願寺教化部)という本もありました。

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 インターネットで調べてみると、
「板東三十三観音公式サイト http://www.bandou.gr.jp/
というページもあります。

 板東三十三カ所のお寺と場所はこうです。

1 番 大蔵山・杉本寺 神奈川県鎌倉市二階堂 
2 番 海雲山・岩殿寺  神奈川県逗子市久木
3 番 祇園山・安養院田代寺 神奈川県鎌倉市大町
4 番 海光山・長谷寺 神奈川県鎌倉市長谷
5 番 飯泉山・勝福寺 神奈川県小田原市飯泉
6 番 飯上山・長谷寺 神奈川県厚木市飯山
7 番 金目山・光明寺 神奈川県平塚市金目
8 番 妙法山・星谷寺 神奈川県座間市入谷
9 番 都幾山・慈光寺 埼玉県比企郡都幾川村西平
10番 巌殿山・正法寺 埼玉県東松山市岩殿
11番 岩殿山・安楽寺 埼玉県比企郡吉見町御所
12番 華林山・慈恩寺 埼玉県岩槻市慈恩寺
13番 金龍山・浅草寺 東京都台東区浅草
14番 瑞応山・弘明寺 神奈川県横浜市南区弘明寺町
15番 白岩山・長谷寺 群馬県群馬郡棒名町白岩
16番 五徳山・水澤寺 群馬県北群馬郡伊香保町水沢
17番 出流山・満願寺 栃木県栃木市出流町
18番 日光山・中禅寺 栃木県日光市中禅寺歌浜
19番 天開山・大谷寺 栃木県宇都宮市大谷町
20番 獨鈷山・西明寺 栃木県芳賀郡益子町
21番 八溝山・日輪寺 茨城県久慈郡大子町上野宮
22番 妙福山・佐竹寺 茨城県常盤太田市天神林町
23番 佐白山・観世音寺 茨城県笠間市笠間
24番 雨引山・楽法寺 茨城県真壁郡大和村本木
25番 筑波山・大御堂 茨城県つくば市筑波
26番 南明山・清瀧寺 茨城県新治郡新治村小野
27番 飯沼山・圓福寺 千葉県銚子市馬場町
28番 滑河山・龍正院 千葉県香取郡下総町滑川
29番 海上山・千葉寺 千葉県千葉市中央区千葉寺町
30番 平野山・高蔵寺 千葉県木更津市矢那
31番 大悲山・笠森寺 千葉県長生郡長南町笠森
32番 音羽山・清水寺 千葉県夷隅郡岬町鴨根
33番 補陀洛山・那古寺 千葉県館山市那古

東京都  1カ所
神奈川県 9カ所
千葉県  7カ所
埼玉県  4カ所
茨城県  6カ所
栃木県  4カ所
群馬県  2カ所

 地元神奈川県が9カ所で、最近なじみになった千葉県が7カ所と、近場にけっこうあります。1から4番までは鎌倉・逗子なので、すぐ行けそうです。
 老後の楽しみと言えば、昔からお宮まいりに寺まいりと相場がきまっています。全部行けるかどうかはともかく、ぼちぼちと行ってみようかという気になりました。

 まわる順番は特に決まってなくて、自分の都合で行けるところから行けばよさそうです。上記の公式サイトには「公式巡礼用品の紹介」
http://www.bandou.gr.jp/goods/goods.php
という頁もあって、「最低限、輪袈裟・数珠はご持参下さい」となっていますが、とりあえずはこれもいいでしょう。

 ということでともかくやってみようと、新しく「板東三十三カ所」というカテゴリーを作りました。

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2010年6月 7日 (月)

大銀杏の新芽

 6月5日(土)鎌倉へ行って、鶴岡八幡宮の倒れた大銀杏のその後を見てきました。

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 階段脇の残った根からも、その左側7メートルばかりのところに移植された幹からもあたらしい芽がたくさん出てきていました。

 これが、もとの根から出てきたひこばえ。こんもりと繁っています。

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 こちらが切断して植えられた幹。上から横から新しい芽がたくさん出てきています。

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 南無谷のわが家にも銀杏が一本ありますが、大きくなりすぎて切ったところから出た枝がまた大きくなってきて、さてどうしようかという感じになっています。
 銀杏は強いですね。切っても切っても枝を伸ばしてきます。うちの奥さんの話では、切り払った枝をさらに短く切って花壇の囲いに立てておいたら、いつのまにか根が出ていたそうです。
 強いのはいいけれど、小さな家では大きくなりすぎるのは困ります。

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2010年6月 5日 (土)

25 『笑話コレクション』

 ブリキのおもちゃコレクター、テレビの「開運!なんでも鑑定団」の鑑定士として有名な北原照久に『笑話コレクション(しょうわ-)』(翔年社、2006)という本があります。

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 一番最初に紹介されている笑話がこれ。

コレクターの性(さが)

 あるコレクター、世界で一冊しか現存しないとされていた本を持っていると自慢していた。
 ところが、あるオークションで、同じ本が売りに出された。信じたくはなかったが、焦った彼は、全財産をなげうってでもとそれを競り落とした。
 手に入れるやいなや彼は、それを暖炉に投げ入れた。(P17、下線部は原本では傍点。以下同じ。)

 おわかりだと思いますが、競り落とした本を暖炉で燃やすことによって、本当に世界で一冊しかない本の所有者になれた、という話です。これはジョークというより、蒐書狂というのがどれほど狂った人間であるかを示すエピソードとして有名な話です。

 本が出てくる笑話はもうひとつ。

これぞ男のホンカイ!

 おいしいシウマイ♪崎陽軒の野並豊会長は粋な方で、その会社に招待されたときのことである。通された応接室には、立派で大きな書棚が壁を飾っていてズラリたくさんの本が納まっていた。
 ボクは「すごいですねぇ。これ全部お読みになったのですか?」と尋ねた。
 すると野並会長、「いやあ、読んでない本がたくさんあるよ。ただ本が好きなものだから、よく本屋に立ち寄って、思わず何冊か買ってしまうんだ」とおっしゃる。
 そして「それが癖(へき)なんだ」と付け加え、はにかみながら……さらにひとこと「男の本懐ってもんかな」(P26)

 崎陽軒のシウマイ弁当はうまいですね。これまでに何十食も、ひょっとすると百食以上食べているかもしれませんが、あきたという感じはありません。

 崎陽軒のシュウマイはなぜ「シウマイ」なのか、横浜では昔シウマイと呼ばれていたのか。疑問でしたが、野並豊会長の『大正浜っ子奮闘記』(神奈川新聞社、2007)という本を読んでわかりました。

 父の郷里の栃木県に独特の訛りがあり、「え」と「い」が逆になったり、「きゅー」「しゅー」の発音が「きぃー」「しぃー」になる傾向が強い。従って父がシューマイを読むとどうしても「シィーマイ」になってしまうのである。
 では、本場中国ではどう発音するのか疑問に思い、職人の呉さんに発音してもらったところ、「シウ※マイ」だという。(注:※=斜め右上の矢印)中国語には四声というものがあり、その抑揚によれば「シウ※」という発音になるらしい。それを聞いた父は上機嫌で、「ほら見ろ、中国語ではシューマイじゃなく、シウマイというんだ。だから、崎陽軒はシウマイでいこう」という理由で、当社の商標ができあがった。(前掲書P26)

 駅で折り詰めにして売るために、冷めてもおいしいシュウマイ(シウマイか)を作ったというのは有名な話ですが、実際に開発したのが、このお父さんと中華街からスカウトしてきた広東生まれの点心職人の呉遇孫さんだったそうです。

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 ちょっと「本のジョーク」からはずれてしまいました。

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2010年6月 3日 (木)

鳩山首相の辞任

 昨日(6月2日)、鳩山首相が辞意を表明しました。鳩山たたきの記事や言説ばかりの中で、内田樹のブログhttp://blog.tatsuru.com/)がちょっと新鮮でした。こういう見方もできるのか、ということですが。
 全文を引用しておきます。

首相辞任について

鳩山首相が辞任した。
テレビニュースで辞意表明会見があったらしいが、他出していて見逃したので、正午少し前に朝日新聞からの電話取材でニュースを知らされた。
コメントを求められたので、次のようなことを答えた。
民主党政権は8ヶ月のあいだに、自民党政権下では前景化しなかった日本の「エスタブリッシュメント」を露呈させた。
結果的にはそれに潰されたわけだが、そのような強固な「変化を嫌う抵抗勢力」が存在していることを明らかにしたことが鳩山政権の最大の功績だろう。
エスタブリッシュメントとは「米軍・霞ヶ関・マスメディア」である。
米軍は東アジアの現状維持を望み、霞ヶ関は国内諸制度の現状維持を望み、マスメディアは世論の形成プロセスの現状維持を望んでいる。
誰も変化を求めていない。
鳩山=小沢ラインというのは、政治スタイルはまったく違うが、短期的な政治目標として「東アジアにおけるアメリカのプレザンスの減殺と国防における日本のフリーハンドの確保:霞ヶ関支配の抑制:政治プロセスを語るときに『これまでマスメディアの人々が操ってきたのとは違う言語』の必要性」を認識しているという点で、共通するものがあった。
言葉を換えて言えば、米軍の統制下から逃れ出て、自主的に防衛構想を起案する「自由」、官僚の既得権に配慮せずに政策を実施する「自由」、マスメディアの定型句とは違う語法で政治を語る「自由」を求めていた。
その要求は21世紀の日本国民が抱いて当然のものだと私は思うが、残念ながら、アメリカも霞ヶ関もマスメディアも、国民がそのような「自由」を享受することを好まなかった。
彼ら「抵抗勢力」の共通点は、日本がほんとうの意味での主権国家ではないことを日本人に「知らせない」ことから受益していることである。
鳩山首相はそのような「自由」を日本人に贈ることができると思っていた。しかし、「抵抗勢力」のあまりの強大さに、とりわけアメリカの世界戦略の中に日本が逃げ道のないかたちでビルトインされていることに深い無力感を覚えたのではないかと思う。
政治史が教えるように、アメリカの政略に抵抗する政治家は日本では長期政権を保つことができない。
日中共同声明によってアメリカの「頭越し」に東アジア外交構想を展開した田中角栄に対するアメリカの徹底的な攻撃はまだ私たちの記憶に新しい。
中曽根康弘・小泉純一郎という際立って「親米的」な政治家が例外的な長期政権を保ったことと対比的である。
実際には、中曽根・小泉はいずれも気質的には「反米愛国」的な人物であるが、それだけに「アメリカは侮れない」ということについてはリアリストだった。彼らの「アメリカを出し抜く」ためには「アメリカに取り入る」必要があるというシニスムは(残念ながら)鳩山首相には無縁のものだった。
アメリカに対するイノセントな信頼が逆に鳩山首相に対するアメリカ側の評価を下げたというのは皮肉である。
朝日新聞のコメント依頼に対しては「マスメディアの責任」を強く指摘したが、(当然ながら)紙面ではずいぶんトーンダウンしているはずであるので、ここに書きとめておくのである。(2010.06.03 http://blog.tatsuru.com/)

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