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2010年7月

2010年7月 9日 (金)

第十四番 弘明寺

 昨日7月8日は横浜市南区の瑞応山弘明寺(ずいおうざんぐみょうじ)、弘明寺観音へ行ってきました。 ここは第十四番札所です。
 このあたりには若いころからなじみがあって、いつでも行けるという気がするので急ぐつもりはなかったのですが、ちょうど7月8日から10日まで四万六千日ということなので、行ってみました。一日の参拝で四万六千日分功徳があるという、年に一度の観音様のサービスデーです。

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 これが山門。 

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 階段を登って行くと、途中に竹で作った竹観音や身代わり地蔵があります。これが竹観音。

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 身代わり地蔵。

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 そして本堂。

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 四万六千日で十一面観音ご開帳ということでしたが、ずっと奥の方までもう大勢の人が座っていて、そのうち勤行が始まり、一番後ろしか空いていない状態だったので、遠くから拝んだだけで、赤飯を買って帰りました。

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 ここの参道はアーケードの商店街になっていて、昔から庶民的なにぎやかな街ですが、時代の趨勢か、そこそこシャッターが閉まっている店も見られました。昔はなかった全国展開のチェーン店が増えているのも時代の流れでしょう。

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「さむるほのみや」の謎

 家へ帰って、このブログにのせようと、坂東札所霊場会の「板東三十三観音公式サイト http://www.bandou.gr.jp/temple/temple11-20.php 」で、弘明寺のご詠歌を調べてみると、

 ありがたや ちかひの海を かたむけて そそぐめぐみに さむるほのみや

となっています。この最後の句がわからない。「さむるほのみや」って何だ。
 「さむる」は「覚むる」あるいは「醒むる」だろうが、「ほのみや」は?
 まさか「さむ るほのみや」や「さ むるほのみや」ってことはないだろう。それじゃ余計わからない。
 「穂の宮」?「穂の実や」?「ほの見や=仄見や」?

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 前に紹介したガイドブック『板東三十三カ所 観音霊場めぐり』を見ても、歌がのっているだけで、意味の解説はない。(P70)

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 古語辞典を見てもわからない。インターネットで調べても、三十三カ所巡礼の紀行や解説のページには、ご詠歌がそのまま載っているだけで、意味の説明は見あたらない。
 結局さっぱりわからないまま、昨夜はあきらめて寝ました。
 そして、今朝あらためて納経帳の弘明寺の頁を見てみると、なんとこうなっていました。

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 ありがたや ちかひの海を かたむけて そそぐめぐみに さむるほのやみ

「さむるほのやみ」です。「ほのみや」ではなく「ほのやみ」です。「ほのみや」はただの誤植か!

 これなら、「醒むる仄闇(ほのやみ)」なら、なんとか意味がわかるような気がします。こんなところでしょうか。責任はもてませんが。

 ありがたいことだ。観音様の、海のように大きな衆生救済の誓願のお力をふりそそぎお恵みいただいて、薄暗い闇の世界から目が覚める。

 それにしても、まさか公式ホームページとガイドブックの両方が間違っているとは思いませんでした。ガイドブックは1987年の初版で、私の持っているのは2002年第一版23刷です。誰も気がつかなかったんでしょうか。
 あらためてインターネットのYahoo!で検索してみました。
 「さむるほのやみ」で出てきたのが30件。
 「さむるほのみや」で出てきたのが52件。
 なんと間違っている方が多い。
 ご詠歌の意味をいちいち考えるような人間の方が少ないんでしょうね。
 まあ、そんなこと信心には関係ないと言えば関係ないけれど…

【追記:2013/1/15】
 失礼しました。上記の歌の解釈は間違っていました。
 「ほのやみ」は「焔疫」で疫病のことでした。訂正いたします。
 詳しくは、第十四番弘明寺 ご詠歌をご覧ください。

 

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2010年7月 6日 (火)

26 北朝鮮ジョーク

 国別のジョーク集もいろいろあります。キム・ジョーダン編万歳!将軍様 北朝鮮ジョーク集』、日本文芸社、2007)という本から、本のジョークをひろってみました。

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おとぎ話

 ある作家が友人と話していた。
「いま、新しい小説を書いているんだ」
「どんな話なんだい?」
「時代は二〇五〇年」
「SF小説か」
「若い男女が知り合って愛し合う」
「恋愛ものか」
「二人は幾多の障害を乗り越え、やがて結ばれて平壌で幸せになる」
「なんだ、おとぎ話か」

(『万歳!将軍様 北朝鮮ジョーク集』P134)

 

経済計画

 二人の作家が話していた。
 一人が質問した。
「おとぎ話とわが国の経済計画との違いはなんだと思う?」
 もう一人が答えた。
「おとぎ話は”むかしむかし”で始まるが、わが国の経済計画は”やがて、いつかは”で始まる」

(『万歳!将軍様 北朝鮮ジョーク集』P135)

  

読書 

 ある日、金正日が読書をしていた。
 その本は『禁酒のススメ』というタイトルで、酒の有害性について詳しく書かれていた。
 酒好きの金正日は、額にじっとりと冷や汗をかきながらつぶやいた。
「おお、こわ。こんなことはもうやめよう」
 その日以来、金正日は本を読まなくなった。

(『万歳!将軍様 北朝鮮ジョーク集』P184)

 ソ連などの独裁国家のジョークを変型したものが多いようです。独自のジョークが生まれるような余裕はないのかもしれません。
 竹村健一・田澤拓也もし世界が80問のジョークだったら』(太陽企画出版、2002)という本には「東コリャコリャ」という架空の国名ででてきます。その国で使われているのがハングリー文字。

復興支援の贈り物

 アフガニスタンの復興支援に世界各国から、さまざまな物資が届きはじめた。興味深いもので、アメリカからは大手チェーン・クウトナクナルドのハンバーガー、フランスからは不要不急の高級ファッション製品、ドイツからは医薬品というように、各国それぞれの特徴があらわれている。
 ところが予想に反して、もっともかさばる荷物はアジアの片隅の東コリャコリャからの木箱の山だった。しかも手にとるとズシリと重い。あいにくハングリー文字を読める者が誰もいないので中身がわからない。
 受け取った係官たちは「おいおい、これは東コリャコリャからじゃないか」「まさかあぶないミサイルなんかじゃないだろうな」などと口々にいいながら、おそるおそる木箱を開けてみた。
「おおっ、これは!」
 係官は、わが目を疑った。

 さて、木箱の中に入っていたのは何だったのでしょうか?

答え ハングリー文字で書かれた『洞窟での暮らし方』という本が5万冊。

(『もし世界が80問のジョークだったら』p125)

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2010年7月 3日 (土)

吉本隆明と谷沢永一 5

 二十三年後の2002年(平成14)、谷沢永一の論争必勝法』(PHP研究所)という本が出た。谷沢がこれまで行った論争を回顧し、解説した本である。その中に、「吉本隆明との滑稽な論争」と題する話があった。「いちばん滑稽な論争の相手は吉本隆明である。」と始まる。

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 谷沢曰く、昭和43年から筑摩書房が刊行した『現代文学大系』全九十九巻の第九十七巻『現代評論集』は、当初三十五名の評論家を並べる予定で、その中に吉本隆明も入っていた。当時の内容見本に吉本の名前が出ているから、吉本も最初は承知したのであろう。
 しかし、文学全集の編纂にはよくある話だが、三十五人で一冊という余り物の片づけみたいなところへ放り込まれたのが、吉本には気に入らなかったのだろう。講談社の若者向き『現代文学全集』では江藤淳と二人で一冊だったのに、この全集では江藤淳は四人で一冊、吉本は三十五分の一である。

 吉本隆明もなかなか作戦家である。彼が脳を患っているのでないとすれば、浦西和彦の文面をあれほど妄想的に読み違える筈がない。吉本は正気なのだ。ただし、年譜の作成を戸籍謄本から始めるとことん厳密な書誌学者の意向を理解できなかったことは理解できる。だから、本籍を聞かれたのが不快であったのだろう。書誌学の何たるかがワカラン素人にはよくあることだ。しかし直ちに彼はこの不快な葉書を利用する方法を考えついた。さきほど私が注記したように、それを筑摩書房の担当者に渡したというところがオカシイ。処分するなら自分で処分したらよいのであって、彼の不快と筑摩書房とは何の関係もない。何の関係もないのに、しかし彼はムリヤリ関係をつけようとした。つまり『現代日本文学大系』の編集について語り合う機会を作ったのである。正面から突然に談合に行くのは不自然である。しかしこの葉書一枚を仲介にして話し合いを始めたら格好がつく。そこで自分の処遇が不当であることを訴え、せめて江藤淳と同等に扱ってもらえないかと持ちかけたのであろう。そのために自分が浦西に軽く扱われている不平を交渉のネタに用いたのである。折角の苦心も筑摩には通ぜず、イロよい返事はもらえなかった。そこで「降りる」と宣言したのがせめてもの筑摩への面(つら)当てだったのだろう。谷沢と浦西は彼の名誉欲のため、ダシに使われたのであった。(『論争必勝法』(P151)

 これは谷沢永一の推測だが、なるほどそういうものであるか、と思わせる話である。

 吉本・谷沢論争についての話、今回で終わりです。長くなりました。

 吉本隆明の文章は、吉本隆明「情況への発言」全集成2』(2008、洋泉社)に収録されています。

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2010年7月 2日 (金)

吉本隆明と谷沢永一 4

 さらにこれに対し吉本隆明は、『試行51号(1979年1月、試行社)の「情況への発言」で次のように書いた。

 わたしは先頃、谷沢永一という近代文学研究の馬鹿学者が、まったくしみったれた道化役者にしかすぎないのに、いやに実証研究の大家づらをして、小心な学者たちを脅かしているばかりか、スターリニストの昔とった杵柄で、その批判とやらが実証主義を装ったまやかしもので、鎧の袖の下は学閥的党派性や政治的な党派性の狙い撃ちに外ならない所以を暴露し、その珍奇な文学論(?)をちょっとカラカッてやった。するとまさしくわたしの指摘した通りの己れを知らぬ、また他者の<心づくし>を知らない本式の馬鹿であることを自ら露呈していた。谷沢の研究室所属の研究者の名前で、自ら編集する編著に収録する文章の著者から文学的「略歴」を往復葉書で問い合わせて、<実証>的研究の資料に間に合わせるインチキ「実証」研究と、さもしい根性をあきれられて、わたしだけではなく外の文章の著者からもひんしゅくを買って、降りる降りないの失態をやらかしたという明確な(しかも自分の胸に手を当ててみればすぐにわかる)「事実」を否定し、あろうことか担当の編集者に問い合わせたら<そのような事実は知らない>と答えてくれたと称して、わたしの言説をデマゴギー呼ばわりしていた。盗人猛々しいとはこのことだ。わたしは谷沢永一をデマゴギーを使ってまでヘコませるほど尊重もしていないし、大物の敵だとも思っていない。せいぜい「日本読書新聞」や「新日文」や「株屋の雑誌」と同程度のくずれスターリニストだとおもっている。降りかかったクモの巣をちょっと吹いているだけだ。(『試行』51号、P3)

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 論争どころではない、悪意の罵倒があるだけである。
 これを呉智英は「吉本は、日頃の勢いにも似ず、ただへどもど言い訳をするばかりで」と書いたが(吉本隆明と谷沢永一 1)、言いわけにもなっていない。
 証拠の葉書を出して見ろと言われ、逆上して「文句あるか馬鹿野郎」と罵倒しているだけである。「くずれスターリニスト」という罵倒語はちょっとなつかしいが。
 吉本は、谷沢の方法論にも言及しているけれど、谷沢の論文や著作を読んでいる気配はない。『文学』45号に掲載された文章の「実証」とか「博覧と精査」という単語に反応して罵倒しているだけである。中身のある論はない。
 これで「吉本・谷沢論争」はいちおう終わって、『試行』だけを読んでいる吉本読者は別にして、おおむね谷沢の勝ちということになったらしい。しかしこれは、最初に『牙ある蟻』を読んだとき思ったように「論争」とはいいがたい。

 吉本隆明は、いったい何のためにこんなものを書いたのか。

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2010年7月 1日 (木)

吉本隆明と谷沢永一 3

 谷沢永一は、「捏造は想像力の行使であるか」という反論を発表した。(関西大学国文学会『国文学』54号(昭和52年(1977)9月25日)に掲載。『牙ある蟻』に収録。関西大学の本は未見、引用は『牙ある蟻』による)こちらも冒頭から激越な調子である。

 吉本隆明は「情況への発言-きれぎれの批判-」(『試行』47号、52年2月)と題する泥酔体の譫妄言を、雑誌の巻頭言にお筆先然と掲げているが、その第一節と第二節においては、私の「文学研究に体系も方法論もあり得ない」(『文学』52年1月)への批判を記したつもりであるらしい。しかし、殆んど錯乱状態でクダをまいたにすぎぬこの痴愚言のどこを探しても、批判の論理は全く成り立っておらぬ。(『牙ある蟻』P89)

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 そして往復葉書による「文学研究」については、こう書いた。

吉本隆明が、これは過去に実際にあった事実である。というしらじらしい触れ込みのもとに、誰から求められたのでもない全く自発的な動機にもとづき、みずから恃む「想像力」で、思う存分に書き記した妄想と捏造がこれである。(『牙ある蟻』P91)

 問題の書物は筑摩書房の『現代日本文学大系』97『現代評論集』(昭和48年5月7日)で、谷沢はこの本の編集者ではないが、依頼により解説の執筆などにたずさわったと次のように述べる。

 日時を正確には記憶せぬが恐らく昭和四十七年年の秋、私は筑摩書房から次の各項について指名を受けた。(一)『現代評論集』に収録を予定している三十五篇(のち吉本隆明がひとり「拒否」したので三十四篇となった)を所定の頁に収める為の調整、(二)解説執筆、(三)年譜作成、(四)月報の研究案内執筆。このうち、三十五名の略年譜を短期間に根底から調査作成するのは非力な私の手に余るので、年譜だけは浦西和彦との共同製作を希望し、編集部の賛同を得た。
 年譜作成の第一着手は、言うまでもなく戸籍謄本の入手である。各人の戸籍謄本を取り寄せる為には、本籍地と生年月日を誤りなく確認せねばならぬ。そこで直ちに浦西和彦は、当時の住居であった吹田市竹見台の自宅のアドレスと彼個人の名を記して、林達夫・渡辺一夫・丸山真男・鶴見俊輔ら三十五名全員に宛て、『現代評論集』付載年譜作成の為と理由を明記し、本籍地と生年月日と、ただその二項目だけの確認を乞う往復葉書を出し、吉本隆明を除く三十四名全員から、折り返し快く返信を得た。吉本隆明だけは、この往復葉書を問題とし、結果的には収録を「拒否」したわけである。(中略)
 吉本隆明に限らず『現代評論集』収録予定者の殆んどには、近い過去の誰かによって編まれた年譜が、多少は簡略にもせよすでにそれぞれ具わること言うまでもない。しかし既製の年譜を単に写しとるだけのコピー作業は無意味である。研究者が年譜作成に手を染める以上は、少なくとも正確さの点で、なにほどかの前進を期さねばならぬ。一応は解りきったように見えても、やはり基礎から調べ直す第一着手として、戸籍謄本に遡る作業が必要不可欠だ、と私たちは考えたのである。そういう詮索は無益で不必要な愚行だと、一方的に罵りたい者がいるかも知れないし、そう考えるのはあくまで本人の勝手だから、私たちは私たちで自分の信ずる道を行く。年譜研究の意義と方法について、私は吉本隆明とことさら議論する必要を認めない。それぞれ我が道を行けばよいのである。(『牙ある蟻』P92)

 なにも「文学的略歴」など求めていない。基礎資料として戸籍謄本を確認したいから、本籍地と生年月日の確認を要請しただけあるという。
 谷沢も書いているとおり、文学の研究に戸籍が何で必要なんだ、という反発はたしかにあるだろう。「島崎藤村の生地は定説の○○番地ではなく××番地だった」というような論文がもしあったとしたら、それが正しいものであったとしても、かなり馬鹿馬鹿しいものだとわたしも思う。しかし一方では、そういう作業を気が遠くなるほど積み重ねた上に学問が成立しているということも否定はできない。
 谷沢は、吉本隆明がそれを気に入らないのは勝手だが、事実を捏造するな、と迫る。
 浦西和彦が個人名で出した往復葉書を「谷沢の研究室」から来たとし、本籍地と生年月日の確認を求めただけのことを「文学的略歴を往復ハガキのもう一面に書いて送り返してくれ」とあったというが、そんな馬鹿な葉書を出すわけがない。人をナメ、世をナメた粗暴な捏造だ。
 その動かぬ証拠の往きの葉書がどうなったかいうと、吉本は筑摩書房の担当者に返し、担当者が処分したと言っている。しかし谷沢が当の担当者に問い合わせたら「吉本氏がご自身で廃棄されたか紛失されたことを、私共に渡したというふうに記憶ちがいをされているのではないかと思います」という返信が来た。これは証拠の湮滅ないし隠匿である。

 こうして、吉本隆明の「想像力」が「どの程度のものか」が理解され得よう。吉本隆明は。このような妄想と虚言と捏造の記述を以て、ただそれだけを以て、「谷沢のデタラメな立言と<増上慢>を粉砕するに足りる」と自任している。吉本隆明の「立言」こそ、まさに「デタラメ」と「増上慢」そのものではないか。(『牙ある蟻』P95)

というわけで、これはもう「論争」とは言い難いものになってきている。

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