« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »

2010年10月

2010年10月21日 (木)

第四番 長谷寺

 安養院から安国論寺へ行って、その後、第四番札所、海光山長谷寺(かいこうざんはせでら)までとことこ歩きました。天気のいい土曜日、長谷寺は、大仏も近く鎌倉観光のメインコースなのでとてもにぎわっていました。
 これが山門。

Dscf3348

 入ると庭があって、この奧の階段を登っていきます。

Dscf3372

 長谷寺という名前のお寺はあちこちにあって、板東三十三カ所の中にもここを含めて三つの長谷寺があります。板東三十三カ所は当然観音様ですが、その他の長谷寺もどれも観音様が祀られていて、大和の長谷寺の系列であるようです。
 はじめて知りましたが、「日本三大長谷観音」とか「三大長谷寺」という言葉があるそうです。その三つに

 奈良県桜井市の長谷寺(大和の長谷観音)
 神奈川県鎌倉市の長谷寺(ここです。鎌倉の長谷観音)

は文句なく入りますが、三番目は諸説あって、ネットで見てみるとこんなにあります。

 長野県長野市の長谷寺
 茨城県古河市  〃
 秋田県本荘市  〃
 福岡県鞍手町  〃
 三重県多気町の近長谷寺(きんちょうこくじ)

 「日本三景」のように評価が定まっているものはともかく、「日本三大○○」と言っているものの中には、有名なものにあやかって、うちもひとつ、と自称しているものもけっこうあるようです。

 階段をあがると観音堂。高さ10メートルに近い大きな金色の十一面観音像があります。
 養老年間、この寺の開山と言われる徳道上人が、大和の初瀬(はせ)で楠の巨木を見つけ、本木(もとき)で一体、末木(うらき)で一体の「同木異体」の二体の観音像を作り、本木の一体は大和の長谷寺にまつり、末木の一体は伊勢の海に流した。それが三浦半島の長井の浜に漂着したのを鎌倉へ持ってきて、新長谷寺がひらかれた、というのがこの寺の開山伝説です。
 だからここの観音像は、大和の長谷寺の観音像と同じくらいの大きさです。

Dscf3358

 松本清張・樋口清之の『鎌倉の旅 箱根・伊豆』(光文社、1967)によれば、この寺は古くから有名なのに由来がはっきりしない、というのは、鎌倉時代の基本史料である『吾妻鏡』に、第一番札所の杉本寺第一番 杉本寺)などは火災とか頼朝参拝の記事とかあるのに、この長谷寺はまるで出てこないのだそうです。
 鎌倉時代の市街は東の大町、小町、材木座が中心で、このあたりは観音信仰が盛んになってからひらけた門前町なので、注目すべき政治的事件などがなかったから、たまたま『吾妻鏡』には記事がなかったのでは、というのが、松本・樋口の推測です。

Photo_3 

 観音堂の隣は大黒堂。木像の大黒天があります。前の広場はイベントの設営中でした。

Dscf3355

 鎌倉の海が見える見晴台もあります。

Dscf3361

 にぎやかで若い人や外国人観光客の姿もけっこう多い。
 観光客として見てみると、このお寺はなかなかよくできています。狭くはないが、歩き回って疲れるほど広くはない敷地内に、いろんなものがコンパクトに配置されています。
 メインは金色の10メートルの観音像で、他に大黒堂、経蔵、阿弥陀堂などがあります。下右の写真は地蔵堂で水子供養を受け付けています。

Dscf3360 Dscf3362

  弁天窟という岩屋があって、洞窟くぐりもできます。

Dscf3365 Dscf3368

 日本庭園も当然あって、そのうえこんな「和みの地蔵」まであります。ここで若い女の子たちが記念写真をとっていました。

Dscf3363 Dscf3366

 レストランもあったし、「長谷の市」というイベントも開催されるようです。デートや子ども連れでも楽しめそうです。
 にぎやかだったせいもあって、なんだかちょっとしたレジャーランドへでも来たような気分になってしまいました。寂滅為楽の境地は遠い。
 とりあえず御朱印をいただいて帰りましょう。

 御詠歌は、

長谷寺へ まいりて沖を ながむれば 由比のみぎはに 立つは白波

Photo

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010年10月19日 (火)

第三番 安養院田代寺

 すっかり秋になり、巡礼日和です。10月16日(土)第三番札所、鎌倉の祇園山安養院田代寺(ぎおんざんあんよういんたしろじ)へ行きました。
 安養院というのは北条政子の法名だそうです。その北条政子が建立した祇園山長楽寺善導寺が合併してできた安養院と、頼朝の家臣田代信綱が創建した田代寺がさらに合併して安養院田代寺になったのだそうで、ちょっとややこしい。地図には長楽寺安養院と書いてあったり、ウィキペディアには「正式名称 祇園山安養院長楽寺」と書いてありますが、門前の看板には安養院田代寺と書いてありました。(クリックすると拡大して見られます)

Tdscf3321

 秋晴れのいい天気でした。この大町や小町のあたりは日蓮の辻説法跡があるくらいで日蓮宗の寺が多いのですが、これは浄土宗のお寺です。
 鎌倉駅から逗子の方角、名越の切通しの方へ歩いて十分程度、道路沿いにありました。この垣根はツツジで、季節には上の看板のようになるそうですが、今はご覧のとおり。

Dscf3319

 これが山門。

Dscf3320

そして本堂。

Dscf3323

 阿弥陀如来の後ろに千手観音がおわします。これも拡大して見るとわかります。写真が斜めになっているのはわたしの心が歪んでいるせいでしょうか。

Dscf3322

 本堂のまわりだけの、こぢんまりしたお寺ですが、樹齢七百年という、こんな槇の巨木もありました。

Dscf3324

 これはお地蔵様。

Dscf3328

 御詠歌は、

枯樹にも 花咲く誓ひ 田代寺(たしろでら) 世を信綱の 跡ぞ久しき

Photo

 ここまで来たので、ちょっと奧にある日蓮宗の安国論寺まで足を延ばしましたが、ここは三十三カ所外なので、また別の機会に。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月13日 (水)

28 ちょっと古いジョーク

 先代林家三平の『どうもすみません 駄じゃれ風俗帖』(1962、光風社)という本があります。

 林家三平が売り出したのは、わたしが小学校高学年から中学生だった頃。「どうもすいません」とか「もう大変なんすから」というような定型ギャグで大売れに売れていましたが、子どものときからラジオの寄席番組が好きだったわたしは、たいして面白いとは思いませんでした。笑えないダジャレが多く、しかも「こうやったら笑って下さい」とは芸人として不届きではないかくらいに思っていました。
 当時ナマで見ていた人は、三平にはオーラがあって、ネタは馬鹿馬鹿しかったけれど、とにかく面白かったと言います。テレビを見ていただけなので、そのあたりがわかりません。一度見てみたかったな、と思います。

 この本はその頃やっていた小咄のようなものを集めた本で、今読んでも、わたしの趣味にはちょっとあいませんが、ともかく本に関するジョークを収集するという立場から、ひろってみました。

Photo

推理趣味

 このごろ推理趣味がはやってんですってね、昔は探偵小説、今ではミステリーと名がかわりましたけど、推理小説の好きな人って朝っから晩まで何か事件がおこらないかってんで待ちかまえてンですから……
「おい山田君、ゆうべ考えた推理小説聞いてくれ」
「どんなスジだ」
「室の中でね、独身の女性が殺されてるンだ、その枕もとにバラの花が一輪と、スイミン薬と短刀がおちでたんだ、君はこれを他殺だと思うか」
「バラの花とスイミン薬ねえ、そりゃ自殺じゃないか」
「ところがこれが絶対に他殺なんだ」
「どうしてだよ」
「だからはじめに言ったろ、独身の女性が殺されてたんだよ、だから他殺だ」
(下線部は原本では傍点、『どうもすみません 駄じゃれ風俗帖』P56)

五年前

 約束はするけどすぐ忘れる人がいて、いま約束したのに、五分もたたないうちにもう何を約束したのか忘れちゃって、
「おい山田、いま、君となんの約束したんだっけ?」
「しょうがないな、もう忘れたのか、君といました約束はな、もう君とはぜったい約束しないという約束だよ」
 なかにはもっと忘れっぽい人もいて、
「あなた!この本の間にはさんである写真の女の人はだれです!」
「そりゃお前、僕が五年前に結婚の約束をした女性だ」
「まア!あなたって人は、あたしというものがありながら、こんなおかちめんこな女と結婚の約束をして五年間もあたしにかくしていたんですか!くやしい!」
「おいおいよく見ろ。そりゃ五年前のお前の写真だ」
(『どうもすみません 駄じゃれ風俗帖』P191)

 前にも紹介しましたが秋田実編『ユーモア辞典3』文春文庫、1978)は、三平より前の時代からジョークを集めていたようで、これもちょっと古いかなというところがありますが、同じ趣旨からひろっておきます。(→18 秋田實『ユーモア辞典』

Photo

心得すぎ

「お前は娘に、”すべての若い女が心得ておかねばならないこと”という本をやったのかい?」と父親がたずねた。「ええ」と母親が答えた。そして考えながら、
「そしたらね、あの子、誤りが二十四カ所ほどと、二章ほど書きたす必要がある、といま著者に手紙をかいていますわ」
(『ユーモア辞典3』、P230)

不美人多し

「あの筆野咲子女史はたいへん金持ちになったそうだね」
「うむ、たいした金持ちになったようだ」
「親父の遺産でも受け継いだのか」
「なに……『美人への注意』の一書を著わしたんで」
「それで美人が争ってその本を買うからか」
「いや、美人が買うんじゃアなにほどにもならぬが、不美人が争って買うので大儲けをしたんだ!」
(『ユーモア辞典3』P238)

わいせつ

 きわどい場面、みだらな言葉、ないしそういうほのめかしを決して出さないという、サタデーイヴニングポストの鉄則は、カサリン・ブランの小説”赤髪の女
”が連載された時に破られた。
 第一回目は、主人公たる女秘書と社長の二人が、妻のいない彼の家で、ふけていく夜を酒を飲みながら語り合っているところであった。
 第二回目は、二人が朝食をしているところから始まり、多くの読者を愕然たらしめた。
 編集長ジョージ・ホラス・ロリマーは、非難攻撃の投書に答えるべく次のような一文を刷らせた。
「本誌は、連載小説の登場人物が、回と回の間で行った行為の責任を負うことはできません」
(『ユーモア辞典3』P203)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月10日 (日)

大沢親分の本

 9月7日に亡くなった野球評論家の大沢元日本ハム監督の自伝を紹介します。大沢啓二男くせえ話になるが -やられたら、やり返す反骨野球の心髄』(衆浩センター、1985)という本です。
 テレビの関口宏の「サンデーモーニング」で、スポーツ関係の御意見番として、張本勲と一緒に「天晴れ!」「喝!」とやっていて、最近は好々爺然としていましたが、この本を読むと、若い頃はずいぶん無茶をやった人です。

 伝説の審判暴行事件──高校生のとき審判を殴って、学校が出場停止になったという話の真相を知りたくて、以前この本を買ったのでしたが、その他にもいろいろおもしろい話がつまっていました。
 今どきこんなことをやっていたら、マスコミのバッシングで絶対プロ野球の選手にはなれなかったでしょう。大沢親分の高校時代は昭和24(1949)年から26年(1951)、六十年前、戦後の混乱の時代でした。

 内容には武勇伝としての誇張や、その逆の省略もあるのでしょうが、ともかくこの本に書かれている若い頃をたどってみます。

Photo

 神奈川県藤沢市片瀬の江ノ島へ向かうメインストリート、スバナ通りのみやげもの屋の息子として生まれた。
 昭和20年に旧制の県立平塚工業へ入学。悪ガキでケンカにあけくれていた。その8月が終戦で、金もない食い物もない時代だった。
 悪ガキをかたらって、江ノ島へ観光に来る進駐軍の米兵からかっぱらいをやった。停めてあるジープから缶詰やタバコ、チョコレートなどをかっぱらった。ところが半月も続けると、ピストルを持ったMPが見張りに来るようになった。それでもやったら、見つかって追いかけられた。MPが発砲して、仲間の一人が太股を撃たれて入院した。
 平塚駅で街のチンピラ三人に囲まれて殴られ、金や腕時計を奪われた。その後、刀を手に入れて持って歩くようになった。二年生の時、また同じ相手にからまれて、チンピラの飛び出しナイフに、刀を抜いてにらみあった。

 一瞬、背すじに戦慄がはしったが、度胸もすわった。
 ワシはヤッパの鞘をはらうと、右手にそれを持ってかまえた。
 ヤツが仕掛けてきたら、かまわず腰だめで身体ごとぶつかってやろうと思っていた。
 そうすれば、ワシも切られるが、それ以上のダメージを相手に与えられる。(前掲書p28)

 腰だめで身体ごとぶつかる、とは本格派です。
 このとき警官がかけつけて、大事にはいたらなかったが、学校は退学になった。

 昭和22年4月、当時横浜の弘明寺にあった県立神奈川商工(旧制)二年に転校。これを機に、プロ野球選手だった長兄のすすめに従い、本気で野球に取り組むようになった。
 昭和23年の学制改革で、昭和24年に神奈川商工高校の一年生となり、県予選にエースで三番として出場したが、決勝で湘南高校に敗れた。このときの湘南は全国制覇を果たしている。

 昭和25年夏の予選。

 ワシは神奈川予選を前に、優勝を期して一ヶ月の禁煙を誓った。(同書P36)

 野球に打ち込んではいても、素行はあまりあらたまっていなかったようです。
 準々決勝の前に肘が痛くなったが、痛み止めの注射でしのいで、とうとう優勝。念願の甲子園では肘の痛みが続き、一回戦はなんとか勝ったが二回戦で負けた。

 三年の夏、商工は優勝候補の筆頭だったが、二回戦で逗子開成に延長の末、負けてしまった。この試合では二度もホームベース上でのクロスプレーでランナーを殺されていた。とりわけ九回は明らかにランナーの足が早く、サヨナラ勝ちと思った瞬間のアウトだった。

 ワシの外角ギリギリの球も何球か「ボール」の判定を受けていた。
 そんなことで、ワシはムシャクシャしていた。
 あげくのはての負けである。
 腹の虫が治まるはずはない。
 試合後、ワシは主審を便所に引きずり込んだ。
「なんでエコひいきしやがるんだ」
「ひいきなぞしていない」
「ウソつけ!!」
 ワシは思い切り主審をなぐりとばした。(同書P43)

 伝説の審判暴行事件です。高校生が審判を便所に引きずり込むとは。
 商工野球部はじまって以来の不祥事で謹慎処分。家で待機。ノン・プロ二球団、プロの国鉄スワローズからも話が来ていたが、それもご破算。
 そうしたら、なぐりとばした主審がたずねて来て、実は自分は立教大学の野球部員なんだが、卒業したら立教へ来てくれないかと言う。プロへ入りたいと思っていたから、何事もなければスワローズへ入団していただろうが、不祥事の被害者が頭を下げて頼んでいるのに断るわけにはいかない。
 全然勉強していなかったが、答案用紙には何でもいいから必ず何か書け、白紙だけはだめだと言われた。入学試験の当日は大雪のため遅刻して二科目受験できなかったうえ、英語の英文和訳では上の答えのところへ下の問題を書き、下の答えのところへ上の問題を書いた。社会は大ざっぱに日本地図を書いた。当時は運動部すいせん入学の枠があって、これでも合格した。

 入学してさっそく慶応との初戦からレフト・二番で出場して、ヒットを打ったり好調なスタートをきった。

 ところが、慶応との二回戦が終ったところで、明大の島岡監督からクレームがついた。
「母校の神奈川商工が一年間の出場停止処分を受けてるのに、その張本人が野球をやっているのはおかしいじゃないか」(同書P52)

 これはそのとおりですね。今だったらテレビも新聞も大騒ぎしそうですが、なんともおかしい。
 商工の停止処分がとけるまで出場できないことになり、忍の一字の生活を三ヶ月送った。毎朝礼拝堂へ行って礼拝し(このあたりが立教です)、毎日合宿の便所掃除と、部員の洗濯をやった。
 二年生から四番に座ったが、四年生のとき、二年生の長島に四番を奪われ、三番か五番になった。
 当時の立教の監督は猛練習で有名な砂押監督で、凄かったというより無茶だった。

 エラーしたといっては、脳しんとうを起すほどバットで頭をなぐりつけ、ユニフォームが破れて血がふき出るほど、太モモをけり上げるのだ。往復ビンタの嵐ということもある。(P65)

 野球部は脱走者が続出。四年の時とうとう長島、杉浦、本屋敷など下級生から頼まれて、「監督やめてください」と砂押監督排斥運動の先頭に立つことになった。結局砂押監督はやめたが、排斥運動の首謀者として色メガネで見られることになった。

2            (同書66P)

 その後、南海ホークスの元祖「親分」鶴岡監督(当時は山本姓)から声がかかって、南海へ入団。このとき鶴岡監督は、長島、杉浦を一緒に連れてきてくれと頼んでいた。

 このあとはプロ野球での話ということになって、まだまだおもしろい話はありますが、長くなりました。ここまでにしておきます。この本には、五十三歳、日本ハムの監督をやめるときまでの話が書かれています。興味を持たれた方は、直接本をお読みください。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月 8日 (金)

四十年前

0036

 「北京秋天」をさがして加藤芳郎の『まっぴら君』を見ていたとき(→北京塵天10 北京秋天)、こんなマンガも見つかりました。昭和31(1956)年10月27日掲載のものですから、54年前の話です。(『まっぴら君 2』毎日新聞社、1988)

 これは北京で 戦後初の日本商品見本市が開催されたとき(同年10月)、書けない万年筆が出品されたという事件を扱ったものです。
 このころわたしは小学三年生で、この事件の記憶はありません。年表を見ると、中東でスエズ戦争、南極観測船宗谷出航、東海道線全線電化、メルボルン五輪、鳩山(一郎)内閣が石橋(湛山)内閣に替わった等の記事があります。

 当時の日本は、もはや戦後ではないと言われながら、まだこんな事件をおこすような弱小国だったのです。安かろう悪かろが日本製に対する評価でした。
 日本の目標は「東洋のスイス」になることだと言われていたのを覚えています。だからスイスも小さい頃からの憧れのひとつです。(「永世中立国」という言葉が輝いていた時代でした。今この話をすると必ず「スイスには徴兵制があるのを知ってるか」と言われます。)
 日本の製造業は、低賃金の利点をいかして安く製品を世界に供給するところからはじめて、研究開発に力を尽くして次第に品質を向上させ、日本の経済的発展がはじまりました。

 この時代のことを若い世代が知らないのは仕方ありませんが、わたしと同じ世代や上の世代まできれいに忘れてしまっているような気がします。
 日本の巷にあふれる中国製品。「中国製だからすぐこわれる。安かろう悪かろうだからな」と言うとき、少しは昔の日本のことを思い出してもいいのではないかと思います。はじめから「物づくりの達人」だったわけではありません。日本も同じようなところからはじめて、やがて世界を席巻するようになったのです。

 北京旅行中、ガイドのUさんが、しきりに「今の中国は、四十年前の日本と一緒です」と言っていました。
 どこの観光地へ行っても、旗を持ったガイドさんに先導された中国人の団体がいっぱい来ていました。改革開放で経済的に豊かになって、旅行する余裕ができたからだと言うのです。それぞれお揃いのワッペンをつけたり、お揃いの帽子をかぶったりして、ワイワイにぎやかでした。団体でゾロゾロというのは日本人と一緒です。

Dscf3251   (紫禁城太和殿前の観光客)

 書けない万年筆事件は五十四年前ですが、東京五輪が四十六年前(1964(昭和39))、四十年前は、大阪万博(1970(昭和45))の年です。日本中から千里丘陵に観光客が集まり、農協の海外旅行が日本の恥だと言われたりした、高度経済成長の華やかな頃でした。
 ちなみに1970年を年表であたってみると、万博の他に、日航機よど号が赤軍派学生にハイジャックされる、佐藤栄作が四選、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乱入などの年、わたしは大学四年生でした。
 あの頃の日本と同じような状態だと言われると、なるほどそうかという気にもなります。中国には地方との格差の問題や民族問題など、日本とは異なった大きな問題がありますが、活気にあふれ、街の景観や生活が大きく変わりつつあるのはたしかに同じなのでしょう。
 成長を続けた日本は、このあと、バブルの時代に突入していきました。
 海外旅行業界で長年活躍された方の体験記にこんな一節がありました。

高度経済成長期、とりわけバブル期といわれた1980年代後半から1990年代初頭にかけて、日本人旅行者のショッピング熱は頂点をきわめた。JALの国際線はファーストクラスから満員になるといわれ、長距離国際便では、下着にステテコ姿の乗客が、彼らにはどう見ても相応しくないファーストクラスキャビンで寛いでいる姿が珍しくなかった。

そのような時代を背景として日本人旅行者は、内外価格差の大きいブランド品を買いあさっていた。「ショッピングアニマル」が地球を闊歩していたのである。http://www3.kcn.ne.jp/~naka/travel/taikenki-06.htm

 Uさんが「秋葉原で電気炊飯器を三つも四つも抱えている人がいたら、それは中国人だからよろしく」と言っていました。中国人のブランド品に対する熱も高まっているそうです。

 最近、尖閣の事件で、日本人の対中国感情はさらに悪くなったようです。たしかに中国政府の言い分を認めるわけにはいかないし、日本政府の対応には情けなくなります。
 しかし日本と同じ経済成長の道をたどっているとすれば、やがて近い将来に没落の時代もやってきます。その日を楽しみにというわけではありませんが、成長を嫉視するのではなく、長い目で隣人としてうまくつきあっていくしかないのでしょう。
 口うるさくて騒々しくて、最近金回りが良くなって札びらを切って見せる、筋肉質の二の腕に赤い星の入れ墨をした、威張り屋の大男の隣人──ちょっとつきあいにくそうですが……
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月 5日 (火)

佐藤優講演会

 10月3日(日)は、佐藤優講演会に行ってきました。横浜西口のかながわ県民センターのホールです。意外にすいていました。尖閣をめぐる外交問題と検察の証拠捏造問題が連日メディアをにぎわしているところですから、佐藤優の講演なら超満員ではないかと思っていたら、それほど大きくもない、会議室のようなホールで、三人がけの机に二人という席がちらほら残るくらいの入りでした。「日本精神によって、国家統合の危機を克服せよ」という勇ましい演題に、主催の古書・軍学堂という名前を見て、ちょっと入りにくかった人もいたのかもしれません。

Photo

 この演目で日本の「国体」の本義について話をするつもりだったが、その後尖閣の問題が起きたので、そちらを中心に話します、ということで期待どおりの話になりました。
 漫談風に話しながら、厳しい意見や辛辣な批評を交え、また真摯に「国益」を守れと、二時間近く精力的に語りました。そんなに話がうまいという感じではありませんが、みんなずっと聞き入っていました。
 その後、会場で寄せられた数十枚の質問用紙をもって、一枚ずつ全部答えていったのには驚きました。噂どおり、恐ろしくエネルギッシュで、該博な知識の持ち主です。わたしなど聞いたことのない、読んだことのない人や本、理論などについての質問に、ほとんど間髪をおかず次々明確に答えていました。「この本は読んだことがないので知りません」と答えたのは一件だけで、それもわたしの感じではかなりどうでもよさそうな本でした。

 その中でおもしろかった話をいくつか。(わたしのメモなので、間違いがあるかもしれません、ご承知を。)

・(検察の証拠捏造)いつもやってることが、たまたまバレただけ。前田検事を那覇へ派遣すれば、船長からすぐ自白調書がとれたのに。

・わたしは、罪状否認、証拠隠滅の恐れ、逃亡の恐れありという三つの理由で五百数十日拘置所から出られなかった。今回の船長もこの条件にあてはまるのにすぐ釈放された。どうしてこんなに違うのか。怒りがこみあげてくる。

・とにかく前田のような優秀な検事を派遣して自白調書をとるべきだった。いつものようにやればすぐできる。冤罪を作るわけではなく、れっきとした犯行の事実があるのだから問題ない。総領事が来ても、中国がいつもやっているように、沖縄への飛行機の切符を売らないとかして会わせないようにすればいい。あらゆる手段を使うのが外交だ。

・そのうえで、略式起訴で処分してしまえばよかった。公判をひらくと向こうも優秀な弁護士を派遣してきて、その後長期にわたって問題になる。

・釈放してしまって、今後どうするのか。いつか処分を出さないといけない。それが検察審査会で不当とされ、公判を開くことになったら、中国へ船長引き渡しの請求をしなければならなくなる。そのときにはまた問題が沸騰する。全然先が読めていない。

・もと市民活動家のおじさんには外交に関する基礎体力がない。鳩山や小沢ならこんな対応はしなかった。

・今回の件は謀略でなく偶発的な事件。偶発事件のときにこそ基礎体力が出る。これではまた起きる。

・大平と登β小平の間で密約:日本は尖閣を無人島にしておく。

・中国は十年くらい前から nation building を行い、国民国家としてまとまりはじめた。民族としてまとまるためには敵の存在が必要で、日本が敵とされた。だからうまくいくわけがない。それを前提とした外交をしなければいけない。

・ロシア人には二種類ある。悪いロシア人ともっと悪いロシア人だ。中国人も一緒。

・レアアースを締め上げてくるなら、日本はチベットに接近すればいい。レアアースの97%はチベットから来る。ダライ・ラマを呼んでレアアースの話を、とか言えば中国も考える。

・厚生省の元局長が無罪になったのは本当によかった。しかしこれでメディアが、部下が悪事を働いたことの監督責任、厚生労働省の責任まで、まるでなかったかのように扱っているのはいかがなものか。

 Tdscf3311

 農本主義的な考えが大事だ。自分で一生懸命働いて稼いで富を積む、それが国富になり、国益になる。それを基本に、外交ではあらゆる手段を尽くして日本の国益を守れ、と熱く語り、政府への示威行動も示唆するのを聞いて、ああこの人は単なる評論家ではなく、「国士」として生きようとしているのか、と思いました。
 外交官として「国益」のために猛烈に働いたのに、国に、組織に、上司・同僚に裏切られるという苛酷な経験をして、考えに考えたあげく、やはりその「国益」にこだわって、自分の考える「国」のために、ということなのでしょう。
 原稿や講演も、企画に賛同でき、それにかける編集者や企画者の情熱が感じられれば無料でやっているそうです。この講演会も無料と聞きました。やはり「国士」です。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月 2日 (土)

中日優勝!

 今日はこれです。中日ドラゴンズが四年ぶり、八度目のセリーグ優勝です。

Dscf3303 

 シーズン前半は、今年はダメかと思っていました。この戦力でよくやりました。
 落合監督は、マスコミに評判が悪いらしいけれど、就任以来の実績は立派なものです。名監督とたたえましょう。
 日本シリーズもがんばってもらいましょう。

 わが家のテレビは地上波しかうつらないので、プロ野球の実況中継を見る機会がめっきり減ってしまいました。中日の試合はほとんど見られません。
 優勝争いをしているのにこれではいけないと、先日(9月25日)横浜スタジアムへ横浜・中日の最終戦を見に行ってきました。四回表で7対1、これは楽勝と思っていたら、終わったときは9対7。勝ったものの後半はハラハラの試合でした。
 横浜球団の身売り話、新潟へ移転という噂が出てきました。そうなったらますます見られなくなる。この際横浜にもがんばっていただきたい。

Photo     (朝日新聞、2010.10.2、朝刊、横浜版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月 1日 (金)

北京塵天10 北京秋天

 「北京秋天」という言葉について前に書きました(北京塵天2 頤和園)。
 この言葉を聞くと必ず思い出すマンガがあります。昔新聞で見た、加藤芳郎の「まっぴら君」です。何十年も前ですからはっきりとは覚えていないので、今回を機に探してみました。図書館でみつかりました。

0035

 それがこれです。昭和47年(1972)9月26日の毎日新聞に掲載されたもの。三十八年前です。当時、これを見たときには抱腹絶倒、笑いころげました。 
 今あらためて見てみると、落ちはわかっているし、片頬がゆるむくらいです。やはり時事漫画には旬というものがあります。その時代の空気の中でこそおもしろいという部分が必須です。時間とともにその部分が古びていくのは避けられません。今の若い人は、これを見てもなんのことかわからないでしょう。

 掲載日の前日、9月25日に田中角栄首相が北京を訪問し、歴史的な日中国交回復交渉がはじまって、メディアは「日中」で沸騰していました。
 このとき田中角栄は、次のような漢詩を筆でしたためたと報じられました。(漢詩の規則にはあっていないので、漢詩もどきだということですが)

国交途絶幾星霜
修好再開秋将到
隣人眼温吾人迎
北京空晴秋気深

 読み下すとこんなものでしょうか。

国交途絶して幾星霜
修好再開の秋 将に到らんとす
隣人の眼は温かく吾人を迎え
北京の空は晴れて秋気深し

 北京秋天です。

 またこのころ大相撲では、当時関脇の貴ノ花(現在の貴乃花親方の父親)と輪島が秋場所で活躍、大関への同時昇進が話題になっていました。
 この二つのまったく関係ない話題を古い掛軸で結びつけ、「なんだかすごく新しい「書」のような気もしますネ」というとぼけ具合が絶妙です。当時、すごい、加藤芳郎は天才だと思いました。

0035_2

 これ以来「北京秋天 貴輪大関」がわたしの頭の片隅にずっとすみついて、北京秋天という言葉を聞くたびに思い出すというわけです。

 この日中国交回復交渉当時の北京の天気は良かったとみえ、翌々日9月28日のマンガでは「北京晴れ」が話題になっています。<周首相、田中首相に「これならいくら飲んでも頭にきませんよ」とマオタイ酒を勧めた。>と下に説明があります。

 今回の旅行、本当に北京秋天だったらよかったのに、と途中何度も思いました。北京塵天ではいまいち決まりません。

 でもちょっと思いつきました。こんな書が見つかったというのはどうでしょう。

北京塵天
中日優勝

 昨日(9月30日)、阪神タイガースが横浜ベイスターズに敗れ、中日ドラゴンズの優勝マジック1が点灯しました。近未来を予言する書です。

 マンガは加藤芳郎まっぴら君7毎日新聞社、1988)より引用しました。

Photo

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »