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2010年10月10日 (日)

大沢親分の本

 9月7日に亡くなった野球評論家の大沢元日本ハム監督の自伝を紹介します。大沢啓二男くせえ話になるが -やられたら、やり返す反骨野球の心髄』(衆浩センター、1985)という本です。
 テレビの関口宏の「サンデーモーニング」で、スポーツ関係の御意見番として、張本勲と一緒に「天晴れ!」「喝!」とやっていて、最近は好々爺然としていましたが、この本を読むと、若い頃はずいぶん無茶をやった人です。

 伝説の審判暴行事件──高校生のとき審判を殴って、学校が出場停止になったという話の真相を知りたくて、以前この本を買ったのでしたが、その他にもいろいろおもしろい話がつまっていました。
 今どきこんなことをやっていたら、マスコミのバッシングで絶対プロ野球の選手にはなれなかったでしょう。大沢親分の高校時代は昭和24(1949)年から26年(1951)、六十年前、戦後の混乱の時代でした。

 内容には武勇伝としての誇張や、その逆の省略もあるのでしょうが、ともかくこの本に書かれている若い頃をたどってみます。

Photo

 神奈川県藤沢市片瀬の江ノ島へ向かうメインストリート、スバナ通りのみやげもの屋の息子として生まれた。
 昭和20年に旧制の県立平塚工業へ入学。悪ガキでケンカにあけくれていた。その8月が終戦で、金もない食い物もない時代だった。
 悪ガキをかたらって、江ノ島へ観光に来る進駐軍の米兵からかっぱらいをやった。停めてあるジープから缶詰やタバコ、チョコレートなどをかっぱらった。ところが半月も続けると、ピストルを持ったMPが見張りに来るようになった。それでもやったら、見つかって追いかけられた。MPが発砲して、仲間の一人が太股を撃たれて入院した。
 平塚駅で街のチンピラ三人に囲まれて殴られ、金や腕時計を奪われた。その後、刀を手に入れて持って歩くようになった。二年生の時、また同じ相手にからまれて、チンピラの飛び出しナイフに、刀を抜いてにらみあった。

 一瞬、背すじに戦慄がはしったが、度胸もすわった。
 ワシはヤッパの鞘をはらうと、右手にそれを持ってかまえた。
 ヤツが仕掛けてきたら、かまわず腰だめで身体ごとぶつかってやろうと思っていた。
 そうすれば、ワシも切られるが、それ以上のダメージを相手に与えられる。(前掲書p28)

 腰だめで身体ごとぶつかる、とは本格派です。
 このとき警官がかけつけて、大事にはいたらなかったが、学校は退学になった。

 昭和22年4月、当時横浜の弘明寺にあった県立神奈川商工(旧制)二年に転校。これを機に、プロ野球選手だった長兄のすすめに従い、本気で野球に取り組むようになった。
 昭和23年の学制改革で、昭和24年に神奈川商工高校の一年生となり、県予選にエースで三番として出場したが、決勝で湘南高校に敗れた。このときの湘南は全国制覇を果たしている。

 昭和25年夏の予選。

 ワシは神奈川予選を前に、優勝を期して一ヶ月の禁煙を誓った。(同書P36)

 野球に打ち込んではいても、素行はあまりあらたまっていなかったようです。
 準々決勝の前に肘が痛くなったが、痛み止めの注射でしのいで、とうとう優勝。念願の甲子園では肘の痛みが続き、一回戦はなんとか勝ったが二回戦で負けた。

 三年の夏、商工は優勝候補の筆頭だったが、二回戦で逗子開成に延長の末、負けてしまった。この試合では二度もホームベース上でのクロスプレーでランナーを殺されていた。とりわけ九回は明らかにランナーの足が早く、サヨナラ勝ちと思った瞬間のアウトだった。

 ワシの外角ギリギリの球も何球か「ボール」の判定を受けていた。
 そんなことで、ワシはムシャクシャしていた。
 あげくのはての負けである。
 腹の虫が治まるはずはない。
 試合後、ワシは主審を便所に引きずり込んだ。
「なんでエコひいきしやがるんだ」
「ひいきなぞしていない」
「ウソつけ!!」
 ワシは思い切り主審をなぐりとばした。(同書P43)

 伝説の審判暴行事件です。高校生が審判を便所に引きずり込むとは。
 商工野球部はじまって以来の不祥事で謹慎処分。家で待機。ノン・プロ二球団、プロの国鉄スワローズからも話が来ていたが、それもご破算。
 そうしたら、なぐりとばした主審がたずねて来て、実は自分は立教大学の野球部員なんだが、卒業したら立教へ来てくれないかと言う。プロへ入りたいと思っていたから、何事もなければスワローズへ入団していただろうが、不祥事の被害者が頭を下げて頼んでいるのに断るわけにはいかない。
 全然勉強していなかったが、答案用紙には何でもいいから必ず何か書け、白紙だけはだめだと言われた。入学試験の当日は大雪のため遅刻して二科目受験できなかったうえ、英語の英文和訳では上の答えのところへ下の問題を書き、下の答えのところへ上の問題を書いた。社会は大ざっぱに日本地図を書いた。当時は運動部すいせん入学の枠があって、これでも合格した。

 入学してさっそく慶応との初戦からレフト・二番で出場して、ヒットを打ったり好調なスタートをきった。

 ところが、慶応との二回戦が終ったところで、明大の島岡監督からクレームがついた。
「母校の神奈川商工が一年間の出場停止処分を受けてるのに、その張本人が野球をやっているのはおかしいじゃないか」(同書P52)

 これはそのとおりですね。今だったらテレビも新聞も大騒ぎしそうですが、なんともおかしい。
 商工の停止処分がとけるまで出場できないことになり、忍の一字の生活を三ヶ月送った。毎朝礼拝堂へ行って礼拝し(このあたりが立教です)、毎日合宿の便所掃除と、部員の洗濯をやった。
 二年生から四番に座ったが、四年生のとき、二年生の長島に四番を奪われ、三番か五番になった。
 当時の立教の監督は猛練習で有名な砂押監督で、凄かったというより無茶だった。

 エラーしたといっては、脳しんとうを起すほどバットで頭をなぐりつけ、ユニフォームが破れて血がふき出るほど、太モモをけり上げるのだ。往復ビンタの嵐ということもある。(P65)

 野球部は脱走者が続出。四年の時とうとう長島、杉浦、本屋敷など下級生から頼まれて、「監督やめてください」と砂押監督排斥運動の先頭に立つことになった。結局砂押監督はやめたが、排斥運動の首謀者として色メガネで見られることになった。

2            (同書66P)

 その後、南海ホークスの元祖「親分」鶴岡監督(当時は山本姓)から声がかかって、南海へ入団。このとき鶴岡監督は、長島、杉浦を一緒に連れてきてくれと頼んでいた。

 このあとはプロ野球での話ということになって、まだまだおもしろい話はありますが、長くなりました。ここまでにしておきます。この本には、五十三歳、日本ハムの監督をやめるときまでの話が書かれています。興味を持たれた方は、直接本をお読みください。

 

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