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2011年3月

2011年3月31日 (木)

東日本大震災2 日本人の神話

 今回の大震災では、大きな被害を受けながら日本の多くの人々が節度を失わずに対応していることを、世界各国のメディアが賞賛していると報じられています。
 高山正之(→インディアスの破壊についての簡潔な報告世界は腹黒い)は以前、以前こんなことを書いていました。記憶によります。
 
 阪神淡路大震災に対する日本人の対応について、アメリカ人が感心したりしているが、そもそもアメリカ人と日本人はちがう。こういうときに必ずアメリカでは略奪が起こるが、阪神のとき、日本では山口組が炊き出しをしていた。
 ハーバード大学の教授の『これからの「正義」の話をしよう』という本が話題になっている。フロリダの洪水でおこったあくどい便乗値上げを、経済学の「需要と供給の法則」から正当化できるかどうかというような設問を提示しているが、日本人の感覚ではこういう設問そのものがおかしい。中越地震のとき、地元のスーパーは、おたがいさまだからと、野菜などをパックにして、通常二、三千円のもの四百円で売っていた。

 わたしは、日本社会にははっきりした階層のようなものがない、だから「おたがいさま」という感覚が広く通用していることが大きいのではないかと思っています。アメリカなどでは、階層がちがい、人種がちがうと大きく生活がちがい、「おたがいさま」の感覚は生まれにくいのではないでしょうか。
 そしてもうひとつ、テレビを中心として情報が広くゆきわたっていることも大きいと思います。不幸なことですが災害が多いため、災害や避難所の風景を国民が見慣れているので、災害時の対応や、避難所がどういうところか共通の理解があり、こういうときのマナーについて暗黙の理解があります。そして、やがて救援がやってくるという信頼があるのだと思います。
 
 日経ビジネスのHPの「災害現場に急行した自衛隊の実力」という記事の中には「襲われる懸念なしに救援活動を行える」という一節がありました。
 そもそも日本人には「救援活動をしている人を襲う」ということが考えられないと思いますが、ハーバードの教授は、「戦争中に敵国に災害が起こったら、援助物資を略奪するのは正しいか」というような設問を作るのでしょうか。

襲われる懸念なしに救援活動を行える

 そして自衛隊(軍隊)の最大の特徴は当然ながら自ら武装をしていることである。他国では、インフラが破壊され食料や飲料水の入手が難しくなると、暴動や
略奪が発生することが少なくない。ことに貧民層が多い場合、部族や民族の争いがある場合、宗教問題で日常的に住民間に対立がある場合は、なおさらである。また援助物資をかすめ取ろうとする武装集団が軍隊を襲うこともある。

 幸いにして我が国においては、災害で出動した自衛隊が、武装して警戒を行いつつ救援活動を行う必要がない。日本人には当たり前でピンと来ないだろうが、世界的にみれば極めて珍しいことである。さらに言えば便乗値上げで稼ごうという悪徳商人も出てこない。定価かあるいは値下げをする場合も少なくない。

 暴動も略奪も起こさず、互いに助け合うことを当然としている。これは日本人が世界で尊敬され、信用される理由の一つである。このことに我々はもっと誇りを持つべきだ。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110318/219041/?P=3

 日本ではこうだがグローバル・スタンダードではこうだ、みたいな言説が横行していますが、災害の時にも同じ国民を信頼できないような世界のスタンダードなど糞くらえです。

 しかし被災地での窃盗も数は少ないけれど報じられています。
 避難も長期化すればするほどいろんな問題がでてくるでしょう。
 首都圏では、鎮静化する様子のない原発と計画停電によって、政府と東京電力に対する不満がたかまっています。
 外国の記事にも日本政府の対応に批判的なものがいろいろあらわれてきたようです。(→http://gendai.net/articles/view/syakai/129570など)

 えらそうなことは言えませんが、この「日本人の神話」をこわすことなく、みんなで大切にしていかなければ、と思います。

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2011年3月25日 (金)

東日本大震災

 大震災によって亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げるとともに、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

 大震災以来、ずっとブログを書く気にはなりませんでした。原発がおさまらないので落ち着きませんが、少し。

三陸地方

 三陸海岸は、ちょうど四十年前、大学を出たばかりのとき、ちいさな人形劇団の一員として小学校を巡業してまわったところで.した。
 当時の記録として唯一残っている巡業中のマッチラベルのスクラップブックを引っ張り出してみると、宮古、釜石、大槌町、志津川、大船渡、松島…といった名前が並んでいます。釜石を中心に北へ行ったり、南へ行ったり、リアス式の入り組んだ海岸の、当時はまだ未舗装のさびしい道を、右に左にハンドルを切りながら走って行ったことをおぼろげに覚えています。

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1971/09/28 釜石       1971/09/29 種市町(現・洋野町)

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1971/10/02 大槌町吉里吉里      1971/10/04 釜石

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1971/10/05 大槌町浪板  1971/10/07 大船渡

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1971/10/07 宮古

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1971/10/08 大船渡          1971/10/08 釜石

 北海道の南部をまわって室蘭から青蘭フェリーで青森に着き、そのまま岩手県に入って小学校を巡回しました。わたしは人形劇は素人で、主な仕事は車の運転手でした。いくつかのチームに分かれて全国を回るのですが、わたしのチームでは免許を持っているのはわたしだけで、ペーパードライバーのわたしにいきなり北海道へ行ってくれと言われたのには驚きました。

 だから必死で運転して行ったのでしたが、北海道から東北へ戻る頃には多少は慣れていました。それでも三陸のあの海沿いの曲がりくねった道は、ちょっと心細かったことを思い出します。
 巡業はけっこうハードなスケジュールで、ついでに近辺を観光してまわるような余裕はほとんどありませんでした。それでも松島へ行ったときには、せっかくだからと海岸へ足を延ばしました。 
 あの頃まわった町々、わたしにとっては青春の旅の地が、濁流に飲み込まれていくのを、テレビで見ることになってしまいました。衝撃でした。言葉もありません。

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1971/10/11 登米市迫町       1971/10/13 登米市迫町

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1971/10/14  東松島市野蒜    1971/10/17 松島

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1971/10/17 多賀城          1971/10/21 志津川

 また陸前高田には人形劇でも行きましたが、二十年数前、うちの奥さんの妹夫婦が、転勤で住んでいました。夏のころ、まだ小学校に入る前の子供たちを連れて何日か遊びに行きました。町の前に広がる湾で、カキやホタテの養殖をしている、「岩手の湘南」と自称していましたが、 ひなびた落ち着いた港町でした。
 高田についてテレビで最初に聞いたニュースは「壊滅状態」というもので、しばらくは詳細がわかりませんでした。
 妹夫婦は今、盛岡に住んでいますが、当時からの陸前高田の友人・知人で、まだ連絡がとれない人が大勢いるそうです。

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2011年3月15日 (火)

地震騒然

 地震当日のメモです。

 3月11日(金)の地震が起きたときは、横浜・伊勢佐木町の書店の二階にいました。なんだか頭がくらくらする、めまいかな、と思ったら、隣に立っていた客が「揺れてる」と言いました。それからほとんど間をおかずユサユサと床が大きく揺れ始め、これは危ない、と持っていた本を置いて急いで書棚を離れ、手すりにつかまりながら揺れる階段を一階へ降りて、外へ出ました。このときには店の方でも「落ち着いて外へ出てください」と客を誘導していました。
 伊勢佐木町の通りは、周りの商店や会社から出てきたの客や店員、社員などで騒然としており、そこへまた二度三度と大きな揺れがきました。街路樹を囲む鉄製の丸い柵につかまっているうちになんとか揺れは落ち着いてきました。しかしまだいつ余震が来るかわかりません。そこで、もっと広いところへ、と伊勢佐木通りに並行している大通公園へ行きました。
 ここも大勢の人でごった返している中、公園に面した病院の人たちでしょう、白衣の医師・技師あるいは看護師と思われる人たちが固まっているところがあったので、このあたりにいればなにかあってもすぐに手当をしてもらえるかも、とその近くの鉄柵にもたれていました。
 そうしているうちにまた大きな揺れがやってきて、目の前の二十階くらいもありそうな大きなビルが揺れるのがはっきり見えました。今にも建物に亀裂が走るのではないと思いましたが、幸いそこまではいたらず、なんとか揺れはおさまりました。

 そのあとしばらく公園で待機しながら携帯で家族と連絡をとろうとしましたが、まるでつながりません。スマートフォンなのでインターネットを見てみると東北沖が震源でそちらの方で大きな被害がでていることはわかりました。
 関内駅へ行ってみても電車が動く気配はない。公衆電話は長い行列ができている。横浜スタジアムのある横浜公園に大勢人がいるようなのでそちらへ行ってみると、スタジアムが広域避難場所として開放されていました。後から知ったのですが、ちょうどオープン戦の開催中に地震がやってきて、試合は中止、そのまま避難場所になったのでした。中へ入るとスクリーンでテレビのニュースを放送していました。どうも大変なことになっているらしい。ずっと立ちっぱなしだったので、やれやれとスタンドの椅子にしばらく座っている間にも何度か余震がやってきました。

 揺れもずいぶん落ち着いたようだし、雨がパラパラしはじめたこともあって、再度関内駅へ行ってみましたが当分電車は動きそうにない。駅を離れたところで公衆電話はないかと馬車道の方へ行ったら先客が二人だけのボックスが見つかり、ようやく家族と連絡がとれました。無事が確認できたので、電車が動き始めるまでお茶でも飲んで時間をつぶしてから帰ると告げて、近くの喫茶店に入りました。大きな商店は、けっこう閉店していました。

 喫茶店で本を読んでいる間にも何度か余震で揺れました。客の求めに応じて、店では裏口のドアをいつでも開けられるようにしてくれました。1時間以上も本を読んでいましたがやっぱり落ち着きません。駅へ行ってみると完全に封鎖されていて動く気配はない。道路は車で渋滞していて、たまに通るバスは超満員でバス停を通過していきます。

 これはしょうがないと決心して歩き始めたのがもう暗くなっている18時47分。鎌倉街道は会社帰りと思われる人たちが大勢歩いていました。いわゆる「帰宅難民」です。中には横浜から歩いてきた、もう疲れたという声も聞こえます。阪東橋、吉野町、蒔田と行って弘明寺を過ぎると、あたりは停電中。それでも渋滞中の車の明かりがあるし、大勢つながって歩いているので心細いことはありませんでした。
 上大岡まで来ると電気もついていてバスやタクシーを待つ人があふれていました。バスターミナルをちょっとのぞいただけで、とても乗れそうにないと見極めがついたのでまた歩き始めました。結局家へ着いたのは21時ころ。2時間ちょっとかかりました。

 帰ってからはテレビに釘付け。津波の惨状に息をのみました。

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 本当に被災された方々のことを思うと言葉になりません。

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