« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月

2011年5月31日 (火)

スイス本メモ 3

 アイガー北壁というと、これを思い出す。

 トレヴェニアン『アイガー・サンクション』(河出文庫、1985)

Photo

 カバーの売り文句

すぐれた登山家にして大学教授、美術鑑定家、ジョナサン・ヘムロックは、パートタイムの殺し屋でもある。CIIのサンクション(報復暗殺)要員として莫大な報酬を得ている──サンクションの舞台はアイガー北壁、チームを組んだ登山隊のメンバーのなかに、対決しなければならない未知の目標がいる……。ソフィスティケートされた異色のスパイ・スリラーとして絶賛を浴びた大ベストセラー。

 「ソフィスティケートされた」とあるが、いわゆるスパイ・スリラーのパロディのようなもので、まず諜報機関CII(当然CIAのもじり)のボス、ミスター・ドラゴンは、色素欠乏症のため日の光に当たれなくていつも暗い所にいるというマンガのような設定になっている。CIIというのも表向きは中央情報機構(Central Intelligence Institute)の略称といいながら、実は102の戦時中のスパイ機関が統合されてできた寄り合い所帯だから、本当はローマ数字の102(C=100、II=2)なのだという。

四年もたたないうちに、CIIは、米国のスパイ組織をヨーロッパ中の笑いものにし、国外でのアメリカ人のイメージをさらに悪化させ、三回にわたって米国を戦争の瀬戸際にまで追い詰めた。しかも、些細な、プライベートな情報をしこたま集めてしまったので、二セットのコンピュータ・システムを、ワシントンの地下本部に設立しなければならなくなった。一セットは情報の断片を検索するため、もう一セットは最初の一セットを運転するために必要だったのである。(P67)

 万事こういう調子で、これは皮肉のたっぷりきいた男のお伽話なのである。主人公は大学教授で、もちろん女にも暴力にも強く、そのうえ高価な美術品コレクターで、登山家としても有名という設定。おまけに国の裏権力であるCIIにも抵抗する。
 敵の正体は不明だがなぜか登山隊のメンバーの一人であることだけはわかっているとか、なぜアイガー北壁登攀中に制裁しなければいけないのかとか、あまりに不自然な話だが、お伽話だとわかっているから、気にせずに楽しむことができる。

 作者は実際にクライミングもやっていて、まずアイガー登攀史にふれる。

 アイガー。実にふさわしい名だ。初期のキリスト教徒がこの付近の高地にやってきたとき、この山塊の中の二つの高峰に対しては優しい呼び名をつけた──ユングフラウ、つまり処女。メンヒ、つまり修道僧(モンク)である。しかしこのまったく底意地の悪い突起だけは異教の悪霊の名前を授かってしまった。アイガー、つまり”人食い鬼”である。
 世紀の変わり目までにアイガーの岩壁は一つを除いてすべて征服された。その一つというのが北壁アイガーヴァント、即ち”人食い鬼の壁”なのである。経験豊かな登山家たちは、それを”不可能な”岩壁の一つに数え上げていたし、実際に、スポーツマンがハーケンやスナップ・リングで武装する以前の純粋登山の時代には、文字通り登攀不可能な岩壁だったのだ。(P248)

 アイガー北壁は、天気さえよければクライネシャイデックのホテルの望遠鏡から登攀中の様子を見ることができる。だから登攀が始ると、世界中から金持ちたちが見物にやってくるという。

 一九三五年八月半ば、マックス・ゼドゥルマイヤーとカール・メーリンガーがやってきた。かなり難しい登山も豊富に経験してきて、ドイツのスコアボードにアイガーの名前を書き入れたくてうずうずしている二人の若者だった。二人の登攀を観光客たちが、まさにこのテラスから望遠鏡で見守っていた。そのときのこの死の覗き屋たちが、現代の”アイガーバード”の元祖といえる。この連中は、ジェット機仕立てでやってくる腐肉あさりのカラスどもで、このクライネシャイデック・ホテルに群がってきては、死と対決する登山家のスリルを代償的に味わうために法外な金を払い、そして元気を取り戻し、気分を一新してまた音楽つきベッドの生活へと帰っていくのである。(P249)

 このゼドゥルマイヤーとメーリンガーの二人の遭難死からアイガーの悲劇が始まるが、作者の皮肉は、このときのスイス人についても遠慮がない。

 救助隊を組織しようというあまり気乗りのしない動きもあったが、それは生きた彼らに到達できるという望みのためというよりは、何かしないではいられないという熱望の現れであった。典型的なスイス流の同情心の表わし方として、ベルナー・オーバーラントのガイドたちは、いざ救助しようとしても手遅れという時期になるまで、報酬のことでもめていた。(P251)

 主人公が事前の足慣らしにガイドを雇ったときも同様である。

 スイス人のガイドは予想どおり、夜が明けてから出発すればいいのにとぐちったり不平を言ったりした。実のところ二人は山上で夜を越さなければならないことになっていたのだ。コンディションづくりのために山で夜を越すことを最初から考えていたのだとジョナサンは説明した。ガイドは自分で自分の所属をはっきりさせた──まず彼は理解しようとしなかった(属=チュートン民族)、次に彼はちょっとでも動くことを拒んだ(種=スイス人)。しかしジョナサンが報酬を二倍にするというと、たちまち彼はすべてを理解し、のみならず、山中で夜を過すというアイデアは素晴らしい案だと確信をもって言った。
 ジョナサンは前からいつも思っていたのだが、スイス人というのは、金銭好きの、強情な、宗教心に富んだ、金銭好きの、独立心の強い、統制のとれた、金銭好きな国民だった。このベルナー・オーバーラントの男たちは山登りの名手で、山の岩壁に釘づけされた登山者を救助するためにいつも喜んで苦しみや危険と対決していく。ただし、そのあとで彼らは救助してやった相手、あるいは失敗した場合にはその近親者に対して、克明に明細を記した勘定書を送りつけることを決して忘れないのだ。(P263)

 スイス人が金にうるさいというお決まりのジョークを言っているだけとは思えない。この作者はきっとスイスで金について相当ひどい目にあったに違いない。ガイドから請求書を受け取った主人公はこう考える。

 ジョナサンの名状しがたい緊張感と期待感はこのスイスという国がいつも彼の上に及ぼす憂鬱によって重苦しいものになってきていた。この偉大なアルプスがこの卑劣な国にあるということは、自然の最も悪意に満ちた気紛れだとしか、彼には思えなかった。ホテルのまわりをあてもなくぶらぶら歩いていたら、フォンジュ・キルシュ・キスのゲームをしながら馬鹿みたいにクックッと笑い転げている下流アイガーバードの一団に出っくわしてしまった。彼はうんざりして部屋に引き返した。スイスを本当に好きなやつなんて誰もいやしない。いるとすれば人生よりも清潔さの方を好むやつだけさ、と彼は思った。スイスで暮らそうなんてやつは、どいつもこいつもスカンジナビアで暮せばいいんだ。で、スカンジナビアで暮そうなんてやつは、どいつもこいつもルートフィスク(灰汁に漬けた鱈)を食ってりゃいいんだ。で、ルートファスクを食おうなんてやつは……。(P265)

 「フォンジュ・キルシュ・キスのゲーム」のフォンジュは「チーズフォンデュ」で、キルシュはサクランボの蒸留酒。フォンデュを食べるときパンを鍋の中に落とすと、罰ゲームとしてワインを一気飲みするとか、隣の人にキスするとかいうことがあるらしい。

 これからスイスに行くと思うと、昔読んだときには気楽に読み飛ばしていたスイス関係の細かいところが気に留まる。ともかくスイス人の金銭感覚には気をつけよう。

 トレヴェニアンは好きな作家のひとりで、邦訳本はひととおり読んでいる。寡作で、長編はこれだけ。2005年死亡。

Photo

 あと"The Crazyladies of Pearl Street"という未訳の長編が一冊あるそうだが、早くどこかから出してくれないものか。

6 映画「アイガー・サンクション」

 「アイガー・サンクション」は、1977年、クリント・イーストウッドの監督・主演で映画にもなった。

Dvd

 当時見たけれど、大味で、山のシーン以外はあまりおもしろくなかったという記憶があった。
 今回DVDで見直してみたが、やはりたいしたことはなかった。皮肉の部分が抜け落ちて、普通の冒険活劇になってしまっている。岩壁の登攀シーンも、今見るとたいしたことはない。

 去年(2010年)日本で公開されたドイツ・オーストリア・スイス合作の『アイガー北壁』という映画がある。
http://www.hokuheki.com/
 これは1936年、ナチス政権下、国威発揚のためとの期待を背負って北壁に挑んだ四人のドイツ人青年たちの話。四人死亡。
 これも見ておくか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月28日 (土)

スイス本メモ 2

3 新田次郎『アルプスの谷 アルプスの村』(新潮文庫、2004改版)

Photo

 新田次郎のアルプス紀行。もとの単行本の刊行は昭和39(1964)年で、実際に行ったのは昭和36(1961)年。外国へ行くのがまだ大変だった頃だから、アルプスへ行った喜びがあふれている。『山と渓谷』への連載当時は「夢に見たアルプス」という題だったそうだ。

 突然、山と山の間に、緑の牧草地の続く限りの終端に、くっきり浮かぶ白銀の山々が見えた。
 はっとした。アルプスだなと思った。夢にまで見ていたアルプスがいよいよ目の前に姿を見せたことで、私の心臓が鳴り出した。ユングフラウ山塊であった。列車の窓から、多ぜいの人が顔を出し、カメラを向けて、「ユングフラウ」の名を呼んでいた。
 私は目をユングフラウに当てたまましばらくはじっとしていた。わざと冷静さをよそおったのである。ユングフラウは一つの白い石の置き物に見えた。率直にいって、美しいとかすばらしいとか声を上げさせるものはなかった。ユングフラウはまだまだずっと遠い先にあるので、そういった実感は私の胸には応(こた)えてこないのである。
 それにもかかわらず私の胸の鼓動は静まらなかった。なにかその心のおののきは私の遠い昔を思わせるものがあった。恋人に会った時の心の動揺とよく似ていた。合わずにおられないでとうとう会った恋人に対してなにもいわず、むしろ冷然とかまえていたあのころの私の心が長い時間を飛びこえて、よみがえって来たような気がした。(P15)

・新田たちの泊まったホテル
 グリンデルワルドホテル・ベルヴュー
 小さなホテル。戦前から槇有恒のような日本の登山家が泊まったホテル。
 ツェルマットホテル・モンテローザ
 英国人登山家ウィンパーが泊まったホテル。
 今回の旅行で泊まる予定はないが(なにせどちらもユースホステルに予約してある)、ちょっとのぞいてきたい。

・気象庁につとめていただけあって、気候に関する記述が多い。なかでも「乾いた雨」という表現がおもしろい。現地で雨が降ったら日本の雨とどう違うか確認すること。

・スイスの山村と新田の故郷の信州の山村がよく似ているというが、これはどうか。

・また日本の山村が登山の流行とともに古来の生業を捨てて山小屋などで儲けようとしているのに、スイスには観光客がいくら入って来ようが、伝統の生計を変えようとしない山村民がいると書いているが、これは今でもそうなのか。(P296)

・新田の旅の同行者の佐貫亦男は航空工学者で東大・日大教授ののち航空宇宙評論家。戦前からドイツ滞在経験あり。戦後気象庁への勤務時は新田次郎の上司だったとのこと。

4 新田次郎『アイガー北壁・気象遭難』(新潮文庫、1978)

Photo_2

 14編の山岳短編小説集。うちアルプスを舞台にしたのは「ホテル氷河にて」「アイガー北壁」「オデットという女」「魂の窓」の4編。
 「アイガー北壁」は、1965年、二人の日本人登山家のうち一人は生還、一人は死亡という遭難を実名で書いた小説。渡辺恒明は墜落・負傷して頂上直下300メートルの地点で死亡、パートナーの高田光政は救助を求めるために山頂を経由して生還。これが日本人によるアイガー北壁の初登頂であった。

・このときの登頂には、途中天候の悪化もあって5日かかっているようだが、ネットを見ていたら、なんと「アイガー北壁、2時間28分でスピードレコード更新」という記事があった。
http://outdoorhack.com/2011/04/eiger-northface-newrecord/
 上記HPにもあるが、これまでの記録保持者ウエリ・シュテック氏 (Ueli Steck、スイス人のアルピニスト)の登攀中の動画がこれ。一見の価値あり。
http://www.youtube.com/watch?v=G-dPjDYVKUY&feature=player_embedded
 本当になんとも凄まじいスピードで、ロープも使わず、両手のカマキリの刃のようなアイスアックスを駆使して登っていく。まったく驚いた。

・新田次郎の『栄光の岩壁』はマッターホルン北壁の話。これも読みたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月25日 (水)

十七回忌

 5月22日(日)は父母の十七回忌で愛知県へ行ってきました。
  Dscf4038

 平成7(1995)年、何度目かの入院中の母の容体が悪くなり、6月2日に横浜から家族で駆けつけたところ、ひとまず持ち直したので、4日にいったん横浜へ戻り、夕方5時ころ家へ着きました。そうしたら6時少し前に電話が入り、すぐ来いとのことで家族でとんぼ返り。しかし4日午後6時34分死去とのことで、間に合いませんでした。
 その後、それなりに元気だった父が、後を追うように7月1日の夜、自宅で睡眠中に突然吐血したとのことで10時過ぎに電話をもらいましたが、午後10時49分死亡。もう新幹線はないので、11時42分大船発の寝台急行銀河で、ようやく早朝に着いたことを覚えています。
 1か月たたないうちだから、法事はいつも一緒です。
 墓には「倶会一処(くえいっしょ)」= 「ともに一つのところで会う」と書かれてあります。ともに浄土にいてくれるでしょうか。

 子供のころ、この墓地は本当に田んぼの中でしたが、今ではまわりにそこそこ住宅も建っています。

Dscf4042

 ちょっと不謹慎かもしれませんが、線香がこんなになっているお墓がありました。雨で消えて、蕎麦状態です。

Dscf4041

 今回は車で行きました。22日は日曜日で、高速道路料金が上限1000円の日でした。来月には制度廃止になりそうなので、これが恩恵にあずる最後かもしれません。
 翌日23日は月曜日で普通料金。そのうえあいにくずっと雨が降っていたので、遠くへの寄り道はせず、焼津さかなセンターだけ見て、あとはまっすぐ横浜へ帰りました。浜岡原発へ寄ってみたかったのですが。

Dscf4047

 昼食の「まぐろ寿司」。トロより赤身の方が好きなので、これで納得です。

Dscf4046
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月22日 (日)

スイス本メモ

 6月に学生時代の友人たちとスイスへ遊びに行くことになり、あわててスイス関係の本を読み始めた。読んだらメモしておかないとすぐ忘れてしまうので、ここに書くことにした。

 スイスを舞台にした小説というと『アルプスの少女ハイジ』くらいしか浮かばない。『スイスのロビンソン』というのもあったけれど、あれは漂流物語だから場所はスイスではない。
 とりあえず見つかったのがこれ。

1 ゴットフリート・ケラー 『グライフェン湖の代官』 (岩波文庫、1952)

Photo

 ケラー(1819-1890)はドイツ系スイスの小説家。この作品の刊行は1877年。

 時代は1783年、42歳の独身、グライフェン湖地区代官ザロモン・ランドルト大佐が、青春時代の、いずれも実ることのなかった五つの恋の物語を回想し、そして最後にその相手だった五人の女性をグライフェン湖畔の館に招待し、一夕の宴を催す。
 岩波の解説では

ケラーが人間としても作家としてももっとも円熟した時代の作品.全体が50歳を越えた作者の冷静な観照に包まれ,美しい節度ある人間性と淋しさをたたえた芸術品となっている.
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/32/9/3242590.html

 ちょっと粋な話、というところか。当時の貴族がどんな生活をしていたかがしのばれる。

 音楽と歌声は時々チューリッヒ山の森からかすかな木魂を返した。そうして大きな、まばゆいばかりに白いグラルネ連山は、風の凪いだ湖面に影を映していた。次第に迫ってきた夕暮れが、すべてをおだやかな金色の光のうすぎぬでおおいはじめて、青い色が盡く深さを増して来たとき、代官は舟を再び館の方に向け直し、豊かな歌声の響くなかで波止場に横付けにしたので、婦人たちはまだうたいながら岸に跳び上った。(P124)

Photo_2

               (P3)

 グライフェン湖はチューリヒの東10kmくらいにある小さな湖。今回の旅程には入っていない。

2 シラー 『ヴィルヘルム・テル』 (岩波文庫、1957改版)

Photo

 ごぞんじウィリアム・テルの物語。
 岩波の解説。

封建領主の圧制に堪えかねたスイスの民衆は,盟約を結んで立ち,スイスの独立を図ろうと企てた.ヴィルヘルム・テルこそは彼らの行動の中心であり,民衆の尊敬すべき英雄であった.この劇のクライマックス「テルのリンゴのまと」の話は全世界に知られている.群衆登場の舞台処理の巧妙さを謳われるシラー最高の傑作.
http://www.iwanami.co.jp/search/index.html

・1300年前後、フィアヴァルトシュテット湖周辺を舞台に、神聖ローマ皇帝の圧政に抗して立ち上がろうとする中央スイスの三地域(原初三邦あるいは三州といわれる)の豪族・民衆たちの物語に、腕は当代随一で人望厚い狩人テル対悪代官ゲスラーの物語がからむ。テルは独立運動の主導者ではなく、圧政に我慢しきれず立ち上がる民衆の一人。

・文庫の解説によれば、スイス国民はテルの物語は実話だと信じて疑わないが、実は伝説で、リンゴの的の話は北欧のゲルマン人の話からきたものらしい。

・訳の「テルどん」という仲間内からの呼びかけが気になる。テルが民衆の一人であることをあらわすためなのだろうが、「どん」というと丁稚や女中に対する呼びかけのようで違和感がある。「西郷どん」というのもあるが。

・国民国家成立前の国を現在と国と同様の感覚で考えてはいけないのだが、この頃の西洋の、王、貴族、領土、民衆の関係がよくわからない。スイスの独立というのも、現代の植民地が独立するのとはかなり違うのだろうけれど、ついつい現在の国をもとに考えてしまう。

・原初三州(シュヴィーツ、ウーリ、ウンターヴァルデン) のあたりへは機会があれば行ってみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月20日 (金)

野菜から果樹へ

 今年も野菜苗を植えました。しかし昨年はほとんど手入れができず、収穫もろくにできなかったので、少なめにしました。

 ナス、キュウリ、トマトにスイカなど

Dscf4025 Dscf4024

 前回植えたジャガイモと分ケツしたネギ。

Dscf4027 Dscf4023

 うちの奥さんの方針として、歳とともに畑は大変になってくるので、徐々に果樹園に移行していくのだそうです。
 左はレモンの花、今年はつぼみがいっぱい。右の夏みかんも大量に花をつけました。

Dscf3979 Dscf3993

 左はプラム。右のアンズは大きな実に袋をかけてみました。

Dscf3988 Dscf4032

 これはブドウ。

Dscf3991

  植えた木が少しずつ実をつけるようになってきました。この他に柿やリンゴ、イチジクなどもあります。
 残念だったのはサクランボ。今回ネットを掛けようと思っていたら一足遅く、すでに全部鳥に食べられていました。それこそ一粒残らず、でした。
 そしてわが家のメインのビワは、だいぶふくらんできたけれど、まだ固いし、いつもより小さいような気がします。
 近所の話では今年は全体に成長が遅めだとのこと。そのせいでしょうか。

Dscf4011_2

 畑の一角に、なんだかよくわからない植物がはえてきました。

Dscf3986

 うちの奥さんも植えた記憶がなく、なんだかわからないそうです。さてどんな花が咲くのか、実がなるのか、ちょっと楽しみです。
 これがその先端部。花なのか、実なのか?

Dscf3987

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月19日 (木)

トックリバチの巣

 5月14日(土)から16日(月)まで南無谷へ行ってきました。

 一階のベランダに置いてあったバケツの裏側に奇妙な物体が…

Dscf4007

 高さ1.5センチくらいの泥づくりのトックリです。きれいにできています。

Dscf4008

 何の巣か調べてみると、これはどうもトックリバチの巣らしい。福光村昆虫記というHPにはこう書かれていました

 名前が示すように巣は、泥土で作られ徳利(とっくり)の形をしています。巣の天井に卵を生み付け、ガの幼虫を仮死状態にして詰めます。入り口を泥でふたをして完成させます。トックリバチは孵化後ガの幼虫を食べ成長し、羽化後に入り口のふたを破って外に出てきます。
http://members.jcom.home.ne.jp/fukumitu_mura/hachi_.html

 戦中戦後の食糧難の時代に育ち盛りの時代をすごした開高健は、当時『昆虫記』かなにかでこういう話を読んで、孵化した幼虫はフカフカのパンの中で暮らしているようで、なんともうらやましかったという話をどこかに書いていました。
 幸せな幼虫の夢を破ることになりますが、このままにはしておけないので、バケツからはがそうとしたら壊れてしまいました。中はからっぽで何もいませんでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月17日 (火)

神田・湯島散歩

 5月13日(金)、三省堂古書館をのぞいてから、長年の懸案だった神田・湯島界隈散歩に行ってきました。昔から神田に来るたび、すぐ近くなんだから一度行こうと思いつつ、古本屋をのぞき始めると時間もかかり、買い込んだ本で荷物も重くなってしまうので、いつも散歩はまた今度になっていました。今回は文庫本を数冊買っただけで、思い切って出発。

 まず湯島の聖堂へ。江戸時代、日本の学問・教育の総本山であったところ。

Photo

 大成殿。孔子が祀られているところですが、平日だったので中は見られませんでした。(土日は公開されている)

Dscf3945

 孔子の墓所に植えられているという楷の木と大きな孔子の像が。

 Dscf3951 Dscf3949

 次は神田明神平将門が祀ってある「江戸総鎮守」の神社です。

Dscf3957

Dscf3956_2
 神田明神 スチャラカチャン
 チャンチキおかめの 笛太鼓

という美空ひばりの歌の一節が浮かんできます。ここしか知りませんが。

Dscf3954

 さてそれから湯島天満宮湯島天神です。天神様だから祭神は菅原道真

Dscf3959_2

Dscf3965_2

 牛は天神様のお使いということで、ここにも牛がいます。そして、梅の木が多い。

Dscf3963 Dscf3966

 「湯島の白梅」でしょうか。ここで思い浮かべる歌は当然、

 湯島通れば思い出す
 お蔦主税の 心意気

 そして「別れろ切れろは芸者の時にいう言葉」という有名なセリフが続いて浮かんできますが、以前、原作の泉鏡花『婦系図(おんなけいず)を読んだとき、この場面がないので驚きました。芝居化したときに作られた場面で、原作の小説にはないのです。

Photo_3

 芝居の話から、薄幸の女の歴史みたいな、いわゆる新派大悲劇の物語かと思っていたら、そうではなくて、閨閥を広げることによって日本の上流社会を支配しようとする一族の陰謀を打ち砕くという物語で、鏡花はこんな話も書くのかと驚きました。鏡花の中ではこれが一番面白かったけれど、鏡花の文章はむつかしいというか、前にも書きましたが、わたしの中でリズムがうまく合わないようなところがあります。(→泉鏡花『春昼・春昼後刻』

 境内には鏡花の「筆塚」もありました。

Dscf3970

 そして、梅の木には時節柄実がなって、これは「湯島の青梅」。

Dscf3972_2

 湯島から上野へ出ると、公園の工事中で、なんと西郷さんが駅前の交差点から見えました。

Dscf3977

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月14日 (土)

三省堂古書館でジョーク本

 わが「なむや文庫」がささやかながら出品している三省堂古書館は、この3月から三省堂書店神保町本店4階に引っ越しました。
・三省堂古書館
http://www.books-sanseido.co.jp/shop/kosho.html

 その三省堂古書館で5月13日から、こんなチラシを出してもらっています。

Photo なむや文庫で現在主力商品になっているジョーク本の宣伝です。もう一種類あります。

Photo_2

 なむや文庫の棚は縦五段+平台二段ですが、そのうち三段がジョーク本とその関連本になっています。

Dscf39401280

 がんばって、これまでより増やしました。売れてくれるといいのですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月12日 (木)

小泉八雲「生神様」

 小泉八雲の「生神様」という作品を読みました。講談社学術文庫の『日本の心』(1990)に収められている短編です。

Photo

 最初は日本の神社や神様がどんなものなのかが語られ、なにか偉大なことや立派なことをなしとげた人は死後神となるが、まれに生きているうちに神として祀られた人もいると述べて、その「生き神」になった濱口五兵衛の話に移ります。
 秋の夕べ、高台の自宅にいた村の長老の五兵衛は、小さな、しかしいつもとは違う、長いゆっくりした地震の後、見下ろす海にただならぬ気配を感じる。沖合へ水が引き始めている。これまでに見たことはなかったが、古い言い伝えからこれが何を意味するかはわかった。
 その意味を知らぬ海辺の村人たちをすぐ高台へ避難させるため、五兵衛は自分の畠につんであった、その年収穫した稲を積み上げた稲むらに火をつけた。ある限りの稲むらに。
 火事のときには何をおいても全員が駆けつけるのが当時の村の掟だったから、海辺の村人は立ち昇る火を見て、老いも若きも急いで高台へ駆けつけた。そして五兵衛の指さす海辺を振り返ると、

「津波だ!」
と人々は叫んだ。しかし人々の叫びも、音も、またその音を聴く力も、すべて百雷よりも重い、なんとも名状しがたい衝撃でもって打消された。盛りあがった巨大な波が、轟然たる力をふるって海岸にぶち当たったが、そんために岡という岡を震えが走ったように感ぜられた。そして稲妻が一瞬、雲全体を白く照らし出すように、白いしぶきが幕上に立ちのぼった。その次の一瞬は、斜面を雲が湧くように昇ってくる荒れ狂った水沫以外は何ものも見えなかった。(P228)

 1854(安政元)年の和歌山県を襲った津波にまつわる話です。
 1896年の「三陸大津波」のニュースと一緒に回顧的に言及された記事を読んで、小泉八雲が作品化したもので、濱口儀兵衛(梧陵)という人物がモデルになっています。
 この話を児童向けに書き改めた「稲むらの火」という話が、戦前から戦後すぐまでの国定国語教科書には掲載されていました。その教科書の教師用の虎の巻には

苟も文学作品である以上、事実と多少の相違があるのはやむを得ないことである。即ち、安政元年11月に廣村を襲った津波は、何回も襲来し、しかも4月以来しばしば強震があり、村人を驚かしていたのであって、八雲の文のように、微弱な地震の後、一気に襲来した激しい津波ではなかった。かつて濱口儀兵衛の処置なども、事実はもっとも複雑なものであったのである。 しかるに八雲の文章が、かくまでに、生き生きと津波の情景を描き得たのは、もちろんかれの豊かな想像力によることであろうが、或いは、具象化したものであるかもしれない。
http://www.inamuranohi.jp/inamura/kyoshiyo.html

との記述があり、津波の実際はこのとおりではなかったようですが、たしかによくできた作品になっています。

 虎の巻を引用した「稲むらの火」というHPには、八雲の”A Living God”の原文と「生ける神」と題した訳(講談社学術文庫とは訳者が違う)も載っています。
http://www.inamuranohi.jp/index.html

 モデルになった濱口儀兵衛(梧陵)は、今人気のテレビドラマ「JIN」で、主人公がペニシリンを作るのを協力したヤマサ醤油の当主でもありました。司馬遼太郎の『胡蝶の夢』にもちょっと出てきました。たいした人物だったようです。

 これはテレビドラマの原作、村上もとか『JIN -仁‐ 第1巻』(集英社、2001)

Jin01

 これが『JIN』の濱口儀兵衛(梧陵)(第4巻P14」)

Jin04p14

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月10日 (火)

天災は忘れた頃に

  「天災(災害)は忘れたころにやってくる」は寺田寅彦の言葉として知られていますが、寺田がこのとおりに書いた文章は存在せず、弟子の中谷宇吉郎(雪の結晶に関する研究で有名)が、いつも聞かされていた寺田の考えを、名言としてあらわしたものだそうです。
 『寺田寅彦随筆集第五巻』(岩波文庫)を読みました。

Photo

 この中には「天災と国防」や「災難雑考」などの災害について書かれた文章があります。読んでみると、災害に対する基本的な考え方はもうここにすべて書かれている、という気がします。

 文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟(ひっきょう)そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆(てんぷく)を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。(P60)

 日本は昔から地震台風津波などの災害に襲われていたこと。昔の人は過去の地震や風害に堪えた場所や建築様式を守って暮らしてきたこと。しかし時間が経過するとそれを忘れてまた大きな被害を受けてしまうこと等々、昭和九年、十年に書かれたものとは思えません。
 「文明が進むほど天災による損害の程度も累進する」では、原発のことを思わざるをえません。あれは天災はなく人災ですが、「文明が進んだ」ことにより「損害の程度」は空間だけでなく長期の時間にまで拡大してしまいました。

 こんなことも書かれています。

しかし多くの場合に、責任者に対するとがめ立て、それに対する責任者の一応の弁解、ないしは引責というだけでその問題が完全に落着したような気がして、いちばんたいせつな物的調査による後難の軽減という眼目が忘れられるのが通例のようである。これではまるで責任というものの概念がどこか迷子(まいご)になってしまうようである。はなはだしい場合になると、なるべくいわゆる「責任者」を出さないように、つまりだれにも咎(とが)を負わさせないように、実際の事故の原因をおしかくしたり、あるいは見て見ぬふりをして、何かしらもっともらしい不可抗力によったかのように付会してしまって、そうしてその問題を打ち切りにしてしまうようなことが、つり橋事件などよりもっと重大な事件に関して行なわれた実例が諸方面にありはしないかという気がする。(P193)

 今回も「想定外」で「不可抗力」であったという言いわけがあります。
 寺田の言いたいことは次のようなことでした。

 たとえばある工学者がある構造物を設計したのがその設計に若干の欠陥があってそれが倒壊し、そのために人がおおぜい死傷したとする。そうした場合に、その設計者が引責辞職してしまうかないし切腹して死んでしまえば、それで責めをふさいだというのはどうもうそではないかと思われる。その設計の詳細をいちばんよく知っているはずの設計者自身が主任になって倒壊の原因と経過とを徹底的に調べ上げて、そうしてその失敗を踏み台にして徹底的に安全なものを造り上げるのが、むしろほんとうに責めを負うゆえんではないかという気がするのである。(P194)

 これもそのとおりですが、今回の原発事故に関しては、東電や保安院、安全委員会などに巣食っている学者たちにはとりあえず切腹してもらったほうがいいのではないか、という気もしてきます。(もちろん冗談ですが、あの人たちに原因を徹底的に究明して、徹底的に安全なものを造り上げることが、はたしてできるのかと考えてしまいます。)

 寺田はまた、災難にあうことで科学と人間が進化していくという「進化論的災難観」も披露していますが、これは「楽観的な科学的災害防止可能論」だけでは現実に対応しきれていないことに対する科学者のため息のようなものでしょうか。

 第五巻にはありませんが、「津波と人間」という文章では、学者が数十年ごとに津波が起こるといくら警告しても、一般の人々の実際の生活にはなかなか受け入れられない、

学者の方では「それはもう十年も二十年も前にとうに警告を与えてあるのに、それに注意しないからいけない」という。するとまた、罹災民は「二十年も前のことなどこのせち辛い世の中でとても覚えてはいられない」という。これはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。

 そして「これが、二年、三年、あるいは五年に一回はきっと十数メートルの高波が襲って来るのであったら、津浪はもう天変でも地異でもなくなるであろう。」とも書いています。
 「災害は忘れたころにやってくる」ではなく、「忘れたころにやってくるから災害になる」ということです。

 寺田は文章がうまい。ほかの随筆も読んでみて、ああ日本の随筆というのはこういうものだったんだ、とあらためて感じ入りました。最近の作家のエッセイとはずいぶん風格が違います。俳句をたしなむとこういう文章が書けるんだろうか。 

 上記の文章は、本を買わなくても、下記URLをクリックすれば「青空文庫」で読めます。大震災のことを考える参考になるだけでなく、とてもおもしろいものです。いずれもごく短い作品です。一読をおすすめします。
 
寺田寅彦
(1)「天災と国防
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2509_9319.html
(2)「災難雑考
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2500_13848.html
(3)「津波と人間
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/4668_13510.html
 (1)、(2)は『寺田寅彦随筆集5』(岩波文庫)所収
 (3)は『寺田寅彦全集 第七巻』(岩波書店、1997)所収

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月 5日 (木)

新緑の季節

 4月28日(木)から30日(土)まで南無谷へ行ってきました。

 桜はもう散って、すっかり新緑の季節です。

 これは朴の木。今年はたくさん花をつけました。

Dscf3884 Dscf3883

 ミズキ。これも花がいっぱいです。

Dscf3896 Dscf3898

 艶のあるのは富有柿。びわの新芽は色が薄い。

Dscf3899 Dscf3900

 毎年鳥に食べられているサクランボ。今年こそはなんとかしたい。

Dscf3933

 左は梅の実。右のアンズはなぜかデカいのと小さいのが、こんなに違う。

Dscf3885 Dscf3937

 リンゴの花がきれいに咲いた。今年は実をつけてくれるか。

Dscf3865

 ということで、大震災の今年も、新緑は萌え、花は咲き、実がふくらんでいます。

 これは28日の夕方、わが家のベランダから見えた赤富士です。

Dscf3868

   

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月 3日 (火)

第七回日向ひまわり独演会」

 大震災以来すっかりブログを書く習慣がなくなってしまいました。あれこれ考えたこともブログに書けるほどにはまとまらないし、なんだか余計なことをやっているような気もしました。
 まだ原発はダダ漏れ状態が続いています。これから避難しなければならない人たちもいます。避難所でもう一カ月半も生活している人たちには疲労が蓄積してきていることでしょう。
 そんなことを考えると筆がすすみませんが、ともかく気を取り直して、少しずつ元に戻すあるいは少しずつ変わるように、またやってみることにします。

 4月14日(土)横浜にぎわい座地下野毛シャーレで「第七回日向ひまわり独演会」をみてきました。今回は友人二人をさそって行きました。
 ひさびさの芸能鑑賞です。3月は「春風亭小朝独演会」を、新築された神奈川芸術劇場で見る予定でしたが、3月12日だったので、当然中止になりました。

Photo_2 

 演目は「山内一豊 出世の馬揃え」「徂徠豆腐」

 「山内一豊 出世の馬揃え」は、有名な「山内一豊の妻」、鏡の裏のへそくりによる内助の功の物語。
 あんまり有名で聞く方も筋がわかっているので話がスラスラ進み、無事名馬を手に入れめでたしめでたしまで、あっという間でした。後でひまわり先生本人があんまり短く終わってしまって驚いたと言ってました。あまり知られていない小ネタをつけ加えるとか、話を少しふくらませた方がよかったかもしれません。
 しかし実は、山内一豊は私の郷土が生んだ英雄です。ひまわり先生の独演会に来るようになったのも、愛知県にいる兄が、地元のイベントで自作の山内一豊の講談をひまわり先生に演じてもらったという縁からでした。(→日向ひまわり独演会
 だからこの演目はちょっとうれしくて、終演後ロビーでひまわり先生に「わたしの故郷の話をありがとうございました」と声をかけたら「そういえば一豊がご縁でしたね」と覚えていてくれました。

 「徂徠豆腐」は、儒学者、荻生徂徠が貧窮時代に豆腐屋に豆腐やおからを恵んでもらい、出世後、恩返しをするという話。赤穂浪士の討ち入りもからむ。話としては知っていたけれど、ちゃんと聞くのははじめて。なるほどそうだったのか、よくわかりました。こちらの方が一豊より受けがよかったようでした。 

 今回はいつもの抽選会はなしで、そのかわり東日本大震災支援のためのティッシュと生写真の販売がありました。セットで300円。

Photo

 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »