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2011年6月 2日 (木)

吉村昭『三陸海岸大津波』

吉村昭『三陸海岸大津波』(文春文庫、2004)

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<カバー裏表紙>

明治29年、昭和8年、そして昭和35年。青森・岩手・宮城の三県にわたる三陸沿岸は三たび大津波に襲われ、人々に悲劇をもたらした。大津波はどのようにやってきたか、生死を分けたのは何だったのか―前兆、被害、救援の様子を体験者の貴重な証言をもとに再現した震撼の書。この歴史から学ぶものは多い。

 吉村昭が、過去三度の三陸海岸の大津波の記録と体験者たちの証言を、二十年以上かけて集めてまとめたもの。
 津波がどんなに凄まじい力をもつものか、たんねんに少しずつ集められた記録と当事者たちの言葉に圧倒される。それも大仰な身振りや感傷を排して書かれていることで、より一層事実の重みを感じた。
 また、津波は繰り返し必ずやってくるものだということもあらためて知った。この本に出てくる地名のほとんどは、今回の震災の報道で聞いている。

 田老町の防潮堤について次のような記述がある。

 しかし、自然は、人間の想像をはるかに越えた姿をみせる。
 防潮堤を例にあげれば、田老町の壮大な防潮堤は、高さが海面より一〇・六五メートルある。が、明治二十九年、昭和八年の大津波は、一〇メートル以上の波高を記録した場所が多い。
 私は、田野畑村羅賀の高所に建つ中村丹蔵氏の家の庭先に立った折のことを忘れられない。海面は、はるか下方にあった。その家が明治二十九年の大津波の折に被害を受けたことを考えると、海水が五〇メートル近くも逼(は)いあがってきたことになる。
 そのような大津波が押し寄せれば、海水は高さ一〇メートルほどの防潮堤を越すことは間違いない。
 しかし、その場合でも、頑丈な防潮堤は津波の力を損耗させることはたしかだ。それだけでも、被害はかなり軽減されるにちがいない。(P176)

 防潮堤を築いた人々も「被害はかなり軽減されるにちがいない」と信じ、総力を挙げて建設されたものを、自然の力は今回大きく上まわってしまった。

 その田老町で昭和9年、尋常高等小学校6年で津波を体験し、その作文がこの本に収録され(P130)、さらに49歳のとき吉村昭から取材を受けている荒谷アイさんという方がいる(P134)。その荒谷さんが、昨日(5月31日)、読売オンラインの「高台移転に住民思い二分、岩手・宮古市田老地区」と題するニュースに写真と一緒に紹介されていて驚いた。89歳、今回の津波ではご無事だったようだ。 

 荒谷アイさん(89)は11歳の時、昭和大津波で家族7人全員を失った。遺体が並ぶ海岸で家族を捜し歩いた体験を「私は、ほんとに独りぼっちの児になったのです」とつづった作文はその後、吉村昭の著書「三陸海岸大津波」で紹介された。北海道根室市の叔父に引き取られたが、18歳で帰郷、地元男性と結婚し2男4女、孫5人に恵まれた。

 東日本大震災の津波は、デイサービスで外出していて難を逃れた。翌日、四女の栄子さん(58)から津波襲来を初めて知らされた。昭和大津波で受けた心の傷は今も残る。それでも、「みんなのお墓もある。また津波が来たら山さ逃げればいい」と住み慣れた土地にこだわる。
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866918/news/20110531-OYT1T00109.htm

 ネットなどでさらに探してみたら、昨年(2010)の9月11日(土)の朝日新聞「昭和史再訪    8年(1933年)3月3日 昭和三陸津波」という記事にも「津波の大音響いまも耳に」と題する荒谷アイさんの津波時の証言がみつかった。

2           (朝日新聞縮刷版より)

 その最後の部分。

 夫も津波で両親と姉を失い「津波残り」同士の結婚でした。毎年3月2日の夜から一晩中、霊を慰めていました。子供が幼いころは、どんな天気でも子供を背負い、赤沼山に逃げました。最近は、地震速報を見てから逃げる人が多くて心配です。

 地震速報を見てからでは遅い。そして「津波残り」という言葉……。

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