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2011年10月

2011年10月31日 (月)

sp10 スネガ展望台

(第3日続きの2)

スネガ展望台

 スネガ展望台 Sunnega paradiseスイス政府観光局のホームページによれば、「日本ではスネガという名前で知られているが、実際の発音はズンネッガに近いもの」だそうだ。
http://www1.myswiss.jp/alps/09/zermatt/sunnegga_peak.htm
 ツェルマットから地下ケーブルカーで5分ほど。下左がケーブルカー乗り場の入口で、トンネルになっていて、これがけっこう長いが、乗ってしまえばすぐに着く。高さ2,288m。右はチケット。

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 上記ページには「マッターホルンから連なる山々のパノラマを最も気軽に楽しめる眺望ポイントです」とも書いてある。しかし、こうだった。

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 残念である。しかし待っても雲は晴れてくれない。頂上は見えないし、展望もきかない。。

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 展望台のちょっと下に、ライ湖 Leiseeライゼー)という 小さな池があって、「逆さマッターホルン」も見られるはずだが、これではどうにもならない。子供用の遊具に乗ってみたりしながら、雲が晴れてくるのを待ったが、逆に雲が増えてきたようだ。頂上どころかマッターホルン全体が見えなくなってきた。
 池には小さな魚とオタマジャクシがいた。土手をどんと踏み鳴らしてオタマジャクシを驚かしてみた。これはどういうカエルになるのだろうか。

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 そこへ、みんな黒っぽい登山服を着た、四人連れの若い日本人の一行(男一人女三人?)が山の方からやってきた。聞いてみると、山のガイドで、男性のリーダーが他の新人三人を朝から訓練中とのこと。日本人相手のガイドだろうか。今朝、山の上は晴れて山頂はよく見えたそうだ。
 若者たちは元気に山歩きを続けていったが、老人旅行会はもうしばらく待ったのち、しょうがない、明日の朝に期待しようということになる。

 ライ湖でしばし物思いにふけるT局長。局長は最近俳句をひねるようになったので、句作にふけっていたところかもしれない。
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夏氷マッターホルンまだ見えず   新井秋芳

 上はネットで検索したら出てきた俳句。どんな作者だか知らないが、「まだ見えず」に共感した。わたしも真似して一句。

   蝌蚪(かと)泳ぐマッターホルン雲のうち   窮居堂

03dscf4380  絵を見て、羊の小動物園でもあるのかと思ったら、なんとこれは、展望台から池のあたりへ降りる短いロープウェイの入口だった
 無人で無料で乗れるのには驚いた。ケーブルカーの料金でこの管理もやっているのだろうか。
  

 きれいな花畑というほどのものはなかったが、池のまわりで見かけた花。名前はわからない。

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 山から戻って、マッターホルン博物館を見て、あとは街をぶらぶら。

 夕食はユースホステルの定食。本日はつつましくやった。

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 これがツェルマットのユースの受付。部屋の写真は飯場に見えなくもないが、ここもけっこうきれいにしてあった。

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 部屋の窓からはこんな景色が見えた。

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2011年10月29日 (土)

sp09 ツェルマットの町

(第3日続き)

ツェルマットの町

 駅前から電気自動車のタクシーで、ツェルマット・ユースホステル Jugendherberge Zermatt へ行く。ツェルマットは環境対策のため、市内へのガソリン車乗り入れを制限していて、主に電気自動車が使われている。馬車もいたが、実用より観光用のように見えた。
 右の写真がユース。

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 ユースは町から川を越えてちょっと登ったところにあり、谷の向こうにはこんな景色が開けている。

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 正面はマッターホルンである。しかし、雲で頂上が見えない。くやしいが見えない。

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 荷物をユースに置いて街に出る。前に「憧れのツェルマット」と書いた。それは若い頃に読んだ山岳紀行の類の、山間の鄙びた登山者の宿の村というイメージが基本になっている。しかし現実のツェルマットは近代的な観光都市であった。
 中心に、そんなに大きくはないが、いかにも観光地らしい、けっこうにぎやかな街がある。見た目は違うが、軽井沢や鎌倉の小町通りに似通った雰囲気を感じる。

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 1982(昭和57)年にすでに犬養道子はこう書いた。

 草も木も、ツェルマットヘツェルマットへとなびき、世界じゅうから、山をこれっぽっちも愛さぬ人々までが、スイスの土地を踏んだからには一目見て帰らなくちゃと、登って降りるだけの二十四時間を工面して、おめあてマッターホルンを眺めに来るようになってからは、土台、特急も停まらぬシエレや、停まるにはせよ、アローラだブランシュだチナールだなど「話の夕ネにもあまりならぬ」山や谷の入口シオン、シエレは消されてしまった。
 反比例してツェルマットは、私がはじめて訪れた一九七三年(そのときにも、村の俗化に一驚したものだが)このかた、九年間に少くも三十軒の新しい観光宿と大都会の人間向きのぜいたく店二十軒を建てたのである。もはや村などと言われた沙汰ではない。その上にカネの力は山を荒らした。ヴアレイ開発団とやらが乗りこんで株を持ち、マッターホルンの東のクライネ・マッターホルンまで、空中ケーブルを通したのが一九七九年。「四時間も立ちん棒をして列に立って待って」、人は都の服装のまま、三千六百メートルを吊り上げてくれるそれに乗る。パチパチと写真をとって吊り降ろしてもらう……
犬養道子『私のスイス』中公文庫、1987、P52、単行本が1982) 

 これから30年、町はさらに変わっている。
 われわれは、学生時代に一緒に山登りもした仲間で、山についてはそれなりの気持ちを持っているつもりだ。しかしわれわれも老人旅行会となり、都の服装のまま、クライン・マッターホルンまで吊り上げてもらった。
 時の流れというものはある。流れに取り残されるもの、変わっていかざるを得ないものがある。町も変わるし、われわれも老人となったのである。

 そして老人のわたしは、この町がたいへん気に入った。     

 まず街角のパン屋で昼食。

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03dscf4353 このパン屋は、スープを頼むとパンがついてきて、パンのおかわりもできるのであった。これは安い。
 写真を見ると、このときはビールもワインも出ていない。覚えていないが、さすがにスリ事件の後で自重したようである。
 店の名前が、”Biuer”と書いてあるようだが読めない。ウェイトレスに聞いてみたら「ブゥゥゥ」とかなんとか言うが、まったく聞き取れず、真似しての発音もできなかった。
 手元のドイツ語の辞書にもフランス語の辞書にもこの単語は見当たらない。固有名詞だろうか。

 この後は、スネガ展望台までマッターホルンを見に行ったのであるが、戻ってから後及び翌日の分も含めて、町の写真を見ておこう。

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04dscf4466_2  町の中を流れるマッター・フィスパ川 Mattervispa は白く濁っている。氷河の溶けた水が流れ込むから白いのだというが、やはり石灰質がたくさん含まれているのだろう。この川は、あのフィスパで、ローヌ川に合流する。

04dscf4480_2  川の右側に見える建物はほとんどがホテルや民宿、貸別荘のようだった。
 日本なら赤青のネオンサインが輝く温泉町になるところ。香港だったら川の上にも看板が突き出るところだろう。

 

 これは 04dscf4467_2sp02 What is this? 2 で紹介した犬の糞袋。町全体が清潔であった。

    

     

        

 川沿いに墓地のある公園があった。
 公園の中にはツェルマットと妙高高原との友好都市記念碑とツェルマット&京都ツェルマット会という碑があり、その上には横断幕が張られ、こう書かれていた。

日本は今、これまでにない壊滅的な被害に襲われています。
今回被災され苦しんでおられる方々、そして当村の姉妹都市である妙高市の友人たちに対して心からお見舞い申し上げます。希望を失わずに、勇気をもってこの恐ろしい大惨事から復興なさいますようにお祈りいたします。

  ありがとうございます。

  3月11日の大震災直後は、この旅行も中止しようかと思っていた。

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 下左は花屋。右の建物のベランダにも花。

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 左はウルリッヒ・インダービネン Ulrich Inderbinen という伝説の山岳ガイドの碑。マッターホルンに370回登り、96歳まで現役のガイドをしていて104歳で亡くなったという。
 右は昔、納屋や穀物倉庫として使われていた高床式の建物。ガイドブックには「ネズミ返しの小屋」と書かれている。

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  モダンな建物もある。クレディ・スイス銀行マッターホルン博物館

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  街の大きさも手ごろで、きれいで清潔、川があり山があり、これでマッターホルンさえちゃんと見られれば、というところであった。

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2011年10月27日 (木)

sp08 列車でスリにあう

第3日 11/06/10

朝食

  ホテルでの朝食はビュッフェ・スタイル(バイキング)で、これもユースよりいいのは当然。今日はレストランから、カードに写っている山が見えた。

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03dscf4305_2 実は、このホテルでは最初,料金に朝食が含まれていると聞いたのに、後で別だという話になったので、機長と局長がフロントに文句を言った。機長は英語が、局長は英語とフランス語がしゃべれるのである。長老とわたしはそういう話には加わらない。まあ、加われないと言っても間違いではない。どちらにしろ、ともかく朝食はきちんとおいしく食べた。朝食代は結局払った。

列車でスリにあう

 モントルー駅 Gare de Montreux ガル・ド・モントルー

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 スイスの駅には改札口がない。これは楽でいい。
 この駅にはこんなところもあった。下の写真をクリックして拡大してもらうとわかるが、駐車場がホームにくっついている。フラットでそのまま列車に乗れる。日本人の目にはちょっと異様に映る光景だが、これは便利だ。
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 今日の目的地はツェルマット。スイス旅行といえばなんといっても山、アルプス。 いよいよマッターホルンの麓へ、というところである。

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 フィスプ Visp でいったん降り、それぞれ重いスーツケースを押しながら、やってきたツェルマットへ向かう列車に、K機長を先頭に乗り込んだ。乗車口のステップから通路が左右に分かれていて、両方に客室がある。たしか左側の客室へ向かった機長が、怒ったような声で、「おい、あっちの車両へ行こう」、後ろにいた他の乗客をかきわけながら、反対側の右の車室へ行こうと言う。わたしは間にほかの客もいたし、どうしたのかよくわからなかったが、ともかく皆でスーツケースを押しながら右側の客室へ入った。席に座ると、機長が怒っている。機長のまわりにいた連中が、右へ行こうとする右へ、左へ行こうとすると左へと前をふさぎ、後ろからは押してくる。だからこっちへ来た。今まで旅行してきた中であんな失礼な奴らにはあったことがない、とんでもない奴らだ、と言う。そうだったのか、それはそれはとか言いながら、混んでいることもないし、その場はいったん落ち着いた。
 ところがそれから5分ぐらいたってから機長が言った。
「財布がない、やられた!」
 外貨用の財布はあるが、ズボンのポケットに入れておいたもう一つの日本円の財布がない。荷物を確認してもやっぱりない。どうも、あのときにやられたらしい。乗り換えのときの失礼な奴らがあやしい。あれは取り囲んでスルための手口だったんだ、と言う。
 機長は、念のため隣の客室を見に行ったが、あの失礼な連中はいなかった。三人連れだったろうか、わたしはちゃんと見ていないのだが、あの三十代から四十代くらいの男たち、出発前に降りてしまっていたらしい。
 なるほどそうだったのか、証拠がないから確実にそうだとは言えないが、それで辻褄が合う、そうに違いない。スイスの治安についてはあまり心配してなかったが、やっぱり観光客をねらうこの手の奴らはいるのである。
 被害は日本円数万円にクレジット・カードが1枚だという。4人共用でレンタルの携帯電話を1台用意してあったので、列車の中からさっそく機長はクレジット会社に電話して、支払いを止めてもらい、カードの方は被害をまぬがれた。

 これがフィスプの駅。

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 帰ってから、インターネットで「スイス スリ」と検索してみたら、同じような話があった。乗り換え時のステップで前後を挟むというのは基本的な手口のひとつらしい。やっぱりあれはスリで間違いないようだ。

汽車の構造は、新幹線のようになっており、座席までに狭い短い通路があります。そこを通過する時、荷物を持ってやる素振りをした男が今度は降りる方向に移動し、私は後ろから入って来た男との間に挟まれてしまいました。私はリュックを担いでいましたが、無理やりに体を反転し、強く後ろに移動しました。入口の所に戻ると男は外に出て行ってしまいました。

基本的に乗換駅で大きな荷物で列車の高いステップに積み込もうと奮闘しているときが狙い目のようです。
http://bbs.arukikata.co.jp/bbs/tree2.php/id/373505/-/parent_contribution_id/373505/

 先に改札口がなくて便利だと書いたが、こんな注意もあった。

 チューリッヒの列車は日本と違って改札口が無く、列車の中まで外部と同じ状況です。列車が走りだして初めて、そこが列車の中になります。だから、停車時間が長い列車の場合は、閉まるまでは、注意が必要だと強く感じました。

 なるほど彼らは入場券を買う必要もなく、自由に列車に出入りできるわけだ。これは改札口なしのデメリットのひとつか。

 この後、一行はどうも意気が上がらないが、そのまま列車は走り続け、やがて白銀に輝く山々も見えてきて、ツェルマットに到着した。

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 ツェルマット Zermatt の駅前。

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 憧れのツェルマットだが、まず向かうのは警察である。観光案内所の隣の建物の2階にあった。これが1階の入り口。左側のドアの上に Kantonspolizei 1.Stock の文字が見える。カントンス・ポリツァイ 1シュトック 「州警察 1階」で、1階は日本でいう2階である。

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 階段を上がったところ。この奥がその入口。狭い事務所だったから、駅前交番のようなところなのだろう。さすがに恐れ多いので中の写真はとらなかった。

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 ここで機長は、遺失物届を出して、その証明書を発行してもらった。保険会社へ請求する場合には証明書が必要になるので、面倒でもこの手続きをしておかなければならない。盗難とするには十分な証拠がないし、現場確認まであるとは思えないが、手続きは面倒そうだ。くやしいけれど、とりあえずはこれで一件落着とする。

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2011年10月24日 (月)

sp07 レマン湖遊覧

(第2日続き)

レマン湖遊覧

 昼食後、モントルーまで戻ってレマン湖の遊覧船に乗った。湖の東の方を一回りしてからヴヴェイ Vevey へ行く。

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 下左の背景に写っているキンキラっぽい建物が、今日の宿、グランドホテル・スイス・マジェスティック Grand Hotel Swiss Majesitic 。ちゃんとしたホテルの日である。
 下の2等船室は、小学生の遠足が乗り込んできたりして混んでいたが、上の1等はすいていた。ちょっとリッチである。

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 先にも紹介したが、シヨン城を湖上から見る。

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 左はバーゼルと同じようなモントルーの市内フリーパス。スイスではあちこちでこういうサービスをやっているようだ。
 晴れているとカードのように、雪をいただいた山が見えるらしいが、残念ながらすっきり晴れてはくれなかった。

 湖の南岸はフランスで、船は、エヴィアン・レ・バン Évian-les-Bains の近くまで行った。水のエビアンの原産地である。今、写真を見てもどのあたりがエヴィアンだったのか、よくわからない。おそらく下の写真の、背景の山の奥あたり?。フランス・アルプスのカシャ水源から採水、とボトルには書いてある。エヴィアンへの船もあるようだから、現地へ行って一口飲んで来れば、帰ってから「本場のエビアンは一味ちがうよ」とか言えたのだが。

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 もっともいまだに水に金を払うのには抵抗があって、日本国内ではほとんど買ったことはない。こんな遠いところからわざわざ日本まで運んで、高い金を払ってありがたがって飲むのはなおさら納得いかない。
 昔、イザヤ・ベンダサンが『日本人とユダヤ人』で、日本人は水と安全はタダだと思っている、世界の常識は違う、日本人は甘い、みたいなことを書いてベストセラーになった。わたしは、水と安全がタダでどこが悪い、ユダヤ人にうらやましがられることはあっても、見下すような言い方をされる筋はないだろう、と思った。
 しかし、今や日本でも水を買って飲んでいる人はずいぶん増えたし、わたしも水道の水をそのまま飲むことはほとんどなくなった。安全にいたっては、原発事故で世界的に危険な国と思われている。これで水と安全はグローバル・スタンダードに達したことになるのか。これは日本の退化ではないか。エビアンに八つ当たりしてもしょうがないが。    

 船を降りたヴヴェイのあたり、レマン湖の北岸はスイスが誇るワインの産地で、ブドウ畑が広がっているのが見えたが、これも写真にはちゃんと写っていない。

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アプト式鉄道

 再びモントルーに戻って、今度は湖の北側の山を登るアプト式鉄道に乗る。
 モントルーの駅。ちょっとぼかしてあるが、K機長がとてもうれしそうな顔をしている。実はK機長は、飛行機乗りであるとともに「鉄ちゃん」なのだ。

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 かなり急な勾配を列車はぐんぐん登っていく。

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 アプト式鉄道は、まっすぐな棒や板に歯を刻んだ歯車(ラックという)を利用して走る。下の写真のように線路の中央に頑丈なラックが敷設されている。

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 この鉄道は、2,042mのロッシェ・ド・ネ Rochers de Naye という山に登るのだが、スイス・パスで乗れるのは途中の駅までで、その先は別料金だという。無料で行けるところまで行って、そこから折り返して戻った。上の写真はその折り返した中腹の駅。あまりリッチではない。

ホテル

 ホテルに戻って暫時休憩。グランドホテル・スイス・マジェスティック。
 帰ってから見つけた、スイス政府観光局の「スイスレマン湖地方MICEガイド」(下記URL)の6頁には「モントルーの駅前で、レマン湖を見下ろす絶好のロケーションにあるベルエポック調の外観が美しいホテル。」とあった。
http://www.myswiss.jp/files/?id=26586

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 ユースとは値段も違うが部屋も違う。これより狭いくらいのところに四人一緒だったのが、二人部屋でテレビもついている。バス・トイレは別室。しかし風呂がない。シャワーのドアが透明なのは最近の流行りなのか。(人影が見えるのは写真を撮っているわたしの影が写りこんだもの。)

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 レマン湖に面した一階のテラスレストランでは、ジャグリングをしながらカクテルをつくるショーをやっていた。ときどき失敗していたから、まだバーテンダーがジャグラーになろうとしている途中の段階だったのかもしれない。ボトルやカップが宙を舞っているところがうまく撮れなかった。どうもこの日の写真はよくなかった。

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チーズフォンデュ

 スイスの名物料理チーズフォンデュは、フランス語圏が本場なのだという。だからホテルでフォンデュのおいしいところはと聞いて、夜はそこへ行った。
 駅の山側の道を少し行ったところ、こんなところにあるのか、という一角にあった。ル・ミュゼアム Le Museum という名前。外の壁には Musee (ミュゼ)と書いてある。どちらも博物館という意味である。

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 このときは知らなかったが、前述の「スイスレマン湖地方MICEガイド」の11頁には「モントルー市内にあるスイス料理専門店。13世紀の修道院だった建物がレストランに生まれ変わった。フォンデューのバラエティも豊富。150人までのグループに対応可能。」と書いてある。だから「博物館」なのだ。
 内部はこんなところ。

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 料理が出てくるまでずいぶん待たされたが、期待にたがわずおいしかった。ちょっとしょっぱくて、パンだけでは単調ではないかと思ったが、白ワインを飲みながらどんどん食べられた。

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 けっこう量があったが、追加したパンも全部食べてしまった。ほかの料理とワイン2本もあわせて勘定は172CHF(スイスフラン)、換算レートは97円 とか98円くらいだったから、100円としても4人で17,200円。決して高くない、いい食事であった。

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 帰る途中のモントルー駅構内風景。夕暮れの風景だが、これで午後9時45分頃。
 食べて飲んで、第2日も終わる。

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2011年10月22日 (土)

sp06 モントルー、シヨン城へ

第2日 11/06/09

 バーゼルのユースでの朝食。スイスのユースの朝食はだいたいこんなもので、パンにチーズ、ハムなど、それに飲物。十分納得できるものであった。

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 さて今日は バーゼルから特急列車でモントルーへ向かう。

 ここでスイスの地形のわかる地図を見ておくと、スイスが山と湖、それに少々の平原でできている国であることがわかる。

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 列車は、バーゼルからフランスとの国境のジュラ山脈沿い、いくつかの湖沿いに走る。
 地球の地質時代をあらわすジュラ紀Jurassic period、1億数千万年前)という言葉は、このジュラ山脈の名を語源としている。「ジュラシック・パーク」という有名な映画があるくらいだから、このへんの山から恐竜の骨がゴロゴロ発掘されたに違いないと思っていた。
 しかし帰ってから調べてみると、このあたりの石灰岩の地層がこの時代の代表的なものだったからなのだという。しかもジュラ紀にも恐竜はいたが、「ジュラシック・パーク」に出てくる恐竜は、この後の白亜紀のものが多いのだそうだ。英語ではJurassic という言葉の方がよりエキゾチックな印象を与えるので、こちらにしたのだろうという(そういえば、原作者のマイクル・クライトンは死んでしまった。これも好きな作家だった)。

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 今回は、スイス国内の主な鉄道やバスなどをフリーで乗れるスイス・パスを購入した。有効8日間、1等で43,000円。登山鉄道などは別料金だが、幹線は乗り放題で、これもいちいちチケットを買う手間がはぶけて楽である。
 車内はきれいで快適、やはり1等だけのことはある。

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 車窓風景。右はブドウ畑。窓に光が映りこんでしまった

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 レマン湖畔には観光地が続く。その中でも東の端のモントルー Montreux が今日の目的地。このあたりはフランス語圏である。
 列車が着いたら駅前のホテルに荷物を置いて、さっそく観光に出かける。まずはバスに乗って、中世からの城、シヨン城(シオン城ともいう。Château de Chillon、シャトー・ド・シヨン)。今日も雨がショボショボと降ったりやんだり。お城はレマン湖に突き出た岩盤の上に建てられている。

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 小学生の遠足らしいのが来ていた。

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 16世紀にここに捕らわれていたフランソワーズ・ボニヴァルという宗教改革者のことを、 1816年イギリスの詩人バイロンが「シヨンの囚人」という詩にうたって、この城は有名になったという。牢獄やバイロンの碑があったが、なぜかわたしのカメラには写真がない。
 これはその牢獄のあたりから湖の方をみたところ。

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 街を見たときと同じように、この城を見て、ヨーロッパの城の材質とか厚みが感覚的にわかったような気がする。石と土。日本の城とは違う。今後本を読むときには、それなりのイメージがわいてきそうだ。
 天守閣へ昇って見下ろすと、こうなっている。

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 これは後で遊覧船から見た風景。立派なものである。

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 これも帰ってから調べてみたら、ウィキペディアにはこんな記事があって驚いた。 

 ロート製薬の胃腸薬「シロン」(1954年発売開始)は、「Chillon」の英語読みに由来している。当時の社長山田輝郎が本城郭を訪れた際、その美しさに感銘したことから名づけたものである。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A8%E3%83%B3%E5%9F%8E

 本当か、これはシロン城なのか。けっこうこの城は感心して見てきたのに、シロン城と言われると、ロート製薬には悪いけれど、なんだかちょっとがっかりする。パンシロン城はどこにある。

 昼食は、お城の前の道路沿いのレストラン、Taverune du Château de Chillon(タヴェルヌ・デュ・シャトー・ド・シヨン)で。これも「シロン城食堂」ということになるのか。まあ多少食べ過ぎても胃もたれはせずにすむかもしれない。

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 注文を取りに来たのは若い韓国人のウェイトレスで、この後、はるばる韓国から来た知り合いらしい団体がやってきて、「お久しぶり!」みたいな挨拶をにぎやかにやっていた。最近の韓国人の海外進出はたいしたもので、ここレマン湖畔のシロン城にもその波は押し寄せてきているのであった。

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2011年10月20日 (木)

中日連覇!

 10月18日対横浜戦で、中日ドラゴンズがセ・リーグ連覇を決めました。途中まで負けていてハラハライライラ、なんとか追いつき、あとは守り抜いて引き分けで優勝という、いかにも今年の中日らしいしめくくりでした。夏まではとても優勝できるとは思っていませんでした。落合監督よくやってくれました。

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 試合終了後の落合監督のインタビューがよかった。こんなときにも意気込んだり、格好をつけたりすることなく坦坦と答え、試合途中のブルペンとのやりとりについては「中での話なのでご勘弁ください(笑)」と情報管理の秘密主義に徹していました。こういうところでマスコミに受けようという意識が本当にないのですね。星野野村とは大違いです。

 落合監督がまだ巨人で現役だったときの『勝負の方程式』(1994、小学館)という本にはこう書いてあります。

 仮に、私が監督になったら、点をやらない野球を目指す。守りで攻撃するチームづくりに取り組むだろう。
 ひとりで一点取れるようなバッターとは、勝負はさせない。彼をフォアボールで歩かせて、次のバッターでダブルプレーを狙わせる教育を徹底させる。どこのチームにも、きちんと型にはまったバッターがいる。こうした打者は、このボールをほうると、ここに打ってくるというのが決まっている。型にはまったバッターさえ見抜ければ、アウトが確実にひとつ取れる。ダブルプレーを取ることもたやすくなるはずだ。守りで攻撃ができるのである。私が監督ならば、こんなチームをつくってみたい。(落合博満『勝負の方程式』小学館、1994、p153)

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 悪評の中、本当にこのとおりにチームをつくってきて、これだけの実績を残しました。日本シリーズでの完全試合目前の山井投手の交代など、とにかく意志の強い人だと感心します。

 ねじめ正一『落合博満 変人の研究』(新潮社、2008)というおもしろい本があります。この本を読むと落合が好きになります。

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 落合には甲子園や大学での華やかな球歴はありません。野球は好きで上手でしたが、野球部になじめませんでした。

 生来、封建的な体育会系の上下関係になじめず、秋田工業野球部時代は「八回入部八回退部」。とはいえ、一度も退部届は書いておらず、常に休部状態のまま、試合が近づくたびに呼び戻されたという。映画好きで、映画館で部員に発見されては部に復帰し、たった一週間の練習で四番を打ち、本塁打を量産した。
暴力が好きではない。(前掲書、P3)

 野球部セレクションに合格して入った東洋大学も三カ月で合宿所を飛び出して中退。故郷に帰ってボウリング場でバイトをし、プロボウラーを目指すも、交通違反の罰金のせいで受験料を失い、合格に至らず。最高アベレージ二八六。
 高校・大学においては、本格的な野球を経験していないに等しい。(同、P3)

 この後、社会人野球に拾われた落合は、ようやく野球に打ち込める環境を得て才能を開花させ、プロ入りして、ロッテで三冠王を三回獲得という大選手になります。
 その後の中日時代の落合について、ねじめ正一はこう書いています。

 私は、落合は中日時代の星野監督とは野球観が合わなかったのではないかと考えている。
 星野監督は選手時代、監督時代を通じて、自己演出に努力した人である。闘将、燃える男のイメージをつくり上げるためには選手に鉄拳をふるい、乱闘となれば世界の王選手へも殴りかかっていくのを厭わない。おのれのイメージを観衆にどう植え付けるかという計算では、星野仙一の右に出る人はいない。
 努力の甲斐あって、星野は若くして監督に就任し、監督の座布団に座りつづけた。名古屋の政財界にも可愛がられて、中日監督の座布団だけでなく、野球以外の名誉の座布団も笑点よろしく一枚また一枚と積み上げていった。
 暴力嫌いの落合は、おそらく星野監督のそういうところに反撥していたはずだ。星野監督が尻の下に敷いている野球以外の座布団がイヤでイヤでたまらなかったはずだ。積み上がった座布団から野球に無関係の座布団を全部取っ払わない限り、星野監督のコトパに耳を傾ける気は起きなかったはずだ。(前掲書、P21)

 中日の監督に就任した落合は暴力を禁止します。

     暴力禁止!

「コトバの人」である落合はまた、ニッポンの体育会系と相容れない。コワモテに見える落合が、非暴力主義者であることは、いくら強調しても足りないだろう。

 コーチから選手へはもちろん、選手から選手への暴力を一切禁止する。従えない者は即刻ユニフォームを脱いでもらう。

 これは中日の監督に就任した二〇〇三年十月十七日、全員ミーティングで発した言葉である。また、ユニフォームについても、星野監督の就任と同時にドジャース型に一新されていたのを、帽子のCDマークを復活させ、ビジターの胸のマークもCHUNICHIという伝統ある旧スタイルに戻した。落合監督が最初に行ったことは、星野色を一掃することだった。これは、オーナーからの要望だったようだ。
 ながく中日のシンボルだった星野仙一は、明治大学の島岡吉郎の薫陶を受けた、正しいニッポンの体育系男子である。人をそらさぬ笑顔と上下関係を弁えた礼儀正しさを身につけて、爽やかないい男であり、いつまで経っても田舎風の風采の上がらない落合とはだいぶちがう。
 でも、星野監督は、弁も立つが手や足も出す。鉄拳で発奮させるかわりに、引退後の就職まできちんとフォローするのが星野流であることは、球界ではよく知られている。五輪の「星野ジャパン」の選手たちも、監督室に呼ばれるのをとても怖がっていたという笑い話があるくらいだ。しかし、アメとムチで選手を動かす星野スタイルを、落合はどうしても好きになれなかったらしい。(前掲書、P131)

 落合は野球界の主流である体育会的人間関係を否定し、試合に関しても「オレ流」でチームを引っ張り、マスコミに嫌われながら、8年間立派な実績をあげてきました。
 しかし今年で最後ということになりました。
 この本の中で、ねじめ正一の対談相手の豊田泰光(野球評論家、元西鉄)が、落合の監督就任時について、こう語っています。

 落合に監督をやらせるとしたら中日しかなかったと思う。あの球団は、中日出身の選手が監督になるものだ、というふうに思い込んでいるところでしょう。たぶん、オーナーが飽き飽きしていたと思うんです。なんだよ、中日の選手上がりなんかたいした働きもしないし、ずっと仲よしグループのぬるま湯体質では仕方ない、と。そこで、外様とはいえ中日では突出して見えた落合にやらせたということ。オーナーが全面的に支援したら、何でもやれますよ。ほかはもういなくていい。オーナーにさえ好かれていればいいんです。マスコミも最初の頃はボロクソ言っていましたけれども、今はもう言っても落合に勝てないから、黙り出した。中日のOBも、何となく弱気になってきていてね(笑)。(前掲書、P89)

 中日OBが勢力を挽回してきたということでしょうか。
 まあいろんなことがあるのはある程度しょうがないけれど、中日ファンとしては、昨日流れたこのニュースには腹が立ちます。これは本当か。デイリースポーツオンライン(2011/10/19)からです。

 連覇の原動力となった事件がある。ナゴヤドームで行われた9月6日の巨人戦。3対5で敗れた試合後の関係者通路。坂井球団社長が、なんとガッツポーズを繰り出した。複数の球団関係者がその光景を目にし、すぐさまチーム内に広まった。

 「ウチがひとつにまとまったのは、あのガッツポーズからだよ」と落合監督。アンチ落合の急先鋒。敗北=落合の汚点。喜ぶ心情は理解できる。だが、球団社長という立場にあるまじき禁断のポーズは、フロント不信を招くと同時に、選手の反骨心を呼んだ。

 ある主力選手が言う。「あり得ないっす。監督のことを嫌いなのは構わない。人間ですから。ただ、試合をやってるのは、僕たち選手なんですよ。ガッツポーズなんて考えられない。選手をバカにしてるのと一緒ですよ」。荒ぶる心。ぶつける場所のない怒り。すべてを戦場でパワーに変えた。http://www.daily.co.jp/baseball/2011/10/19/0004558311.shtml

 来年以降が心配になってくる話ですが、ともかく長い間落合監督ありがとう。
 まだクライマックスシリーズ、日本シリーズとありますが、セ・リーグ連覇でもう腹一杯になったような気分です。

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2011年10月17日 (月)

sp05 ユースホステル

 一度ユースへ戻ってから、夕食にまた町へ出ようと言っていたけれど、雨は降るし、さすがに疲れたし、そのままユースで夕食をとることにした。
 これがそのバーゼル・ザンクトアルバン・ユースホステル。ドイツ語では Jugendherberge Basel St. Albanユーゲントヘルベルゲ・バーゼル・ザンクトアルバン)。 ユーゲントヘルベルゲは青少年宿泊所=ユースホステルという意味である。ヒットラー・ユーゲントを連想してしまうが、ユーゲントは英語の youth にあたる普通の言葉であるらしい。
 大きな通りからライン川へ降りていく途中にあり、建物の前にはライン川へそそぐ小川が流れている。

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 下の写真 がユース玄関前の同行の三人、わたしを入れて一行四人。みな学生時代の友人たちである。だから還暦過ぎの男ばかりで、ちょっとユーゲントとは言いがたい。
 ついでに紹介しておくと、左からT局長K機長I長老。個人情報などの問題があるので、以後この仮の名前でいくことにする。けっこう面倒なのだが、顔もわざとぼかしてある。みんながぼけているわけではない。
 T局長は、某放送局でアナウンサーを振り出しに国際放送の番組制作などに携わり、定年退職後も週三日の契約で同様の仕事を続けている。放送局長だったわけではないが、こう呼んでおく。K機長は、元某航空会社のパイロットで、定年退職後も子会社で飛んでいたが、先日完全に地上に降りたばかりである。I長老は、元は公務員で、今は悠々自適の生活をしている。大学では他の三人より二学年上で、えらかったから「長老」である。

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 この老人四人の一行がなぜユースホステルに泊まることになったのか。
 今回の旅行はパックツアーではないので、ホテルを予約するとき、ちゃんとしたホテルと安い宿を組み合わせて経費を節減しようということになった。安い宿としては、T局長が若い頃の経験からユースでもいいのではと提案。インターネットでホテルを探す中で、決まらないところはとりあえずユースを押さえておこう、キャンセル料は5%くらいだから後で変更すればいいからと、どんどん予約を入れた。そうしたらホテル3泊、ユース10泊という予定表ができあがって、そのまま変更することなく来てしまった、という次第である。

 だから最初のユースの印象が悪ければ、この後の泊まりは変わっていたのかもしれないが、ここは環境もよく、コンクリートの打ちっぱなしで愛想はないけれど、全体に清潔で、受付のお兄さんもなかなか感じがいいのであった。
 部屋は下の写真のような二段ベッドが二つの四人部屋。今回泊まったところすべてで、こういう四人部屋を提供してくれた。どこも狭かったが、いつもみんな一緒で、他の客に気をつかうことがなく気楽にすごせたのがよかった。そのかわり同宿の人と知り合いになるような機会もなかったが、まあ若者の旅とは違うからいいだろう。一人旅で、二の腕に入墨のある二メートルくらいの坊主頭の屈強の男が下のベッドにいたりしたら、ちょっと怖いものがある。
 トイレ、シャワーは共用で、これは以降のユース全部がそうであった。

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 ベッドの上段・下段の割り振りは、トイレへ何回も起きるという長老にまず出入口に近い下段を進呈し、他は交代でというつもりでいたら、最初の日に上段にいた機長が夜中に足をつらせて、以後下段に寝ることになった。老人旅行会にはいろんな配慮が必要である。
 だからそれから局長とわたしはずっと上段に寝た。昇り降りはやっぱり面倒だし、そもそも狭くて寝心地がいいとは言えないが、安いのはたしかで、おおむね朝食付き一泊一人4千数百円くらいだった。寒くも暑くもない気候だったから、それほどの不満は感じずにすんだ。

 ここの食事は外のテラスでも食べることができ、ワインも飲むことができた。無論別料金である。すぐ下を小川が流れ、なかなかいいところだった。

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 これが夕定食。肉はちょっと固かったが、値段を考えればまずまずというところか。赤い液体はフリーの飲み物で、ひょっとしてワインだろうか、子どもたちも飲んでいるが、そんなことでいいのか、とちょっとだけ期待した。しかし何のことはない、かすかに香りがあるだけの色つきの水だった。甘味もほとんどなく、これなら水の方がいい。このあたりの子どもたちはこんなものを飲まされているのかと、ちょっとかわいそうになった。

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 長い第1日の終わり、夕食後のライン川散歩の後、また部屋で飲むつもりでいたが、ベッド上段に昇ってちょっと横になったら、さすがに疲れていたようで、そのまま寝てしまった。長老と機長は飲んでいたようである。

 

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2011年10月14日 (金)

兄の死

 わたしの次兄が亡くなりました。
 2011(平成23)年10月11日午前4時35分。享年68、満66歳でした。

 ここのところ入院・退院を繰り返しており、今回は9月25日から入院していました。ただ、医師も大事に至るとは見ておらず、入院後落ち着いてきているとのことで、遠隔地にいるわたしは見舞いにも行っていませんでした。前日の10日には本人から長兄に電話があり、明日にでも退院したいと言っていたくらいだったそうです。それが当日早朝、突然の病変でそのまま逝ってしまいました。

 わたしとは三つ違い。兄弟の中では一番わんぱく、やんちゃ、地元の言葉では「横着(おうちゃく)い」と言われていました。わたしは普段は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」とくっついて歩いていたのでしょうが、なにかのときには喧嘩にもなります。しかし子供の三歳差はほとんど絶対的で、かなうわけもなくいつも泣かされていました。わたしが、家の中では隅っこでマンガや本を読んでばかりいる子供になったのは、ひょっとするとこの兄のせいだったのかもしれません。

 体が大きく運動神経のよかった兄はスポーツで活躍しながら、学校の成績も良く、地元の名門高校に入学しましたが、ちょっと規格外だったようで、いわゆるバンカラ、硬派として名を売っていました。
 大学進学にあたっては、金のかかる私学へはやれないと言う親に対して、同級生から入学金を借りてくるという手段に出て、早稲田大学へ進学しました。同級生には地元の有名企業経営者の子弟が多く、そんな友人もいたのでした。このときわたしは、私学へ行くには、自分で資金を調達しなければいけないのだと肝に銘じました。

 大学では学業より、もっぱら麻雀、酒と青春を謳歌していたようです。わたしが大学受験で東京へ行ったときには、兄の世話で、大森にあった地元企業の子弟用の学生寮に泊めてもらいました。受験当日、兄は「しっかりやれよ」とだけ言って、たしか大井競馬場へ出かけて行きました。わたしの面倒をみるために親から多少小遣いが届いていたのでしょうか。
 結果としてわたしが受験に失敗したのは、このとき兄が「ちゃんと面倒をみてやらなかったせいだ」と、母は兄をずっと責めていたそうです。わたしとしては、もう高校三年生ですから、放っておいてもらってありがたかったくらいで、試験に落ちたのはひたすらわたしの実力のせいです。兄には悪いことをしました。ごめんなさい。

 卒業後、地元の大手紡績会社に就職した兄は、最初は人事の担当で、「女工」さんの募集に主に東北地方を飛び歩いていました。就職担当の先生にお願いするため、岩手県や青森県の中学校をずっとまわっていたのです。そのために会社は昼間定時制高校も附設していました。高度経済成長の華やかな時代でした。会社の社長は相場や金融の世界でも名を馳せ、この頃、夕刊フジに「日本一の金貸し」として大きく顔写真が載りました。横浜で見つけて驚きました。
 そのうち兄もわたしも結婚し、正月などには、まだ健在だった父母に孫の顔を見せに集まりました。姉や長兄の子供も一緒にいつもにぎやかにやっていました。

 第二次オイルショックの年(1979(昭和54))、兄の会社は突然倒産してしまいましたが、引き続き再建会社で働き、兄はそこでもそれなりに評価され、順調にいっているように見えました。
 一族が集まる宴会の席では兄がいつも主役でした。明るく陽気で、酒を飲んで笑いながら、大きな声で誰彼なしに呼びつけて小言を言ったり、騒いだり、兄自身の子供たちはそんな父親をちょっと恥ずかしいと思っていたようですが、ほかの子供たちからはおもしろいおじさんとして人気がありました。
 この頃、みんなで一緒に岐阜県関市の百年記念公園へ行って、子供たちともども自転車を借りて走らせたことがありました。男兄弟三人が又並んで自転車に乗るような日が来るとはなあ、と言い合って公園内を走ったことを思い出します。楽しい思い出のひとつです。

 しかしその後も繊維関係の構造的な不況は続き、兄は子会社の経営を任されたり、地位も上って頑張っていましたが、1996(平成8)年、会社本体がとうとう再度倒産に至ってしまいます。父母が相次いで亡くなったのは1995(平成7年)のことで、幸いこのニュースを聞くことはありませんでした。
 その後の兄は不遇続きで、何度か会社を変わってもなかなかうまくいかず、次第に悪いほうのスパイラルに陥って、身体もこわしてしまいました。長兄夫婦がずいぶん面倒をみましたが、とうとう立ち直ることができないまま逝ってしまいました。

 幸い兄の子どもたちはしっかりしていて、それぞれ自分の道を歩んでいます。
 安らかに眠ってくれることを祈ります。
 かけがえのない兄でした。 

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              合掌

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2011年10月11日 (火)

sp04 バーゼル観光

第1日 11/06/08

バーゼル観光

 羽田を深夜00:35発のJAL041便。パリまでは12時間と長い。同行四人は早い時間に集まって、機内で安らかに眠れるよう、ゆっくりビールなどを飲んでから乗り込んだ。

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  予定どおりパリのシャルル・ド・ゴール空港で乗り換えて、スイスのバーゼル(Basel)へ。ここはフランス、ドイツとの国境で、バーゼル空港は実はフランス領内にあった。

01_2  左の地図にはEuro Airportと書いてあって、フランスのミュールーズ(Mulhouse)空港でもある。降りて最初に出たところはフランス側で、そこでスイスフランに両替しようとすると、まずユーロに両替して、それからスイスフランに替えるので、手数料を二度とるという。通路をぬけてスイス側へ出れば、直接替えられるのだった。ややこしい。
 スイスはEUに入っていないため、こういうことになる。しかし入国審査はフランスですませていれば、スイスで再度受ける必要はなかった。

 

 バーゼルは雨。
 最初の町が雨というのはピリッとしないが、細かい雨で、ずぶぬれになって困るような雨ではない。タクシーでとりあえず今夜の宿のバーゼル・ユースホステルまで行き、荷物を置いて、傘を持って市内の観光に出る。
 トラム(市電)に乗る。ユースで市内一日フリーのチケットを受け取った。小銭に気を使うこともなく乗り放題乗れるのが便利だ。下右はそのカード。オマケでついてくるわけではなく、宿泊料金にこの分も含めて払うのである。

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 わたしはとにかく初めてのヨーロッパの町なので、見るものすべてが物珍しくおもしろい。
 下右はバーゼル駅。小さくSBBの文字が見える。Schweizerische Bundesbahn シュヴァイツェリシュ・ブンデスバーン(スイス連邦鉄道)の略で、この後もよく利用した。ここもフランス国鉄の駅が隣接しているそうだ。 

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  こんな街並みを見ると、ああ絵や写真で見たとおりのヨーロッパの町じゃないかと思う。当たり前のことなのに感動してしまう。

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 赤い建物は市役所、工事中で半分覆いがかかっている。前が広場で市場も開いている。

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 このあたりのレストラン(Movenpickという名前だった)で昼食。これを皮切りに、朝食を除いて、食事にはワインかビール、あるいは両方という生活がはじまった。
 ワインにはなぜかカエルやトカゲの絵が描いてある。まさかエキスが入っているわけではあるまい。このシリーズのワインはコンビニのようなところでも売っていて、そんなに高くなかったので、この後、買ってきて部屋で飲んだりもした。
 

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 そして大聖堂。ここも工事中で、この塔は登らなかった。

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 大聖堂の中。

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 大学のまわりには本屋も多い。しかし並んでいるのはドイツ語の本ばかりなので手が出ない。大学街を離れてから、やっぱり何か記念にと、Thalia(タリーア=ギリシア神話の女神 という大きな本屋でシラー『Wilhelm Tell (ヴィルヘルム・テル)』を買った。読めないのは同じだけれど、レクラム文庫だから安い(5.9CHF=スイスフラン)。

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  左はシュパーレン門(Spalentor)。14世紀にできた砦の名残りで、アルザス方面からのバーゼルへの入り口だったという。右はユースの近くにあった門で、ザンクトアルバン門(St. Alban-Tor)と言うらしい。こちらの来歴はわからない。

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  町の中をライン川が流れている。わたしは大きな川のほとりの町に生まれて育ったから川にはちょっとうるさい。しかもその川の少し上流では「ライン下り」をやっている。だからどうしても親しみを感じてしまう。水量の豊かな、いい川である。
 おもしろい渡し船があった。(ドイツ語ではフェーリというらしい。)写真ではよくわからないが、両岸にワイヤーを渡し、そのワイヤーに滑車を付けて船と結ぶ。あとはその船に結び付けたワイヤーを右舷に持ってくるか左舷に持ってくるかで、あっちへ行ったり、こっちへ戻ってきたりできる。動力なし、川の流れの力だけで動く、舵さえいらない渡し船である。
 ちょっと乗ってみたい気はしたが、相変わらず雨がショボショボなので乗らなかった。

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 ライン川へは、ユースでの夕食後にもまた散歩に行った。なにしろこちらは日が長い。なかなか暗くならないのである。これで夜の8時ころなのだ。

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  これが、バーゼル市内の地図。

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2011年10月 8日 (土)

sp03 スイス・パリ旅行日程

 2011年6月8日(水)~22日(水)まで、スイス9泊パリ4泊の旅行に行ってきました。忘れないうちにメモを、と思っているうちに時間がたち、本当にあらかた忘れかかってきました。写真などを見ながら、どの程度思い出せるでしょうか。

 まず日程の確認から。
 もうどこが先だったか後だったか、はっきりしなくなっているので、こうやって整理しないとわからない。

瑞巴旅行日程表  2011/06/08~2011/06/22

 日  時刻  できごと  泊
第1日
 6/8
00:35羽田発
08:45パリ着
09:48バーゼル着
(現地時間)
 深夜に羽田を発ち、パリで乗り換えてバーゼルへ
 雨、市内観光、大聖堂
 ライン川近くのユースホステル
(YH=ユースホステル)



 バーゼルYH
第2日
 6/9
08:03バーゼル発
10:39モントルー着
 特急列車でモントルーへ
 レマン湖クルーズ、シオン城
 アプト式鉄道で近郊の山の途中まで
 夕食にチーズフォンデュ
 
モントルー
 グランドホテル・スイス・マジェスティック
第3日
 6/10
08:44モントルー発
11:14ツェルマット着

  列車でツェルマットへ。乗換のフィスプでスリにあう。ツェルマットで警察へ届け出
 スネガ展望台へ。マッターホルン頂上は雲。
山岳博物館、ウィンパー。

 ツェルマットYH
第4日
 6/11
   ロープウェイでクライン・マッターホルン(3885m)へ。終点到着寸前にマッターホルン頂上見ゆ。
 シュヴァルツ湖展望台でも上は雲
 ツェルマットの町散策。
 ツェルマットYH
第5日
 6/12
07:39ツェルマット発
11:19グリンデルワルト着
 予定のポストバスをやめて一路グリンデルワルトへ
 ユングフラウヨッホのスフィンクス展望台(3573m)。メンヒ、ユングフラウが目前、アイガーは見えず
 グリンデルワルトYH
第6日
 6/13
09:15グリンデルワルト発
10:52ベルン着
15:04ベルン発
16:37グリンデルワルト着
 雨のため山はやめて首都ベルン観光。噴水、時計塔、熊公園
 グリンデルワルトがツール・ド・スイスのこの日のゴールになっていて駅前は大にぎわい。絶妙の帰着時間
 グリンデルワルトYH
第7日
 6/14
   曇、時々小雨。メンリッヒェン(2239m)からクライネ・シャイデックまでハイキング。アイガー北壁は雲で上が見えず。新田次郎の碑
 ホテル・ベルビューでトマト・フォンデュ
 グリンデルワルトYH
第8日
 6/15
08:14グリンデルワルト発

13:58ザンクトガレン着
 朝起きたら晴れ。アイガーが上まできれいに見えた
 ザンクトガレン市内観光。修道院図書館
 ホテル、風呂あり
ザンクトガレン
 ベストウェスタンホテル・ヴァルハラ
第9日
 6/16
   スイス人青年マーチンの案内、車で近郊の観光
 アッペンツェル、センティス山。
 マイエンフェルトでは再びツール・ド・スイスに遭遇
ザンクトガレン
 ベストウェスタンホテル・ヴァルハラ
第10日
 6/17
11:11ザンクトガレン発

17:34パリ着
 TGVでチューリヒ、バーゼル経由パリへ パリ
 ジュール・フェリーYH
第11日
 6/18
   パリ観光
 モンマルトル、凱旋門、シャンゼリゼ、エッフェル塔、ロダン博物館……
パリ
 ジュール・フェリーYH
第12日
 6/19
   パリ観光
 ベルサイユ宮殿
 フランソワ・モレルの音楽ショー
 カフェ・ド・フロール
パリ
 ジュール・フェリーYH
第13日
 6/20
   パリ観光
 ルーブル美術館
 セーヌ川クルーズ
 ノートルダム、河岸の古本屋
パリ
 ジュール・フェリーYH
第14日
 6/21
23:35パリ発  パリ観光
 オルセー美術館スト休業。マルモッタン美術館へ
 映画”Midnight in Paris”鑑賞
 深夜シャルル・ド・ゴール空港発
 機内
第15日
 6/22
18:00成田着    

 パリは市内の観光をしただけなので、スイスだけ行程図を作ってみました。スイスはだいたい九州と同じくらいの大きさだそうです。

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  こちらも同じ地図です。pdfにしてみました。
 →「swissmap.pdf」をダウンロード 

 こうやって日程を振り返ってみたら、なんとなく思い出してきました。

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2011年10月 5日 (水)

佐藤優講演会2011

 今年も佐藤優講演会に行ってきました。2011年10月2日(日)、かながわ県民センター・ホール、去年と同じところ。去年は多少空席がありましたが、今年は満員の盛況でした。
 初めて聴いた去年の印象は強烈でした。(→佐藤優講演会)その博覧強記とエネルギッシュなことに驚きました。二回目となるとそのあたりは承知のうえなので、感動こそ薄れますが、話の内容は、去年同様濃いものでした。

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 覚えている範囲でメモしておきます。

・ 「3・11」により、これまでの「合理主義、生命至上主義、個人主義」の時代が終わったことが明らかになった。原子力事故では人智の限界を知らされたし、原発の現場では職員や自衛隊が命を賭してを処理にあたった。

・ 米軍の「トモダチ作戦」は名前が悪い。こういう名前をつけるのは「トモダチ」関係が薄らいでいる、危なくなっていると感じるときだ。

・ 世界は新帝国主義の時代に入った。「力の均衡」が重要。弱くなったらまわりから襲ってくる。日本を帝国主義的に再建しなければならない。

・ 中国は海洋国家をめざしている。マカオで洋上カジノにすると嘘をついて、ソ連の中古の航空母艦を手に入れ、タグボートで一年半かけて曳航して、大連港へ入れ、訓練用の空母にした。空母の運用は非常に難しく大変なこと。歴史的にも空母を五艦以上もって運用できたのはアメリカとわが大日本帝国だけ。
  今後中国の南方に対する軍備が強化されてくると、アメリカは海兵隊では対抗しきれず沖縄から撤退せざるをえなくなる。

・ 中国は、一九七一年に尖閣諸島は自国の領土だと主張し始めたが、歴史はどんな組立でもできる。外交は力のゲームだが、領土を取り決めた処分条約のような、守らないといけないルールもある。これを力でひっくり返そうとしている。

・ もと防衛大学校教授だった孫崎享という人が、尖閣は中国領だとか言っているが、こういう人が防衛大学で教えていたのは問題。汚染された自衛官を除染しなければいけない。 (→孫崎享『日本の国境問題 尖閣・竹島・北方領土』 (ちくま新書、2011)という本が出ているが未見)

・ ロシア語では中国のことは「キタイ」という、北方騎馬民族のキタイ、契丹からきている。
  ロシアのKGBアカデミー育ち(プーチンなど)はみな中国がきらい。
 メドベージェフは、ポピュリズムから領土問題をひっくり返してナショナリズムをかきたてようとした。菅首相が「許し難い暴挙だ」と発言して対立したのは、二人とも似た者同士で、ちょうど磁石のN極とS極が反発しあうようなもの。
 
プーチンはちがう。大統領が変わることで北方領土問題は動き出す可能性がある。

・ 最近北朝鮮が、今までは自力でやったとして言わなかった、北朝鮮独立に際してのソ連軍の貢献に、感謝を表明したりしてロシアに接近している、援助を受けるため。

・ こういう帝国主義のゲームができるのは民主党の前原誠司くらいしかいない。前原は帝国主義者だから。

・ 前原誠司に対する外国人献金問題。月5万円の献金元が外国籍だったからといって、外交・国益になんの害も及ぼしていないのだから、外務大臣を辞めるべきではなかった。この後北朝鮮が偽装工作で若手議員に5万円ずつ献金していったら、都合のいいときにいつでも辞めさせられることになる。

・ 玄葉光一郎はあぶない。どうしてこんなのを外務大臣にしたのか。外交のルールを知らずに、無用のレトリックをつかってはいけない。10月6日、7日に韓国へ行って、向こうで慰安婦問題で不用意に何か言ってしまうと大変だ。この問題は中国が後を押すし、アメリカでも取り上げられていて、ハーグ条約の国際離婚のときの子供の帰属問題とあわせて、下手すると国際的に日本が叩かれる。

・ 顕在化した現実的脅威としての中国を封じ込めるのが最大の課題。WTOは自由貿易だが、TPPはアジア太平洋のブロック経済である。農業など大きな影響があるだろうが、「東アジア共同体」なんて言ってないで、こちらでやるべき。

 こうやって話の要点だけ書いていくと、なんとなく右翼の演説とたいしてかわないようですが、実際には、多彩なレトリックにいろんなおもしろいエピソードや該博な知識が披露され、真摯な訴えかけもあって、おもしろくかつ迫ってくるものがあります。(といって、わたしは全面的に賛成というわけではありません。)

 講演が終わってからの質問への回答がまた凄く、今年も提出された数十枚の質問用紙に、一時間以上もかけて全部答えました。
 中には「鈴木宗男さんはお元気ですか?」というのもありました。年内には出られるのではないか。最新の手紙では田中真紀子が外務委員長になったのを喜んでいる、とあったそうです。外務省の伏魔殿ぶりを暴いてくれることへの期待でしょうか。
 「カダフィはどこにいますか?」というのもありました。「わたしも知りたい」というのが答でしたが、おそらくリビアの田舎の地下施設にいるのではないか。北朝鮮の地下道建設の技術はなかなかのもので、世界中あちこちに細菌兵器保管用やらなにやらの地下施設・地下道を請け負って掘っている、とのことでした。

 来年もやるそうです。2011年10月7日(日)。

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2011年10月 1日 (土)

36 大統領の交代制

 9月24日、ロシアのプーチン首相が、メドベージェフ大統領から来年3月の大統領選の党候補として推薦され、これを受けて、出馬の意向を表明した、というニュースは、驚きというより、ああやっぱり、というものでした。
 菅野沙織『ジョークで読むロシア』(2011、日本経済新聞社)には、2008年、メドベージェフが大統領になったころからの、この二人の関係についてのジョークが掲載されています。
 「本のジョーク」ではありませんが、番外編として紹介しておきます。
 なおこの本にはジョークのタイトルはついていませんが、ここでは仮の題をつけておきました。

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大統領選挙

問「大統領選挙キャンペーンに資金はどれくらい必要ですか?」
答「一ルーブルあれば十分です。一ルーブルコインを投げて、表が出ればプーチン、裏ならメドベージェフだ」 (P8)

メインは

 二〇〇八年五月、ロシアで「メドベージェフ-プーチン」の二頭体制が誕生した。そこで国民からの素朴な質問。
問「プーチン首相は執務室にメドベージェフ大統領の肖像画を掛けますか?」
答「もちろんです。プーチン首相が執務室に掛けた自身の肖像画の背景には、メドベージェフ大統領が描かれています」 (P84)

ロシア双頭の鷲

時はニ〇三六年。プーチンとメドべージェフがクレムリンの大統領執務室で一緒にビールを飲んでいる。
プーチンがメドベージェフに聞いた。
「ところで、ディーマ(メドベージェフの愛称)、今日はどっちが大統領だったかな」
 メドベージェフが答える。
「あれっ、なんてことだ。忘れてしまった」
 それでニ人は部屋の外に出て、執務室のドアにある名前を確認した。
 メドベージェフがいう。「今日はあなたが大統領ですね」
すると、プーチンはいった。
「わかった、ディーマ。それなら君がビールを買いに行ってくれ」 (P113)

 こんなのもあります。最後はどうなるのでしょうね。

民主主義

 二〇二八年のロシア大統領選。プーチンの側近がおずおすと進言している。
「これ以上、国民をわずらわせるような選挙はもはや無意味ではないでしょうか。今、あなたはロシア帝王になると宣言すべきです」
 プーチンが言う。
「私はエリツィンにロシアの民主主義を守ることを約束した。だから、残念ながら、その要望には応えられないな。わかったか、選挙は続行だ!」(P106)

 著者はロシアから日本に帰化したエコノミストだそうで、これはジョーク本ではなく、ジョークを交えたロシア経済の現況紹介の本です。何も知らないことばかりだったので、興味深く読めました。
 9月26日には、メドベージェフ大統領がクドリン財務相を辞めさせたニュースが流れました。著者はクドリンを、変化の激しかったプーチン時代の経済政策の中で健全な財政方針を貫いたとして評価しています。今後影響がでるのでしょうか。

 あれ?と思ったのは、スウェーデンの家具チェーン、イケアのカフェの料理が、ロシアのファミリーレストランにそっくりで、今のロシア人が好む洋食そのものである、おいしいと書いてあること。船橋店の話ですが、イケアは横浜にもあって、同じようなカフェもあります。なんだか大味だったような記憶です。今度行ったときには、ロシアの味を確認するため、もう一度カフェをためしてみましょう。

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