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2011年12月

2011年12月30日 (金)

sp32 パリへ

(第10日続き 11/06/17)

パリへ

 ザンクトガレンからチューリヒTGVに乗り換えていよいよフランスへ向かう。
 TGV(テージェーヴェー)は、最新鋭の車両という感じはなく、新幹線を見慣れた目にはそれほどのことはなかった。

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 チケット。スイス・パスは通用しない。二等である。

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 I長老はまめに行動記録をつけている。わたしはこれが苦手で、どこへ行ってもちゃんと記録を取ったことがない。こうやって旅行記を書こうとして後から思い出すのはけっこう大変だが、もうこの歳になると今さらメモをとる癖もつけられない。
 昼食は車内で軽くすませた。

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 sp01 What is this? に載せた非常用ハンマーのひとつはTGVのもので、ガラス窓に小さく使用法の図解があっておもしろい。変な形のハンマーだと思っていたら、見えているのは取っ手だけで頭は隠れているのだ。図解によると割ってから二枚目、三枚目のガラスは切り取るようになっている。だから凶器になりそうな頭部は隠しているのだろうか。

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 さて夕方いよいよパリ東駅(Gare de l'Est)へ着いた。

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 あこがれのおフランス、花のパリであるが、西も東もわからない。ひたすらT局長K機長を見失わないようについて行くだけである。
 初めの旅行計画ではパりは1泊か2泊で、ついでにちょっと寄るだけという話だったので、ガイドブックも買っていない。それがなぜか4泊という話になったが、フランス関係の本を読み始めたら果てしがないので、もう下調べも舌平目もない。ともかくおのぼりさんとしてみんなの行くところ、どこへでも着いて行けばいいやと思っていた。


 だからどこをどう行ったのかよくわからないまま、今日の泊まりのユースホステルに着いた。
 auberge de jeunesse Paris Jules Ferry オーベルジュ・ド・ジュネス、パリ・ジュール・フェリー 青少年宿泊所パリ・ジュール・フェリーである。
 ジュール・フェリーというのは通りの名前だが、もとは十九世紀の政治家の名前らしい。
 この真ん中の建物がユースで、右の写真が受付。

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  スイスのユースに比べるとちょっと清潔さに欠け、安宿らしい感じがするが、ここはパリの街中にあるので、バックパッカーには人気があるようだ。若い旅行者ばかりではなく、もう中年の旅行者もけっこう見た。われわれより年上らしいのは見なかったけれど。
 また二段ベッドである。

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 外へ出て、今日の夕食はなぜか中華料理。ユースはレピュブリック広場 Place de la Républiqueに近く、「新安江」というこの店もそのあたりにあった。

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 この旅行記もようやくスイスを出てパリまで来た。年内には終わる予定だったけど、だめだった。正月少し休んだら、来年はパリ篇を続けるので、ここまで読んでいただいた方は、もう少しご辛抱ください。

 みなさん、よいお年を。

 

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2011年12月28日 (水)

sp31 スイスの共同体

第10日 11/06/17

さらばスイス

 マーチン青年にどうもありがとうと書いたところへ、T局長から、来月マーチン青年が日本へやって来るという連絡が入った。みんなでどこか案内しよう。横浜・鎌倉あたりか、行ったことはないがサンリオ・ピューロランドでもいい。

 さてこれが最後のホテルの朝食。ウェイトレスのお姉さん。パリではまたユースの予定である。

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 この日はザンクトガレン11:11発の予定だったので、それまでのんびりした。はじめてのことである。パックツアーじゃないから時間に追われずにすむと言いながら、ここまでずっと毎日朝早くから出かけて、せっせとあちこち歩き回って来たのだった。お金があるわけではないわたしが、来たからには見るものは見ておかねばと思うのは当然だが、お金がないわけではない人たちもまめに歩いてきたから、貧乏性とは言わずに好奇心・探究心が強いからだと言っておこう。

スイスの共同体

 ここでちょっとスイスの共同体のことを書いておきたい。お勉強発表会になってしまうが、書いておかないと忘れてしまうのでここにメモしておく。

 スイスには基礎自治体連邦の三段階の行政単位がある。
 基礎自治体(ゲマインデ Gemeinde 独、コミューン commune 仏、コムーネ comune 伊)は、数十人から30万人を超えるチューリヒまで大小さまざまで、全部で2700ぐらいある。
 州(カントンKanton 独、canton 仏、カントーネ cantone 伊)は、準州も1と数えて26あって、固有の憲法を持ち、独自性を誇る。
 この上に連邦政府がある。2008年の人口は760万人ぐらい。

 中央集権の国とは違って、州(カントン)の力が強い。歴史的にも、主権を持つカントンの同盟体であり、憲法上の国名は「スイス盟約者団」である。カントンが主体であり、連邦はあくまでも二次的形成物であるという意識が今でも生きているという。
 そしてそのカントンを構成するのがゲマインデである。スイスの市民権は個別のゲマインデに承認されることによってしか得られない。
 「スイスにおいては「スイス市民権」は存在しない。存在するのは「各共同体の市民権」のみである。ここを見落したらスイスはわからぬ。」(犬養道子『私のスイス』p98)

 この基礎自治体(ポリティッシェ・ゲマインデ)のほかにスイス人にはビュルガーゲマインデ Burgergemeinde  というものがある。これは昔からの地域共同体を継承している属人的なもので、市町村の戸籍とは別にビュルガーゲマインデの戸籍があり、世界中どこへ行ってもそのビュルガーゲマインデの構成員でありつづける。(犬養道子は「本籍ゲマインデ」「共同体」と書いている(『私のスイス』p98))そして、この登録があれば、老後尾羽打ち枯らして海外から帰っても、必要に応じて生活の扶助等が得られるのだという。
 この共同体は市庁舎とは別に事務所を持っていて相互扶助事業などを行っている。銀行や病院などの経営や博物館などの文化事業もやる。そして特徴的なものとして森林・牧草地などの共有地の管理・運営がある。有名な観光地なども共同体の共有地であることが多く、共同体の財政的基盤となり、また共有地であることで乱開発が避けられているという。(國松孝次『スイス探訪』p114)

 氷と岩と雪の厳しい自然の中で、相互に助け合わねば生きていくことができず、また傭兵も含めて外国へ出稼ぎに行かねばならなかった長い歴史がある。
 現在のビュルガーゲマインデの数は二千くらいで、その活動や形態は多種多様、最近は市町村との統合が進んでおり、時代に沿って変質しつつあるという。(國松孝次『スイス探訪』p118)

 笹本駿二『私のスイス案内』(岩波新書、1991)には次のように書かれている。(シーグフリード『スイス──デモクラシーの証人』(岩波新書、1952)からの引用らしいが、この本は未見)「ブルジョワ・コンミューン」というのは「ビュルガーゲマインデ」をフランス語で言ったものである。

  つぎにシーグフリードは「スイスの基礎はコミューンとカントンだ」と定義して、つぎのように説明を進める。

 スイスにおける国籍は三重である。すなわちコミューン(町村)の籍と、カントン(州)の籍と、フェデラル(国)の籍である。けれども州民権の基礎となるのは町村民たる自分であり、そしてこの結果として州民だけが国民であるのだから、スイス人はそれぞれ町村民たることを証する出身証を交付する一定の出身町村をもたねばならない。スイス国籍を取得するためスイス連邦の許可を要することは論をまたないが、これを決するものは一定の町村がその「ブルジョア」のひとりとして受け入れるという決定である。
 町村の内部での「ブルジョア・コミューン」というのは原始共同体の子孫である生粋のブルジョア若干名から成り立っている。この内部グループはブルジョアという言葉の語源的意味にとって重要だが、集団的にというよりはむしろ組合的に所有し管理する一定の財産から利益を受けるのである。
 たとえば共同財産として森林を有する場合にはブルジョアは若干量の木材を受け取り、もし老齢になって困窮するときはたとえこのコミューンから現在は離れていても、そのブルジョア・コミューンから援助が受けられる。それは出身者証が永久に効力を失わないからである。スイス人は永劫に出身地のコミューンに所属する。……
 これは明らかに階級の観念ではなくむしろ古い伝統であって、主として名誉的な、しかもときにははなはだ実際的な特権を伴なうものである。したがってブルジョアでその特権を取得するものはこれが代償を支払わねばならない。それはちょうど、あるクラブへの加入のようなもので、会員はその特権を守るに汲々としている。また菓子を切ってわけるようなもので、分配されるひとが多くなればその一片は小さくなるから、加入者を抑制しようとするのと似ている。コミューンから連邦に至るまで、スイスの政治を貫く歴史と精神はことごとくつぎの事実によって説明される。すなわちある量の富と、ある固有の制度及び伝統を持つ共同体が、これらのものを新来者に分ける気がすこしもないということである。
(笹本駿二『私のスイス案内』p100

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  スイスがEUに加盟しようとしないのはなぜか、移民に冷たいとか相互監視の社会だという批判がよくわかる。
 しかし、これらの地域的な閉鎖性など否定的に言われる部分を含めて、この共同体こそがスイスをスイスたらしめているものであると、犬養道子はこう書く。

 九州ほどの大きさの国土に、あらゆる谷、あらゆる山ぶところをくまなく包んで、三千七十二の、中央連邦政府より強力な(後章)最高主権最高責任を持つ共同体がばらまかれるスイス。この共同体(つねに警察と一体)を、人はいろいろに言う。近代的でないとか。閉鎖的だとか。否定的批判の方が、ことに批判するのが外国人である場合、ずっと強い。私自身、閉鎖性を認めるのみならず、ほとほと手を焼き困らされた経験を持つ。にも拘らず、私は共同体の存在意義とその性格の、肯定的な面を見るのである。と言うより、それなしのスイスはない。これについてはのちに譲るが、とりあえず言及しておきたいのは、「少くも山をめぐったとき」、共同体あればこそ、山の住人も山への旅びとも、安全をとことん保障してもらえる、と言う一事である。
「だからスイスにしか来ないのよ」と、子供づれの夏休みを必ず山で過すと言うフランス人女性は言った、「四千メートル近い雪のどまん中にだって、真新しい(つまり、しょっちゅう見まわっているしるし)標識が出てるんですからね。岩ばかりの峠道にも、ちゃんと真新しいペンキの矢印が(岩に)ついてるんですからね。フランスのアルプスじやこうは行かないのよ。共同体がないからね
言い変えれば、最も基本的な相互扶助保障・政治システム──共同体。有名な直接民主主義の屋台骨。
 だから、「スイスの民主主義は、起きあがりこぼしに似ている。いくら上で揺れてもひっくり返らぬ。トップ・ヘビーでないがボトム・ヘビーがスイスである(英国ケンブリッジ大学歴史部スタインベルグ教授)」
(下線部は原著傍点。犬養道子『わたしのスイス』P97) 

 今年は災害のせいで、日本では「絆」がキーワードになっている。日本の共同体はどうなるのか、どうするのかを考えるうえで、スイスの共同体は参考になりそうである。

 

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2011年12月26日 (月)

sp30 マイエンフェルト

(第9日続きの3 11/06/16)

ツール・ド・スイス再び

 高速道路で規制があってマイエンフェルトで降りられない。遠回りしてようやくマイエンフェルトへ着いてハイジショップに車を停めると、何やら様子がおかしい。あちこちに警備員が立っていて、そのうち交通規制がはじまった。われわれは危うく道路上で身動きできなくなるところを免れたのだった。なんとツール・ド・スイスがやってくるのだという。
 左の旗の立っている建物がハイジショップ。右の写真には交通規制で留められている車の行列の先頭が見える。

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 しばらく待っているうちに、ツール・ド・スイスはやってきた。
 これが先頭集団。そしてちょっと間をおいて後続集団がやってきた。

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 これがすごかった。百台以上がダンゴ状態のまま、ドドドドと地鳴りを響かせながら駆け抜け、その先の交差点を九十度左に曲がりこんで行った。

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 曲がり角で多少スピードを落としてはいたが、あれでよく誰も転倒せずに曲がれるものだ。通りすぎた後、思わずホーッと感嘆のため息が出た。なぜ自転車競技に人気があるのかよくわかった。
 これが今年のツール・ド・スイスのコース図。たまたま第3日のゴールと、第6日の途中に出くわして、思ってもいなかった面白いものを見ることができた。

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マイエンフェルト

 さてそれでようやくマイエンフェルト Maienfeld 、ハイジの里の見物となった。
 これがハイジショップ。土産物など売っているが、これはというものはなかった。

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 車でマイエンフェルトの町の狭い道を通り抜けて、ちょっと上のハイジハウスの近くまで上がった。散歩コースが作られている。

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  これがアルプスの少女ハイジにあこがれて、はるばる日本からやって来た爺様たち。

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 ちゃんとヤギが飼われている。

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 ハイジの家を再現したというハイジ・ハウス Heidi's House 。前にいるのは「アルプスの俳爺」。
 入口で小さな可愛い女の子が、申しわけなさそうに、もう終わりですと言う。残念なことに閉館時間になっていた。ツール・ド・スイスのおかげで、ここへ来るのがずいぶん遅くなってしまったのだ。

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 しかしツール・ド・スイスを間近に見られたのはとてもよかったし、マーチン青年に笑われるほどのハイジちゃんの熱狂的ファンであるわけでもない。博物館はともかく、あの話の背景となった場所を見て、その風土を感じてみたかったのだ。この山がきっとハイジとペーターがヤギを連れて登っていった山だろう。

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 『ハイジ』の物語は、日本人にとって、スイスやヨーロッパに対する憧れの一つのイメージを作っている。美しい山々と牧歌的な暮らし。スイス人にとって、この物語はどんな意味を持っているのだろう。マーチン青年に聞いてみたかった。

 帰り道、信州上田から来ているという日本人のT青年と一緒になった。二十キロぐらいもある大きなザックを背負っている。なぜかマーチン青年と話があって、今夜はザンクトガレンのユースに泊まるというT青年を、マーチンは車で送ってやるという。あの車で六人は無理だからと、三人は分かれてマイエンフェルトの駅から列車でザンクトガレンに戻った。

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 昼食が遅い時間で、そのうえたっぷり食べたので、夕食はスーパーで買い出しをして軽く済ますことになった。老人旅行会だからこのくらいでいいのである。

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 イチゴとアメリカンチェリーはマーチン青年の両親からの差し入れ。農場をやっているとのことだったが、これが自家製かどうかは不明。はじめ親の家へ連れて行くという予定もあったようだが、マイエンフェルトへ行くことでキャンセルになった。スイス人の家庭を訪問するというのも貴重な体験で、ちょっと惜しかったような気もする。

 マーチン青年はT青年がえらく気に入ったようで、自分のアパートへ泊めてやると言い出した。ちょっとどういう趣味か心配になるところであるが、本人はこれからまた仕事でジュネーヴまで行くので、鍵を貸すから一人で勝手に泊まっていけという。鷹揚なのだ。
 仕事のスケジュールを調整して、われわれのために車を飛ばしてジュネーヴから来てくれ、案内が終わったらそのまま仕事に戻るという。忙しくて、そのうえタフなのだ。

 マーチン青年、本当にどうもありがとう。

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2011年12月23日 (金)

sp29 センティス山

(第9日続きの2 11/06/16)

センティス山

 さて青年が次に案内してくれたのは、センティス Säntis という山、2,501m。ロープウェイで昇る。

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 アッペンツェルのあたりでは有名な観光地らしいが、わたしのJTBのガイドブックには何も書いてない。日本人があまり来るところではなさそうだ。このあたりの景色もきれいだ。

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 上には展望台があり、ここからはボーデン湖からチューリヒ方面の平原地帯が見渡せる。

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 雲の下はボーデン湖のはずだが、この写真ではよくわからない。

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 いい写真が撮れていないので、センティス山の写真のページを紹介しておく。→http://www.sengers.ch/appenzell/saentis/saentis.asp

 ロープウェイから見た麓のレストラン。赤いテーブルが並んでいるのがきれいだった。右はここにあったチーズ工場。

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 スイスではどこへ行ってもロープウェイやリフトがあるようだが、感心したのは観光地でも屋外広告の類を全然見なかったこと。建物にも正面に店やレストランの名前はあっても、外へ張り出すような看板、屋上に乗せた看板はない。規制されているのだろうが、住民の意識がそうあるべきだとなっているのだろう。

昼食

 センティス山の後昼食をとった。詳しい場所はわからない(→sp27 マーチン登場の地図参照)。道路沿いのレストランで、Schweizerhof シュヴァイツァーホフ という名前らしい。「スイス館」といった意味で、ホテルなどによくある名前のようだ。建物の脇の庭のマロニエの木の下で食事をとった。

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 マーチン青年のおなじみというほどではなさそうだったが、ここはおいしいからと連れてきてくれた。スープ、サラダに始まってデザートまでしっかりおいしく食べた。酒ももちろん。

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 これが女主人と料理長。

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 天気はいいし、酒も料理もうまい。レストランの裏手に見える景色はこんなところ。幸せというものである。

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ヴェルデンベルク

 次に連れて行ってくれたのは、ブックス Buchs という町から近い、木造の古民家の並ぶヴェルデンベルク Werdenberg という村。人が居住しながら、家を保存しているらしい。
 sp02 What is this? 2の板葺の壁はここで撮ったもの。

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 アーケードは雪よけのためとのことだった。

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 帰ってから調べると、ちょっと上がったところにはヴェルデンベルク城 Schloss Werdenberg、やシュランゲンハウス Schlangenhaus(蛇の家)という 博物館のようなところがあるという。「蛇の家」というのは、中世の騎士物語に出てくる竜のような動物が庇の裏に描かれてる建物らしい。
 そもそもそういうものがあることを知らないから、時間もずいぶんたったし、まだマイエンフェルトへ行かないといけないと先を急いでしまった。この先もうここを訪れることはないのだろうな。

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2011年12月19日 (月)

びわからひょうたん?

 びわの花もぎ作業が遅れていてずっと気になっていました。12月14日、久しぶりに南無谷へやって来ると、なんとびわの木からこんなものがぶら下がっていました。

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 大きなひょうたんのように見えます。ツルがびわの枝にからまって、大きな実が二つぶら下がっていました。長さ30センチ以上、重さはひとつ4キロぐらいありました。

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 今年植えたスイカやナスなどの苗は、病気に強い他の野菜を台木にして作った接ぎ木苗だったから、おそらくその台木から出た芽が育ったものでしょう。以前にもスイカからユウガオがなったことがありました(→スイカのツルにユウガオは、なる)。だから、腰のくびれがないし、これもユウガオなのでしょうか。スイカがこのくらいになっていればよかったのに。

 びわの花もぎは毎年の作業で、何回か書いていることだけれど(→ビワの花もぎ)、こんなふうにびわはいっぱい花をつけます。

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 それを一房の左右一枝ずつ残すくらいにします。びわの木の下は落花狼藉という感じになります。これでもまだ十個くらいの実になるので、春になったらさらに摘果して、最終選考に残ったものにだけ袋かけをします。大きく甘いびわするためには手間がかかります。

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 今年もずいぶんたくさんの花が咲いていたので、かなり思い切って花を落としました。一番高い枝は元から切り落としてしまいました。来年の成果はどうなるか。今年は収穫時期に遊びに行ってしまったので、来年はしっかり働かねばなりません。

 畑も庭も荒れた状態で、あまり見られたものではありません。温州ミカンはなぜか二つしか実がついていないし、キウイも1個残っているだけ。これも来年はちゃんと手入れしてやらないと。

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 唯一、レモンがたくさんなっていました。まだちょっと青いけれど。

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 わが家の紅葉です。

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 菊はもう終りですが、水仙が咲き始めていました。正月が近い。

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2011年12月16日 (金)

sp28 アッペンツェル

(第9日続き 11/06/16)

アッペンツェル

 マーチン青年が最初に案内してくれたのが、アッペンツェル Appenzell だった。この町の話は、来たことのあるK機長から聞いていた。直接民主主義の町で、今でも年に一度の住民集会で重要事項を決しているという。
 小さな町で、日本の女の子なら「かわいい!」を連発しそうなところだ。

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 こんな店や建物が並んでいる。

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 教会。右の二枚は教会とは別の小さな礼拝堂。

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 これはチーズと土産物の店。チーズも名物だそうだ。

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 スイスの民主主義について書いたものは、必ずと言っていいほどこのアッペンツェルの全住民集会(ランツゲマインデ Landsgemainde )に触れているようだ。犬養道子はテレビのおかげで有名になったと多少揶揄して書いており、実際にその日はお祭りのようで、おおぜいの観光客が見に来ているらしい。
 ここが毎年4月の最終日曜日にその住民集会が開かれる広場(ランツゲマインデプラッツ)。右の写真の石像は、集会で同意の挙手をしている姿で、腰にサーベルをさげている。今でも正装しサーベルを下げて参加する住民が多いという。

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 わたしは戦後の生まれで、戦後民主主義教育を受けて育った。子供のころ、直接民主主義が基本だけれど、それができないから間接民主主義でやっていると習った。それが最近は直接民主主義は衆愚政治だ、ポピュリズムだ、選ばれた選良による間接民主制の政治の方が優れているという論調が多いように思う。
 スイスでも、全員参加の住民集会となると、今でもやっているのは、このアッペンツェルのほか、もう1州だけだという。アッペンツェル・インナー・ローデン州の人口は一万六千人くらい。だから集会の参加者はこの広場に集まれるくらいで、約三千人と書いたHPもあったが、多くても数千人くらいだからできるということもあるだろう。
 この集会をスイス大使として見学した國松孝次の『スイス探訪』(角川書店、2003)という本には、こんな話が書いてあった。集会終了後、

 私の隣で見学していたフランス大使が感に堪えぬ面持ちで声を上げた。「こんなこと、うちの国では不可能だ。だいいち、二時間半もワインも水も飲まさず住民を立たせておいたら確実に暴動が起こる」。(P42)

 フランス大使の冗談はさておき、スイスには今でも直接民主制の強い志向がある。地方でも国でも、何かことあれば最後は住民投票で決めるということになっていて、しょっちゅう投票をやっているようである。前掲書で國松はこうも書いている。

(前略)スイスは、重要な国事はすべて国民が決定するという国民主権の原則をかたくななまでに守り通してきている国である。
 連邦議会で、法案を可決し、さて施行しようとしても、全人口の一%にも満たない五万人の有権者が「反対」という声をあげ、がんばると、その法案の是非が国民投票に付されるというのが、こちらの仕組みである。そして、その国民投票で、過半数の投票者が「反対はもっともだ」という結果を出すと、その法案は元の木阿弥。一から出直すことになる。(P137)

 だから最終的に決定するまで時間がかかり、スイス人はスローモーだというジョークの種にもなっているのだという。日本ではできるだけ住民投票にならないよう実施の条件を厳しくしているが、スイスは地方でも国でも敷居を低くして、問題があったら住民投票で決めようということらしい。国会で決めたことをひっくり返せるのだからすごい。

 この本は、わかりやすい、いい本であった。著者は元警察庁長官で、あの狙撃事件の被害者である。大使時代の思い出話とからめて、スイスの歴史的特性や共同体などについて簡潔にまとめている。

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 ついでに、これまで何度か引用した犬養道子の『私のスイス』(中公文庫、1983)もあらためて紹介しておく。國松の本にも「最も優れたスイス紹介の書である。(p119)」と書かれている。文学的な山岳紀行の部分はちょっとわたしの趣味に合わなかったが、歴史や共同体を論じた部分は、なるほどそうであるのか、と感心し納得するところが多かった。

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 さてそろそろアッペンツェルから次へ行く。右はsp02 What is this? 2にも書いたアッペンツェルの道路の謎。これが何で、何のためにこの丸い部分がまわっていたのか、今でもわからない。

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 まわりはこんなところ。アッペンツェルもいいところだった。

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2011年12月14日 (水)

sp27 マーチン登場

第9日 11/06/16

マーチン登場

 ホテルでビュッフェスタイルの朝食。 久しぶりにユースの朝食から離れた。やっぱりずいぶん違う。ついついいっぱい持ってきてしまう。もう歳だから、そんなにたくさん食べられないのに。

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 ホテルだから、こんなゆで卵用のタイマーが置いてあったり、こんなウェイトレスがいたりするのである。

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 ザンクトガレンへやって来たのは、K機長が以前夫婦で来て、いいところだったと言うのと、T局長の知り合いが住んでいて案内をしてくれそうだということからだった。
 なんでも局長の娘さんがイギリスへ語学留学をしたときの同級生という話で、その縁で日本へ来たときには局長の家へ泊めたり、局長夫婦がスイスで案内をしてもらったりと親交があるようだ。
 だから今回も事前に局長からEメールでお願いをしてあったのだが、こちらへ来てからなかなか連絡が取れなかった。やっと連絡が取れたと思ったら、日にちを一日間違えていたという。しかしなんとか仕事の都合をつけてくれるそうで、今日ホテルまで来てくれることになった。

09whodscf5105t  これがそのスイス人、マーチン青年。三十五、六歳か。背が高くがっしりした体格をしている。家具のデザインをする事務所を自分でやっていて、最近仕事が好調で忙しく、ジュネーヴとザンクトガレンを行ったり来たりしていているそうだ。
 うかつにも姓名をちゃんと聞いていない。マーチンというとわたしは、「4番マーチン、ホームラン♪」で納得してしまう。中日が巨人の10連覇を阻止した1974(昭和49)年、坂東英二が歌った初代の「燃えよドラゴンズ」である。

一番 高木が塁に出て
二番 谷木が送りバント
三番 井上タイムリー
四番 マーチンホームラン

 マーチン青年に会って、はるかスイスからドラゴンズに思いをはせたおかげか、今年は優勝した。来年は「一番高木」が監督だ。がんばってもらおう。
 中日のマーチンとマーチン青年は全然似てないし、スイスとは関係ないけれど、その坂東の「燃えよドラゴンズ」はYoutubeで聞けるのでどうぞ。→http://www.youtube.com/watch?v=k3QIvX6W-hU&feature=related
 こちらは「燃えよドラゴンズ!2011連覇記念盤」
http://www.youtube.com/watch?v=ffac7X9T2PY&feature=related

 マーチン青年からどこへ行きたいと聞かれて、マイエンフェルトと言った。どうして?と言うので「ハイジ」と答えたら、思い切り笑われた。本当に「吹いた」という感じでしばらく一人で笑っていた。
 日本からはるばるやってきたこの爺様たちが、アルプスの少女ハイジの里へ行きたいというのは、スイス人青年にとってよほど異様な、滑稽なことであるらしい。日本にかぐや姫の故郷を見たいと外国から老人男性の団体がやってきたようなものか、いや、あの笑いっぷりだとキティちゃんのサンリオピューロランドくらいだろうか。「キティちゃん、キティちゃん」という老人団体が来たら、わたしなら笑う前に逃げ出しそうだ。
 マイエンフェルトへ行きたいと言い出したのはわたしなので、ちょっと鼻白む思いでもあったが、ともかく行く先のひとつに入れてくれることになった。ちなみに「ハイジ」は”Heidi”なので、「ハイディ」と言わないと通じない。

 そのマーチン青年の車は、たしかプジョーだったと思うが、われわれ4人+青年の5人が乗るのはちょっと狭くてきつかった。当然文句は言わない、感謝して案内してもらったのである。しかし標識がろくに読めないうえに、外がよく見えないので道路はどこをどう走ったのかさっぱりわからないのである。
 ともかく寄った先だけ地図に落とすと、次のようになる。マイエンフェルトからザンクトガレンへの帰路は車と列車に分かれた。

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2011年12月12日 (月)

歳末古書市

Dscf6076  12月10日(土)から12月17日(土)まで、神田神保町三省堂書店の正面玄関で、三省堂古書館歳末古書市が開催中です。なむや文庫もささやかながら参加しています。
 ここのところこの準備でちょっと忙しくしていました。
 12月9日の夜、搬入・設営。左に写っている本棚は、このためにわざわざ作った組み立て式のものです。下のワゴンのサイズが、聞いていた寸法とちょっと違っていて、危ないところでしたがなんとか収まりました。改良点が多々ありそうです。

 10日から開始、11日(日)は当番で、わたしも夕方ちょっと手伝ってきました。まだこのあとの当番もあります。

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 なむや文庫のワゴンはこれ。とりあえずぼちぼちというところですが、何が売れるか、本の選定はこれでなかなかむつかしいものです。

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2011年12月 9日 (金)

sp26 ザンクトガレンの町

(第8日続きの2) 11/06/15

ザンクトガレンの町

 街を歩く。ちょっと行くとマルクト広場 Marktplatz  があった。マルクトはマーケット、市場である。

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 その中の果物屋に、びわが置いてあった。南房総でびわを作っている身としては見過ごすわけにはいかない。買ってさっそくみんなで食べてみた。前に食べたリンゴもそうだったが、素朴な味である。わが家のびわの方がずっと甘くて大きい。

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 びわはスペイン産で、Nespole ネスポレと言うんだとのこと。このおじさん、空手をやっていて、「ショウトウカン」だという。松濤館流空手らしい。
 うちのびわはこんなもんじゃないぞ、一口食べたら驚くぞと言いたかったが、英語でうまく言えないし、今年はそのびわの収穫をほったらかしてスイスへ遊びに来てしまった身である。えらそうなことは言えない。ちょうど今頃が収穫真っ盛りの時期である。
 旅行に参加表明をするとき、時期を当初の予定より一週間遅らせてもらったのだが、今年は例年よりびわが遅く、出発前に収穫することはできなかった。
 結局旅行中に、うちの奥さんが友人の応援を得ながら、収穫から親戚・知人への発送まで全部やってくれたのであった。まことに申しわけありませんでした。再度お詫び申し上げます。

 他にもいろんな店がある。これは魚屋。辞書をひいてみた。Forllen ニジマス、 Worfsbarsh ヨーロピアンシーバス、Dorado シイラ。Gantz は「全体」だから、一匹売りということ。隣には切身 filet もあった。

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 街は、バーゼルやベルンと違う感じはするが、どこがどう違うのか、おのぼりさんにはよくわからない。

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 ”ex libris”(蔵書票)という名前の店があったが、普通の本屋で、蔵書票の専門店というわけではなかった。

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 夕食をとったのは、La Taverna Ⅳ ラ・タヴェルナⅣというイタリアンの店。タヴェルナというのはイタリア語で大衆食堂という意味で、ここはそのまま店名になっているようだ。「食堂なのにタベルナとはこれいかに」というのはもう定番に近いギャグだが、「お茶を飲んでも「やむ」茶(飲茶)と言うがごとし」と返しておこう。

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 ワインのテイストをするT局長。もう終わりかと確認するI長老
 旅行中、ワインは愛好家の局長におまかせであった。だからどこで飲んだワインもうまかった。わたしは「酒に上下の隔てなし」という主張の持主であるが、やっぱりうまかったと思う。

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 ホテルはベストウェスタンホテル・ヴァルハラ Best Western Hotel Walhala。 駅からすぐで、ロビーなど狭くてビジネスホテルかという感じだが、なかなかいいところだった。受付のおねえさんの写真に怪しい人影が写っているが、ちょうどエレベーターから出てきた長老である。

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 このホテルがよかったのは、何と言ってもバスタブがあったことである。出発以来8日ぶり、いや9日ぶりの風呂か。やっぱり首まで湯につかると落ち着く、これが一番。
 洗面所の鏡にも怪しい人影が映っているが、これは写真を撮っているわたしである。

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2011年12月 7日 (水)

sp25 ザンクトガレン修道院

(第8日続き) 11/06/15

ザンクトガレン修道院

 ザンクトガレンに着き、駅前のホテルに荷物を置いて一息入れてから街へ出た。

 ザンクトガレン St. Gallen のザンクト St.は英語のセイント saint で、聖ガルスという修道僧が7世紀にここに僧院を建てたのが、町の名の由来だそうだ。

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 今も大聖堂や修道院がある。これが大聖堂。

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 バーゼル、ベルンに続いて三つ目の大聖堂となると、最初は感心して見ていたのに、どこも同じようだなどとえらそうに思うようになってくる。

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 しかし、どこも同じようにたいした建築物で、キリスト教の力の大きさを感じる。

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 そして有名な修道院図書館 Stiftsbibliothek (シュティフツビブリオテーク)がある。中世期文献の蔵書数は世界最大級だそうで、16万冊を超える蔵書のうち、2200冊が写本であり、500冊は1000年以上前のものだという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AC%E3%83%B3%E4%BF%AE%E9%81%93%E9%99%A2

 これがその図書館の入口で、右はチケットである。

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 中は撮影禁止なので、下の写真はここで買った絵葉書。ここが一般に公開されている図書室で、貴重な写本や地球儀などの各種資料が展示されている。書棚の本は勝手に出してみることはできない。

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 大聖堂に置いてあった写本(複製?)と案内書に載っている写本の一頁。わたしが扱っている古本などせいぜい数十年前のもので、こういうものを見せられると、古本をいじっているなどとは、恐れ多くてとても言えない。

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 修道院の図書館に中世の資料というと、どうしてもウンベルト・エーコの『薔薇の名前』(東京創元社、1990)が思い浮かぶ。
 13世紀初めの北イタリアの修道院で、「ヨハネの黙示録」に従った連続殺人事件が起きる。その謎を解くカギは修道院の迷宮の図書館に隠された一冊の書物にあった…という話である。

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 日本語訳が出て評判になったころ読んだので、もう内容はよく覚えていない。そもそも、中世の神学論争だとか、異端審問の問題だとか、アリストテレスの詩学だとかが複雑にからみあった話なので、ほとんど知識のないわたしにとっては、読みおえたけれどちゃんと理解したとは言い難い本であった。ただ殺人事件とその解明がメインのストーリーになっていたので、それなりに面白く読んだ記憶はある。
 今回、この大部の本を読みなおす気にはなれなかったので、映画の『薔薇の名前』をDVDで見直してみた。主演はショーン・コネリーである。

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 これがすごく面白かった。これは中世という時代の雰囲気を再現しようとした映画なのだ、それもかなり周到に。
 公開当時、怪奇映画じみた容貌の俳優ばかりおおぜい集めたと評判になった。わたしも昔見たときには、その容貌魁偉な俳優たちのつくる異様な雰囲気に圧倒された印象が強かったが、これは中世の人々が、現代のわれわれとは違う思想、違う感性を持って生きていたことをわかりやすく表わすための手段だったのではないか。
 舞台だけを過去に設定して、登場人物は現代人そのままに思考し行動する映画やドラマが多いけれど、この映画ではわれわれに通ずる考え方を持っているのは主人公たち(ショーン・コネリーとその弟子)のみで、他の人々は感覚・思想がまるで違っていることがはっきりわかる。実際に中世の人々がこの映画の登場人物のように考え、感じていたかどうか別にして、ともかく異世界の人々だったことだけはわかる。修道院のセットや小道具も迫力があって、錬金術の時代を彷彿とさせる。
 過去の時代がどのように現代とは異なっていたかを考察するのが歴史というものであろう。この映画は中世の人々のものの考え方や感じ方をなんとか表現しようとした。戦国時代でも室町時代でも現代人がホームドラマをやっているNHKの大河歴史ドラマとは全然違うのである。この映画を見ると、西洋中世へ行きたいとは決して思わないけれど。

08dscf5055 この修道院の建物はきれいで、しかもこんなふうに街中にあるので、映画とはだいぶ印象が違うが、中世にはここも、モントルーで見たシヨン城のような建物だったのではないか。町も今のように大きくはなく、ここまで他の建物がせまっていることもなかっただろう。 

 

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2011年12月 5日 (月)

sp24 朝のアイガー

第8日 11/06/15

朝のアイガー

 朝起きたら、今日はアイガーが上まできれいに見えた。

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 これまでずっと雲のかかった山ばかり見てきたからうれしくて、何枚も同じような写真を撮ってしまった。T局長が望遠鏡で見ているのは、昨夜見えた光の正体を確認しているのである。

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 朝食も食堂のテラスでアイガーを見ながら食べる。中身はいつもと同じだが。

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 せっかく天気がいいのに山を去るのは残念だ。こんな日にハイキングをしたかった。しかし今日はザンクトガレンまで行かなければならない。三泊したユースの前でもう一度写真を撮って出発である。

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 ザンクトガレンへ

 グリンデルワルトから列車に乗ってザンクトガレンへ向かう。この経路はよく覚えていなかったので適当に線を引いたら、K機長にちがう、ルツェルンから先は湖水と山間を走る特別な列車だと注意されたところなので、もう一度見ておこう。

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 いい天気だ。

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 これはルツェルン駅だと思う。機長にサービスして、ここで撮った列車の写真を3枚載せておく。3枚とも機長が小さく写っている。どれが何線のなんという列車なのか、わたしには わからない。
 下右はおまけで、ここではなくグリンデルワルトのあたりで見た登山列車である。(11/12/09注:これはブリエンツ・ロートホルン鉄道の蒸気機関車である、とさっそく機長からメールが来た。その世界ではけっこう有名らしい。)

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 車中で昼食。

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 そして山あいの湖をいくつか過ぎて、列車はザンクトガレンへ着いたのであった。

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2011年12月 2日 (金)

sp23 グリンデルワルトの町

(第7日続きの3) 11/06/14

グリンデルワルトの町

 グリンデルワルト Grindelwalt の町は、東西に延びるハウプト通り Hauptstrasse が中心である。

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 駅から東にずっと歩いて、町をはずれたあたりにドルフ教会 Dorf Kirch(ドルフ・キルヒェ) はあった。

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 教会の隣が郷土博物館 Heimat Museum

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 山岳関係の展示の中に、槇有恒(まき・ゆうこう、ありつね)に関するものがあった。右の真ん中の写真が槇である。

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 日本登山隊がヒマラヤのマナスルの初登頂に成功したのが1956(昭和31)年。その遠征隊の隊長が槇であった。小学三年生だったわたしは、ニュース映画などでその名を記憶した。
 日本山岳界の戦前からのリーダーの一人であり、1921(大正10年)には、アイガー東山稜の初登攀を成し遂げている。ここに展示されている手帳(下左)には、「千九百二十一年九月廿三日…槇有恒」の記載があるから、その当時のものであろう。
 下右は、1926(大正15)年に、槇などの案内でアルプスを訪れた秩父宮雍仁(やすひと)親王が記載したもの。

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 ウィキペディアの槇有恒の項には、こう書いてある

1926年(大正15年)、秩父宮雍仁親王の供奉で冬季スキーや、夏季マッターホルン、アルプスなどを登山する。槇をリーダーとするパーティーの一行は松方三郎、松本重治の上流階級の子弟からなる秩父宮サロンであり、山岳界の学閥系はこれを濫觴とする。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%87%E6%9C%89%E6%81%92

 sp13 『アルプス登攀記』にちょっと書いたが、昔、山登りはブルジョワのするものであって、日本ではこの槇有恒や松方三郎などがそれにあたる。なにしろ槇はアイガーに避難小屋を寄付しているくらいだ。
 今や日本で山へ登るのは、新田次郎の記念碑のところで会ったような中高年の団体が主流らしい。「日本百名山」と言って、いつのまにか山登りがスタンプラリーになってしまったりしている。
 われらがI長老も登山仲間がいて、クラインマッターホルンでは記念のお土産を買っていた。未だに登っているらしいが、そのグループでは長老が最年少だという。大丈夫だろうか。
 一方では山へ走って登る「トレイルランニング」というのもあって、先日テレビでモンブランでの大会が紹介されていた。わが家の近くの円海山は三浦半島縦断トレイルランニングコースに当たっているため、時々それらしい集団が近所を駆けていくのを見る。
 文人墨客の山、というのはもうはやらないようだ。

07dscf4887  博物館へ来るとき、ホテルベルヴューの前を通り過ぎてきた。槇有恒にもゆかりのホテルで、新田次郎も、『アルプスの谷、アルプスの村』の旅のとき泊まっている。
 おもしろいのは、この本の中で新田次郎は、ベルヴューは気に入ったらしいが、ツェルマットのホテル・モンテローザについて、むっつり屋の英国人が多く感じがよくなかった。食堂に出るのにきちんと服装を整えて行かねばならない窮屈な社交場だ。本物の登山家はここにはいない、と書いていることだ。
 これが犬養道子になると、スイスの山岳会伝統のホテルには、たとえ小さな家族的ホテルでも格を心得て、男ならネクタイ着用を忘れずに行くべきである(『私のスイス』p220あたり)、ということになる。
 犬養道子の案内でホテル・モンテローザに泊まった仏文学者の河盛好蔵は、「(山から帰った犬養は)夜になると、ちゃんとした正装をして食堂に現われ、食後はサロンで、滞在客の婦人たちと英、仏、独語を自由に操って見事な社交振りを示した」と書いている。(『お嬢さん放浪記』(犬養道子、中公文庫、1978)解説)
 前述の松方三郎は、犬養の母方の親類だそうだ。階級の違いを感じてしまう。われわれは無論ホテル・モンテローザには近寄らなかった。

 教会・博物館の裏の方にはこんな景色が見える。左奥の高い山は Ochs 3900m と標識に書いてあった。オックスというのか。

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 さてホテル・モンテローザには行かなかったが、ホテル・ベルヴューのレストランへは行くのである。トマトホンデューがおいしいという。

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 トマト味のチーズホンデューで、パンだけでなくジャガイモもついてきた。うまかった。

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07dscf4930 ハイジのお姉さんという感じのウェイトレスに写真をとってもらった。ワインの栓を抜く手つきがあざやかで素早い。いつもコルクをぼろぼろにしてしまうわたしは見とれてしまった。
 慣れているだけでなく、栓抜きにも秘密があるのではと、このお姉さんが使っていたような、コルクを二段式で引き上げる栓抜きを、後日パリで買って帰ったのであった。

 この後、前日列車の中で、ツール・ド・スイスがあると教えてくれた日本人観光客K氏と路上でばったり会った。ちょっとビールでもと近くにあったアボカド Avocado というバーへ入った。がさつな店構えで高級とは言い難い。
 メニューを、と言ったら、このお姉さんは、”I am the menu.”と答えた。メニューはないのである。K氏は京都の人で、一人で一か月のスイス旅行中とのことだった。

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 ユースへ帰るころには、だんだん山も暮れてきた。

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 グリンデルワルトの町の明かりはこんなものである。

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 ユースのベランダから見えた夜のアイガー。
 二つ、白い点のように見えるのは明かりである。左上は小屋、山の中腹はアイガーヴァント駅の展望窓と思われる。

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