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2013年4月

2013年4月28日 (日)

甲子園ツアー5 薬師寺

薬師寺Photo

 唐招提寺はいかにも古めかしかったが、薬師寺は近年に再建された建物が多く、赤と青が鮮やかで、からっと明るい。敷地も広くひらけていて、のびのびしていた。

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  與楽門               東院堂

 唐招提寺が天平の甍なら、薬師寺東塔(とうとう)は「凍れる音楽」ということになっているが、その東塔は、残念ながら解体修理中で囲われていた。3月20日まで西塔(さいとう)と一緒に特別公開されていたそうだ。ちょっと遅かった。

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  工事中の東塔           中門と西塔

Dscf7365_2 西塔、金堂、中門、大講堂などは、昭和42年の高田好胤(たかだこういん)管主(かんず)白鳳伽藍復興の発願に基づき、その後順次再建されてきたものである。

 まだわたしの若い頃で、高田好胤はよくマスコミに登場する名物坊主で、ベストセラー本を出したりしていた。わたしは、なんだこのタレント坊主と思って、本を読もうともしなかった。
  しかし高田好胤は、修学旅行の「案内坊主」として生徒相手に十数年法話を続けた経験を生かし、全国を講演してまわって、広く大衆の支持を得た。
 そして薬師寺の悲願であった白鳳伽藍の再建を、大口の寄付によるのではなく、一口千円の般若心経写経勧進によって何十億という費用を集めて、見事に成し遂げた。
  現在あちこちのお寺で般若心経の写経が行われており、写経と言えば般若心経ということになっているのは、この高田好胤の成功によるものではないか。
 傑物だったのであろう。一度くらい講演を聴いておけばよかったと今にして思う。
 

Dscf7364              金堂

Dscf7369              大講堂

 唐招提寺から始まってこの薬師寺、次の日の東大寺、興福寺と見た建物・仏像は、どこへ行っても国宝だらけで、さすが古都だと感心した。しかし仏像は、ほとんど写真撮影禁止だったので、どこで何を見たのかよくわからなくなっている。日光菩薩・月光菩薩は複数見たが、どこのがどうだったのかよく覚えていない。
 だから帰ってから思い出そうとしてガイドブックなどを見ると、見逃したものが多いのはしょうがないとしても、見たはずなのによく覚えていないものが多いことにあきれる。歳である。
 高田好胤の『薬師寺への誘い』(高田好胤編・野上透写真、講談社文庫、1977)も読んでみた。Photo

 薬師寺の本尊は薬師如来で、「西に阿弥陀さまの極楽世界、東にお薬師様の浄瑠璃世界があります。(P50)」とある。
 如来が仏で、仏になるために修行しているのが菩薩であるくらいのことは聞きかじっているが、如来がそれぞれ仏国土(ぶっこくど)という領土みたいなものを持っているというのはよくわからない。ウィキペディアによれば、こうなっているそうだ。

  • 阿弥陀如来   西方極楽浄土 
  • 大日如来    密厳国土
  • 毘盧舎那如来 蓮華蔵世界
  • 阿閦如来    東方妙喜世界
  • 薬師如来    東方浄瑠璃世界
  • 釈迦如来    無勝荘厳国、霊山浄土(現世の霊鷲山のこと)
  • http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%9B%BD%E5%9C%9F
  •  阿弥陀如来の西方極楽浄土以外あまり聞かないが、これは、それぞれの如来が勢力争い・領土争いをしているのかなどと考えてしまう。
     しかし高田好胤は「決して仏さまは人々を自分の浄土へ引っ張りこむことをのみお考えにはなりません。その人その人にふさわしい浄土を願わし引導してくださいます。(P51)」 と書いている。わたしのような下衆のかんぐることは、とっくにお見通しなのであった。 

     白鳳伽藍から道路をへだててちょっと離れたところに玄奘三蔵院伽藍がある。こちらは再建ではなく新たに建てたものである。
     薬師寺の宗派は法相宗で、開祖慈恩大師は西遊記の玄奘三蔵法師の弟子。そして日本へ法相宗を伝えた道昭は唐で慈恩大師の相弟子として三蔵法師に学んだのだという。パンフレットには「法相宗の始祖・玄奘三蔵」と書いてある。
     

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     ここへ行く途中に、根尾谷から持ってきた薄墨桜があった。

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     満開。春である。
     実は甲子園へ行く前からちょっと腰を痛めていて、我慢しながらずっと歩いていたのだが、こんな光景を見ると、我慢のしがいがあったかなと思う。
     
     

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    2013年4月14日 (日)

    甲子園ツアー4 唐招提寺

     甲子園の試合終了後、駅前で祝勝会をやってから(→甲子園ツアー1 遠軽がんばれ)、わたしは一人で奈良へ向かった。出発の前日、ちょっと思いついたのである。土曜日なので安いビジネスホテルはあいていなかったが、なんとか猿沢池近くの和風旅館がとれたので、試合の翌日は奈良観光を予定していた。
     そうしたら予定よりずっと早く祝勝会まで終わってしまったので、これなら半日余計に観光ができそうだからと、午後から奈良へ向かったのである。

    唐招提寺Photo

     阪神の甲子園駅から近鉄奈良まで乗り入れている快速急行があった。ちょうどこの日から交通系ICカード(というのだそうだ)が全国で相互利用を開始したので、JR東日本スイカ(Suica)がそのまま使えた。便利になったが、交通費がどのくらいかかったか、よくわからなくなりそうだ。
     西大寺で乗り換えて西ノ京で降りて、まず唐招提寺へ。Dscf7323_2

     春休みの土曜日の午後なのに、道行く人が少ないのに驚く。鎌倉は平日でもここよりずっと混んでいる。ここはかの有名な唐招提寺薬師寺のある駅なのに。少ないからとても落ち着くし、景色ものんびりしている。途中にはこんな土塀が剥がれた破れ寺のような建物がある。

     どれくらい人が少ないかというと、唐招提寺の門をくぐってもこのとおり。静かにゆったりと拝観できる。正面が金堂である。

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     そしてこれが、金堂のエンタシス(柱の中央部がふくらんでいる)の柱。右が戒壇である。

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     天平の昔、仏教の戒を授けることができる僧を求めて遣唐使とともにに使いが送られた。日本からの要請にこたえて、高僧鑑真自らが承諾し、何度も渡航に失敗して、失明もしながら、荒れ狂う大海を越えてとうとう日本にやってきた(753年)。そして東大寺に戒壇を築き、聖武上皇らに戒を授けた。その後この唐招提寺を創建した。

    Photo_3 この話を小説にしたのが井上靖の『天平の甍(てんぴょうのいらか)』である。高校生の時に読んだはずだが、内容は覚えていないので、帰ってから読み返してみた。

     おもしろい。文章に無駄がなくきびきびとしていて、余計な装飾がない。恋愛沙汰も登場人物の大げさな感懐などもない。荒れ狂う海の描写のほかは、おおむね坦々と話が進行していく中で、事態がどれほどたいへんなことだったのかを感じさせる。
     
     鑑真を日本に迎えようとした留学僧たちが主な登場人物で、実在はしたが、文書に名前が残っている程度らしい。どういう性格で、どう感じどう考え行動したかは無論作者の創作である。
     留学生には成績優秀で唐の朝廷に仕官した吉備真備や阿倍仲麻呂のような者もいれば、自分の才能に見切りをつけ、勉学よりはひたすら写経を行って、多くの経典を持ち帰ろうとする者や、唐人の女と一緒になって帰ることをあきらめる者や、遠く放浪の旅に出る者も出てくる。現代の留学にも通ずる話であるが、当時もいかにもありそうで、歴史の枠内に収まっているように思われる。
     
     
     最後に、唐に残った留学僧の一人から渤海経由で瓦屋根の飾りである鴟尾(しび)が送Dscf7351
    られてきて、唐招提寺の甍になるという話が出てくる。これがつまり「天平の甍」であるのだが、わたしにはこのエピソードだけはちょっと不自然に感じられた。甍が送られてきたという事実なり伝説なりがあったのだろうか。主人公の普照が過去を振り返りつつ唐招提寺の甍を見上げるくらいで終わったほうがよかったように思う。
     写真がその鴟尾天平の甍である。

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     関東地方では例年より一週間ぐらい早く、ちょうどこの頃桜の満開を迎えたが、関西では咲き始めたというところで、早咲きの桜が、ところどころで見られた。天気も良く、のどかである。

     鑑真大和上御廟の壁もこんな状態で風情がある。気に入った。

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     そして御廟の中。苔がしっとりとして、とても落ち着いた雰囲気である。

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     ところがこの廟所の奥には塀があって、その向こうは中学校か高校なのだろうか、サッカーの練習でもしているようで、「行けーっ!」とか「おーっ!」とか、喚声がかなりやかましい。これでは鑑真大和上がゆっくりおやすみになれないではないか。ここまで、人が少なく静かでいいところだと感心していたのに、御廟がいちばんうるさいとは、ちょっと苦笑いであった。

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    2013年4月10日 (水)

    甲子園ツアー3 有馬温泉

    有馬温泉

     布引の滝から新神戸駅へ戻って、有馬温泉へ向かった。驚いたことに、天下の有馬温泉へ行くのに直通電車がなく、一度乗り継いだうえ、さらにたった一駅分を乗り継がないといけなかった。おかげで途中電車を乗り越して、予定より時間がかかってしまった。と、とりあえずミスは電車のせいにしておこう。
     宿泊先の保養所に荷物を置いて、宴会まであまり時間はないが、ちょっと町を散歩した。

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    Photo_3 川があって山があってというよくある温泉町のパターンだが、さすがに町の規模が大きく、懐が深い。狭い径が坂をくねくねと上ったり下りたり、歩きでがある。大きなホテルや旅館もあちこちに見える。

     左の赤い橋は「ねね橋」。豊臣秀吉が何度も湯治に来たといい、太閤橋太閤の湯もある。
     歴史としてはもっと古く、神代の昔にさかのぼり、道後、白浜と並び日本三古泉のひとつ、また草津、下呂と並んで日本三名泉のひとつに数えられているそうだ。
     有馬温泉ともなると「日本三大」もひとつだけではないのだ。しかも林羅山がそう書いたとか、枕草子に書いてあるとか聞くと、「日本三大」にうるさいわたしも何も言えない。

     町へ出てまず感じたのは中国人の観光客が多いということ。あちこちで中国語の会話が聞こえる。日中関係が冷え込むと有馬温泉にも相当の影響を及ぼすのではないかと、余計なことが心配になる。

     ここの温泉は「金泉」「銀泉」と呼ばれる二種類の湯があるそうで、「金の湯」には[太閤の飲泉場」があった。一口飲んでみた。ちょっとえぐい。

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     温泉町といっても、昔のような歓楽街の雰囲気はなく、いわゆる「こじゃれた」軽食屋やアクセサリー屋のような店がかなりある。
     温泉にはあまり縁がないので確信はもてないが、ひょっとするとこれは全国的な傾向なのではないか。最近の観光地の商店街はどこへ行ってもみんな軽井沢や鎌倉の小町通り化しつつあるように思う。
     有馬温泉はそのこじゃれた店と伝統的な工芸品やみやげなどの店が入り交じっていて、なかなかおもしろい。
     下左は人形筆の店。人形筆というのは、字を書くために筆をまっすぐにすると軸の上に人形があらわれ、寝かすと引っ込むというからくりつきの筆。
     手編みの竹の篭の店もあった。

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     下の看板には「有馬名産 大醫緒方先生御指示 炭酸煎餅本家」とある。大醫緒方先生とは緒方洪庵かと思ったら洪庵の次男で大阪慈恵病院院長緒方惟準氏のことであった。炭酸煎餅屋は何軒もあるが、かなりの老舗と見受けられたので、ここでみやげを買った。

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     温泉の泉源というのがあちこちにいくつもある。
     御所泉源天神泉源

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    Photo_21 この妬泉源は、看板によれば、「妬湯(うわなりの湯)」の泉源で、今は湯が出ていないが、江戸時代の本には、盛装した女性が前に立つと激しく湧いて出るとか、悪口を言ってののしるとたちまち出るとか書かれているそうだ。嫉妬すると湧いて出てくる温泉とは珍しい。

     炭酸泉源には飲場が別についていたので、これも飲んでみると、えぐい味と同時にのどや舌がちょっとピリリときた。なるほど炭酸泉であると納得した。
     この炭酸泉を利用してできた名産品が炭酸煎餅である。(サイダーもある。)

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     温泉寺温泉神社

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     極楽寺有馬玩具博物館のショーケース。時間がなくて博物館の中には入ってない。

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     宴会に遅れないようにと、一時間ちょっとでこれだけ見て回ったら、けっこう疲れた。有馬温泉はなかなかいいところであった。

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    2013年4月 6日 (土)

    甲子園ツアー2 布引の滝

     残念ながら遠軽高校は二回戦で大阪桐蔭に敗れました。11対1。はっきり実力に差があるようです。でも遠軽にはいい経験になったでしょう。今年の夏、今度は実力で甲子園に出場してくることを願っています。

     これ以降の文章、タイトルは「甲子園ツアー」となっていますが、遠軽とも甲子園とも関係ありません。せっかく甲子園まで行くんだからと、ついでにあちこち見てきた旅行メモになります。わたしの中では甲子園ツアーの一部なので、このタイトルでまとめます。

     3月23日の遠軽高校の試合は第一試合で、朝の八時半開始。当日横浜出発ではとても間に合わない。そこで前日、近辺に泊まろうということになり、グループ仲間で神戸在住のT勝負師が、前に勤務していた会社の、有馬温泉にある保養所を取ってくれた。T君は学生時代から麻雀、競馬などギャンブルが好きで、しかも強いので勝負師の敬称を奉っている。今は自分で会社を経営しているので、敬称はT社長と改めた方がいいかもしれない。ともかく敬称には「長」とか「師」とかいう、えらそうな字がつくことになっている。

    布引の滝

     だから3月22日(金)、早めに横浜を出てきたわたしは、I長老と一緒に13時過ぎに新幹線の新神戸駅に降り立った。時間は十分あるから、六甲山の南側をケーブルカーで登って、北側をロープウェーで降りて有馬温泉へ行こうと相談がまとまった。観光案内所へバスの連絡など確認しに行ったら、なんと有馬六甲ロープウェーは、現在運転休止中だという。

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     しょうがないので新神戸駅から歩いてすぐだという布引(ぬのびき)の滝へ行ってみることにした。長老は前に行ったことがあり、なかなかのものだという。
     新幹線の駅からほんの五分も行かないうちに山道になり、ちょっとした渓谷の趣になってくる。なるほどおもしろい。

     さらに五分ばかり登ったところにまず高さ19mの雌滝(めんたき)があった。下の左の写真である。そこからさらに五分ほど登ると、右の写真の雄滝(おんたき)がある。同じ大きさで並べたので小さく見えるが、倍以上の高さで43mあるそうだ。滝壺からさらに落ちている二筋の滝が夫婦滝(めおとだき)である。言われたとおり、なかなかのものである。

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     滝の読み方と高さはこの看板による。
     「おだき・めだき」でなく。「おん」と「めん」で「おんたき・めんたき」か。なるほど関西である、とついつい感心してしまう。

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     「この布引の滝は、那智の滝、華厳の滝と並んで、我が国の三大神滝(しんたき)といわれています。それだけに昔から貴族、歌人などがよく訪れ、詩などを数多く謡(よ)んでいます。」と書かれている。
     そうなのか、知らなかった。しかし神滝(しんたき)というのはいったい何なのか。いつ頃から誰が三大神滝といっているのか。疑問に思って、帰ってからインターネットで調べてみたが、わからなかった。
     布引の滝のことを言うわけではないが、「日本三大○○と言われている」というものには、有名なものにあやかろうと、それほど有名でないものが名前を並べているものがあるように思われる。このことは「日本三大長谷寺」の話で前にも書いた。(→第四番 長谷寺

     こだわってまた書いているのはわたしの郷里にも「日本三大」があるからである。愛知県一宮市の七夕祭り。わたしは幼い頃からこれは仙台、平塚の七夕祭りと並ぶ日本三大七夕祭りの一つであると教えられ、そう固く信じて誇りに思っていた。たしかに近在では群を抜く盛大な祭りであった。
     ところが名古屋の高校へ進学すると、三河から来ている同級生は仙台、平塚と安城(あんじょう)の七夕祭りが日本三大七夕祭りなのだという。「それは違う」とわたしは反駁したものの、このときはじめて異説があることを知った。
     そしてさらに大学へ進学してみると、首都圏では誰も日本三大七夕祭りを知らないのである。仙台と平塚の七夕は知っているけれど、一宮も安城も、七夕どころか、そもそもどこにあるのかもよく知らないのであった。これはちょっと悲しかった。
     だから今でも日本三大○○という言葉に遭遇すると、しばし立ち止まってしまうのである。

     まあそれはどうでもいい話なので、看板に話を戻すと、「昔から貴族、歌人などがよく訪れ、詩などを数多く謡(よ)んでいます。」と書いてあるし、陽気も急速に春になってきたので、万葉集志貴皇子(しきのみこ)の歌を思い出した。

    石(いわ)ばしる垂水(たるみ)の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも

     もしかして神戸の垂水区というのはこのあたりか、と思ったが、ここは神戸市中央区で、垂水区はもっと南の西の方であった。この歌と直接関係はなさそうだ。
     しかしこのあたり一帯にはこの滝を詠んだ歌碑がたくさんあって、神戸市のHPには「布引歌碑のみち」の紹介がある。 
    http://www.city.kobe.lg.jp/information/project/construction/central/kahinomichi.html   
     
    第一番に出てくるのが、藤原定家のこの歌。

    布引の滝のしらいとなつくれは 絶えすそ人の山ちたつぬる

     これには解釈がついていないので、歌の意味がよくわからない。濁点がないからちゃんと読めない。白糸はわかるが、「なつくれは」は、「夏来れば」か「名づくれば」かそれとも…?「絶えすそ」は「絶えずぞ」でいいのか。「山ちたつぬる」は?
     ネットで調べてみてようやく出てきた解説には、なんとこう書いてあった。

    この歌は後鳥羽院が関東調伏のために京都白川辺に建てられた寺の最勝四天王院の障子を飾った歌である。最勝四天王院障子和歌という。全国四十六の和歌を人々に詠ませられたが、その時定家が詠進した布引の滝の歌である。 歌意は平明である。
    http://welead.net/html/13_Html__15147.html

     他の歌は簡単に意味が書いてあるのに、この歌は「歌意は平明である」で終わり。簡単だからと言われたって、素養のない者にはわからないじゃないか!
     しょうがない、古語辞典をひいて、以下のように読んでみた。

    布引の滝の白糸 懐(なつ)くれば 絶えずぞ 人の山ち 尋ぬる

     大意 「布引の白糸のような滝は、みんなに慣れ親しまれているので、いつも絶え間なく、人が山の方へと訪れていることだ。」
     それとも「白糸と名付けたから、絶えずに人が山路を尋ねてくることよ」というのだろうか。

     どなたかおわかりの方お教えください。

     雄滝を離れて、もう少し登ると展望広場があって、神戸港を見下ろすことができた。

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     新幹線の駅からこれほど近くに、こんな山があり、滝があるとは思わなかった。由緒もあり、なかなかのものであった、とまとめておこう。

     

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