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2013年5月

2013年5月28日 (火)

甲子園ツアー10 元興寺・十輪院

元興寺Photo(がんごうじ)

 元興寺は、飛鳥蘇我馬子がつくった法興寺が平城遷都に伴って移されたものだという古い寺である。
 南都七大寺の一つとして、大きな寺であったらしい。この界隈一帯は、古い町家や寺の並ぶ「奈良町(ならまち)」と呼ばれているが、もともとはみな元興寺の境内だったのだという。
 今は、町中のちょっとした寺くらいの規模だが、元興寺は「古都奈良の文化財」のひとつとして、世界文化遺産にも登録されており、本堂(極楽堂)禅室は国宝でもある。

 下左が本堂。右が禅室で、禅室の前は、浮図田(ふとでん)と言って、ならまちから発掘された石仏や石塔が並べられている。浮図=仏塔の田という意味らしい。

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 本堂と禅室の屋根瓦の一部は、飛鳥時代のもので、日本最古の屋根瓦だという。赤っぽいのが飛鳥時代のものらしい。そしてこの瓦の葺き方を「行基(ぎょうき)葺き」というそうだ。

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 静かで落ち着いた雰囲気の寺であった。

十輪院Photo(じゅうりんいん)

 十輪院も、もとは元興寺の一子院であったという。
 ありきたりの町中の小さな寺という風情だが、この寺の本堂も国宝である。まったく奈良は国宝だらけだ。

 ここへ来てみたのは、前に触れた松本清張・樋口清之『奈良の旅』(光文社文庫、1984)に紹介されていたからだった。
 この本は、1960年代後半にカッパブックスで刊行された「今日の風土記(こんにちのふどき)」というシリーズの一冊である。
 単なる観光コースの手引きでなく、歴史的な解説や挿話などを加え、読み物としておもしろいガイドブックを目指したもので、全部で6冊刊行された。
 当時売れっ子だった二人なので、本人たちがどこまで手間暇かけたか、疑問に思うところもあるが、通常のガイドブックよりはずっとおもしろい。
 特に最近のガイドブックは、買物ガイドにグルメガイドが中心で、どこでも同じような「こじゃれた」店ばかりが紹介されている。年寄りにはあまり役に立たない。

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南門                       本堂

 この本堂は、その後方の石仏龕(せきぶつがん)を拝むために作られたもので、仏龕の中央には石造の地蔵菩薩像があり、その左右に立っている石の柱には釈迦如来、弥勒菩薩の浮き彫りがある。お地蔵さんが中心で、お釈迦様が脇侍になっている。下の写真はパンフレットにあった本堂内陣。

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Dscf7489 本堂の奥の方には魚養塚(うおかいづか)という小さな塚がある。(左の写真)
 朝野魚養(あさぬのいおかい)という、空海に書道を教えたという、字の名手の墓であるが、前掲書によれば、その魚養にはこんな伝説があるのだという。

 日本から行ったある遣唐使が、唐に滞在中、女に子供を生ませた。子供が乳離れするころには必ず迎えに来るからと言って帰国したが、その後まったく音沙汰がない。
 悲しんだ女は男の無情を恨んで、子供の首に「遣唐使なにがしの子」と書いた札をつけ、「宿世あらば、親子の中は行き逢いなん」と言って、日本の方へ向かって、子供を海に投げ込んでしまった。
 男がある日、馬で難波の海岸へ行ってみると、四つくらいの男の子が魚の背に乗って浮かんでいる。引き寄せると、自分の名前を書いた名札をつけていた。
 男は因縁の不思議さに驚き、連れ帰って大事に育てた。次の遣唐使に托して女にもこのことを書き送ってやり、女も喜んだ
 子供は魚に助けられたので魚養(うおかい)と名付けられ、大人になって字の名人になった。(参照『宇治拾遺物語』巻一四の四 魚養ノ事)

 この話はいちおう、めでたしで終わっているが、怒って子供を海へ放りこんだというのは怖いし、自分の名札をつけた子供が海から上がってくるのも怖い。
 『天平の甍』のところ(→甲子園ツアー4 唐招提寺)でも書いたけれど、遣唐使の時代から、森鴎外の『舞姫』のような、留学中に恋人ができ、子供ができて…という話があったのだ。
 そして、この遣唐使は伝説では吉備真備(きびのまきび)だということになっているらしい。
 吉備真備は、養老元(717)年、阿倍仲麻呂らとともに留学生として唐へわたり、天平7(735)年に帰国した。十九年もいたのは当時の玄宗皇帝がその才を惜しんで帰国させなかったためともいわれる。また天平勝宝4(752)年には遣唐副使として再度入唐し、鑑真とともに帰国した。当時のエリート中のエリートというところか。学者としてまた政治家としても立身し、右大臣にまで昇進した。この他にもいろんな伝説がある。

 森鴎外については、十輪院のホームページにこう書いてあった。

十輪院と森鴎外

森鴎外(1862-1922)は軍医でありながら、小説家としても有名ですが、帝室博物館の総長時代、奈良に来ては古い寺々を巡っていました。短歌も好み、『奈良五十首』を詠んでいます。その中に、「なつかしき十輪院は青き鳥子等のたずぬる老人(おいびと)の庭」という歌があります。
http://www.jurin-in.com/haikan2009.html

 鴎外は、吉備真備の伝説を知っていたに違いない。この塚を見て、『舞姫』のエリスを思い出したであろうか。

 さて、これでそろそろ奈良の旅を終わりにする。旅館へ荷物を取りに戻る途中、町中を学生らしい若者たちが三々五々歩いている。どうも「ならまち」ウォークラリーみたいなことをやっているらしい。日曜で、天気もいいし、腰は痛いがいい気分だ。

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Dscf7499_2 奈良はいいところだった。寺や神社はどこもまわりが広くひらけている。Photo観光客も東京周辺や京都に比べればずっと少なく、ゆっくりと見物ができた。高層建築がほとんどないせいか、町全体がのびのびと落ち着いた感じがした。
 また来よう、と思うのだが、考えてみると、そのときはそう思いながら再訪していないところがほとんどである。行きたいと思いながら行ってないところもずいぶんある。
 今回もずっと腰が痛かったし、歳のことも考えながら次を考えよう。

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2013年5月25日 (土)

甲子園ツアー9 興福寺

興福寺Photo

  興福寺は、江戸時代までは大和一国を支配するほどの力を持ち、今の奈良公園やそのあたりの奈良の町一帯が興福寺の境内だったのだという。それが、春日大社のところで書いたように、廃仏毀釈のために荒廃してしまった。
 司馬遼太郎の『街道をゆく24 近江散歩、奈良散歩』(朝日文庫、1988)から再度引用する。

 ただ一辺の命令で――軍隊が出動したわけでもなく興福寺の僧たちは春日大社(藤原氏の氏神)の神職にさせられ、興福寺は廃寺寸前になった。
 この時期に、五重塔が、わずか二十五円で売りに出されたのである。
 買主は商人だったが、最初は薪にしようとした。しかしこわすのに大変な労力が要るとわかって、金目(かねめ)の金具(かなぐ)だけを剥ぎとろうと考えた。しかしその作業でも、人夫への支払いが大変だとわかり、ついには焼いてしまおうとした。焼けおちたあと、金具を拾えばいい。
 が、付近の町家(まちや)から抗議が出た。天にのぼるような巨大な炎をあげられては火の粉がどこへ飛ぶかわからない。結局、商人は買うことをやめた。(P221)

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 明治初期とはいえ、これを読むかぎりでは、二十五円はたいした金額ではなさそうだ。
 なんとか生き残った五重塔は、今や古都奈良のシンボルとなっている。

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 その後、政府は廃仏毀釈の行き過ぎを改め、古社寺の保存制度もつくり、明治二十二年には奈良県立公園が設立された。
 正岡子規が興福寺を訪れ、「秋風や囲いもなしに興福寺」と詠んだのは明治二十八年のことだという。多くの伽藍とともに土塀も壊され、今も興福寺には囲いはない。
 中金堂は現在再建工事中である。

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  東金堂              再建工事中の中金堂

 ここでは、阿修羅だけはどうしても見たかった。先年、東京の国立博物館へやってきたときには凄い人気で、ブームのようになっていた。
 学生時代に奈良は一通り見たはずだが、仏像では広隆寺弥勒菩薩以外ほとんど印象が残っていない。見る目がなかったのか。それとも当時は、阿修羅がまだ流行っていなかったので見過ごしたのか。ともかくどれほどのものなのか、確認したかった。
Dscf7466_2 展示されている国宝館へ入ってみると、日曜日の午後で、観光客も修学旅行の生徒たちもいるのだけれど、混雑してゆっくり見られないほどではない。順に従って阿修羅を見て、しばらく先へ行ってから戻ってまた阿修羅を見て、全部見終わってから最後にまた戻って阿修羅を見る、ということが抵抗なくできた。
 これはうれしかった。ちょっと名の通った美術展だと凄く混んでいて、ひたすら行列とともに進むしかないことが多い。疲れるので、最近は行くのがおっくうになっているのだけれど、ここではゆったりとした気持ちで見ることができた。せめてこれくらいでなければ、鑑賞したとは言えないのではないか。今回の奈良はどこへいっても、ゆっくり見られた。奈良はいいところだ。

Photo_2         雑誌『サライ』2004年5月29日号より

 阿修羅も気に入った。これはいい。
 どうみても少年か少女の像である。それが何かを訴えている。ほっそりした身体と長い六本の腕。一組は前面で合掌し、背面の一組は不自然に長く広がって天を受けている。どうしてこれが戦闘の神なのか。
 司馬遼太郎は前掲書にこう書いている。

 しかしながら興福寺の阿修羅には、むしろ愛がたたえられている。少女とも少年ともみえる清らかな顔に、無垢の困惑ともいうべき神秘的な表情が浮かべられている。無垢の困惑というのは、いま勝手に思いついたことばだが、多量の愛がなければ困惑はおこらない。しかしその愛は、それを入れる心の器が幼すぎるために、慈悲にまでは昇華しない。かつかれは大きすぎる自我をもっている。このために、自我がのたうちまわっている。(中略)
 阿修羅は、相変わらず蠱惑(こわく)的だった。
 顔も身体も贅肉がなく、性が未分であるための心もとなさが腰から下のはかなさにただよっている。眉のひそめかたは、自我にくるしみつつも、聖なるものを感じてしまった心のとまどいをあらわしている。すでにかれ――あるいは彼女――は合掌してているのである。といって、目は求心的ではなく、ひどくこまってしまっている。元来大きな目が、ひそめた眉のために、上瞼(うわまぶた)が可愛くゆがんで、むしろ小さく見える。(P234) 

 無垢の困惑。心の器は幼いのに自我が大きすぎてのたうち回まわっている…さすがに作家はうまいことを言う。そう言われると、わたしの感じた「訴えかけているもの」はそれだったのか、と納得してしまう。ともかくこれはいい。

 国宝館には他にも下左の仏頭などいろいろあったが、阿修羅ひとつで十分満足した。
 南円堂北円堂は4月に特別公開があるそうで、今回は中は見られなかった。

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   南円堂                北円堂

 猿沢の池からもう一度興福寺方面を見る。
 これでだいたい予定していたところは見終わった。まだ時間があるので、旅館を通り過ぎて、元興寺まで行って見ることにする。

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2013年5月23日 (木)

甲子園ツアー8 東大寺

 もう二か月も前のことをまだ書いている。いいかげん忘れていて、写真を見てもこれは何寺の何堂だったのか、何門だったのか、ガイドブックなどを見て確認しないといけなくなっていて、余計な時間がかかる。

東大寺Photo

 次はいよいよ東大寺。奈良と言えば鹿だと前に書いたが、それよりやっぱり東大寺の大仏である。ここはさすがに全国有数の観光地らしく人出が多い。中国人の団体客も多いようだ。
 南大門前には鹿もちゃんといる。

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 東大寺は建物が大きい。南大門の下にあるこの金剛力士(仁王)像も8.4メートルもある。運慶・快慶の作で、本などで見ると凄いのだけれど、実物はずっと下の方から見上げるしかなく、目の細かい金網もかかっているため、良く見えなかった。

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 大仏殿がまた大きい。

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 北京へ行ったとき、天壇などの建物が大きいことに感心したが、これはそれらに負けないくらい大きくて堂々としている。なにしろ大仏様が入るくらいである。

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 その大仏様をとった写真はなぜかピンぼけばかりであった。ありがたさに手が震えたのだろうか。

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 さてそれから二月堂へ。

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 下右は、二月堂の舞台から見た奈良の町。

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 こちらは三月堂(法華堂)四月堂(三昧堂)。三月堂は工事中だった。一月堂や五月堂以下はないらしい。

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 売店の前にも鹿がいる。ここでは土産に行法味噌(ぎょうほうみそ)を買った。お水取りの際に僧たちが愛用するというなめ味噌である。こういう甘辛いものがわたしは大好きである。

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 手向山八幡宮は、大仏を建立するときに、無事を祈って九州の宇佐八幡が勧請されたものだという。神仏習合はもうはじまっていたのだ。
 下右は鐘楼の鐘。このあたりまでがちょっと小高い二月堂ゾーンにある。

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 あいかわらず腰が痛くて疲れた。しかしここまで来たのだからと、さらに正倉院まで行ってみたら、なんと工事中で何も見えなかった。しゃくなので、ここに唐招提寺校倉造の写真(宝蔵)を載せておく。

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 これは戒壇堂。東大寺はここで終わりにした。東大寺は広い。

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2013年5月13日 (月)

甲子園ツアー7 春日大社

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 明くる日(3月24日)は、旅館に荷物を預かってもらって、まず春日大社へ向かう。奈良公園を通っていくと、いるいる。奈良と言えば鹿である。

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 春日大社は、藤原氏の氏神だというだけあって立派な神社である。

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   南門                    幣殿

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   中門・御廊               裏の山が三笠山

 灯籠が有名だそうで、回廊にもたくさん吊灯籠がある。下左は慶長の年号があるもの。下右は平成二十二年のもの。

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 左は石灯籠である。歴史と格式のある神社であることはよくわかったし、宝物殿では絵巻物の「春日権現記」の展示をやっていて、なかなかおもしろかった。

 
 しかし前の晩読んだ本がよくなかった。今回の旅行に持ってきた、松本清張・樋口清之『奈良の旅』(光文社文庫、1984)を読んだら、明治維新の廃仏毀釈のとき、興福寺の高級僧侶たちは、保身のため興福寺を捨てて還俗し、この春日大社の神官になったのだという。おかげで興福寺は荒廃し、建物や多くの貴重な文化財が失われてしまった。興福寺は藤原氏の氏寺であるから、高級僧侶たちは、もともと京都の公卿の出身で、神官になって華族に列せられたが、このことから「奈良男爵」と呼ばれて馬鹿にされたのだという。(P51)
 宗教者の風上にもおけない、けしからん。そんな奴らが神官をしていたのかと思うと、この神社の有難味が薄れるような気がしてしまう。この本によれば、その神官たちの家は、(仏罰により?)終わりをまっとうした家は少ないということであるが。

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 帰ってから司馬遼太郎の『街道をゆく24 近江散歩、奈良散歩』(朝日文庫、1988)を読んでみると、この話はもっと詳しく、強い口調で書いてあった。

 伝説では、僧侶をやめて春日神社の神職になった連中か、あるいはその配下の下司(げす)僧が、仏像たちの魂抜きをしておいてからたたき割って薪にし、風呂を焚いて「ホトケ風呂だ」といってよろこんだという。捨て鉢になっていたともいえるが、あまり上等な所行(しょぎょう)とはいいにくい。(P226)

「坊さんをやめさせてくれ」
と願い出たとある。前後のかくれた事情はともかく、みずからすすんで興福寺をすてたのである。本音(ほんね)は、もしいま僧をやめて神職にならねば録をうしなう、位(くらい)をうしなう、すべてをうしなう、というあせりにあった。どうか俗人にもどしてください、と官に願い出るなど、仏教の権威、信仰、ともども片鱗さえうかがえない。カトリックやマホメット教に、こういう現象がありうるだろうか。(P231)

 廃仏毀釈というのは、相当激しいものだったとあらためて考えさせられた。

 

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2013年5月10日 (金)

甲子園ツアー6 奈良の町

 薬師寺から近鉄奈良駅へ着いたのはもう夕方。奈良の町を通って旅館へ向かう。
 奈良の町はさすがに人が少ないとはいかない。人口は三十六万人というからそれほど大きな都市ではないが、狭いアーケードの商店街がいくつもあって、修学旅行らしい中高校生があちこちに見かけられ、にぎわっていた。アーケードというと、さびれた商店街をすぐ連想してしまうが、けっこう活気のある商店街だった。
 また、わたしがちょっと歩いてみた狭い地域に、昔ながらの古本屋が四軒もあったのが驚きであった。最近街の古本屋はブックオフのような新古本屋に押され、どんどんなくなりつつある。街の八百屋や雑貨店がスーパーやコンビニに押されて消えて行っているのと同じである。昔は、これくらいの都市にはたいていのこれくらいの古本屋があったものだ、奈良ではまだ健在なのか、さすが古都である、とちょっと感動してしまった。しかし腰が痛いので、そうそう買うわけにいかなかったのは残念であった。

 旅館は猿沢池の近くで、出るとすぐ興福寺の塔が見える。創業百年を超える老舗旅館、とネットに書いてあった。さすがに建ててから百年はた っていないが、ちょっと古い。

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 創業百年というと子供の頃はたいしたものだと思ったが、それから六十年も経過した今となっては、そんなに古いものとも感じない。子供の頃の百年前といえは明治以前の江戸時代のことだっが、今では1913(大正2)年のことである。わたしの父は明治39年の生まれだった。
Dscf7496_3 それに奈良では百年ならそんなに古くはなさそうで、明治創業くらいに見える店ならいくつもあった。土産に「青丹よし」という菓子を買った店は、元禄14(1701)年の創業だというから三百年を超えている。
  奈良の枕詞である「あおによし」は、薬師寺の建物のように青(緑)と丹(赤)が美しいという意味だろうとなんとなく思っていたが、どうもちがうらしい。ものの本によれば、青埴(あおに)というのは白い粘土のことで、「良質の白い粘土を産出する奈良」という意味だという。
 この落雁のような干菓子は、奈良の銘菓としていくつもの菓子屋で作っていて、それがみんな明治以前の老舗のようで、どこが元祖やら本家やらわからない。奈良はやっぱり古い街なのである。

 

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