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2013年7月

2013年7月26日 (金)

東北15 三内丸山遺跡2

 いきなり大型掘立柱建物にこだわってしまったが、三内丸山遺跡は無論これだけのものではない。大型竪穴住居があり、掘立柱建物という高床式の建物があった。大型竪穴住居は集会所、共同作業所などに、高床式は倉庫などに使われたのではないかと言われている。
 大型竪穴住居とその内部。かなり広い。

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 高床式の建物。

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 Dscf7990そしてこれが小さめの竪穴住居で、550棟以上見つかったという。看板に一般竪穴住居と書いてある。それなら芸能人はどこに住んでいたんだ、というのは最近週刊誌などの「俳優のなんとかさんが一般人の女性と結婚」という報道に違和感を覚えているわたしのセリフである。昔は軍人と地方人、昨今では芸能人と一般人に区別されるらしい。
 悠久の縄文時代を想うべきところで、小さなことにこだわっているような気もするので話題を変えよう。

 ここはムラというより、都市といっていいくらいの大集落だったようだ。
 前述の梅棹忠夫はかねてから、都市の起源は神殿であった、という「都市『神殿』論」をとなえていた。神のいる神殿があって、神と交信する神官がいる。その神託を聞くためにまわりから人が集まり、情報の交換や物の交換が行われるようになる、というわけである。
 小山修三は、あの六本柱は、梅棹の「神殿説」をとるとうまく説明できると言っている。(『日本文明77の鍵』P38、梅棹忠夫編著、文春新書、2005)
 復元された六本柱の姿は、神殿には見えにくい。もっと違うかたちをしていたのだろうか。いっそ上の方を鳥居型にするというのはどうだろう。

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 わたしが中学・高校で習った日本史は、遅れた縄文文化は、大陸や南方から伝わった水田稲作を基礎にする弥生文化に淘汰された。大陸から進んだ文化をもった人びとが渡来して、北九州や畿内から日本は発展していった、というようなものであった。
 ところが最近の歴史学では、縄文文化がかなり豊かなものであったこと、そしてその中心は東北地方であったことなどが明らかになっているらしい。
 特に縄文土器の最古のものは、1万6千年前と測定され、現在のところ、世界で一番古いものだという。前述の『梅棹忠夫語る』では、世界の四大文明になぜ縄文を入れないのか、とまで言っている。世界の五大文明か、いいね!
 ただウィキペディアによれば、最近、中国で1万8千年前の土器が見つかったという報告があるようだ。年代の測定方法に疑義があるらしいが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8
 こうなるとそのうち韓国から2万年前の土器が見つかるんじゃないか、と冗談で書いておくが、本当にそうなりそうでこわい。
 ともかく縄文土器は世界に誇っていいもののようである。

 T局長のよめる。

縄文の声聴く津軽は半夏生  俳爺

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Dscf7994Dscf7993_2 あとはミュージアムで、悠久の縄文時代の雰囲気にひたるために、貫頭衣を着てみたり、土偶の展示を眺めたりしておしまい。
 とうとうこれで旅行も終わりである。新青森駅でレンタカーを返し、予定どおり17:12の東北新幹線に弁当と酒とともに乗り込み、めでたしめでたし、というわけであった。

 わたしとI長老は、さっそく飲み始めた。左がわたし、右が長老の弁当である。長老は焼酎の水割りのロング缶を二本買ってきた。わたしは控えめにビールのロング缶一本とレギュラー缶一本である。
 T局長がそんなに飲むのかと驚いていた。なに局長だって、出発の日、新幹線の中で朝食のパンと一緒にワインのミニボトルを飲み始めたので、こちらが驚いたくらいである。酒が好きなわたしや長老だって、めったに朝から飲んだりはしない。

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 わたしの弁当は、カニ入り卵焼きの下にいろいろ海鮮が詰まっているというすぐれもの。ついつい車内販売でビールを追加してしまった。
 右はI長老が、わが家へのお土産としてくださったもの。あわび・いくら・めかぶの醤油漬け。長老ありがとうございました。おいしくいただきました。気をつかっていただいてすみません。

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 帰る途中だんだん雨があがっていって、新幹線の窓の外に大きな虹が見えた。
 俳人のよめる。

梅雨明けの空に届けと巨大虹  俳爺

 雨のせいで、岩手山も岩木山も姿を見ることができなかったのは残念だったが、その他の見たかったものは全部見ることができた。今回もいい旅だった。

 

 青森での話が長くなってしまいましたが、今回の旅行の目的は、東日本大震災の被災地の現状をこの目で見て、わずかなりとも現地にお金を落としてくることでした。もともとのお金が少ないので、何をしてきたとも言えませんが、復興がなかなか進んでいない姿を見て、今後とも、できることがあれば、という思いを新たにしました。
 

大津波は季節も恋も押し流しただ人の世の夢のかけらに  俳爺

 

 

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2013年7月25日 (木)

東北14 三内丸山遺跡1

三内丸山遺跡

Dscf7968_2 いよいよ最後の訪問地の三内丸山遺跡である。ここでも車から降りると、雨は小降りからやがてあがっていった。恐山のお地蔵様のご加護であろうか。
 ここはなんと入場無料であった。青森県が管理しているので、「青森県、太っ腹!」ととりあえず言っておくが、施設の維持管理だけでも相当のお金がかかっているだろうから、ある程度は取った方がいいのではとも思う。

 ミュージアムの建物を抜けていくと、見えてきた。もっとまわりを圧倒するようにそびえ立っているかと思っていたが、まわりの森の樹が大きく、遠くからでもすぐわかるというほどではなかった。
 白いドームが縄文の建物には不釣り合いで、ちょっと不思議な感じがする。あれは何だと思ったら、遺跡のあった場所に保存のためのドームをかぶせてあるのだった。そしてその近くの遺跡がなかった場所に、復元された建物が建ててあるというわけで、この公園内、あちこちに白いドームと復元された住居などが並んでいるのであった。

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Dscf7980_3 これの正式名称は大型掘立柱建物(おおがたほったてばしらたてもの)という。色気も何にもない、なんだ、そのまんまじゃないか、という学問的な名前である。公募でもしたら、縄文タワーとか、さんまる砦とかいう名前にでもなるだろうか。
 直径1メートルのクリの木を6本、深さ2メートルに埋め、高さ約15メートルに建ててある。
 これはいったいなんだったのか。
 その前に、この復元が正しいのかどうか、はっきりしないところもあるらしい。とにかく穴と埋められた木の一部が残っていただけなのである。約5,500~4,000年前の遺跡なので、参照できるような絵も文献も何もないのである。

 
 グラフィックデザイナーだという岡田健二氏の巨石巡礼というホームページにある「三内丸山遺跡」というページには、こう書かれている。(岡田氏がどういう立場にある人なのか知らないが、このページにある写真はみなきれいだ。)

 遺跡のシンボルともいえる大型掘立柱建物は、佐賀県の吉野ケ里遺跡(弥生時代)の物見やぐらを2m近く上回る高さ14.7mの三層構造の高床式の建物として復元された。巨大柱の性格については、「建物説」と木柱列論に立つ「非建物説」の2つの流れに分かれ、「物見やぐら」「神殿」「灯台」「ウッド・サークル」など様々な説が唱えられ大論争に発展するが、いまだその用途を特定するには至っていない。
 6本柱建物跡を復元するに当たり、青森県は屋根付きの建物を想定したが、「非建物説」を主張する小林達雄(國學院大學教授・考古学)、佐原真(元国立歴史民俗博物館館長・'02年没)、佐々木高明(国立民族学博物館名誉教授・民族学)らの反論で、結果的には屋根なしの三階建てという中途半端な復元になった。
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/038_sannai/038.htm

 はたして中途半端であるのかどうか。学問的にどのような根拠で今の形に復元したのか、素人にもわかるように書かれたものを探してみたが、今のところ見つからない。
 IPA「教育用画像素材集サイトというページには、こんな写真と解説があった。

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大型堀立柱建物の復元模型[静止画/600×400ピクセル/99KB]
6本の巨大木柱を用いた大型掘立柱建物は、専門家の間でその用途や構造等について様々な論議があるが、大きく非建物説(写真左)と建物説(写真中・右)があり、その結論はまだでていない。三内丸山遺跡では建物説に基づいた復元が行われている。(写真提供:青森県教育庁文化課)
出典:IPA「教育用画像素材集サイト」 http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/

 学問的には柱が六本あった以上のことは言えない、という立場もあるだろう。
 しかし上の写真の左側のようにただ建てただけで縄文人は満足しただろうか。こんなでかい柱を建てられる土木技術があったのだから、やっぱり結んだり、何か乗せたりしたのではないか。そして当然登り降りしただろう。床を復元しておきながら、はしごも階段もないのはいかにも不自然である。

 実際にこの復元に携わったらしい(遺跡の説明文にも名前があった)小山修三という文化人類学者が、『梅棹忠夫語る』(聞き手小山修三、日本経済新聞社、2010)という本を出している。亡くなる前の梅棹忠夫からの聞き書きをまとめた本である。そこにこんなおもしろいページがある。これは活字の大小があるので、画像で読んでもらおう。(P172)

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 梅棹忠夫曰く、縄文時代の衣服が出てこないからといって、みなスッポンポンで歩いとったのか。遺物第一主義はバカげているというわけで、そうだそうだと思う。そうなると、やっぱり屋根とかあったんじゃないかと思うが、実際に復元するのは大変そうだ。
 下の左はドームの中のようすで、下の右のように、穴に木が少し残っているだけなのである。これだけで、三階建てとか、トンガリ屋根とか決めろと言われたら、考古学者も大変だ。
 

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2013年7月24日 (水)

東北13 斜陽館

斜陽館

 蟹田から金木町(かなぎまち、現在は合併で五所川原市)の太宰治記念館斜陽館」へ向かう。ここはI長老のご希望により行くことになったものである。

  わたしは、寺山修司と同じく、太宰治のよい読者でもないのであるが、今回来るにあたって、『津軽』(新潮文庫、2000、94刷)を読んでみた。そうしたらこれがすてきにおもしろい。ああ太宰はこんなに明るい作品も書けるんだったのか、と太宰に対する印象をあらためた。
 ついでに『津軽通信』(新潮文庫、19997、16刷)も読んだ。これは全20篇の短篇集で、そのうち5篇が「津軽通信」というシリーズである。全体に軽妙で、うまい。

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 『人間失格』を読んだのはまだ高校生だった頃、、「こんな甘ったれた奴は」と強烈に反発したのを覚えてる。そう言ったらまわりから「作品と作者をごっちゃにしている」と批判された。しかし私小説の伝統がまだ生きていた頃の作品であり、太宰自身、作品と作者をごっちゃにされることは承知で書いていたのではないか、と今でも思っている。
 だからその頃、『斜陽』だとか、文学全集の1冊に収録された分だけは読んだけれど、その後は、読まなくてもいい作家として分類していた。

 『津軽』は、昭和19年、津軽風土記の執筆を依頼された太宰が、三週間の間、自分の故郷・故地に、それまで行ったことのなかったところをあわせて津軽を旅してまわったときの旅行記のような小説である。
 江戸時代の『永慶軍記』という書物には、こう書かれているそうだ。

奥羽両州の人の心、愚にして、威強き者にも随ふ事を知らず、彼は先祖の敵なるぞ、是は賤しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして、威勢にほこる事にこそあれ、とて、随わず(『津軽』P17)

 津軽人は馬鹿な意地をはって、強い者に上手に随うことができない。誇りだけ高くて、ついつい世の笑いものになってしまう。
 また蟹田のSさんのように、東京で有名な小説家になった太宰を一所懸命もてなそうとするあまり、過度な饗応を強いる結果になってしまう。感情が行動にあふれすぎ、後で恥ずかしくてたまらない。
 津軽の風土とあわせて、こういう津軽人の佶屈した感情が、友人知人たちの過度な行動としてあらわれてくる姿をユーモラスに描いている。そして愚かにも見えるその津軽人こそ太宰自身の姿だとも、言っている。
 非常に楽しく読め、また後味のいい作品だった。最後に幼年時代の乳母、小泊のタケと再開する場面では、ホロリとさせられた。この文庫の解説で亀井勝一郎は、全作品の中から一篇だけ選べと云われるなら、この作品を挙げるとまで書いている。

Dscf7963_2  さて斜陽館へ着いたときにはまだ雨が降っていたが、ここは建物の中を見るのだからかまわない。、
 朝早く出て、もう12:30くらいになっていたので、先に昼食をすませることにした。ガイドブックによれば、すぐ前の金木観光物産館に「太宰らうめん」というものがあるのだという。
 太宰が食べた、というわけではなく、太宰の好物だった根曲がり竹(姫竹)とワカメが入っているから、といういささか由来のあやしいものだが、ここまで来て、そういうものがあると聞いて、食べてみないわけにもいかない。

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 おつゆを飲むと、なんと『津軽』からとった文章があらわれた。「さらば旅人よ、命あらばまた他日。元気でいこう。絶望するな。では、失敬。」は、「さらば読者よ」がもとのかたちで、『津軽』の最後の文章である。
 これを太宰が見たら、津軽人としては、それこそSさんではないが、恥ずかしくて酒を飲まないではいられないところではないかと思うが、このラーメン、なかなかおいしかったので、とりあえずはよしとしておこう。

Photo_2  斜陽館は、太宰の生家、津島家の建物であって、戦前の大地主の家である。パンフレットには、「階下十一室二百七十八坪、二階八室百十六坪、付属建物や泉水を配した庭園など合わせて宅地約六百八十坪の豪邸である。」と書いてある。
 柱も梁も太く、階段は幅広く、立派な襖や床の間があり、戦前の大地主というのが、どれほどのものであったか、よくわかる。小説『津軽』のなかでも、近隣の町で「津島の修治です」と言えばそれでわかるみたいな場面があった。太宰はそういう環境で育ったのである。
 パンフレットの写しを載せておく。

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Dscf7966_2   パンフレットにある二重まわしというコートを、ご自由に着用ください、というコーナーがあった。これがどういう構造になっているのか、前から疑問に思っていたので着てみた。下はチョッキのようになっていて、その肩から背にマントが付いているのであった。厚いラシャのような生地であたたかそうだった。
 この写真を公開するのは、津軽人でなくても恥ずかしくて酒を飲まないではいられないところだが、まあ、どうせ今日も酒を飲むのである。

Dscf8004_4    帰りにもう一度物産館へ寄って、「斜陽羹」という羊羹を買った。「生れて墨ませんべい」というイカスミのせんべいもあったが、そこまでは手が出なかった。
 本当に太宰が見たら走って逃げ出すのでは、と思うが、地元ではあれもこれもみな太宰のおかげ、売れてめでたいめでたいということになっているのだろう。

 余計なことだが、最後にちょっとだけ書いておきたい。
 ここに取り上げた新潮文庫の『津軽』につけられた注釈がひどすぎると、わたしの好きな高島俊男が書いている。(『お言葉ですが…4 広辞苑の神話』、文春文庫、2003)

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 その部分には「これは賤しきものなるぞ」という題がついているが、これは前述の軍記からとったものである。
 高島は、まず週刊文春連載のコラム「お言葉ですが…」で注釈を批判した。

<マント 袖の無い外套。>
<銭湯 湯銭(入浴料)を取って入浴させる浴場。>
など、こんなものに注釈がいるのかというものがやたら多い。30頁くらいもある。だいたいマントのわからないものに外套がわかるか。
 意味のとれない注釈もある。
<さるまた 男が用いる、腰やまたをおおう下着の短いももひき>
と書いてあるが、こんな日本語があるか。
 『津軽』という作品を本当に読んでいるのか。リンゴを間伐して馬鈴薯を植えるという部分の注釈は、
<間伐 森林が茂りすぎるのを防ぐため、間の木を切ってまばらにすること>
<馬鈴薯 じゃがいも>
とあるが、リンゴ畑は森林か。茂りすぎるのを防ぐためではなく、戦時中だから食糧不足対策に主食がわりのジャガイモをつくろうというのだ。作品に即するのではなく、辞書をまるうつしにしているだけだからこうなる。

 という具合に、まったく小気味よくやっつけた。
 そして高島俊男がさらに激怒したのは、コラムを単行本にしようとして、新潮文庫を再確認したら、最新版では、高島が指摘したところだけ、おざなりに訂正してあったことだった。

 さるまたは<男が用いる、腰やまたをおおう下着>になった。安直な修正で、腰ミノかなんかみたいだ。
 全体に劣悪だから例をあげたのだ。ことばの出てきた情況や文脈に即して、その事情や様相をしるすのが文学作品の注釈なのだと批判しているのに、言われたところだけ安直になおしてすましている。訂正するなら他にもおかしいところはないか、見なおしたらどうか。人に言われないと、おかしいところもわからないのか。

というわけである。
 実はわたしは高島俊男の方を先に読み、この馬鹿な注釈の実物を見てみようと、新潮文庫の『津軽』を買ったのだった。
 わたしが買ったのは94刷で、訂正後のものだが、たしかに必要のなさそうな、辞書を引き写ししただけのような注釈がやたら多い。447項目で全29頁に及ぶ。それなのにわたしが注釈を必要としたところには役にたたない注釈しかついていなかった。
 前述の蟹田のSさんの饗応について、太宰はこう書いた。

津軽人の愛情の表現は、少し水で薄めて服用しなければ、他国の人には無理なところがあるかも知れない。東京の人は、ただ妙にもったいぶって、チョッピリずつ料理をだすからなあ。ぶえんの平茸ではないけれど、わたしも木曽殿みたいに、この愛情の過度の露出ゆえに、どんなにいままで東京の高慢な風流人たちに蔑視せられてきた事か。「かい給え、かい給えや」とぞ責めたりける、である。(『津軽』P61)

 ここについている注が、こうである。
<ぶえんの平茸 「平家物語」巻八「猫間」の話にある(ぶえんは無塩)。>
<木曽殿 源義仲…木曾義仲とも言われ…云々の主な経歴の説明のみ>
<かい給え 猫間の中納言にごはんを、かきこみなさい、どんどん食べてくださいとすすめたこと。>
 これでマントやさるまたがわからないと想定されている読者に、なんのことかわかるだろうか。
 これは、木曾義仲は都に攻め上ったものの、信濃の田舎者で貴族のことばや作法などとんと知らなかった。塩気のない新鮮な魚介類を「無塩(ぶえん)」と言って珍重したから、なんでも新鮮なものを「ぶえん」というと思い込み、通り名を猫間の中納言という貴族が義仲を訪れたとき、「ぶえんの平茸をどうぞ」とやってしまった。そしてともかくたくさん食べろ食べろとごはんを山盛りにして、無理強いに饗応し、京では田舎者として馬鹿にされたという、平家物語にある話なのだった。
 グーグルの電子書籍の「津軽」には、「ぶえんの平茸」に「食物を無理矢理に饗応する無粋な田舎者のたとえ。平家物語「猫間」に拠る」と注が入れてあった。せめてこれくらいの注釈は必要なところであろう。

 『津軽』も『お言葉ですが…4 広辞苑の神話』もおもしろくて、ついつい余計な部分が長くなってしまった。高島俊男も『津軽』は太宰の作品の中では最もできがいいもののひとつだとしている。そしてこう書いている。

 太宰治は、「佶屈」ということばを「おろかな強情」の意にもちいている。すぐ先のところにも、「…あれが、津軽人の反骨となり、剛情となり、佶屈となり、そうして悲しい孤独の宿命を形成するという事になったのかもしれない」とあるではないか。
 これが『津軽』のテーマなのである。津軽人には、おろかしい強情我慢の性格がある。そのために他国の人たちに誤解され、損をしてきた。その悲しいさがは自分にも濃くかげを落としている。――『津軽』で太宰治は、そればかりを言っているではないか。(『お言葉ですが…4』P110)

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2013年7月22日 (月)

東北12 仏ヶ浦・むつ湾フェリー

第四日  2013/07/06

仏ヶ浦

 昨日、夕食の配膳に来たお兄さんに、仏ヶ浦を見物して10:50脇野沢発のフェリーに乗る予定と言ったら、仏ヶ浦は崖をかなり下るので見物に1時間はかかる。7:30朝食の予定を7:00にしてあげようと言われ、言われたとおり、早々に出発した。
 今日も雨の中を走って行く。地図を見ると仏ヶ浦までは海岸線の何でもない道のようだが、これが、ろくに砂浜のない崖のようなところばかりで、登っては下り、右へ曲がり左へ曲がりという道だった。
 仏ヶ浦への中間地点あたりにあった願掛岩。雨でゆっくりもできない。

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 仏ヶ浦の展望台は雨のため素通りしたが、その先の駐車場へ止めるときには例によって小やみになってきた。
 駐車場から仏ヶ浦への降り口付近には「熊に注意」の看板。ここをずっと降りていかなければならない。ガイドブックでは約20分。宿のお兄さんが見物には1時間かかると言ったわけだ。

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 たっぷり15分はかけて、ふうふう言いながらようやく浜辺にたどりつくと、この景色。

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 このあたりの景色について、今回は一緒に来られなかったが、民間航空のパイロットだったK機長は、函館空港へ降りるときに空から見ると、下北半島の西海岸は日本でも有数の断崖絶壁の連続で、特に紅葉の時には息を呑むような美しさだ、と言っていた。
 なるほど絶壁が続く。空から見下ろすときには、もっと広い範囲が見えてもっともっと壮観なのだろう。ずっと空から見ていたというのはうらやましい。
 断崖絶壁だから、降りてきた分、またふうふう登って戻らなければならない。駐車場に、浜まで何分とか書いてなかったのは、それを見ただけで降りずに過ぎてしまう客が多いからにちがいない。

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 仏ヶ浦から脇野沢のフェリー乗り場までの道は、山の中へ入って、地図上でもはっきり曲がりくねっている。これまでの海岸の道よりさらに大きなへアピンカーブと登り下りが続く。
 運転手は昨日からずっとI長老で、霧雨の中、この面倒な道を右へ左へと快走して行く。運転がうまいのである。若き日は草野球のエースとしてならしたくらいで、運動神経がいい。運転の下手なわたしより平均時速で10キロくらい速いのではないか。途中いつでも替わるよと言いつつ、結局最後までひとりでがんばってもらった。ありがとうございます。

 脇野沢へ行く途中、路上に猿を発見。親子連れのようだ。このあと道路脇の木に登ったところを近づいて窓越しに撮ろうとしたが、シャッターを押す直前逃げられてしまった。そう言えば、この辺は北限の猿の生息地であった。

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むつ湾フェリー

 10:30頃、脇野沢のむつ湾フェリーの乗り場に到着。10:50には悠々間に合った。これに乗れないと次は15:30になってしまうので、どうしてもこれに乗りたかったのだ。
 天気は相変わらずぱっとしないし、すぐにフェリーに乗り込んでしまったので、脇野沢では何も見ていない。

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 このフェリーでは、季節によっては途中でイルカが遊泳しているところを見られるとのことだったが、天候のせいか、その気配もなく、対岸の津軽半島蟹田港へ着いた。
 蟹田へ着く前、船内の放送で、「太宰治が小説『津軽』で、「蟹田は風の町だ」と書いた云々」の説明があった。ここはその「風の町」をキャッチフレーズにしているらしい。港にある展望塔は、「風のまち交流プラザ トップマスト」と言うそうだ。

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 しかしここは素通り、ちょっと急いで、その太宰治の記念館「斜陽館」まで行きたいのである。

 ここで、今回の青森県での行程図を載せておく。このむつ湾フェリーでもらった地図に書き入れたものである。

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2013年7月20日 (土)

東北11 大間

大間

Dscf7916  恐山から、山の中の薬研温泉(やげんおんせん)を経て、海岸へ出る。津軽海峡であるが、また雨に降られて、景色はよく見えないまま、ひたすら大間(おおま)へ向かう。
 大間へ着いた頃は、また雨が小降りになり、傘がなくても平気なくらいになっていた。この旅行中ずっと、外を歩くときには、雨が小降りあるいは小休止なった。不思議なくらいで、遠景を楽しむことこそできなかったが、ついていたと言っていい。

Dscf7919  大間崎(おおまざき)には「こゝ本州最北端の地」の碑がある。
 海の向こうは北海道で、案内板にはこっちが函館とか松前とか書いてあるが、天気が悪く、うっすらと陸地の影が見える程度でよくはわからない。下右の灯台は本州側である。
 「ごらんあれが竜飛岬、北のはずれと…」という歌のおかげで、竜飛岬の方が有名で、北端のようなイメージを持たれているが、ここが本州最北端であることは、地図を一目見ればあきらかである。

 T局長のよめる。

大間では風は海より来るばかり(無季語)  俳爺

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Photo_2   ここで泊まった宿には、こんなポスターがあった。本州四端の地が共同でキャンペーンをやっている。
 北端 青森県大間町
 東端 岩手県宮古市
 南端 和歌山県串本町
 西端 山口県下関市 
 西や南のはずれはなんとなく見当がつくが、東は、昨日行った宮古の、浄土ヶ浜より少し南の魹ヶ崎(ととがさき)だそうだ。(トドはさかなへんに毛、という珍しい字である)

 大間と言えば、なんといってもマグロである。ここのマグロには、今年の初競りで一匹1億5540万円の値がついた。
 彫像のマグロはこれまでとれた最大のマグロの実物大で、右はそれを釣る漁師の腕をあらわしているそうだ。

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 この店で、マグロの佃煮などを買った。マグロはまだシーズンではないので、残念だが、たとえわたしが1億5540万円持っていても、新鮮なマグロは買えないのであった。どこの店も予約販売中で、九月ごろ送ってくれるというが、アベノミクスに不安があるので先物買いはしないことにする。

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Dscf7925  宿は、大間温泉海峡保養センターという。観光のため町が温泉を掘って、この保養センターをつくり、町営でやっていると聞いていたが、フロントで聞いたら現在は個人経営になっているという。領収書は「指定管理者 株式会社○○」となっていた。公設民営になったということだ。
 本州最北端の温泉である。

Dscf7927 われわれにあてがわれたのは、「もずくの間」であった。となりは「こんぶの間」である。海藻づくしかと思ったら、向かいの部屋は「まぐろ」と「ひらめ」であった。「まぐろ」の前で「もずく」とは、なんとなく情けない。
 料金に差があるのだろうか。実は最初「海鳴りコース」という料理を頼んでいたところ、冷凍だが大間のマグロを出すと聞いて、一段低い「一般宿泊膳」に変えて、そのかわりマグロを一人一皿ずつつけてもらったのだった。一般宿泊膳に下げなければ、「ひらめ」ぐらいには泊まれたかもしれない。
 民営化されたとはいえ、やっぱり公営の保養センターという感じである。観光より、町民の憩いの場になっているようだった。風呂には、ここのお湯は、寒い中働いて帰ってきた漁師のために熱めに設定している旨の説明があった。

 これがその「一般宿泊膳」+大間のマグロである。刺身皿を拡大してみると、大トロが三切(うち二切は炙ってあるので白くなっている)、中トロ三切、赤身三切、他の刺耳と盛り合わせになっている。

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  大トロはなるほど油でトロトロでうまい。さらに「マグロは赤身やて」と言う藤原紀香のCMに共感を覚えるわたしがうれしかったのは、その赤身がうまかったこと。コクがあるというとおかしいが、近所のスーパーのサッパリしすぎた赤身とは違って、かみしめるごとにしっかりした味があった。
 写真でみても、一般宿泊膳はちょっとさみしいが、最後の泊まりなので、これでしっかり飲んだ。さすが漁師の宿だけあって焼酎のボトルがとても安かった。

71  これは内緒だが、大間にはときどき高貴な方がお忍びで休養に来る。これを「大間の休日」という。
 というのは、漫画『釣りバカ日誌71 大間の休日の巻』からのパクリである。

 大間で一番えらいのは、大間法王と大間皇帝。
 すべての道は大間に通ず。
 保養センターの風呂は、大間風呂=テルマエ・オマエ。

 さて、いよいよ明日は最終日である。

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2013年7月19日 (金)

東北10 恐山3

 恐山の話が長くなってしまった。ともかく恐山は思っていたような暗いところではなく、山の中にぽっかりと明るく開けたところであった。冬の悪天候のときに来ると、また印象は変わるかもしれないが。

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 ここは極楽浜という。

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Dscf7896_4  極楽浜の水辺にも、花と風車が手向けられてあった。こどもたちは、ここで救われるのであろう。
 風車を撮った写真でなく、背景に写っていたものを拡大したものなので、見にくくてすみません。でも、なんとなく寺山修司好みになっているようではないか。

 極楽浜の浜辺は浅く、水は透き通っていて、下左のイトミミズのようなのがたくさんいた。これもちゃんと撮っていなかったので、無理矢理拡大したもの。右はちゃんと撮った、とんぼのヤゴである。魚の姿は見えなかった。

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 さて、出発の前に、せっかくだからあの風呂に入っておこう。境内にある風呂は無料で、自由に入れる。わたしたちが入ったのは冷抜の湯(ひえのゆ)という。

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 というわけで、恐山温泉である。 白くて細い糸のようなものがたくさん混じっていて、白濁している。どうも湯の花のようだ。ここも極楽である。

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 この後、寺の外にある食堂で、遅い昼食をとった。山菜そばには、おにぎりが一個おまけについていた。
 これで恐山には思いを残すことなく出発である。
 見送っていただいたのは、これも寺の外にある六大地蔵さまである。

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 T局長のよめる

梅雨晴やみちのく霊場人語増す  俳爺

 

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2013年7月18日 (木)

東北9 恐山2

 車から降りたときは傘をさしていたが、次第に雨があがり、雲を通して日がさし、明るくなってきた。ありがたい。
 岩山はこんな感じである。表面は花崗岩が砕けたような細かい石が積み重なっている。温泉の近くで時々見る、火山地帯である。

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 ところどころ、煙があがったり、小さな規模であるが、お湯が湧いて出たりしている。
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 ちょっと高いところから見下ろすとこんな感じで、この右手の小高い丘を取り囲んで、湖までずっと火山地帯が続いている。

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 そして、あちこちに血の池地獄とか無間地獄とかの名前がつけられている。別府温泉へは行ったことがないが、あそこの地獄めぐりはここよりさらに規模の大きなもののようだ。
 湖の近くには賽の河原もある。そして、ここの風景で何より目立つのはこれ、赤い風車である。

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 お花の代わりに、水子供養に、と売られているもの(1個400円)だが、今どきセルロイドではなくナントカ樹脂なのだろうが、てかてかした濃いピンクが多く、ドキッとするようなどぎつい色である。灰色の岩山の中で、異様な鮮やかさがある。
 最近あちこちのお寺で、本堂の他に地蔵堂などをつくって、水子供養の小さなお地蔵様がたくさん供えられているのを見かける。わたしは、あれを見ると、子を思う親の心につけこんで、お寺があざとく商売しているような気がしてならない。供えられた親御さん、ごめんなさい。
 それはともかく、水子について広辞苑第三版にはこう書いてある。
 「①出産後あまり日のたたない子。あかご。②流産した胎児」
 もともと水子というのは生まれて間もない乳幼児のことだったのだ。そして、昔の乳幼児死亡率は、現代とは格段に高かった。その死んだ乳幼児たちを供養するのが水子供養であり、死後の世界で守ってくれるのが地蔵菩薩であった。

 岩山に積んである石を見ながら、T局長に「「ひとつつんでは父のため、ふたつつんでは」というのは何なの?」と聞かれて、答えられなかった。地蔵和讃という題名だけは思い出したが、こどもたちが積んだ石を鬼がなぜ崩すのか、思い出せなかった。
 帰ってから、ちょっと調べてみた。江戸時代にだいたい今のようなかたちになったという。詞にも節にもいろんなバージョンがあるらしい。その中で、Youtubeにあった、古いレコードの地蔵和讃と、その歌詞を引用する。
 今聞くとかなりおどろおどろしい感じがするが、そもそも和讃とか御詠歌がどんなものか知らない。発売当時は、こういうものであるとして、ごく普通に聞かれていたのだろう。歌は前半だけしかないのが残念だ。最初は聞きにくいかもしれないが、少し我慢して聞いてほしい。(写真は恐山で撮ったもの)
http://www.youtube.com/watch?v=gP37rGG_v28

帰命頂礼地蔵和讃

Dscf7869れはこの世のことならず
死出の山路の裾野なる
賽の河原の物語
聞くにつけても哀れなり

二つや三つや四つ五つ
十にも足らぬおさなごが
賽の河原に集まりて
父上恋し母恋し
恋し恋しと泣く声は
この世の声とは事変わり
悲しさ骨身を通すなり

Dscf7901t かのみどり子の所作として
河原の石をとり集め
これにて回向の塔を組む

一重組んでは父のため
二重組んでは母のため
三重組んではふるさとの
兄弟我身と回向して
昼は独りで遊べども
日も入り相いのその頃に
地獄の鬼が現れて

Dscf7893 やれ汝らは何をする
娑婆に残りし父母は
追善供養の勤めなく

親の嘆きは汝らの
苦患を受くる種となる

我を恨むる事なかれと
くろがねの棒をのべ
積みたる塔を押し崩す

Dscf7894 その時能化の地蔵尊
ゆるぎ出てさせたまいつつ

汝ら命短かくて
冥土の旅に来るなり
娑婆と冥土はほど遠し
我を冥土の父母と
思うて明け暮れ頼めよと
幼き者を御衣の
もすその内にかき入れて
哀れみたまうぞ有難き

Dscf7885 いまだ歩まぬみどりごを
錫杖の柄に取り付かせ
忍辱慈悲の御肌へに
いだきかかえなでさすり
哀れみたまうぞ有難き

南無延命地蔵大菩薩

 親に先立って死んだおさないこどもたちが、成仏できないまま、賽の河原で父恋し母恋しと回向の石を積んでいると、鬼たちがやってきて、おまえたちのおかげで親は毎日嘆き暮らしているぞ、この親不孝ものめ、と積んだ石を崩してしまう。
 これを永遠に続けないといけない定めであったが、お地蔵様があらわれて、こどもたちを助けて成仏させてくださる、という物語である。
 親に先だって死ぬのは親不孝で大きな罪だというのがポイントで、このためこどもは成仏できない。おさないこどもの死のほとんどはこども自身のせいではないだろうに、理不尽である。そのいたいけなこどもたちが、さらに鬼にいじめられるという、残虐で哀れを誘う物語は、地獄のイメージとあいまっておどろおどろしいものとなる。
 おさないこどもをなくした親たちは、この和讃を聞いて、その恐ろしさに震え、悲しさに涙しながら、最後に地蔵菩薩に救われるところでカタルシスを得たのであろう。

 恐山の本尊は地蔵菩薩であり、ここには数々の地獄があり、賽の河原があり、湖には白い砂浜の極楽浜もある。
 つまりここは地蔵和讃の世界だったのだ、というのが、帰ってからのわたしの結論である。

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2013年7月17日 (水)

東北8 恐山1

恐山

Dscf7850   むつ市の市街を抜けて恐山への山道にかかってもまだ雨は降っていた。
 恐山へたどり着く少し前に、恐山冷水があった。水が湧き出している。延命水だとのことなので、ちゃんと車を止めて、みんなで飲んだ。
  義父が、亡くなる二、三年前に同窓会で八ヶ岳へ行って、みんなで延命水を飲んだという話をしていたのを思い出す。今のわたしくらいの歳だったのではないか。
Dscf7853 東北の山らしくヒバ(アスナロ)の木が多いようだ。
 恐山という個別の山はなく、カルデラ湖である宇曽利湖(うそりこ)の外輪山を総称して恐山というらしい。最高峰は釜臥山(かまぶせやま)で、878.6mある。
 ウソリというのはアイヌ語で入り江を意味する言葉で、これがなまって「おそれ」になったという。

 恐山にはおどろおどろしいイメージがある。わたしもまず思い浮かんでくるのは、吹きすさぶ雪の中、髪振り乱した老婆のイタコが、岩山で何かをおらびあげているような場面である。
Img  青森出身の寺山修司が、恐山を舞台にしてつくった、映画『田園に死す』でも、イタコが出てきたり、こんなシーンがあったりしたらしい。(寺山修司『田園に死す・草迷宮』、フィルムアート社、1983改訂版より)
 わたしはこの映画を見ていないので、この写真だけ引用するのは気が引けるけれど、他に適当なものが見つからなかった。
 こういう物の怪みたいなのが出没する岩山が恐山である、というのが一般的なイメージではないか。

 若い頃、寺山より上の世代の詩人、長谷川龍生(はせがわりゅうせいの詩「恐山」を読んだ。「君もわたしも恐山」という語句が何度も繰り返されることだけ覚えていた。
 ところが今回確認してみると、これは「きみも、他人も、恐山!」の間違いであった。わたしの記憶はあてにならない。非常に長い詩なので、ごく一部のみ引用する。

きみも、他人も、恐山!
白い人骨の風化していく砂漠
賽の河原の小石が、足のうらがわで、
こまかく踏みつぶされていく自然淘汰
どうしようもない老人が
その山頂にまでのぼりつめ
他界をしのぶ、きままな冥福。
きみが、指導者であろうとも
他人が、殺人者であろうとも
きみも、他人も、恐山!
術数におぼれ、権力をたよりに
風てんになった頭脳に光をとぼし
きみも、他人も、さまよってあるく、
  極楽ヶ浜― 極楽ヶ浜― 極楽ヶ浜―
  賽の河原に石ひとつ― 賽の河原に石ひとつ
(『戦後名詩選Ⅰ 現代詩文庫・特集版1(思潮社、2000)』より)

 読み返してみると、これは恐山の歌ではなく、社会組織の中での個人の陰惨な闘争をよんだ、きわめて左翼的な詩のように読める。恐山は、尋常ではない、非情な、おどろおどろしい場所の比喩になっているのだ。

Dscf7913 ところが現実の恐山は、山の中にからりと開けた、明るいきれいな場所だった。これは驚きだった。二度目の訪問となるI長老から話を聞いていたものの、こんなに大きく開けたところだとは思っていなかった。
 山中から抜けて、三途の川を渡る橋だという赤い太鼓橋の横をすぎると、目の前には、大きな湖が広がっていた。
 あいにくの雨模様で青空とはいかないが、緑の山、すきとおった青い湖、花崗岩だろうか、薄茶がかった白い砂の浜辺も見える。
 その昔、この場所を発見した人たちにとって、ここは素晴らしい別天地だったのではないか。

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Photo  そして湖の前の寺院も、大きく立派な建物で、とても髪振り乱した老婆のイタコなどいそうにない。イタコの伊太郎も、イタコ花嫁さんもいない。
 これがその恐山菩提寺である。
 総門と、総門をくぐった境内、広い。正面に山門が見える。

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 これが山門。

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 そしてその奥の本尊を安置する地蔵殿

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 これだけなら普通の大きな寺だが、ここには他では決して見られないものがある。
 境内にあるこの掘っ立て小屋はなんと温泉であり、その後ろの岩山には火山ガスの噴出口や温泉の湧出口が各所にあるのである。だから境内には硫黄の匂いがただよっている。

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2013年7月16日 (火)

東北7 寺山修司・六ヶ所・横浜

第三日 2013/07/05

Dscf7825  第三日からはバスツアーではなく、八戸駅前でレンタカーを借りて行く。借りたのはトヨタのヴィッツ。三人だから、ちょうど手頃な車である。
 しかしあいにく雨が降っている。強くはないが、天気予報では、今日も明日も雨。しかしとりあえず、当初の予定どおり行くことにする。今日は恐山を見て、それから本州最北端の大間崎まで行って泊まる予定である。

 

寺山修司記念館

Photo  途中、三沢にある寺山修司記念館に寄った。俳人であるから、つまり詩人であるT局長の希望である。
 「廃人といえば死人も同然」、というのは局長のことではない。東海林さだおの旅のエッセイを読んだせいで、わたしも何かおもしろいことを書かねばと書いてみたが、あまりおもしろくない。局長、他意はないのでお許しを。

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 外観から想像されるように、中にはいかにも寺山らしい奇妙なオブジェや映像などが展示されている。
 わたしは寺山のよい読者・観客ではない。いかにも奇をてらった、おどろおどろしい言葉や映像、難解な言い回しなどが好きではない。
 しかし、一つの時代をつくった人であり、それがわたしの若いときと重なるので、見ていくとなつかしくはある。写真撮影が許されていたのはここだけなので、ちょっと見苦しいが載せておこう。

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 庭に出て、道の両脇に大きなフキが生えている松林を抜けていくと、寺山修司の文学碑があった。碑の正面は小川原湖である。水草が広がっていた。

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 碑には

マッチ擦るつかのまの海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや

の他、二つの句が刻まれていた。この句は文句なしにうまい、傑作であると思う。
 庭の道端には、啄木の本歌取りの、こんな句もあった。

ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし

 詩人ならざるわたしは、こういうわかりやすいのがいいと思うのであった。

Dscf8003_2 ここで買った「家出のするめ」。ちょっと甘めに味付けしたさきいかが入っていた。
 寺山は「家出のすすめ」とか「書を捨てよ、町へ出よう」とか、若者の煽動も得意だった。林静一のイラストがなつかしい。

 

斗南藩記念館観光村

 寺山修司記念館の近くには「斗南藩記念館観光村」があった。
 明治新政府に敗れた会津藩は下北半島に移され、この地を「斗南(となみ)」と名付け、「斗南藩」と名乗った。「北斗七星の南」という意味である。二十三万石が三万石の地に押し込められ、移住した会津藩士たち1万7千人余りの暮らしは大変だったらしい。廃藩置県で斗南藩はまもなくなくなったが、この地に残り、開拓し、住み着いた人々もいた。
 その頃の建物などが観光施設になっているとは知らなかった。現在のNHKの大河ドラマ「八重の桜」は会津が舞台なので、いずれここもドラマに出てくるかもしれない。(これは見ていないが)
 ちょっとのぞいて行きたいとも思ったが、まだ出発したばかりで、雨も降っていた。この後の旅程も心配だったので通り過ぎただけで寄らなかったが、ひとこと書いておく。

六ヶ所村

 小川原湖の北が、原子燃料サイクル施設、国家石油備蓄基地をもつ六ヶ所村である。六ヶ所村の北の東通村には東通原子力発電所もあって、このあたりちょっとした原子力地帯である。
 下左が日本原燃六ヶ所再処理工場、右は六ケ所原燃PRセンターである。

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Dscf7845  PRセンター内部の展示を見ても、むずかしいことはよくわからないが、なぜここにこういう施設ができたのか、以前、朝日新聞の連載記事『プロメテウスの罠』に書かれていたのを思い出したので、単行本『プロメテウスの罠2』(朝日新聞特別報道部、2012)で、確認してみた。

 それによると、青森県の工業開発は、1979年から1995年まで4期にわたって青森県知事をつとめた木村正哉の悲願だった。木村正哉は前述の斗南藩士の子孫で、県議時代に下北半島の南部を新全国総合開発計画新全総、1969)に盛り込むことに腐心し、その後副知事、知事として一貫して「むつ小川原開発」にあたった。
 新全総に盛り込まれたことで、県は開発公社をつくり、石油化学コンビナートの誘致を目標に、広大な土地を買い集めた。東京から不動産業者が乗り込み、土地の価格は上がった。ところが1973年の石油危機などもあって、民間企業は来なかった。
Photo  『プロメテウスの罠2』は、石油危機がなくてもはじめから民間企業は来る気がなかったという。東京から遠すぎるという理由である。政府が、それまでの太平洋ベルト地帯優先に対する批判をかわすために、新全総でむつ小川原や苫小牧東を対象にしたにすぎなかったのでは、という。
 開発公社は、2,500ヘクタールの売れない土地をかかえて倒産の危機にあった。そこへやってきたのが、核燃料サイクル基地の話だった、というわけである。

 あちこちの地方でよくある話のようであるが、ここはものがものだけに、重く大きく課題が残り続ける。

 

横浜

Dscf7848  雨が降り続ける中、太平洋側から陸奥湾側へ出て、道の駅よこはま「菜の花プラザ」で小休止した。
 ここにも横浜があるのである。青森県上北郡横浜町、人口約5千人の町である。I長老とわたしは横浜市民であるから、ここまできたらちょっとだけでも敬意を表しておかねばならない。
 本当は横浜の「浜」を見たかったが、雨は降るし、先は長いし、ちょっとここで休んだだけで出発した。わたしはささやかに「ほたて味噌」を買った。

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2013年7月13日 (土)

東北6 田老・龍泉洞

田老

 田老(たろう)では、あの「万里の長城」と言われた大きな防潮堤の上で、震災ガイドの方から話を聞いた。

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 ここでいただいた「学ぶ防災」というパンフレットには被災前と被災後の比較写真が載っている。下の写真の赤い矢印の地点で話を聞いた。

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 赤い線が第一防潮堤で、青い線の第二防潮堤はそれより後でつくったものだが、水門などを除いて、ほとんど壊された。津波が直角に近い角度で進入したこと、土砂の基礎の上にコンクリをかぶせるという工法だったことが原因と考えられている。
 津波はさらに高さ十メートルの第一防潮堤を乗り越え、田老地区は壊滅的な被害を受けた。

Dscf7793 左がその第二防潮堤の水門。左右にあった堤防はなくなっている。
 下が話を聞いたは第一防潮堤である。堤防の地面からの高さは、ここでは六メートル弱だが、全体に海抜十メートルでつくられている。たしかに高さも幅も十分にあって、強固・堅牢に見える。これがあれば大丈夫と思ってしまうのも無理はないかと感じさせる。しかし津波はこれを乗り越えた。

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 わたしは生半可な情報で、田老というと、巨大な堤防を頼りにしたあまり、被害を大きくしてしまったところという、まことに地元の方々には申しわけない、あさはかなイメージをもっていた。しかし実際に堤防の上に立ってみると、これなら安心しても無理はないと感じるし、話を聞くと、昔から津波に対する備えに苦労してきた地域なのだということもわかる。
 第一防潮堤は、昭和三陸津波の翌年の昭和9(1934)年から工事を始めて、四十四年後の昭和53(1978)年に完成したのだという。
 この地区では、明治三陸津波(1896)で人口約2千人中1,859人、昭和三陸津波(1933)で約5千人のうち911人の犠牲者をだした。東日本大震災では約4千人のうち約200人と言われている。この防潮堤があったからこれだけ減ったとも言えるのである。しかし、それでいいということではなく、地元の方々は、まだまだ対策がいたらなかったと深く心を痛めているのだ。

 実際にそういう話を聞ききながら、参加者の中から
「あななたたちは、そういうこと(津波の恐ろしさ)を知ってたんでしょ。どうしてできなかったの。」
と、対応を糾弾するような声があがったのには驚いた。
 われわれよりも高齢に見えるその女性(つまりばあさん)は、自分の言葉に興奮していくタイプなのか、だんだん口調も強くなって、昔からわかっていたんだから、もっとしっかりやらなくちゃ、みたいな話になっていった。
 ガイドさんはこれに対して、「やはり過信していたところがありました」とか、謙虚に話を受け止めて、ひとつひとつていねいに返答されていた。えらい!わたしなら「あんたらに何がわかる!」と怒ってしまったに違いない。
 しかし、わたしも当初は間違ったイメージをもっていた。このばあさんも咎めるつもりではなく、被害の大きさに、せめてもう少しなんとかならなかったのか、という気持ちから出た言葉だったのだろう。しかし、もともとそういう口調でしゃべる人なのか、少し聞き苦しかった。

 田老の防潮堤については、吉村昭の『三陸海岸大津波』(文春文庫、2004)にも書かれており、以前に読後感などを書いたことがある。(→吉村昭『三陸海岸大津波』

 俳人T局長の詠める。

大津波田老の夢を散り散りに(無季語) 俳爺

   

龍泉洞

Photo  このツアーは、さらにもうひとつ観光がセットされていて、岩泉町龍泉洞へ行った。
 日本人は盛り合わせが好きだ、と言ったのは漫画家の東海林さだおで、鮮魚の買い出しに美空ひばりの歌碑、灯台見学を盛り合わせたバスツアーの体験記を書いている。
 今回のツアーは7,500円と、7コースある応援バスツアーの中では一番高いが、その分、浄土ヶ浜の海、三陸鉄道、田老での震災ガイド、そして龍泉洞の地下探検と、バラエティに富んだ盛り合わせになっている。

 洞窟観光も、初めて入ったときは衝撃的で、恐怖を感じたりするが、慣れてくると、恐さもなくなり、通路が歩きにくいとか、たいした鍾乳石がないとか、あれこれ文句をつけるようになってくる。
 わたしも、洞窟評論家ではないが、龍泉洞は、それほど大きなものではなく、これぞ鍾乳石の芸術と目を見張るほどのものはなかった、とまず言っておきたい。

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 しかしこの洞窟は、縦に深く、水が豊富で、美しい地底湖をもっているのが素晴らしい。三つの地底湖のうち、一番深い第三地底湖は深さ98mだという。透明度も高い。

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  暗くて深いので、とてもわたしのコンパクトデジカメでは撮りきれない。インターネットにいい写真はないか探したら、Youtubeに、岩手県岩泉町 「日本三大鍾乳洞 龍泉洞」Dragon fountain caveという映像があった。ぜひごらんいただきたい。http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=pIz44Klo9OM

 そしてここでもT局長の一句。

地底湖の蒼き水にも夏かよふ  俳爺

   

八戸

 ツアーは、また山中をひた走り、盛岡へ戻る。二日間、東へ西へと二往復した。緑の濃い、豊かさを感じさせる山の中の道だった。
 盛岡へ着いたのは予定どおりの18:15頃。これなら18:22発の新幹線に間に合うのでは、と急いで乗り換え、今日の宿、八戸へ向かう。
Dscf7824_2  八戸の泊まりはホテルメッツ八戸。新幹線の駅の上の大きなビル。
 駅の前は新開地で、ちょっとした飲み屋街が開けている。居酒屋のようなところで、ウニやホヤなど、地元のものを肴に魚に、飲んで食べた。
 勘定書きをもらったとき、貧乏性からついつい、ちょっと高いんじゃないかと言ってしまった。今思えば恥ずかしい。計算してみれとそのくらいになるし、とても東北復興に貢献できるような金額ではなかったのに。

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2013年7月12日 (金)

東北5 宮古・三陸鉄道

宮古

Dscf7718  浄土ヶ浜から宮古駅前へ戻って自由昼食、というのは自前で食べなさいということである。ガイドさんのおすすめのひとつ、駅のすぐ前の「蛇の目本店」へ入った。寿司と海鮮料理の店である。
 なめたがれいの煮魚と刺身定食を食べた。白身がとろりと柔らかく、味付けが濃すぎることもなく、うまかった。刺身が別の写真になっているのは、遅れて出て来たので、すでにその他は食べ散らかしていたためである。
 T局長は「磯チャーハン」という聞き慣れない名前のものを頼んだ。出てきたものを見ると毛ガニの足がのっていてうまそうである。一口食べさせてもらったが、なかなかのものであった。

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三陸鉄道 

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 宮古から三陸鉄道北リアス線に乗って田老(たろう)まで行く。料金は、自前ではなく ツアーに組み込まれている。これは、まだ分断されている三陸鉄道の復興のためだろうが、現在のNHKの朝のドラマ「あまちゃん」の人気にあやかろうというところもあるかもしれない。

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 わたしも毎朝「あまちゃん」を楽しく見ている。北リアス線は久慈へ行く途中でまだ分断されているので、この電車は久慈までは行かないのだが、これがあの北三陸鉄道=北鉄(きたてつ)かと思うと、なんとなくうれしい。しかし同行のI長老T局長も見ていないので、喜びをわかちあえない。
Dscf7788  T局長にどこがおもしろいのか聞かれて、すぐには答えられず、とりあえず「シャレがいっぱいだからいいんだよ」とだけ言っておいたので、その続きを考えてみた。

 このドラマはコメディーに徹しているのがいい。親子の葛藤や恋愛の話もあるけれど、そのあたりはさらりと流して、軽快にストーリーが展開していく。最初の海女になるころは話の運びがもっとゆったりしていたが、どんどん速くなって、最近の東京編ではめまぐるしいくらいになった。二、三日見逃すと話がずいぶん飛んでいる。
 評判になっているように、有名や映画やドラマなどのパロディみたいなシーンがたくさん、しかもさりげなく散りばめられているのも楽しい。漁協の事務所をカフェに改造した場面を、民放の建物改築番組「ビフォー・アフター」の音楽をそのまま、語り口そっくりでやったときには、思い切り噴いてしまった。1980年代がひとつのテーマになっているので、わたしにはわからないものが多いけれど、それでも、またやってるな、と思うだけで楽しい。
 さりげなく、というのもポイントで、しつこくやらないところが洒落ているのである。登場人物が「わかるやつだけわかればいい」と言うくらいである。
 このあたりが、関西地区では視聴率が数パーセント低いという原因だろう。吉本新喜劇的な感覚では、何がおもしろいのかきちんとわからせて、何度か繰り返してでもきちんと笑わせる。
 「あまちゃん」で、町のジオラマを見ながらの会議のシーンで、副駅長が「事件はジオラマで起こってるんじゃない。現場で起こってるんだ!」と言った。ところが登場人物は誰もこのセリフにに反応せず、そのまま次の話題にうつってしまい、副駅長は「名文句を言ってみたかったのに」と、ぼそっとつぶやいていた。
 吉本的感覚なら、ドラマ「踊る大捜査線」のパクリであることをきちんとわからせるため、何度も繰り返したり、織田裕二の真似をしたり、説明を入れたりするところだろう。しかし「あまちゃん」は、「わかるやつだけわかればいい」だから、関西地区では、いまいち乗れない人々もいるのではないか。
 あと俳優も、とやっているとまた旅行記が進まない。ここまでにしておこう。

 田老駅に電車がとまっているところである。「あまちゃん」冒頭の、テーマ曲が流れてくるところのようなシーンを撮りたかったが、残念ながら土手に隠れて電車はよく見えなかった。

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Dscf8001t  宮古駅ではこんなものを買った。「三陸鉄道応援 きっと芽が出るせんべい」である。発芽玄米のぽんせいべいで、「きっと芽が出る」というのは、なんとなく北鉄らしくていい。
 三陸鉄道、がんばってください!

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2013年7月11日 (木)

東北4 浄土ヶ浜

第二日 2013/07/04

 第二日は、7:30つなぎ温泉発と、朝が早い。復興応援ツアーの「浄土ヶ浜&龍泉洞 みやこ・田老号」である。

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 ところが、盛岡駅からの客が乗り込んで、本日の客10人がそろったところで、ガイドさんが「本日は「うみねこ号」にご乗車ありがとうございます。」とあいさつを始めた。え、乗り間違えたわけはないが、と聞いていると、これからの予定は間違いないから大丈夫そうだ。Dscf7715
 トイレ休憩のとき、バス前方を確認してみるとこうなっていた。
  「浄土ヶ浜&龍泉洞 みやこ・田老号」と「陸中海岸うみねこ復興応援号」が併記されている。
 ガイドさんに「名前がふたつあるんだ」と聞いてみると、「いえ、これで一つの名前なんです」と言う。
Dscf7710 推測するに、このバスツアーを企画・実施している岩手県北観光は「陸中海岸うみねこ復興応援号」で営業しており、JR東日本はそれを「浄土ヶ浜&龍泉洞 みやこ・田老号」として売っているのであろう。どうでもいいことであるが、「細かいことが気になる、ボクの悪いクセ」と、誰かの真似をして言っておこう。
 盛岡を出てからの山中は濃い霧の中を走っていて、今日の天気も心配されたが、海へ近づくにつれて、だんだん雨はあがり、日がさしてくるようになった。

浄土ヶ浜

 浄土ヶ浜では、オプショナルツアーで遊覧船に乗った。
 同行の二人、I長老T局長である(以前にちょっと紹介したことがあるので、今回は紹介省略)。
 ツアーにうみねこ号の名前がついているのは、ここのウミネコが観光名物になっているからであった。出港すると、エサがもらえると期待して続々とウミネコが集まってくる。

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 船ではエサ用に「うみねこパン」を売っている。これを与えだすと大変である。何十羽というより百羽単位で来ているのではないか。ギャアギャアうるさいことこの上ない。
 小さくちぎったパンを目の前に放り投げてやると、落ちる前にうまくキャッチする。わたしは左手にパンを持って、右手で小さくちぎって投げていたら、横からやってきたヤツに左手の大きな方をかっさらわれてしまった。帽子の上にとまるヤツもいるし、糞を落としていくヤツまでいた。客の方も大騒ぎだ。

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 カモメとウミネコの見分け方という看板があって、それによるとウミネコは尾羽が黒く、クチバシに赤と黒の斑があるという。こうして見ると、たしかにウミネコである。
 右はウミネコ繁殖地の姉ヶ崎。この写真ではよくわからないが、白い点々が写っているのは全部ウミネコ(のはずである)。

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 ローソク岩だとか日出島(ひでじま)とかの名所を巡っていく。

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 しかし観光中にはこんなものも見えてくる。途中から海に沈んでいる防波堤である。右の写真は、壊れた防波堤を、クレーン船が突き崩して、瓦礫として処理しているところだそうだ。

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 人口の防波堤は壊れても、もとから突き出ている自然の岩は、そのまま残っているようにみえる。

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 遊覧船のガイド さんの話によると、この遊覧船は地震当日は遊覧がおわったところだった。地震の後、津波が来るとの船長の判断で、沖へ逃げて助かった。停泊していた船とドック中だった船の二隻は津波にもっていかれてしまい、この一隻だけが助かったのだという。
 この船も港へ戻れたのは四十数時間後で、売物の「うみねこパン」を食べてしのいだそうだ。イカなどが練り込まれていて人間が食べてもおいしいという。とられる前に一口食べてみればよかった。

 ということで浄土ヶ浜はこのとおり、いかにも観光名所らしいところだったけれど、やっぱり津波の爪痕は残っているのであった。

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2013年7月10日 (水)

東北3 大船渡

大船渡

Dscf7705 センチメンタルになったのは帰ってからのことで、現地にいたときは、雨で外へは出られない、景色はよく見えない、ゆっくりしている間もないまま、次へ移動した。
 大船渡市碁石海岸レストハウスでの昼食である。
 碁石海岸(ごいしかいがん)というのは、写真のような黒い砂利の浜辺(碁石浜)があるからである。実際に碁石になっているそうだ。
 ガイドさんの説明では、歌手の新沼謙治が大船渡の出身だそうで、そういえば途中、窓から「新沼謙治」の名前を刻んだ碑が見えた。それとは別に、このあたりには新沼謙治のヒット曲『おもいで岬』の歌碑もあるそうだ。「北の岬は 今もなお」というところだけ、なんとなく覚えている。近くに碁石岬(ごいしみさき)もあるそうだが、「碁石岬は 今もなお」では決まらなかったか。
 このあたり乱曝谷(らんぼうや)というそうだ。すごい名前である。なかなかの景色だが、雨で落ち着いては見られない。

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 レストハウスと昼食の海鮮丼とそばの定食。このバスツアーは料金に昼食が含まれていた。4.800円の料金のうち500円は復興支援で地元に寄付することになっているから、これで参加者15人では、引き合わないのではないかと余計な心配をしてしまう。
 ついついビールを頼んでしまうが、バスなので、三人ともトイレの心配をして控えめになるところが老人旅行会である。

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Dscf7704_2 帰るとき雨の中レストハウスの人たちがわざわざ横断幕で見送ってくれたので写真をとったら、窓の雨だれにピントがあってしまい、後ろはピンぼけだった。オートフォーカスでいい加減に撮っているからこういうことになる。
 どうもありがとうございました。

  

 次は大船渡おさかなセンターでの買物。ここはもっと大きな、焼津のさかなセンターのような店を想像していたら、意外に小さな店舗だった。しかも半分はスーパーマーケットとして使われていた。近所のスーパーが津波で壊れてしまったので、住民のためここに店を開いたのだという。まったくそこらじゅうに影響が及んでいる。
 できればお中元のようなものをいくつか買って送りたいと思っていたのだが、意にかなうものがなく、ささやかなお土産を買っただけだった。右端のいかせんべいは碁石海岸で買ったもの。金を落としに来たと言うにはみみっちい。

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 これで本日のバスツアーの見るべきものはおしまいである。雨でどこもゆっくり見られなかったのが残念だった。
 海岸沿いを走っていると、はじめて名を聞くような小さな漁港がたくさんあって、そこがみな防波堤が壊れたり、建物の土台だけ残されたりしているのが見えた。本当に三陸海岸は軒並みやられており、復興はまだまだなのである

 前にも書いたことがあるが、三陸海岸から宮城県のあたりは、1971(昭和46)年、まだ二十三、四歳の時に、二か月くらいドサまわりをしてまわったところで、もうよくは覚えていないとはいえ、なつかしいところである。
 センチメンタルついでに、当時のスクラップブックを見ると、四十二年前の10月7日に大船渡市細浦徳壽屋旅館に泊まり、10月8日に大船渡市盛駅前旅館富屋に泊まっている。その他のガソリンスタンドやスナックもいったいどうなっているだろうか。無論、大震災の前になくなってしまったものが多いのだろうが。

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 あとはひたすら花巻から盛岡方面へ雨の山の中を走って行っただけなので特に書くことはない。雨で適当に端折ったところがあったのか、いつもと違って道路がすいていたからなのか、予定では19:00頃つなぎ温泉着となっていたのが、なんと17:00ちょっとすぎに着いてしまった。盛岡駅で降りる客がいなかったので、混んでいるところを通らなくてもよかったせいもあるだろうが、これなら被災地でもう少しゆっくりしてくれてもよかったのでは、と思ってしまった。

 つなぎ温泉は、盛岡市郊外の御所湖というダム湖の畔にある温泉で、けっこう大きな旅館やホテルがたくさんある。泊まったのは愛真館という旅館。
 早く着いたが雨なのでまわりの見物もできない。ゆっくり風呂に入って、わいわい食べて飲んで、さっさと寝た。

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2013年7月 9日 (火)

東北2 陸前高田

第一日 2013/07/03

Photo_4  第一日は、午前10時一ノ関駅発の「陸前高田・大船渡号」というバスツアーに参加した。東京7:16発の東北新幹線に乗ればこれに間に合うのだから、東北地方は新幹線ができて本当に近くなった。
 一ノ関に着くと雨がパラパラ、旅行期間中ずっと「曇り時々雨」のような天気予報だったが、初日からやっぱり雨である。
 今回のツアーの乗客は15人と思ったより少ない。平日とはいえ、格安の「大人の休日倶楽部パス」を利用して、もっとたくさんの老人たちがやってくるのではないかと思っていた。年寄りばかりなのは予想どおりで、わたしたちのような友人同士か、夫婦づれで、単身参加はいなかったようである。

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 雨がポツポツ降る中、気仙沼へ入るとやがて前方に見えてきた。津波で陸へ上がってしまった船である。
  一年ほど前にも見た(→気仙沼・石巻1)。一年前と違って、まわりは立ち入り禁止になっている。ガイドさんの説明ではだいぶいたんできているそうだ。保存の話もあったが、結局、壊して撤去することになったとのこと。ここはツアーの計画外なのでバスの中から見るだけで通過した。

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陸前高田

 陸前高田に着いたころには雨が本格的になってきた。
 海岸近くの道の駅高田松原(愛称タピック45)の前で、バスから出ないで、まず震災の語り部ガイドさんの話を聞く。
 この建物の背面の傾斜している方が海に面しており、海が見られるようになっていた。前面の「高田松原」の下の「TAPIC45」と書いてあるあたりまで水につかったとのこと。これは「震災遺構」の一つとして残されるそうだ。

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 すぐ前には追悼施設があった。

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 このガソリンスタンド、大きな看板の「セルフ」の文字あたりまで水につかったという。瓦礫の山も見える。

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 陸前高田市は、人口約2万4000名中約1700名が死亡し、町の大半が流されてしまったという、津波の被害のもっとも大きかった地域の一つである。
 今でも津波が浸水した地区は、ほとんど復興が進んでいない。他の都市でも同じような状況のようで、どこも津波浸水地区には、地盤沈下があったり、地権者との調整が進まなかったり、防潮堤ができるまではとか、高台移転の話がまとまらないとか、さまざまの理由があって遅れているようだ。
 瓦礫は少しずつ片づけられたが、建物の土台だけが残る「原野」が広がっている。そしてまた夏がやってきて、草が生い茂っている。

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 下は、陸前高田駅のあったところからロータリーと商店街のあった通りを見たところである。

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 実はわたしは、昔ここへ来たことがある。
 うちの奥さんの妹夫婦は現在盛岡にいるが、転勤で一時期この陸前高田に住んでいた。その頃、夏休みに、こども二人を連れて遊びに来たのである。調べてみると1987(昭和62)年の8月はじめ、上が小学1年、下が保育園の年少組で、もう二十六年も前のことだった。
 上の子の小学校入学式にそなえてビデオカメラを買ったので、このときもビデオを撮っていた。引っ張り出してみたら、褪色して、そのうえボケている映像ばかりだったが、そこから少し拾ってみた。
 下左は当時の陸前高田駅で、右は駅通り商店街である。これが上の写真のように、何もなくなっている。

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 下の写真は現在のもの。広田湾に注ぐ川をはさんで、もとの高田松原方面を見たところ。雨のバスの中なので細かいところはよくわからないが、あの「奇跡の一本松」が見える。ちょうどこの日、方向を間違ってつけられた枝の修正が終わり、囲いが取り払われた。しかし雨のせいか、それともバスでは近くまでいけないのか、遠くから見ただけだった。

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 二十六年前には、この広田湾にも来た。カキやホタテの養殖がさかんに行われていた。ちょうど「海上七夕」という行事があって、大きな飾りをつけた漁船が港へ入ってきた。

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 高田松原を抜けていくと、広い砂浜があって海水浴場になっていた。

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 大勢でにぎわっていた。このあたりは岩手県ではあたたかいところで、当時、陸前高田からもらう年賀状などには「岩手の湘南」と書いてあったものだった。
 下右の中二人の男の子が愚息たち、左端の二人の女の子と右端の男の子がイトコたちである。このころはみんなかわいかった。

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 こういう景色が、みんななくなってしまったのである。うちの奥さんの妹夫婦の友人や知人の方々も亡くなっているのである。松も生きている松ではないのである。
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 古いビデオを見て、忘れていた昔のことを思い出してなつかしがりながら、なくなってしまった景色などのことを考えていると、少しセンチメンタルになってきた。

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2013年7月 8日 (月)

東北1 大人の休日倶楽部

 7月3日から6日まで、三泊四日で東北へ行ってきた。
 以前から学生時代の友人グループで、大震災の被災地へ行こうと話していた。
 もう歳だからボランティアは無理だが、現地で多少なりとも金を落としてこようという趣旨である。
 うちの奥さんは、「そう言いながら、結局飲んでくるんでしょ」と言うが、それだって現地にちゃんと金は落ちる。しかもわずかばかりの金額とはいえ、全部わたしたちの自前の金である。
 役人たちが復興支援と言いながら、被災地から遠く離れたところで、ご当地アイドルの宣伝とか、ウミガメの数を数えるために予算を使っていたのとはまったくちがう。
 「復興増税」の趣旨に反対はしないけれど、25年もとり続けるというのはそれまで復興しないよと言っているようなものだし、こんな使い方をするのなら、もうやめてもらいたい。ともかくこの話になると、わたしのまわりの人たちはみんな怒りで盛り上がってしまう。こういう感情を大阪の橋下市長はうまく利用してきたのだが、最近ちょっとしくじった、などと言い出すと旅行の話がはじまらない。旅行に話を戻そう。

Photo 自分たちで計画して行こうとしても、まだ鉄道が寸断されていて、バスの連絡も悪く、なかなかうまくつながらない。JR東日本が募集している「復興応援バスツアー」で行こうかと調べてみると、JR東日本から、6月29日から7月11日まで「大人の休日倶楽部パス」という割引切符が発売されることがわかった。
 この期間内なら、東日本と北陸エリアが4日間乗り放題で17,000円という格安切符である。老人用の「青春18きっぷ」のようなもので、東北新幹線の指定席も乗れる。大人の休日倶楽部の会員限定だが、50歳以上なら加入でき、わたしはすでに65歳以上のジパング会員になっている。仲間はみんな有資格者なので、これを利用しない手はない。日程もはじめは二泊三日と言っていたのだが、三泊四日ということになった。

Photo_2 残念だったのは、当初五人の予定だったのに、体調不良などで参加者が三人になってしまったこと。まあ、老人旅行会にはありがちな話である。
 参加の三人は以前に被災地を訪れたことがあるので、今回はそれと重複しないところで、「いわて復興応援バスツアー」から、ふたつを選び、最初の二日で行く。後半の二日は通常の観光として、青森県へ行くことにした。 

 

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2013年7月 3日 (水)

J43 ヒトラー・ジョーク

 スターリンの次はヒトラーである。 『ヒトラー・ジョーク ジョークでつづる第三帝国史』(関楠生・編訳、河出書房新社、1980)という本から、本のジョークを見てみる。

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 わたしの若いころには第三帝国うんぬんという本はけっこう出ていて、ゲーリングやゲッペルスの名前も聞いたが、最近あまり聞くことはない。
 だから時代の状況や政治状況などを説明してもらわないと、ジョークもよくわからない。この本はそのあたりをけっこうていねいに説明してくれている。
 ここに引用したジョークには、わたしにわかる範囲でちょっと注をつけてみた。
 
 

 

『わが闘争』を書いた人

 第三帝国の初期、ユダヤ人の子供もまだ同じ教室で――ただし、離された机で――授業を受けていたころのこと、ある教師が質問した。
「だれか、『わが闘争』という本を書いたのがだれだか知っている者は?」
 だれも手をあげなかったが、最後列にいたモーリッツ・ゴールトシュタインが立った。教師は、こんなことを知らなくてどうすると生徒たちをしかったあとで、こう言った。
「ではモーリッツ、だれが書いたか言ってごらん」
「ぼうくではありません、先生」と、モーリッツは両手を広げて請け合った。
 怒った教師はモーリッツの父親を呼んでお説教をした。父親のゴールドシュタインはよく考えたすえ、率直に言った。
「うちのモーリッツはなまいきなやつです。ずうずうしいかもわかりません。でも、嘘をつくような子ではありません。自分が書いたんじゃないと言ったら、たしかに書いたはずはないんです」
 しばらくしてから彼は、なだめるように付け加えた。
「でも先生、もし万一あいつが書いたんでしたら、どうか許してやってください。なんと言っても、子どものことなんで」(P48)

「わが闘争」

 一人の婦人が本屋に行って、小説『のらくら者の日記から』を欲しいと言った。
 本屋のおやじは求めに応じて、彼女にヒトラーの『わが闘争』を渡した。(P49)

逃げたライオン

 バルヌム・サーカスの開演中、一頭のライオンが逃げ出して観客席に飛び込んだ。お客はいっせいに逃げようとした。そのとき。突然一人の若い男が飛んで行って椅子をつかむなり、ライオンの頭を一撃して打ち倒した。
 観客はその英雄を賞め称え、新聞記者が質問した。
「お名前は?」
「モーゼス・レヴィです」
 次の日、「突撃者」の第一面にでかでかと次の見出しが躍った。
「鉄面皮なユダヤの豚が。高貴なけものを打ち殺した」(P104)

(注)名前からユダヤ人だとわかったとたん、英雄が…

シラー

 俗に「きんきらきん」とあだ名されるナチの高官が、フランスの占領地区を旅行していた。一等の車室にはいって行くと、一人だけ客がいたので、あいさつした。
「ハイル・ヒトラー!」
 相手は答えた。
「ボンジュール!」
 腰をおろしたナチ党員は、相手がフリードリヒ・シラー著のドイツ語の本を読んでいるのを見た。
「『ハイル・ヒトラー』というドイツ式のあいさつにあなたは知らん顔をしたが、偉大なドイツの国民詩人の本をお読みなんですな?」
 そのフランス人は微笑しながら答えた。
「私は、シラーは国民的ではなくて国際的な詩人だと考えています」
「どうしてです?」とナチ党員は尋ねた。
「なに、簡単なことですよ。あなたが彼の作品をご存じだったら、シラーが国際的だということを認めないわけにはいかないでしょう。彼はすべての国民のために作品を書いているのですよ。イギリス人のためには『メリー・スチュアート』、オランダ人のためには『オランダ独立史』、スペイン人のためには『ドン・カルロス』、イタリア人のためには『メッシナの花嫁』、スイス人のためには『ヴィルヘルム・テル』、そしてわれわれフランス人のためには――『オルレアンの処女』です」
 ナチ党員は怒って叫んだ。
「ドイツ人のためには何も書かなかったとでも言いたいのですか?」
「いや、そんなことはありません」と、フランス人は言った。「ドイツ人のためには『盗賊』を書いたではありませんか」(P139)

(注)『盗賊』は日本では『群盗』と訳されている作品のこと。

書籍市場からの新刊案内

 
 アードルフ・ヒトラー著『わが電撃戦の最初の三年間』。以下続刊。先発書店、ベルリン―ミュンヘン。
 ヘルマン・ゲーリング著『馬子にも衣装』――征服と勲章に関する論文。著者による自画像多数所載。「優雅な世界」社。
 アルフレート・ローゼンベルク著『切れ長の目をした北方人種』。なぜわれわれは日本軍の勝利を喜ぶのか? 万人のための便覧。ナチ党出版局、ベルリン。
 ベニト・ムッソリーニ著『わが生涯の事業』第一巻。いかにしてローマ帝国を分捕るか? 枢軸書店、ローマ―ベルリン。
『わが生涯の事業』第二巻。いかにしてローマ帝国を失いしや? 近刊。
 グスタフ・フレーリヒ著『女と愛と平手打ち――映画界の舞台裏から』。大臣ゲッペルス博士の序文。ウーファ書店、ベルリン。
 (「エーリカ」第六一号、一九四二年四月)(P182)

(注)「エーリカ」は地下運動の雑誌だそうだ。
 ヘルマン・ゲーリングは国家元帥でナチスのナンバー2だった。どうも勲章をいっぱいつけてで着飾るのが好きだったらしい。
 アルフレート・ローゼンベルクはナチスの幹部で、民族論に関する著書がある。ユダヤ民族以外には寛容であったらしい。
 ムッソリーニは、戦争になるとからきしだめだったとジョークのネタになっている。当時のイタリア軍は相当弱かったらしい。
 グスタフ・フレーリヒは俳優・映画監督。SFの古典映画「メトロポリス」1927に主演している。妻はリダ・ヴァアロヴァという女優で、ナチスの宣伝相ゲッペルスとのスキャンダルがあった。このためフレーリヒがゲッペルスを殴ったという噂が当時あったらしい。実際に平手打ちをくわせたのは妻のリダに対してだったという。

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