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2013年11月

2013年11月27日 (水)

淋しい狩人

Photo 「古本の出てくる推理小説」について、最後に書いたのはもう四年も前のことになる。.
 その間に、『ビブリア古書堂の事件手帖』という本がけっこう売れてテレビドラマ化された。また、古書店を舞台にした小説『東京バンドワゴン』がテレビドラマ化されて、現在放映中である。こちらはまだ読んでいないし、推理小説ではないらしいけれど、ともかく古本屋が話題になるだけでもよろこばしい。
  9月には、宮部みゆきの『淋しい狩人』もテレビドラマ化され、放映された。途中からだけど見ていたら、あれ、こんな話だったっけ、と腑に落ちなかった。読んだのはずいぶん前だから、細かい筋を覚えていないのはしょうがないとしても、話の全体のトーンが記憶とちがう。
 だいたい宮部みゆきの本は基本的に明るい。殺人事件をあつかった推理小説でも、怪談話でもなんとなくそうなっている。
 ところがこのテレビドラマは重く、暗かった。 

 納得がいかないので、後日、本を読み直してみた。
 原作は、古本屋の店主を主人公にした連作推理短篇集である。アルバイトに店を手伝っている高校生の孫は、宮部作品によく登場する、野球帽をうしろ前にかぶったやたら明るく素直な少年である。そして、この店主のほほえましい家族関係をバックに、いろんな事件が起こる。
 テレビドラマ化されたのは、本の題名にもなった最後の一篇「淋しい狩人」である。

  失踪宣告を受けた耽美・幻想派の推理作家には、未完のまま刊行された最後の作品があった。ある日遺族である妻と娘の元に、ファンだという人物から、その未完の結末を、実際の事件であきらかにするというはがきが届いた。そして小説をなぞった連続殺人事件が起こる、という筋書きである。
 テレビの方も、おおまかにはこのとおりだが、重く、暗く味付けがしてあった。まず、「店主の息子」=「孫の父親」は事故だか自殺だかわからない状況で死んだことになっていて、作家の娘はなぜか盲目という設定になっていた。
 犯罪の方も、刺殺したうえ、原作にはない不可解な数字を刻みつけるというおどろおどろしい話になっていて、犯行の理由にも、原作にはない「傍観者を処罰する」という理屈が付加されていた。
 どうもテレビは、松本清張のような社会派の重厚な話にしたかったようだ。残念ながらわたしには、原作との違和感を差し引いても、あまり納得できるものではなかった。

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 先にも書いたように、宮部の推理小説はどれも生臭くない。殺人事件をあつかっていても、『模倣犯』のような例外もがあるけれど、だいたい事件が解決してほのかに明るい未来が見えたり、人情話がからんでしみじみさせたりして終わる。このあたりはとてもうまい。
 「淋しい狩人」も理不尽な殺人事件をあつかいながら、孫に年上の恋人ができて家族みんなで心配する話もからんで、深刻になりすぎることはない。
 こういう宮部作品を、松本清張風に暗く陰惨に飾りつけようとしたところに、テレビの無理があったのではないか。

 この古本屋は、稀覯本の類いは置いていない、娯楽作品や実用書中心の店である。事件に登場する古本も、架空の本で、しかもそんなに珍しくない本が多い。だから古本マニアが喜ぶような「幻の本」の争奪戦みたいな話は残念ながら出てこない。そのあたりの味付けもちょっと欲しかったような気がする。

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2013年11月20日 (水)

J45 ユダヤ笑話集2

 『ユダヤ笑話集』(三浦靭郎訳編、現代教養文庫、1975)からの本のジョーク、続きです。

きたない紙

 小説家がヘルム※の女を女房にした。
 あるとき、書いた原稿を机の上にだしたまま、会議にでかけた。帰ってくるとすぐに、しまった、と思った。机の上が、いつになくきちんと片付いていたのである。彼は女房に聞いた、
 「ねえ、きみがかまどにくべて焼いてしまった紙は、どんな紙だね。」
 「それ、どういうこと」と、女房は答えた、「あなたは、私がきれいな紙を捨ててしまうほど、馬鹿だと思ってらっしゃるの。私が焼いたのは、書いてしまった紙だけよ。」(P111)

※ヘルム:ポーランドの町、ここに住んでいるユダヤ人は、どこか間が抜けていると、ほかの土地のユダヤ人から馬鹿にされていた。

ゲーテのファウスト

 モーリッツが泣きながら言った。
 「先生がぼくをぶったんだよ。」
 「またおまえ、何かやらかしたんだろう。」
 父親はこわい顔をして、たずねた。
 「なんにも。先生が聞いたんだ、ファウストを書いた人はだれかって。だからぼく、ぼくが書いたんじゃありませんて、答えたんだよ。そしたら、ぼくをぶったんだ。」
 父親はふんぜんとして、先生のところへ駆けつけた。
 先生はまだ腹をたてていた。
 「まあ考えてごらんなさい。私はあなたのお子さんに聞いたんですよ、ゲーテのファウストを書いたのは、だれかって。そしたら、厚かましいじゃありませんか、ぼくが書いたんじゃないって、答えたんですよ。」
 父親は、必死になって言った。
 「先生、うちのモーリッツには、悪いところがたくさんあるかもしれません。でも嘘をつくことは――いいえ、それだけは、けっしてしたことがありません。あの子が、ゲーテのファウストは書かなかった、と言ったのなら、絶対に書かなかったんです。また、たといあの子が書いたとしても、どうか分ってやってください。許してやってください。あれはまだ子どもなんですから。」(P126)

※これはJ43 ヒトラー・ジョークで紹介した「『わが闘争』を書いた人」と同じです。

ヨーゼフ・キス 出版記念

 ハンガリーの貴族だったある詩人が詩集をだした。その出版記念に、友人たちが集まって、彼がかつて暮らしに困っていった先祖の土地を、買いもどしてやった。
 それを聞いたユダヤの詩人ヨーゼフ・キスは、友人たちに言った、
 「きみたちは、ぼくの出版記念のときには、ずっと安くあげられるよ。ぼくが親からもらったのは、ステッキ一本だし、それだってまだ持ってるんだからね。」(P247)

 おまけに『続・ユダヤジョーク集』(ザルチア・ラントマン、実業之日本社、1974)からもひとつ拾っておきます。

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太陽

 アイザックが聞いた。
「物の本には、地球は太陽のまわりをまわっていると書いてあるが、どっちみち太陽が動いていないとすれば、ヨシュア様が太陽をとめたといういいつたえは、うそっぱちですね」
 ラビが答えていった。
「ヨシュア様のころ、太陽は動いていたのだ。おとめになって、そのままにされていたものだから、もう動かないでいるんだ」(『続・ユダヤジョーク集』、p27)

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2013年11月18日 (月)

J44 ユダヤ笑話集1

 ユダヤジョークは前にも紹介しました。(→22 ユダヤのジョーク
 今回は『ユダヤ笑話集』(三浦靭郎訳編、現代教養文庫、1975)から拾いました。

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十万ルーブル

 水汲み人ルーベンは神と話すことを許された。そこで、彼は神にお願いした。
 「お尋ねしたいことが、ひとつございます。お答えいただけますでしょうか。」
 「尋ねよ。」
 「全能なるあなたさまには、十万年も一分にすぎない、と物の本に書いてありますが、そのとおりでございましょうか。」
 「そのとおりである。」
 「では重ねてお尋ねしますが、あなたさまには、十万ルーブルも一コペイカにすぎないのでございましょうか。」
 「そのとおりである。」
 「では、お恵みぶかい方よ、どうかあなたの僕(しもべ)のささやかなお願いをお聞き入れくださって、私めに一コペイカお恵みください。」
 「よろしい、一分待つがよい、ルーベン。」 (P72)

カレンダー

 妻、タルムードばかり勉強している夫に向かって、
 「あんたったら、あたしには全然関心がないのね。あんたが夢中になるのは、本だけ。あたし、本だったらよかったと思うわ。」
 夫、溜息をついて、
 「ぼくもそう思うね。それもカレンダーだね。毎月はがしていって、一年たったら新しいのと取りかえる、あれさ。」  (P47)

眼鏡

 老齢のラビ、イチャクは、タルムードの勉強をしているところを、客に邪魔された。また本の前に戻って、眼鏡をさがしたが、いつものように本の間にはさんでない。そこで、彼は考えた。
 毎日、本を読むときには、眼鏡をかける。やめると、眼鏡を本の間にはさむ。毎日そうするのだから、今日もそうしたにちがいない。そうしたとすれば、眼鏡は本の間になければならない。しかし、眼鏡はそこにはない。眼鏡がそこにないということは、どういうことか。そこにないということは、なくなったということだ。眼鏡がなくなったというのとはどういうことだ。眼鏡がひとりでどこかに行くわけがない。とすれば、誰かが取ったにちがいない。眼鏡を取ったのは誰だろう。眼鏡を必要とするものだ。だが、眼鏡を必要とするものは、自分のをもってるはずだから、私のなぞいらない。眼鏡を必要としないものは、もちろん取るはずがない。とすると――誰も取らなかったということになる。誰も取らなかったとすれば、眼鏡はここになければならない。だが、ここにないということは、ちゃんと見て分っている。見て分っているというのは――どういうことだ。眼鏡をかけなければ、私は何も見えない.だから、眼鏡がないということが見て分っているということは――眼鏡をかけているということでなければならない。
 そこで彼は鼻に手をやった―― (P86)

賢者

 レヴィがヘブル語の本をあけて、考えこんでいる。同じところをもう一度読んでみる。
 「賢者は日に七回罪を犯す。」
 それから、首をかしげてつぶやく、
 「この賢者は、ちとほらが過ぎやしないかな。」 (P57)

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2013年11月13日 (水)

京都3 錦市場

錦市場

 昼食に湯豆腐を食べてそのままホテルに帰り、あとはひたすら休憩。腰が痛い。夕食を食べに近くの錦市場まで行ってみたら、もうほとんどの店はしまっていた。
 だから明くる日ホテルを精算してから、腰の状態は相変わらずよくないけれど、前日見損なった錦市場へ行って見た。
 魚でも野菜でも横浜では見かけないものがあれこれあっておもしろい。しかし、わたしだけでなく、うちの奥さんも不調で、ちょっと歩いたらすぐ、喫茶店でひとやすみということになった。通りが見下ろせる、いい店だったが、今日も意気はあがらない。

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 結局、また今度体調のいいときに来ることにしよう、と今回はこれでもう帰ることにした。みやげに漬け物などをあれこれ買って、市場をずっとの奧まで行くと、錦天満宮があった。「頭の神様」という看板が出ているが、もう歳なので頭の改善は見込めないだろうから、腰の方をなんとか、とお願いした。
 あとはタクシーで京都駅へ行って、まっすぐ帰宅した。

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 帰宅後も腰痛は続き、病院ではぎっくり腰と同じような状態だと言われ、結局痛みがほとんどとれるまでに一か月以上かかった。
 帰ってから調べてみると、京都御所の近くの護王神社は足腰の守護神だという。行ってみればよかったかもしれない。(おわり)

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2013年11月12日 (火)

京都2 南禅寺

南禅寺

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 バス停の南禅寺・永観堂道から南禅寺まではけっこう歩く。ちょっと疲れてきて、いきなり湯豆腐にしようかとも思ったが、やはりここまで来たら、多少腰が痛くても、石川五右衛門の「絶景かな」の三門(さんもん)に登っておかなければいけない。
 
 山門と三門はどうちがうのか。ごっちゃに使われているみたいだが、山門は一般的にお寺の門をさし、三門というのは、涅槃に入るために通らねばならない、空(くう)、無相(むそう)、無作(むさ)の三解脱門(さんげだつもん)を略した呼称であるそうだ。本堂へ入るのを涅槃に入るのに見立て、その前に通る門が三門ということになっているらしい。二階建てになった大きな門が多いみたいだ。
 これがその南禅寺の三門で、大きくて、腰痛の身には上まで登るのがちょっとつらいくらいだった。

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 歌舞伎では「楼門五三桐」と書いて「さんもんごさんのきり」と読んでいる。この芝居を見た話は以前に書いた(→金門五山桐)。舞台の三門はこれより豪華で華麗だった。
 ただ五右衛門が活躍したと想定されている戦国時代には南禅寺は焼けていて、この三門は江戸時代はじめに建立されたものである。
 これが三門からみおろす「絶景かな、絶景かな」の京都の町。デジカメの電池が切れて、携帯でとったせいもあって、あまり映りがよくないが、ずっと西山の方まで見晴らすことができる。

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 三門のすぐ奧が法堂(はっとう)。

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 ここには有名な庭園やいくつもの塔頭寺院があるのだが、今回はここまでで勘弁してもらって、湯豆腐へ向かう。

湯豆腐「奧丹」

182_2 奧丹(おくたん)というこの店が南禅寺の湯豆腐では一番有名らしい。白い土塀が続いている。
177 中に入るとこんな庭があって、いかにも京都の有名店らしい造りである。
 料理は湯豆腐一とおりというお決まりのセットだけらしい。176
 出てくるのにちょっと時間がかかるのも有名店のお約束であろうか。
 湯豆腐にはちょっと暑い日だったが、わたしはもともと豆腐が好きなのでビールが冷えていればかまわない。
 出てきた湯豆腐は大切りが二段重ねでなべにぎっしりで出てきた。スーパーの水ばかりでふにゃふにゃの豆腐とは違って、しっかりしている。固いというより、密度が高く中身が濃い。これに刻みネギと山椒をふりかけ、特製のダシにつけて食べる。うまい。

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 出てきたのは、湯どうふ、胡麻豆腐、とろろ汁、木の芽田楽、精進天ぷら、御飯、香の物。これで税込み3,150円。写真がうまくとれなかったので、もらったパンフレットの写真をのせておく。
 カボチャやしその葉の精進天ぷらは、できれば今話題のバナメイエビにでもしてもらいたいところだが、そうすると値段がぐんとあがることだろう。

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 湯豆腐といえば、久保田万太郎の「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」の句が有名である。この句は下町の居酒屋で一杯やりながらしみじみしている風情で、わたしにはなんとなく慣れ親しんだ雰囲気に感じられる。しかし、ここの湯豆腐はそれとは違って、ちょっといいものを、ゆったりと京都らしい雰囲気で食べたという気になれた。たかが湯豆腐でも、舞台装置でずいぶん変わるものである。

 この湯豆腐が遅い昼食だったから、時間はたっぷりあったのだが、外へ出ると秋の真夏日で暑いし、腰は悪化しつつあるようだ。あきらめて今日はもう、タクシーでホテルへ帰ることにした。

 

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2013年11月 9日 (土)

京都1 金戒光明寺

 十月のはじめ、転んだり急にひねったりした記憶はないのに腰が痛くなった。その前に二日ばかり、わが家の壁紙と床のクッションフロアーの張り替え作業をしたためだと思われる。それほど過激に働いたつもりはなかったが、これも歳のせいだろう。
 十月六日の愛知県での亡兄の三回忌にあわせて、その後京都へ行く予定を組んでいた。法事の間ずっと座っているとやはり腰に効いてきた。しかしこれくらいならなんとかなるだろうと、終わってからそのまま京都へ行ったが、歩き回るのが腰にいいわけはない。二泊したものの、思っていた半分も見られないまま帰ることになってしまった。一緒に行ったうちの奥さんも、もともと腰痛持ちのうえ足痛やら何やらが出て元気は出ず、「秋の京都」のつもりが、「腰痛の京都」になってしまった。

 Photo_4 七日にまずバスで、うちの奥さんの学生時代の友人の自宅兼工房を訪問した。染色の仕事をされている。突然だったが、幸い在宅中で、おいしいコーヒーをご馳走になった。いろいろおもしろそうな話があったが、七月に大きな怪我をされて、まだリハビリ中ということで、長い時間はお邪魔しなかった。

 市バスのこんな一日乗車券があって、これはとても便利だった。500円で町の中心部は乗り放題なので、路線がよくわからないまま、やってきたバスにとりあえず乗ってしまっても、間違っていたら乗り換えればいい。まして今回は腰痛の身である。たとえ一区間でも、ためらわずに乗れるのはありがたかった。

黒谷金戒光明寺

 その工房は東岡崎にあって、すぐ近くが金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)、浄土宗の大本山の一つである。

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 法然上人が、修行していた比叡山黒谷をおりて、この地に庵を結んだのが浄土宗の寺院の始まりだそうだ。そこからこの地は新黒谷と呼ばれるようになり、やがて「新」がとれて、ここも「黒谷」になったものらしい。そういう由来を知らないから最初、黒谷をおりて黒谷へ来たのか、あるいはこの谷は比叡山までつながっているのかと思ってしまった。
 これが山門で、この額が気になった。
 

Photo_2 Photo_3

 なんだか「浄土真宗なんとか門」と書いてあるような気がする。ここは浄土宗のお寺のはずだが?
 下の看板を見ると、こう書いてあった。

山門楼上の勅額「浄土真宗最初門」は、後小松天皇(在位一三八二~一四一二)のご宸翰(しんかん)で元祖法然上人が最初に浄土の教えの真実義を弘められた念仏発祥の地との意を賜ったものである。尚、東西本願寺・仏光寺などの宗派名を表わすものではありません。

 「浄土真宗」と書いてあるが、宗派のことではなく、「浄土の真を弘める宗」ということらしい。
 帰ってから調べてみると、江戸時代にこの「浄土真宗」という名を巡って宗名論争があったのだという。浄土真宗は、幕府から公式には「一向宗」と呼ばれていたが、これを「浄土真宗」に改めてほしいと願い出た。しかし浄土宗(主に増上寺)の強力な反対にあって、明治になるまで認められなかったそうだ。わが家の宗旨は浄土真宗なのに、これは知らなかった。

 これは山門の奥にある御影堂

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 浄土宗徳川家の宗旨で、幕府は京都に知恩院とこの金戒光明寺の二つの大きな寺院を建てた。どちらも、京都に騒乱が生じたときには城郭として使用できるようにつくられたという。実際に、幕末の争乱に際しては、京都守護職に任ぜられた会津藩はここに本陣を置いて駐屯した。(わたしは見ていないけれど、今年のNHKの大河ドラマ「八重の桜」にもきっと出てきたことだろう。)
 だから敷地も広く、京都の町を見下ろせる。下の写真は御影堂の前から撮ったもの。ちょっと建物がじゃましているが、小高いところにあることはわかる。

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 さらにここには「會津藩殉難者墓地」があって、禁門の変の戦死者を含め、当時の会津藩関係者が葬られている。本来ならひととおり見ていくところだが、今回は腰が痛い。墓は見ないで、隣の真如堂(しんにょどう)へ行った。

真如堂

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 ここは正式には真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)という天台宗のお寺である。本堂を真如堂といい、それがお寺そのものの通称になっているらしい。
 
 ここで突然思い出したのは、高校時代の友人が学生時代に下宿していたところが、たしか「浄土寺真如町」という地名だったこと。地図を見ると今でもこの地名はあるからおそらく間違いないだろう。このすぐ近くである。泊めてもらって哲学の道などを案内してもらった記憶がおぼろにあるから、ここへも来ているかもしれないが、覚えていない。
 左が真如堂で、右は三重塔
 金戒光明寺も真如堂も紅葉の名所だというから、十一月の終わりの頃にでもまた来られたらいいのだが、その頃はどちらもこんなにひっそりとはしていないだろう。

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 十月だというのに、この日の最高気温は二十九度とほとんど真夏日で、歩いているだけで汗が出る。腰はやっぱり痛いし、同行のうちの奥さんも足が痛いやらなにやらは相変わらずで意気が上がらない。
 ともかくここまで来たんだから、南禅寺までは行こうと、またバスに乗った。

 

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