« 2013年11月 | トップページ | 2014年1月 »

2013年12月

2013年12月29日 (日)

J48 ドイツのジョーク2

 次は『ドイツ人のバカ笑い』(D・トーマ、M・レンツ、C・ハウランド編、西川賢一 訳/集英社新書、2004)から。

Photo

 

世界一うすっぺらな本

「世界一うすっぺらな本はどれですか」
「『ドイツユーモアの二千年』です。」
(P6)

それは何者?(仮題)

 成人学校が教養講座を開いた。聴講してトクしたと思った男が、職場で同僚に問いかけた。
「おい知ってるか。シラーって何者だか」
「いいや」
「ドイツ最大の作家の一人さ! そいじゃ、シュトルムって人は?」
「知らないね」
 ここで同僚が問いかえした。「なら知ってるか、アルヴァーリって何者だか」
「いや知らない。でも成人学校の行ってれば、きっとわかるさ!」
「そうは思えんがね。だってそいつはイタリア人の出かせぎ労働者で、きみが成人学校へ出かけるたんびに、いそいそ奥さんを訪ねてくるやつなんだぜ」
(P36)

日本人てやつは…(仮題)

 デュッセルドルフの小学校で先生が告げた。「みんな、きょうはドイツ詩の勉強をしよう。いちどは国語の根っこに触れておかなくちゃいけないからね。なあに、むつかしくなんかないさ、先生が二、三行くちずさむから、きみたちは言い当てればいいんだ、作品名と作者名を。ごくやさしい問題から行くよ。『地中にしっかと牆壁(しょうへき)をめぐらし、形体(フォルム)は立つ、粘土から焼成されて……』」
 生徒たちはシュンとうなだれてしまったが、ただ一人、橋本という名の小柄な日本人少年が手をあげた。「フリードリヒ・シラーの『鐘の歌』です」
「よろしい」と先生はほめた。「では第二問。『月が昇った。こがね色の星が空いちめん、明るく冴えざえ輝いている……』」
 こんども手をあげたのは橋本君だけだった。「マティーアス・クラウディウスの『夕べの歌』です!」
 「すばらしい」と先生が言った。「次はほかのみんなもがんばれよ、『氷から解き放たれた、大河と数かずの……』」
 もう橋本君が手をあげていた。「ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテの『ファウスト』第一部です!」
「くそ日本野郎!」と毒づく声が最後列にあがった。
「だれだね、いまのは?」先生が怒って問いかけた。
「シュツットガルト=フェルバッハでソニー第一工場がオープンしたときのマックス・グルンディヒ(ライバル電機メーカーの社長)です」と橋本君が答えていた。
(P98)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月27日 (金)

J47 ドイツのジョーク1

 まずは『ドイツ・ジョーク集』(関楠生編実業之日本社、1979)から。

Photo_2

傑作

「きみに貸してやった本、おもしろかったかい?」
「うん。でもしおり代りにはさんであった手紙ほどではなかったよ」
(P52)

回答

 ある婦人雑紙への質問「わたしは何かを考えると、いつも顔が赤くなってしまいます。どうしたらいいでしょう?」
 回答「セクシュアルでないことをお考えになっては?」
(P100)

ゲーテの死

「ぼくはゲーテが死んだ日に生まれたんだ」と、うぬぼれの強いある作家がいった。
 だれかがそれに答えていった。
「どちらの出来事も、ドイツ文学に莫大な損失をもたらしたな」
(P154)

ハムレット

「パパ、ハムレットってだれ?」
「そんなことも知らなくて恥ずかしくないのか?なんのために、六年間学校に通わせたと思うんだ?聖書をもってきなさい。そうしたら、ハムレットがだれだか教えてやる」
(P186)

贈り物

 一九三九年に独ソ不可侵条約が締結されたとき、モロトフ外相へのヒトラーの贈り物は、総統みずからの手で反ソの部分を消した、サイン入りの『わが闘争』の豪華本であった。(P238)

ソーセージ

 学校で、教科書に豚のことが出てきた。先生は一人の生徒に。ソーセージの材料は何かと尋ねた。少年が黙っていると、先生は、きみのお父さんは肉屋なんだから、この質問には答えられるはずだ、といった。すると、少年は泣きそうな声で答えた。
「ぼく、知ってはいるけど、それをいうと、うちでぶんなぐられるんです」
(P102)

 これはつまり、今年日本で騒がれた食品偽装の問題でしょうか。
 本のジョークではありませんが、ちょっと前にやはり日本で問題になった、こんなのもありました。

おじいさんの死

「きみは嘘つきだ」と先生がバルテルをしかった。「きのうおじいさんが死んだっていうから休みをやったのに、今朝見たら、窓ぎわに立っていたぞ」
「本当に死んだんです、先生。でも、あさってが年金をもらう日なんで、もうちょっとのあいだ、窓にもたれかけさせてあるんです」
(P196)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月23日 (月)

第十二番 慈恩寺

 今回の最後は、埼玉県の東の方の岩槻にある第12番華林山慈恩寺(かりんざんじおんじ、慈恩寺観音)です。岩槻市は今ではさいたま市岩槻区になっているんですね。知りませんでした。
 ここは慈覚大師(円仁)の開基だといいます。読んだことはありませんが、円仁には『入唐求法巡礼行記』(にっとうぐほうじゅんれいこうき)という、遣唐使としてへわたったときの記録があります。慈恩寺という名は円仁が学んだ長安大慈恩寺にちなんでつけられたそうです。

Dscf8507_2

Photo_2 ここへ着いたのが午後四時半過ぎで、もう薄暗くなっている本堂でおつとめをしました。
 おつとめというのは、先達さんの唱導のもと、みんなで般若心経などをあげます。バスが動き出してすぐあげ、各寺院であげ、帰りのバスの中でもあげたので、この日は六回あげました。みんなバスツアーの第一回目にもらった文庫判の『板東三十三所勤行次第』を片手に一生懸命です。
 わたしはそのたびに、途中どこで息を継いだらいいのかわからなくなって、息が苦しくなりました。家で練習しないとだめでしょうか。

 おつとめを終えて外へ出ると、もう暗くなっていました。まもなく冬至で、一番日の短い時期です。

Dscf8508_2

Dscf8510 ここには玄奘三蔵霊骨塔があって、遺骨が納められています。疑り深いわたしは、お釈迦様の骨(仏舎利)と同じような話かと思ったのですが、どうもこれはかなりの確度で本当らしい。

 昭和十七年南京占領中の日本軍が土木工事中に石棺を発掘し、専門家が鑑定したところ玄奘三蔵の遺骨であることが確認された。そして南京政府と相談して日本にも分骨してもらい、昭和19年に持ち帰った。ところが東京では空襲がはじまり危ないというので、埼玉のこの慈恩寺に疎開した。慈恩寺が選ばれたのは、玄奘三蔵への帰国後、持ち帰った仏典の翻訳にあたったのが長安大慈恩寺であり、そのゆかりの寺だからという理由。
 戦後、日本仏教連合会が正式にここを奉安の場所と定め、十三重の石塔を建てて、あらためて納骨した。(慈恩寺のHPの「三蔵法師」の頁を参照→http://www.jionji.com/

 というおもしろい話なのですが、残念ながらこの塔は本堂から300メートルくらい離れたところにあり、もう帰る時間になってしまったので、行って見ることはできませんでした。

 ご詠歌は

慈恩寺へ 詣(まい)る我が身も たのもしや

うかぶ夏島(げじま)を 見るにつけても

 この歌の夏島(げじま)というのは、慈覚大師の開基にまつわる伝説のひとつです。
 大師がここに草庵を結んだころ、池の主の大蛇が少女に身を変えてやってきて、一夏(いちげ)の間、回向してくれと頼んだ。そのとおりしてやると大蛇は得脱し、池に七つの島が浮かんできた。これを夏島(げじま)と名付けたというものです。

12

 さてこれで行ったところは十五箇所になりました。あと十八箇所、北関東の群馬、栃木、茨城県で十二箇所と千葉県の六箇所です。バスツアーじゃないと大変なようです。さいわい港南台発のバスツアー、引き続き実施されていくようです。来年なんとか十箇所くらいはまわるようにしたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月22日 (日)

第九番 慈光寺

 Dscf8488昼食後は第九番都幾山慈光寺(ときざんじこうじ)です(比企郡都幾川町)。秩父の山のとりかかりというところで、山の中にあるので、少し山道を登ります。駐車場から十分足らずですが、路線バスで来るとバス停から小一時間かかるうえ、そのバスが一日四本しかないそうです。
 このバスツアーでたまたまわたしの隣になった男性は、これまで主に一人で電車・路線バスを利用して巡礼をしていたそうです。北関東はこういうところが多く一日にいくつもまわれない。バスツアーは本当に楽だと言っていました。このツアーを終えると残り二箇所になるそうです。

Dscf8497 Dscf8495_2

 こんな見晴らしもあります。遠くに高層ビルが見えるのはさいたまの新都心でしょうか。

Dscf8496_2
 これが観音堂。

Dscf8494
 右は左甚五郎作と伝えられる「夜荒らしの名馬」です。夜な夜な動きまわって畑を荒らすので、ここに吊されたそうです。
 そういえば、この前の安楽寺には、写真を撮らなかったので紹介しませんでしたが、同じ左甚五郎作の「野荒らしの虎」がありました。左甚五郎も村を荒らすようなものばかりつくっていてはだめじゃないか。なんだか寺どうし張りあっているような気もします。

Dscf8491 Dscf8489

 ここが本堂の阿弥陀堂。いかにも山の中の寺といった感じですが、天台別院の古刹として大きなお寺だったようです。厳島の平家納経のような装飾法華経があって国宝になっています。ただこれは宝物殿に入っていてコピーが展示してありました。

Dscf8500

 ここで驚いたのは、同行者の一人がお参りの前に仏前の鉦を鳴らしたら、
「誰だ、今叩いたのは!」
と住職が大声で怒鳴ったこと。
 馨子(けいす)という、お鉢のような大きな鉦ですが、この叩き方が気に入らなかったらしい。「こっちに顔を見せろ!」と九十歳をこえる高齢の住職はさらに息巻いていましたが、先達さんが間に入って、これは上から叩きつけないで、下から擦りあげるように叩くんです。ほら音が違うでしょう、とやってみせ、事なきを得ました。
 住職は、われわれが到着したときにも、納経帳の書き方について添乗員さんを大きな声で叱りつけていました。どうも参拝客を叱りつけるのはよくあることのようです。
 今どきの言葉で言えば、そういう「キャラがたっている」ということで、先達さんは一種の名物僧のように話していましたが、せっかく参拝に来た善男善女をいきなり怒鳴りつけるのは感心できませんでした。

 本堂前の庭にある多羅葉(たらよう)樹慈覚大師(円仁、794~864)が植えたというから、樹齢千百年あまりということになります。
 右は古い急な階段で、崩れそうになっていて今は使われていないようでした。

Dscf8501 Dscf8498

 ご詠歌は

聞くからに 大慈大悲の 慈光寺(じこうでら)

誓いも共に 深きいわどの

09

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月21日 (土)

忠七めし

 昼食は、前回弁当だったので、今回もそうだろうと思っていたら、埼玉県小川町(おがわまち)の二葉という割烹旅館で、「忠七(ちゅうしち)めし」というものが用意されていました。
 左が昔からの建物で、実際に食べたのは右側の新館の三階です。ちょうど結婚披露宴があって、庭は見られませんでした。

Dscf8483 Dscf8481

 はじめて聞きましたが、忠七めし日本五大名飯(ごだいめいはん)(あるいは「五大めし」)のひとつだそうです。
 だいたい五大名飯とはいったいなんだ、誰がそんなもの決めた、とネットで見てみると、この五つだそうです。

深川めし(東京・深川)
忠七めし(埼玉・小川町)
さよりめし(岐阜・山岳地方)
かやくめし(大阪・難波)
うずめめし(島根・津和野)

 深川めし、かやくめしのほかは知りません。昭和14年、宮内省の全国郷土料理調査において日本の代表的 な郷土料理として選ばれたもの、ということになっています。
 しかしこの調査がどんなものだったのかはまるでわからないので、疑り深いわたしは、ちょっとあやしいと思っていますが、とりあえずはいいことにしましょう。

 忠七めしは、幕末・明治に活躍した山岡鉄舟との関わりから生まれたものだそうです。
 山岡鉄舟は幕臣で、勝海舟西郷隆盛の会談に先立って西郷と交渉し、江戸城の無血開城を成功させたことで有名です。維新後には明治天皇の侍従もつとめました。
 『日本歴史人名辭典(講談社学術文庫)』には「人となり豪邁沈毅、容貌魁偉にして膂力絶倫」と書いてあって、いかにも強そうです。
 剣・禅・書の三道の達人としても知られ、書は、頼まれれば断らず書いたのでたくさん残っているそうです。そういえば、最近テレビの「開運!なんでも鑑定団」に出ていました。
 

 もらったパンフによれば、鉄舟は、父の知行地が小川町にあったので、この料理旅館をよく訪れた。そして館主忠七に「料理に禅味を盛れ」と示唆したのに応えて忠七が苦心を重ね、「剣・禅・書」三道の意を取りいれて創始したのが「忠七めし」で、鉄舟が「我が意を得たり」と喜んで、そう名付けたものだそうです。
 なかなか凄そうな料理です。さて出てきたものは、これ。

Dscf8476 Dscf8478

 しかしこれは単なる「おかず」で、忠七めしは次に出てきました。
 海苔をまぶしたご飯に薬味のさらしネギ・わさび・柚子をのせて、土瓶に入っている秘伝のつゆをかけて、さらさらと食べます。

Dscf8479_3

 ううむ。つまり、これはお茶漬けのようなもの、あるいはお茶漬けそのものなのでした。おつゆはカツオだしで、わりとさっぱりしています。

 剣…わさび(ピリリとした刺激の中に剣の鋭さをあらわす)
 禅…海苔(極めて淡い味の中に禅の深さを宿す)
 書…柚子(香り高い中に書の精神を観る)

だそうですが、修行のいたらぬわたしにはそこまで感得できません。禅味はわかりませんでしたが、おかわりは二杯いけました。

剣・禅・書あなたと食べたい海苔茶漬け  窮居堂

 こんなことを書くと鉄舟先生におこられそうですが、趣向は趣向としておいしくいただきました。ごちそうさまでした。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月20日 (金)

第十一番 安楽寺

 次は東松山市の隣の吉見町にある第11番札所岩殿山安楽寺(いわどのさんあんらくじ)(吉見観音)です。

Dscf8469
Dscf8467 Dscf8466

Dscf8452 ここの仁王門の棟は天邪鬼(あまのじゃく)が支えています。緑と赤の二体いました。よく四天王に踏みつけられている小鬼ですが、ここではなにかいたずらでもして御用をおおせつかったのでしょうか。

 露座の大仏(阿弥陀如来)もあります。

Dscf8455

 これが本堂(観音堂)

Dscf8457_2

Dscf8461 この前の正法寺の山号は巌殿山(いわどのさん)で、こちらの山号も岩殿山(いわどのさん)です。こちらももともとは岩窟寺院だったと、先達さんが小さな岩窟を前に説明をしてくれました。
 ここへも坂上田村麻呂は来ているというから、よく似ています。同じ頃に同じように栄えていたということでしょうか。
 また源頼朝の異母弟である源範頼(のりより)が、この寺の稚児僧として幼少時代をすごしたという話もあるそうです。義経範頼より年下で、この三人の兄弟はそれぞれ母が違います。
Dscf8459 範頼遠江国蒲御厨(かばのみくりや、浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれたというのが通説ですが、頼朝の旗揚げに馳せ参じるまでは、どこでどうしていたのかよくわからないようです。
 義経などと一緒に平家と戦って勝利し、この吉見にも領地を与えられ、館があって御所と呼ばれていたということです。ここの現在の地名は比企郡吉見町御所となっています。
 しかし最後は頼朝から謀反の疑いをかけられ殺されています。だから子供のころの記録など残っていないのでしょうか。
 

 三重の塔もあります。落ち着いた雰囲気の塔でした。

Dscf8471_2 門前をちょっと行ったところには「どびんや」という団子屋さんがあって「厄除けだんご」を売っています。昔は何軒かあってちょっとした門前町だったそうですが、今は一件だけ。一本90円、しょうゆだんごを食べました。

 

 ご詠歌は、

吉見よと 天の岩戸を 押し開き

大慈大悲の 誓いたのもし

11

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月19日 (木)

第十番 正法寺

 12月15日(日)、ひさしぶりに板東三十三箇所巡礼に行ってきました。前回と同じ観光会社のバスツアーで、今回は埼玉県の四カ寺をまわります。
 まず最初は、比企丘陵(ひききゅうりょう)と呼ばれるなだらかな丘陵地帯にある第十番札所の巌殿山正法寺(いわどのさんしょうぼうじ)(岩殿観音)です。(埼玉県東松山市)
 比企の地名が示すように、このあたりは鎌倉幕府の有力な御家人だった比企一族の根拠地でした。この寺も、比企能員(ひきよしかず)が復興したものだそうです。比企能員は、二代将軍源頼家の外戚として勢威をふるいましたが、後に北条時政に謀殺され、一族は滅びました。

 これが観音堂。もともとは山の岩窟に観音像を納めたのがはじまりだそうです。

Dscf8427

 観音堂の後ろの山の崖には石仏がたくさん並んでいます。

Dscf8434 Dscf8433Dscf8431_3

 推定樹齢700年程という大銀杏もあります。
 その昔には、奥州に向かう坂上田村麻呂の軍が立ち寄り、観音様の加護を得て悪竜を退治したという伝説もあるそうです。

 また茅葺きのなかなか趣のある鐘楼には、キズがついている釣鐘がぶらさがっています。
 これは豊臣秀吉の関東征伐のときの松山合戦と呼ばれDscf8439る戦いで、武将が軍勢を鼓舞するためこの鐘を引きずりまわして打ち鳴らしたためだといわれているそうです。鐘を見ても、いまいちよくわかりませんでしたが。
 いろいろな歴史があり、この寺にもいろいろ盛衰があったようです。

 これは仁王門です。本来はこちらから入るのでしょうが、横から入って観音堂へ行ったため後になりました。ごらんのとおり、ガラスがはめ込まれ、光が反射して中が見えません。

Dscf8442_2

 横からはこのとおり、仁王さまが見えます。

Dscf8443 Dscf8444

 はめこまれているのは、漆塗りを紫外線から守るためのUVカットガラスだそうです。
 仁王さまも、アンチエイジングのため、紫外線をお避けになる時代になったのでしょうか。
 仁王門はたいてい南向きなので日が当たるし、屋根があっても雨風にさらされるので、劣化はさけられません。最近、キャロライン・ケネディ駐日大使の顔の立派なシワが話題になっています。ああいう感じで風雪が刻まれていきながら、しかも長持ちする素材はないものでしょうか。

 ご詠歌は

後の世の 道を比企見(ひきみ)の観世音 

この世を共に たすけ給へや

10

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月16日 (月)

ビブリア古書堂の事件手帖

  三上延(みかみえん)の『ビブリア古書堂の事件手帖~栞子さんと奇妙な客人たち』(メディアワークス文庫、2011)は、よく売れてテレビドラマにもなった。現在第4巻まで出ていて、もうすぐ第5巻も出るらしい。

Photo

 舞台の「ビブリア古書堂」は北鎌倉の駅のホーム沿いの裏道に、ひっそりと営業している古本屋である。
 若くて美人の古書店主篠川栞子(しのかわしおりこ)は、人見知りで日常的な会話はうまくできないが、いったん本の話になると逆に滔々としゃべりはじめる。そこへ大学を卒業したものの就職先がなく、本を読むと頭が痛くなる無骨な若者がアルバイトに雇われる。そして古書にまつわるいろんな事件に遭遇するなかで、二人は微妙な関係になっていく、という話で、なかなかおもしろく、楽しませてもらった。ひとつひとつの話がつながりながら、全体としてまとまった話になっていくようだ。

 この本は「ライトノベル(通称ラノベ)」というものに分類されているらしい。定義がはっきりしないが、若者向けの軽読み物、といったところだろうか。別に分類にこだわって読むことはない。精細な情景描写とか心理描写はないから、すいすい読めるのはたしかだ。これをすかすかと感じさせずに読ませるのが作者の技倆というものである。
 前回取り上げた宮部みゆきの『淋しい狩人』には、稀覯本の類がでてこなくてちょっと残念だったと書いたけれど(→淋しい狩人)、このシリーズは、太宰治の『晩年』の初版本や司馬遼太郎の幻の処女作など、実在の本をめぐって事件が展開していくので、本好きにとってはまずその点が一番に楽しいところである。

 ところがわたしは、その楽しい古本について、世代間ギャップを感じざるをえなかった。
 一番最初に岩波書店の新書判の漱石全集が出てくるが、これはわたしの若いころ、どこの新刊書店にも古本屋にもあった、ありふれた本だった。今でも古本としてはちっともありがたくない本ではないかと思う。それがちょっといわくありげに出てくる。
 しかもここにはちょっと突っ込みどころがある。副主人公の若者母子が全集の一冊に「夏目漱石」とサインしてあるのを見て、本物だったら凄い、と思う場面があるのだ(P28)。昭和三一年刊の本である。本を読むと頭が痛くなる若者はともかく、母親が本物と思うだろうか。母親はわたしより少し若い世代だろうけれど、普通あの本を見て、漱石が生きている時代の本だと思うわけがない。
 主人公や副主人公が、ちょっと現実にはありえない能力や性格であってもいっこうに差し支えはない。シャーロック・ホームズだってそうだ。しかしそのほかの、事件の渦中にある人びとの行動や状況に、現実にはありえないような設定をしてしまうと推理小説はそこから崩れてしまう。
 ついでにもう一つ言えば、この母親は「もう一回忌もすぎたでしょ。」と遺品の整理をはじめている。「一回忌」はないだろう。これは数え年方式で、葬式が「一回忌」なんだとわたしは理解している。実際に法事をやった人は「一周忌」としか言わないはずだ。

 しかしわたしが言いたかったのは、重箱の隅をつつくようなことではない。こういうところはあっても全体として楽しく読ませてもらった。けれども自分の年齢を痛感せざるをえなかったということである。
 作者は1971年生まれということだからわたしより24歳若い、二回りちがう。
 さらに、この小説の主人公たちは2010年の時点で二十代前半から半ばという設定なので、1980年代の後半の生まれということになる。だから主人公たちの感覚では、1980年といえば三十年も前のこと、生まれる前の、ずっと昔で、その頃の本はとても古い本だという話になる。
 わたしにとっては80年代などついこのあいだのような気がする時代である。その頃の本などちっとも古いと思えない。前掲の昭和31年の漱石全集なら、まあ古いと言ってもいいか、くらいである。
 考えてみれば、わたしが二十代前半だったころ、三十年前の本と言えば戦前・戦中の本である。その頃、わたしもずっと昔の本だと思っていた。古くさい、ほとんど役に立たない本くらいにも思っていた。
 それと同じような感覚で、主人公たちが1980年ころの本を見ているとすれば、話に違和感が生ずるのは当然である。これがつまり歳とともに時代とずれていく、若い者にはついていけないということなのだろうか。

 この本を読んでおもしろがっているのは、かなり年甲斐もないことなのではないか、という気もしてくる。カバーを見ていると、よけいそんな気がする。ラノベというのは、こういう絵がつきもので、「萌え絵」というらしい。この「萌え」という言葉をはじめて聞いたときはなんのことかさっぱりわからなかった。やっぱり歳である。

ビブリア古書堂の事件手帖2 ~栞子さんと謎めく日常』(2011)

Photo_2
ビブリア古書堂の事件手帖3 ~栞子さんと消えない絆』(2012)

Photo_3

 年齢の話は別にして、古本が材料であることの他にわたしがおもしろいと思ったのは、話が北鎌倉、大船を中心に展開されていることだった。わが家からわりと近く、ときどき訪れているので、それなりに土地勘がある。
 実在の書店名などが出てくれば当然わかるし、「大船の駅前のパチンコ屋の二階の喫茶店で」と書いてあると、あそこだな、と思ったりする。本郷台、港南台という地名まで出てきて、ミーハー的にけっこううれしい。
 先日、北鎌倉へ行ったときには、ついでにビブリア古書堂があるとされている駅のホーム沿いの裏道まで見に行ってしまった。
 右は第一巻の扉の絵で、古書堂が書いてあるが、実際には何もない住宅地で、古本屋をやってもまず流行りそうにない場所である。

Dscf8266  Photo_3

 この道をホームの先まで行くと左手がすぐ円覚寺の入口で、こんな紅葉が見られた。

Dscf8253

 おまけに、東慶寺本堂の入口。

Dscf8285

 年齢にはふさわしくなくとも、まだ第3巻までしか読んでないから、もう少し読ませてもらうことにしよう。

(おわり)


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月12日 (木)

J46 対訳アメリカのジョーク

 『対訳アメリカのジョーク』(広永周三郎 訳、太陽出版、1986)から。
 原本は左右対訳になっていますが、上下にしました。

Photo_4

幼児教育

 Mother--"What are you doing,Charlie?"
  Charlie--"It's a book called 'Child Training,' that I borrowed from Mrs. Jones"
  Mother--"Do you find it amusing?"
  Charlie--"I'm not reading it for that. I merely wanted to see if I had been brought up properly."

 母「何読んでるの、チャーリー?」
 チャーリー「ジョーンズ奥さんから借りた『幼児教育』という本です」
 母「面白い?」
 チャーリー「面白いから読んでるのではなく、ぼくがまともに育てられたどうか調べようと思っただけよ」
(P36) 

失楽園

  Professor--"Tell one or two things about John Milton."
  Student--"Well, he got married and he wrote "Paradise Lost." Then his wife died, and he wrote "Paradise Regained."

 教授「ジョン・ミルトンについて知っていることを1つ2ついいなさい」
 学生「結婚して『失楽園』を書きました。妻が亡くなってから『楽園回復』を書きました。(P83)

 ミルトンが『失楽園』と『楽園回復』を書いたのはたしかですが、それが奥さんのせいだったかどうかまでは知りません。

逆襲

Said the bell-hop to a noisy college drinking party in a hotel bedrommo:
"I've been set to ask you to make less niose, gentlemen. The genrlman in the next room says he can't read."
"Tell him," was the reply of one of the collegiates, "that he ought to be ashamed of himself. Why, I could read when I was five years old."

 大学生たちがホテルの部屋を飲んでさわいでいるところへボーイが来ていいました。
「皆さん、もっと静かにしてください。隣の部屋のお客さんが本が読めないといってらっしゃいます。」
「はずかしいと思えとその人にいってやりなさい。 ぼくは5歳の時から本が読めた」とひとりの学生がいいました。
(P86)

実践

Panhandler: "Actually, I'm an author. I once wrote a book entitled 'One Hundred Ways to Earn Money'" 
Businessman:"Then why are you out on the street begging?"
Panhandler: "It's one of the ways."

 こじき「実は私は作家です。『お金をもうける百の方法』という本を書きました。」
 実業家「では、どうして道ばたでこじきをしているんだい」
 こじき「これがその方法のひとつです」
(P158)

  もうひとつ中嶋秀隆、ケン・ジョーカーピガサス101 日英対訳ジョーク集』(碧天社、2005)という本から。

Photo

本屋で

BOOKSTORE

A man goes into a bookstore and asks where the book entitled "Man geverns Woman" is.
The booksellers responds coldly, "You can find fiction on the next shelf."

 男が本屋にやって来て、『男は女の支配者』という本はどこにあるかと尋ねる。すると店員がそっけなく答える。
「空想小説は隣の棚です」
(P76)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月 8日 (日)

11月の南無谷 2

Dscf8359 富有柿は残念ながらきれいに全部落ちていました。
 赤い柿の実は門の外からもよく見えるので、来てくれた大工さんが、あの柿はちゃんと取ったか、と心配していました。

 柑橘類はみんながんばっています。
 この早生ミカンは今回収穫しました。甘さはいまいちでしたが、なんとか食べられます。

Dscf8301
 温州ミカンは木が大きくなって、それなりの数の実をつけるようになってきました。収穫にはまだ早いけれど。

Dscf8329_3

 夏ミカンは、また勢いを盛り返してきました。

Dscf8322
 ユズは、こんなにいらないのに、たくさん実っています。

Dscf8330_2

 レモンも元気で、またいっぱい実をつけてくれました。ちょっと青い。

Dscf8328
 元気と言えば、こいつが今一番元気のようです。黄色い雑草が一面に広がっている。コセンダングサ(小栴檀草)と言うらしい。花のあと、種のように見えるトゲトゲの実をつけて、これがやたら衣服にくっついてしまいます。

Dscf8353_3
 これがそのひっつき虫のトゲトゲ。こいうのを痩花(そうか)というそうです。かきわけて歩くと、細かいトゲが着ているもののどこにでもくっついて、なかなかとれません。先が曲がっていて、ひっかかるようになっているようです。
 来るたびに一生懸命根こそぎ引っこ抜いているのですが、とても勝てません。
Dscf8354_2

 あとは、もうたいした花は咲いていません。ツワブキと、右は雑草の野菊でしょう、と書いたら、これは一本だけ狂い咲きしたシャスターデイジーだと、うちの奥さんから注意されました。

Dscf8345 Dscf8346

 水仙はこれからです。今年もこんなになってきました。

Dscf8358

 今回やってきたのはビワの花もぎ(摘花)のためでした。多少腰が痛くても、時期にはきちんとやっておかねばなりません。毎年同じような写真ですが、花もぎ前、花もぎ後です。(注:同じ花芽ではありません)

 Dscf8333  Dscf8334

 庭を全部かたづけるところまではいきませんでしたが、なんとかビワの花もぎは終わらせることができました。
 27日、庭にいたところ、うちの奥さんから二階のベランダにすぐ来いと声がかかり、行ったらこんな夕焼けの富士が見えました。わたしが着く前は青い色がまじって、もっときれいだったそうです。

Dscf8317_3

 帰りの日(29日)、久里浜へのフェリーに乗った金谷港からも、こんな富士が見えました。ごらんのとおり波が高く、久しぶりに揺れるフェリーに乗って帰りりました。

Dscf8374(おわり)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月 7日 (土)

11月の南無谷 1

 9月はまだ暑かったので、涼しくなったら南無谷へ来ようと思っていました。そうしたら10月中はずっと腰が痛くて、とても来る気にはなれませんでした。11月も終わりになって、涼しいのを通り越して寒くなりはじめた27日にようやく来ることができました。
 三か月以上もほったらかしてあったので庭は荒れ放題、それに加えて今年は伊豆大島に豪雨をもたらした台風26号やらなにやら強風が猛威をふるったので、あちこちで木の枝が折れていました。
 大事なビワの木も、けっこう大きな枝が折れています。

Dscf8294_2

 下左はその折れ口。右は、小さいビワの木ですが、中心が折れてしまいました。

Dscf8295 Dscf8304

 ミズキの枝もこのとおり。このミズキは、夏には葉がいっぱい繁るので、この下を木陰の休憩所にしていたのですが、これでは来年、日陰がちゃんとできるかどうか心配になります。下右は、今年6月のミズキの写真です。この右半分の枝がなくなってしまいました。
 

Dscf8290_2 Dscf7655

 そして庭中に散らばっている枝や落ち葉の中に、なんとトタン板が二枚がありました。40センチ×100センチくらいの小さな板ですが、どうもわが家の屋根のトタンと同じような色をしている。心配になって、一階の屋根からハシゴをかけて二階の屋根をのぞいて見ると、てっぺんの尖ったところに貼ってあるトタンがまくれあがっているのが見え、その向こうに剥がれているところも見えました。この日も風が強く、ハシゴからのぞいているだけでもけっこうこわい。

Dscf8307_2

 幸い二階に雨漏りはしていませんでしたが、このままほっておいたら時間の問題です。近所の大工さんにお願いしたら、翌日(28日)の昼休み中に来てもらえました。落ちていたトタンを打ち直し、剥がれかかっていたところや危なそうなところを打ち直して、また何かあったら言ってきなさい、ということですみました。どうやらたいしたことはなかったようです。。
 ハシゴからですが、はじめて屋根の上からの景色を見たうちの奥さんは、「わあ海が見える」と感動していましたが、わたしは、最悪の場合自分で登って、ビニールシートでも貼り付けないといけないかと心配していたので、ほっとしました。

Dscf8315_2
 もう一つのちょっとした異変はこれ、またハチの巣のようです。書庫にしている部屋の雨戸の裏にできていました。ジバチでしょうか、よくわかりません。
 こそげ落として壊したら中に三匹くらい幼虫が入っていました。かわいそうでもいつもいつも「蜘蛛の糸」のカンダタをやっているわけにもいきません。

ハチの巣をつぶせば切れる蜘蛛の糸   窮居堂

Dscf8311

 今年こそと期待していたキウイは、葉があらかた落ちていましたが、なんとかこれだけ残っていました。もっと大きいのがあったはずだけれど、落ちてしまったらしい。それでもはじめて収穫です。三つだけでもちょっとうれしい。
 キウイはリンゴと一緒にビニール袋に入れて保存しておくと甘くなるという。リンゴの発するエチレンガスにより追熟するからだそうです。ためしてみよう。

Dscf8363(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月 6日 (金)

忘年会は笹乃雪 3

Dscf8396谷中墓地

 谷中墓地は、都立谷中霊園寛永寺天王寺の墓地が一体となった広い墓地だった。もっと鬱蒼とした、昼なお暗いところかと思っていたが、明るく開けたところだった。
 どこにどんな墓があるか、ちゃんと下調べをしておらず、宴会の後でそんなことはどうでもよくなってもいたので、ざっと見ただけで通り抜けてしまった。幸田露伴の小説の五重塔の跡地を見たいと思っていたのに、それもすっかり忘れていた。

 通り抜けるだけでも、聞いたことのある名前はあちこちで見つかる。下左は明治の法学者津田真道、右は民権思想家の馬場辰猪と英文学者の馬場弧蝶兄弟の墓。

Dscf8403 Dscf8402

 中によくわからないのがあった。墓の下の壇になんと相合い傘が刻んである。落書きではなく、本人がそのようにつくったものらしい。よく読めないが雪庵居士とナントカ大姉が相合い傘に入っていて、脇に「相合傘イエス○釈迦○笑○○」とか彫ってある。

Dscf8398 Dscf8397 

 帰ってからネットで調べてみると、尾竹越堂(おだけえつどう)という日本画家の墓らしい。「谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー」というホームページ」の谷中墓地の有名人一覧の尾竹越堂のところに、「墓石裏に越堂雪庵居士と竹窓妙庵大姉が相相傘の中に入る図を描き、「相々傘イエスも釈迦も笑わせる」といういたずら書きのような句がある。」と書いてあった。
http://www17.ocn.ne.jp/~ya-na-ka/odakeEtsudo.htm
 洒落でやったのだろうか、よくわからない。
 

 これは最後の将軍徳川慶喜の墓。

Dscf8405
谷中なる慶喜の廟に年惜しむ   俳爺

 これは寛永寺根本中堂

Dscf8406

Dscf8408ターナー展

 墓地から秋色の上野公園へ向かい、ターナー展の開かれている東京都美術館へ。今回の忘年会は、まずこれを見たいと俳人T局長から希望があったので、上野界隈で開催となったものだった。
 みんな林家三平は見ないくせにターナーは見ようというのである。スノッブである。
Dscf8410 全員が65歳以上なので、当日券1,600円のところ、割引の1,000円で入館できた。はじめて65歳以上の割引をつかって、しみじみ年齢を実感した者もいた。

 ターナーがイギリスの風景画家であることは知っていたが、絵を見るのははじめてだ。無論、名前だけ知っていたのは、漱石の『坊ちゃん』に出てくるからである。
 会場には、主催者のひとつ朝日新聞のこんなPR用の別刷り版が置いてあった。わたしのような、漱石で名前だけは知っている客を呼び込もうというわけである。
 

Photo_2
 この新聞に載っているのは、西洋かぶれの赤シャツと野だいこのセリフで、坊ちゃんは「ターナーとは何のことだか知らないが、聞かないでも困らないことだから黙っていた」のだが、誰もそんなことは気にしていないらしい。
 

 見てきたターナーの絵は、古典的な隅々まできっちり写実的に描かれた絵から、次第に、中心部以外はぼやけさせて描くようになり、晩年には全体がぼやけたような絵になっていったようだ。その晩年の絵を「光と大気を描いた」というらしい。
 わたしの趣味としては、何が書いてあるのかよくわかる絵が好きだが、これが印象派につながる絵であるというのは十分納得できる。

 それなりに混んでいて、ちょっと疲れた。美術展は疲れる。

冬館ターナー展の人いきれ    俳爺

Photo_3
     

 いつもなら、このあと駅の近くで軽く二次会をやっておひらきとなるところ、今回は特別に横浜のK機長宅で「民宿K」を営業してもらうことになり、みんなでさらに横浜へ向かった。
 そこでの話は次の句から想像してもらうことにして、これで「忘年会は笹乃雪」は終わりとします。

満面の笑みでおでんの湯気囲む  俳爺

酔うて臥す夢路豊かな冬の宿   俳爺

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月 5日 (木)

忘年会は笹乃雪 2

Photo_4ねぎし三平堂

 子規庵のすぐ近くに「ねぎし三平堂」があった。落語家林家三平の記念館である。なぜかわたし以外の面々は興味なく、入ろうとしなかったので、一人だけで見てきた。
 三平の遺品、寄席関係の品物、テレビの台本などが展示してあり、ビデオで三平の落語が上映されていて、ちょうど「源平盛衰記」をやっていた。
 前に「28 ちょっと古いジョーク」で書いたけれど、当時ナマで見た人に言わせると、ネタは馬鹿馬鹿しかったけれど、オーラがあってともかくおもしろかったそうだ。
 ここのパンフレットにも、その馬鹿馬鹿しいネタが書いてあった。

節分
二月三日は節分、豆まきをやりましてね、
「フクはうちー、フクはうちー、フクはうちー、」
「あそこはどうしてフクはうちーしか言わないの?」
「あそこの家は洋服屋だよ」

 この三平堂のあたりは、なんとラブホテル街で、ちょっとした壮観だったが、界隈の写真は撮らなかった。出入りする人たちを撮ってしまって、あとで事件に巻きこまれたりしてはいけない。

羽二重団子

 三平堂から日暮里駅の方へ行くと羽二重団子の店がある。ここも老舗で、文政二年(1819)というから二百年近く前の創業である。ホームページがある。→http://www.habutae.jp/

Dscf8392_2

Dscf8390t きめ細かく羽二重のようだから、そう呼ばれるようになったという。けっこう大きめのこしあんの団子と生醤油の焼き団子がセットで税込み525円。
 焼団子が気に入った。わたしはタレをどっぷりつけたみたらし団子が好きなのだが、これは何度かつけ焼しているのか、醤油の色は薄いが味はしっかりしていてうまい。
 日持ちしないというので、持ち帰りはしなかったが、多少固くなってもやはり土産に持って帰ればよかった。

 ホームページに紹介されているように、この団子のことは多くの文人によって書かれている。http://www.habutae.jp/history/literature/

 前述の正岡子規の『仰臥慢録』の明治34年9月4日の記事にはこうある。

間食:
芋坂団子(いもさかだんご)を買来(かいきた)らしむ(これに付悶着(もんちゃく)あり)
あん付三本焼一本を食ふ 麦湯(むぎゆ)一杯
塩煎餅三枚 茶一椀
(岩波文庫、P14)

 団子を買ってこさせるのに一悶着あったというのは、また妹のを叱りつけたのではないか。病人で他に楽しみがなかったせいか、ともかくよく食べている。
 芋坂というのは根岸から谷中へ向かう坂で、昔はこのあたりで自然薯をつくっていたので、そう呼ばれるようになった。芋坂の団子屋として江戸時代から有名だったらしい。
 これもホームページに書いてあるが、夏目漱石の『吾輩は猫である』の第五章にも出てくる。
 猫の飼い主苦沙弥先生の元書生で、法科大学を出て今は六つ井物産の取締役として実業界で活躍している多々良三平君が、泥棒に入られて意気のあがらない先生と上野に散歩にでかけるところである。

「行きましょう。上野にしますか。芋坂(いもざか)へ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食ったことがありますか。奥さん一返行って食ってごらん。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」と例によって秩序のない駄弁(だべん)をふるってるうちに主人はもう帽子をかぶって沓脱(くつぬぎ)へおりる。(角川文庫改版74版、P201)

Photo_5

Dscf8393 その芋坂は今は鉄道が通って分断され、跨線橋で谷中へ行く。スカイツリーがよく見える。跨線橋のところの道標に、

 芋坂も団子も月のゆかりかな     子規

と書かれてあったような気がするが、ほろ酔い機嫌で通り過ぎたので確信はない。
 子規は「道灌山」という紀行文に「戯れに俚歌を作る」として

   根岸名物芋坂團子賣りきれ申候の笹の雪

と書いているそうだ。根岸名物は二つともこなしたぞ。
(もう少しだけつづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月 4日 (水)

忘年会は笹乃雪 1

  11月30日に学生時代の仲間と忘年会をやった。三年前までは、毎年銀座でやっていた。そのころ万年幹事だったK君がそう決めていた。K君の最初の勤務地だったことから、定時・定点観測のためにそうしていたのではないかと思っている。
 そのK君が亡くなってからもう三年近い。この仲間での忘年会というと、どうしても彼のことを思い出してしまう。逝くのが早すぎた。

P1010068_2笹乃雪

 幹事が変わってから、忘年会に東京名所見物を付加するようになり、浅草東京タワーへ行った。
 今回は上野近辺で、宴会はJR山手線鴬谷駅から徒歩3分の笹乃雪、豆腐料理の老舗である。
 なにしろ元禄四年(1691)に京都から移って、江戸で初めて絹ごし豆腐を作った、赤穂浪士とも因縁がある、というから、創業百年ぐらいではとてもかなわない。くわしい話は店のホームページでどうぞ。→http://www.sasanoyuki.com/index.html

Dscf8377 Dscf8378

Dscf8379 料理はともかく豆腐づくしである。うちの奥さんの実家の菩提寺が南千住にあるので、義母の法事後の会食で来たことがある。そのときは、豆腐好きのわたしがいいかげんあきるくらい豆腐がでてきた記憶があるが、今回は、それぞれに工夫された豆腐料理を、最後まであきることなくおいしく食べられた。料理のコースが違ったのか、それとも歳とともにわたしの味覚が枯れてきたせいだろうか。
 先日食べた南禅寺の豆腐とはまたひと味違っている。
 料理の写真は、酒を飲みながら、みんなで騒ぎながらだったので、最後まできちんと撮ることはできなかった。いただいた献立を載せておこう。

Photo

B_3

湯豆腐に憩う根岸の五老人    俳爺

 俳人T局長の当日吟である。このあたりの町名が「根岸」。献立に湯豆腐はなかったが、芸術だからいいのである。
 わたしは「冷や奴根岸の里のわびずまい」くらいしか出てこない。
 

T_2子規庵

 俳人が出てきたところで、宴会のあとの名所見物は、正岡子規の終の棲家となった子規庵である。空襲で焼けたものを、戦後再建したという。
 見たところ、そういう由緒ありげな家ではない。わたしたちの子どものころまでは、どこにでもあった普通の家である。同行のI長老は、昔住んでいた、国鉄の官舎を思い出したと言っていた。

      Dscf8388_3

 八畳六畳の二間を中心に、ちょっとした次の間・台所、縁側がついていて、小さな庭がある。庭には糸瓜(へちま)棚がある。
 絶筆三句
  糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
  痰一斗糸瓜の水も間に合わず
  をととひのへちまの水もとらざりき

の糸瓜である。

Dscf8387_2

 子規は出戻りの妹の(りつ)に献身的に看護されながら、痛みや苦しみから癇癪を起こして当たり散らしていたらしい。『仰臥漫録』にはずいぶんひどいことが書いてある。

 律(りつ)は理屈詰めの女なり 同感同情のなき木石(ぼくせき)の如き女なり 義務的に病人を介抱することはすれども同情的に病人を慰むることなし 病人の命ずることは何にてもすれども婉曲(えんきょく)に諷(ふう)したることなどは少しも分からず (岩波文庫、P60)

 「団子が食いたいな」と言えばすぐ買ってきて食わせるものだ、それを「団子を買ってこい」と言うまで 知らん顔をしているのはけしからんというのである。
 こんなふうだから、また嫁すことがあっても役にはたたないだろうとか、もっとひどいことも書いてある。いくらなんでもかわいそうである。
 このは、NHKテレビの「坂の上の雲」では、菅野美穂がやっていた。これが菅野美穂だと思うとよけいかわいそうな気がしてくる。
 まあ、こんな一節もあるから、子規もわかってはいたのだろうけれど。

 病勢はげしく苦痛つのるに従ひ我(わが)思ふ通りにならぬために絶えず癇癪を起し人を叱(しっ)す 家人恐れて近づかず 一人として看病の真意を解する者なし (P64)

Photo_2

 ここでT局長Photo_3

子規庵の異形の机冬日さす    俳爺

と詠んだ。これは六畳の部屋にあった子規の机のことであろう。病で膝が曲がらなくなったため、立て膝のまま仕えるように切り込みを入れたもので、有名なものらしい。
 しかしわたしはこの机をちゃんと見ていない。実は「室内撮影禁止」に気がつかず、八畳間の写真を撮ったら注意されてしまい、恥ずかしいので早々に庭に出てしまったのだ。
 写真はパンフレットに載っていたもので、ちょっと見にくいが、注意してみると切り込みが見える。

 (このあともう少し下町散歩がつづく。)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2013年11月 | トップページ | 2014年1月 »