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2014年7月12日 (土)

神奈川宿田中家 2/3

 田中家の売りのひとつ「坂本龍馬の妻おりょうが、龍馬の死後仲居として働いていた」ことについて、ちょっと気になっていた。若い頃にはそういう話は聞いたことがなかった。むろん歴史の専門家でもないわたしが知らなくても不思議はないので、疑っているわけではない。しかし、横浜ではよく知られていたけれど、無学なわたしは知らなかったという話でもないような気がする。

 そのあたりは女将の話を聞いてもわからなかったので、お龍の生涯について『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』(鈴木かほる、新人物往来社、2007)という本を読んでみた。著者は横須賀市在住の中世史研究家で、『相模三浦一族とその周辺史』などの著書があるそうだ。

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  「第三章龍馬の死後・その流転生活」の中に「神奈川の料亭」と題した項がある。(P132~136)
 これによれば、お龍が田中家にいたというハッキリした証拠はない。しかし昭和初期の新聞記事や当時の人びとの回顧談には、神奈川の料亭にいたという話があり、田中家の関係者にはお龍がいたという伝聞が残っていたことから、「事実であれば、その神奈川の料亭とは、現在の割烹田中家(横浜市神奈川区台町)であろう。」ということである。
 

 龍馬の死後、お龍は土佐の龍馬の実家へ身を寄せたが、坂本家とうまくいかず離縁となった。その後京都へ戻り、明治6年に東京へ出てきた。
 新聞記事に明治7年に神奈川へ来たとあり、明治8年には横須賀の西村松兵衛方に入籍しているので、神奈川の料亭にいたのはその間の一時期だろうという。
 また明治7年であれば、当時勝海舟が、海軍卿として横須賀との行き来によく神奈川宿に立ち寄っているので、海舟が料亭に世話したのではないか、と著者は想定している。

 西村松兵衛との出会いについて、鈴木漁龍という大道易者の談話記録にはこんなふうに書かれているそうだ。

(回漕業で景気がよかった西村松兵衛は度々神奈川の茶屋に遊びに来た。) その茶屋には、一ときは秀れて美しい女中が居った。それがりょう女で、大柄でうるんだ情けの深そうな眼、鼻も口も大まかに、そして色白で頭の毛は濃く、それで居て無類と鉄火な、いわば姐御肌(あねごはだ)の女で、いくらでも酒を飲むというしろものだった。すっかり松兵ヱと意気投合してしまい、遂に夫婦約束も出来て、横須賀へ来て所帯を持つことになったのだ。(P134)

 著者によれば、これには潤色があって、実は松兵衛は京都時代からの旧知の仲だった。しかし鈴木漁龍は、横須賀の新楽寺(しんぎょうじ)にあるお龍の墓碑建立の賛助人であり、神奈川宿の料亭にいたという証言は捨てがたいという。
 
 また横須賀へ移ってからの二人の生活はあまりめぐまれたものではなく、貧乏長屋に暮らし、そこで明治三十九年66歳で亡くなったそうだ。

 お龍の性格やその後の生活、横須賀の墓のことなど、おもしろそうだが、今は田中家の話なので、そちらへ話を戻そう。
 田中家については、『よみがえった老舗料亭 ハマの「田中家」奮戦記』(神奈川新聞社出版部編、奈川新聞社、2006)という本があった。

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 この本にも、女将が幼ない頃、祖父から「一時期、仲居頭としておりょうさんが働いていた」という話を聞いたと書いてあるが、いつからいつまで働いていたというような具体的な話はない。

 この本によれば田中家の歴史は次のようなものである。
 初代が文久三年(1863)に高島嘉右衛門から「下田家」という旅館を譲り受け、屋号を「田中家」と改めて旅籠料理屋を開業した。下田家は神奈川宿の脇本陣で、高杉晋作や伊藤博文、井上馨なども立ち寄った。
 明治初期の横浜は生糸の貿易などで大いに繁盛し、神奈川宿の茶屋も横浜の「奥座敷」として賑わい、田中家にも大山巌や乃木希典などが逗留した。
 大正初期には神奈川県庁や横浜市役所、鶴見浅野造船所、昭和電工などのお得意があって、田中家の「我が世の春」だった。大正十二年(1923)、関東大震災により横浜の繁栄は崩壊し、田中家も灰燼に帰した。しかしバラックの仮店舗からはじめて再建し、昭和六年(1931)には、壮麗な三階建てを建てたが、これは昭和十五年(1940)開催を予定された東京オリンピックも視野に入れてのものだった。

Photo_2          (『よみがえった老舗料亭』口絵より)

 太平洋戦争では横浜空襲により全焼したが、再度立ち直って、昭和二十七年(1952)には三階建ての鉄筋コンクリートと木造の建物を建てた。日本の復興とともに田中家も官庁や地元企業とともに繁盛した。石油ショック後、次第に料亭の数は減少していったが、田中家は生き残っていた。
 しかし平成三年(1991)のバブル崩壊後、料亭政治に対する批判や「官官接待」禁止もあって、料亭は冬の時代になった。経営は厳しくなり、その前に跡継ぎをなくしていた四代目夫婦は経営意欲をなくしていった。そこで平成四年(1992)、今の女将が海外から帰国して五代目を継いだ。
 店主の娘とはいえ、海外での主婦生活からいきなり女将になって、大変な苦労をした。規模を縮小して三階建ての別棟は高層マンションにして、二階建ての本棟だけにした。旧来の料亭より敷居の低い、親しみやすい割烹料理店にするため、新しい料理を取り入れるなどで客層を広げて再生させ、今では横浜最古の料亭、「和の高級レストラン」として繁盛を続けている。

 これでみると、明治初期から戦後のバブル崩壊まで、田中家は、官公庁や大小企業の宴会、接待などを中心に営業して繁盛していたということである。芸者の出入りする高級料亭だから、個人の客といっても横浜界隈の大きな商店の経営者やご隠居さんといったところだっただろう。
 だから、お龍が短い期間いたからといって、営業には関係なかったのだ。
 それに明治初期には坂本龍馬は全国的にはほとんど知られていなかった。
 明治三十七年(1904)、日露戦争の前夜、明治天皇の皇后(昭憲皇太后)の夢枕に坂本龍馬が立ち「皇国の海軍を守護いたします」と告げた、という話があって、それ以降、坂本龍馬の名が広く知られるようになったという。だからそれまでは「お龍」といっても誰も知らなかった。売り物にはならなかったのである。
 それ以後も商売は繁盛を続けていたから、龍馬が有名になったからといって「お龍」を売り物にする必要はなかった。
 しかし時代とともに旧来の料亭のままではやっていけなくなった。そこで新しい客層を取りいれるために、横浜最古の料亭としての歴史を見直し、お龍の記憶もよみがえった、ということだろうか。
 1960年代には司馬遼太郎の『竜馬がゆく』があり、2010年にはNHKの大河ドラマ「龍馬伝」もあった。今や坂本龍馬は、歴史上の人物のなかでもトップクラスの人気があって、「お龍」も有名になっている。
 「その後のお龍」のことはほとんど知られていないから、「え、横浜にいたの」という意外性もある。わたしも興味をひかれてついつい詮索してしまった。

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