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2014年7月

2014年7月30日 (水)

第十七番 満願寺

Photo_2 今回の最後は第十七番札所出流山満願寺(いづるさん・まんがんじ、出流観音)。栃木市にあります。
 ここは石灰岩の山の中で、バスは途中、たくさんの切り出し場や加工場のようなところを通り抜けていきます。
 石灰岩の山だから鍾乳洞があって、ここの奧の院も「観音霊窟(いわや)」と呼ばれる鍾乳洞で、高さ4メートル余りの鍾乳石が、十一面観音の後ろ姿として祀られているというのです。

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 バスは山門の奥まで入ります。

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 バスを降りて、ゆるやかに登って、本堂へ向かいます。

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 本堂です。

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 もったいなくもこの本堂にまします千手観音よりも、わたしは奥の院の鍾乳石の観音像を見るのを楽しみにしていました。ところが、奥の院はここからさらに30分ほども歩かないと行けないので、なんと今回の予定には入っていないのでした。
 だから「観音霊窟(いわや)」の観音様は拝観できませんでした。
 案内書『坂東三十三カ所を歩く』(山と渓谷社、2003)によれば、こんなお姿だそうです。観音様の後ろ姿です。

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 ここが最後だから、一人だけツアーからはずれて見に行くことも可能でしたが、ここからバスや電車を乗り継いで帰るのは大変です。栃木行きのバスは「午前2本、午後3本」だそうです。そのバスに間に合わなかったらどうするか、いったい何時に家へ帰れるのかよくわかりません。あっさり断念しました。
 バスツアーは本当に楽です。行程は全部まかせきりで、寝ていても乗り過ごす心配はありません。それに安いし、今日のような暑い日でも、参拝をすませばすぐそばに涼しいバスが待っていてくれます。若い頃ならこんな旅行は生ぬるいとか堕落だとか思ったのでしょうが、最近はけっこう気に入っています。 

 ご詠歌は、

ふるさとを はるばるここに たちいづる
わがゆくすえは いづくなるらん

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 これでまわったのは二十二カ所になりました。あと十一カ所。今年中に残り一桁にしたいと思っています。

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2014年7月27日 (日)

第二十番 西明寺

 
Photo_7 二番目は、第二十番札所獨鈷山西明寺(とっこさん・さいみょうじ)。益子焼で有名な木県芳賀郡益子町(ましこまち)にありました。
 伝説によれば、弘法大師がここへ来られた時、人びとが競ってその教えを受けようとしたので、法相宗の僧らが妬んで、大師を岩窟におしこめたそうです。しかし大師は平気で
「所持の独鈷を投ずれば、忽ち生身の竜形を顕はし、雲を起し雨を降らす。或ひは山鳴り谷震ふて、彼ら迷惑して度を失ふ。」(『観音霊場記』(→第十四番弘明寺 ご詠歌))
となり、僧らは懺悔して大師の門下に入りました。その独鈷を山におさめて霊場の鎮護としたので、「独鈷山」と称するようになったとのことです。

 その独鈷山(高舘山)の中腹にあって、バスでほとんど行きますが、最後は少し階段を登ります。

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 茅葺きの楼門をくぐります。

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 本堂です。Photo_8
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 境内には三重塔や閻魔堂などがあります。

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 閻魔堂の閻魔様は「笑い閻魔」と呼ばれているそうですが、わたしには笑っているようには見えませんでした。信心が足りないのでしょうね。

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 おもしろかったのはこれ、四角竹(しかくだけ)です。四方竹(しほうちく)とも言うようです。丸くない、四角の竹です。写真ではわかりにくいけれど、本当に四角い棒を面取りしたような形をしていました。触ってみるとはっきりわかります。

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 ここから10分ほどバスで行った、益子焼窯元共販センターの二階の大食堂で昼食でした。まわりには焼き物の展示場や窯元の即売場、陶芸教室などがたくさんあります。
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 食事は、量は十分ありましたが、天ぷらが冷たくてちょっとがっかりでした。食べる前にみんなで「あめつちに感謝して…」みたいな言葉を、先達さんについて唱えてからいただいたのですが、ついつい不満が出てしまう。やっぱり信心が足りないようです。

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 今回はここで昼食だったので、益子焼の展示場や販売所も少し見られました。こんなところもありました。

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 中は、狭い通路のまわりに小さな店がそれぞれいろんなものを出していて、ごたごたした感じでした。二千円均一に置いてあった白地に青絵の大きな皿にちょっと気をひかれましたが、鑑定団に出せるようなものとまでは思えず、邪魔になるだけかと断念しました。

 

 西明寺のご詠歌は、

西明寺 ちかひをここに 尋ぬれば
ついのすみかは 西とこそきけ

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2014年7月24日 (木)

第十九番 大谷寺

 7月11日は半年ぶりに坂東三十三カ所巡礼に行ってきました。今回もバスツアーで、栃木県の三カ寺です。
 台風が心配でしたが、台風一過の好天、暑い日になりました。

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 最初は第十九番天開山大谷寺(てんかいさんおおやじ)です。宇都宮市大谷町(おおやまち)にあって、このあたり一帯は「大谷石(おおやいし)」の産地なのでした。
 途中大谷石の塀をたくさん見かけましたが、添乗員さんの話では、耐震強度の問題から、最近は大谷石の塀は少なくなっているとのことでした。
 お寺も大谷石の岩山をくりぬいて造られています。

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 山門です。背後は切り立った岩山です。
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 本堂を入って奧の岩穴の中へ進みます。屋根の上に岸壁が覆いかぶさっています。

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 中は撮影禁止だったので、これは、いただいたパンフレットにあった本尊千手観音の写真です。岩壁に彫ったもので、高さ4.5メートル。昔は金箔仕上げで金色に輝いていたそうです。脇堂にも同じく磨崖仏の釈迦三尊像、薬師三尊像、阿弥陀三尊像がありました。

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 また、寺の工事の際に、堂の下から多数の人骨が発掘され、調査の結果、縄文時代草創期から弥生時代にいたる住居跡であったことが判明し、「大谷寺洞窟遺跡」と名付けられているそうです。宝物館に一部展示されていました。

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 伝説では、昔、このあたりには毒蛇が住んでいて毒水を流すので地獄谷と呼ばれていた。そこへ湯殿山の行者が三人やってきて、毒蛇を調伏退治して、千手観音の像を彫りつけて住民を救ったのが始まりだとのこと。
 境内の池には弁財天が祭られて、毒蛇が心を入れ替えた白蛇が二匹います。頭をなでてやると御利益があるそうなので、わたしもなでてきました。

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 大谷寺のまわりは石切場の跡が公園になっていて、自然石から切り出されたこんな観音像もありました。右下の方に黒くお坊さんが二人見えるので、大きさがわかるでしょう。

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 高さ27メートル。昭和31年太平洋戦争殉難者の慰霊と平和祈願のために造られた平和観音です。裏に階段があって、肩より少し下あたりまで登れました。

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 大谷寺の前に大谷石の石細工店もありました。
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 ご詠歌は

名を聞くもめぐみ大谷の観世音
みちびきたまへ知るも知らぬも

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2014年7月21日 (月)

筒井康隆講演会

 7月5日は、東京ビッグサイト筒井康隆の講演を聴きに行った。東京国際ブックフェアの一環の行事である。
 
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 ブックフェアの方を一回り見てから、30分前に講演会場に行ったら、もうかなり客が入っていて、真ん中より後ろの列になった。演者の顔は小さくしか見えず、後ろの大きなスクリーンで見る。2,500人以上の申し込みがあったので、モニターだけの第二会場も用意されたそうだ。けっこう若い人がいる。筒井康隆の人気いまだ衰えず、である。
 
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 演題の「「読書」の極意と掟」は、勝手に決められて印刷までされてしまった。だからこれでやるしかないが、真面目な、おもしろくない話になってしまう。もっとおもしろい話がいくらでもあるのに、と始まった。
 この手の講演会では、事前に提示された演題とは無関係な話をする人も多いのだが、筒井康隆は意外に真面目なんだな、とちょっとおどろいた。なにしろわたしは若い頃この人のハチャメチャSFにしびれていた口である。
 本当に真面目な話で、
<文学の読書ということなら、まず世界文学全集を読みなさい。これはという作家に出会ったら、その人の個人全集を読みなさい。その人にあきてきたら、それは成長したということだから、次に進みなさい。現代文学の最先端の難解でとっつきにくいものは、いろんなものを相当量読み込んでからでないとわからない。SFは今やあらゆるジャンルに拡散した。SFも読んでほしい。>
 というような趣旨だった。わたしのおぼろな記憶によるので間違っていたらごめんなさい。悪い話ではなかったが、もっとおもしろい話があったと言われると、そちらの方を聞きたかったと思ってしまう。
 
 講演は30分もかからずに終わり、その後、今年雑誌に発表した「奔馬菌(ほんばきん)」という自作の短篇の朗読があり、こちらの方がずっと長かった。
 筒井は若い頃は演劇をやっており、作家として有名になってから演劇活動も再開して、NHKの大河ドラマにも出演したことがある。
 だからうまい。重厚な低音で、威厳があってえらそうだ。筒井は気を悪くするかもしれないが、中尾彬を思いだした。
 朗読された話は、午後三時半や五時半はいいが、四時半という時間は許せないから退治に行く、というよくわけのわからない前衛的な話からはじまった。途中で作者が顔を出して原発事故の話をしたり、昔自分が空想で書いた話が現実の世界で実現してしまって恐怖を感じているという話をしているうちに、気象改造装置の発明者の家族の話になって、台風を中国方面へ追いやってしまうとか、ハチャメチャっぽい話に観客みんなゲラゲラ笑っているうちに終わった。結局四時半がどうなったのか、さっぱりわからないままだった。(これもおぼろな記憶に頼って書いているので、違っていたらごめん。『新潮』2014年6月号に掲載されたそうだから、興味のある方はそちらをどうぞ。)
 わたしが大好きだった昔のハチャメチャSFに通じるところがあって非常に楽しかった。
 
 筒井の小説が現実化しているというのは本当だ。昔こんなことありえないだろうと笑って読んでいた話が実際に起こってしまって、まったく笑えなくなったりしている。
 朗読に出てきたのは、監視カメラで四六時中監視されるようになるという話や、喫煙者の取り締まりがとんでもなく厳しくなるという話、日本と中国・韓国の関係が危うくなるというような話で、おおむねそのとおりになってしまっている。
 この他にも、芸能界で一番売れている人間が世の中で一番尊敬され重要な人物とされる社会、というのも、今ほとんどそうなっているような気がする。その気で昔の小説を探せば、空想が本当になっている話はまだいろいろ出てくると思う。筒井康隆全集を引っ張り出して読みはじめると他のことができなくなるだろうからやめておくが、筒井が当時の小さな傾向を極端に拡大し戯画化していたものが実現してしまっている、それも戯画化に近い醜悪なかたちで、ということだ。 
 
 つい先日は「号泣県議」の事件というか、ともかく衝撃の動画が全国に流れた。
 あれを見た時も、ゲラゲラ笑いながら、ああまた筒井康隆の世界の登場人物が現れたと思った。直接どの作品のどういう人物に当たるというわけではないが、ああいう、性格が極端で、感情が高ぶると何を言っているのかわからなくなる人物は、おなじみの登場人物だった。本当に、しかも県会議員でいた、というのは驚きだった。
 しかしこの人、地方議会の制度上の問題点を広く全国的にあきらかにした。それもたった一人で、自分を犠牲にしながら、である。こういうのを「トリックスター trickster 」というのだろうか。
 これで全国の地方議会があれこれ詮索されることになるが、そうなるともっといろんな驚きの人が出てくるかもしれない。少し期待しよう。
 
 終了後、駅までの途中、「AKB48握手会場→」という看板を見かけた。翌日の新聞には、傷害事件により中止されていた握手会がこの日ビッグサイトで再開された、とあった。近くでやっていたらしい。
 
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 お台場とかレインボーブリッジとか、このあたりの景色を見るたびに、子供のころ手塚治虫のマンガで見た未来世界が実現しているのを感じる。そしていつも思う。あと、鉄腕アトムが空を飛んでいてくれれば……
 
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2014年7月18日 (金)

JB25 指導者たちのユーモア

 最近東京都議会や国会でのセクハラ野次が問題になった。
 日本の政治家たちのユーモアのレベルが低いのは昔からで、下品な話やダジャレがユーモアだと思っているようなオヤジが多かった。とりまきの後援者の方も同じようなものだったから仕方がないところもあった。
 ところが今回、わたしよりずっと若い議員が昔ながらのオヤジセクハラ野次を飛ばしていた。進歩がない。
 
  また、そういう野次が飛びかい、みんなで笑っていることをずっと知っていたはずの新聞・テレビの記者たちが、いまさら驚いたような報道をしているのも納得がいかない。
 しかし、とりあえずこれでセクハラがやんで、野次やユーモアのレベルも少しはあがることを期待したい。

 村松増美『指導者たちのユーモア』の帯には「聴き手の心を捉え、振り上げたこぶしを下ろさせるユーモアは、指導者たちにとって「笑いごとではない」重要なコミュニケーションの手段」なのだとある。
 今回は、ジョーク集とは言いがたいけれど、そういう「指導者たちのユーモア」を書いた本を紹介する。

98 指導者たちのユーモア

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    (書名)  指導者たちのユーモア
               
同時通訳者のとっておきの話
      (著者)  村松 増美
      (出版者)  サイマル出版会 
      (形状)     四六判ハードカバー
      (頁数)     246
      (出版年)   1996/08

・著者は日本における同時通訳者の草分け的存在で、ケネディ、フォード、カーター、レーガン各大統領、田中角栄、三木、福田 、大平各総理などの通訳をしている。

・英語でジョークの応酬をすることをバンタリング(bantering)というそうだ。banter というのは軽くジャブを出すようなことらしい。オーストラリアとニュージーランドは隣国同士でバンタリングできるが、日本はアジアの隣人たちとはまだできていない。そういう関係をつくりあげられるといい、と書いてある。嫌○○、反○○本ばかりでは、道は遠い。

 

99 チャーチル ウィット

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    (書名)  チャーチル ウィット
      (著者)  A.サイクス、I.スプロート 編
           金子 登 訳
      (出版者)  ダイヤモンド社 
      (形状)     四六判ハードカバー
      (頁数)     142
      (出版年)   1965/08/16

・政治家のユーモア、ウィットというと、まず名前が出てくるのがチャーチルである。この本はそのチャーチルの演説や議会答弁、講演などの名文句を集めたもの。
 発言の状況がわからないとよくわからないものもある。

・よくわかるウィットの実例をひとつ。

 1948年、彼は下院において、絞首刑の弁護をして、その根拠としてイギリスの法律下において、もし適当に運用されるならば、それは絶対に苦痛のない死だ、と説いた。
 「試してみろ!」
と、ある議員が口をはさんだ。
 すると、チャ-チルが、答えて、
 「そうですな。そうさせていただくことになるかもしれませんぞ」(P12)

 

100  ケネディ ウィット

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    (書名)  ケネディ ウィット
      (著者)  B.アドラー 編
           金子 登 訳
      (出版者)  ダイヤモンド社 
      (形状)     四六判ハードカバー
      (頁数)     129
      (出版年)   1965/08/16

・ケネディのユーモアも有名である。しかしこの本に収められている話は、アメリカの当時の政情や大統領選挙の歴史などに詳しくないとよくわからないものが多い。
 例えばある晩餐会でケネディがこんな話をしたという。

 この経費ということに関しては、今年初めに、たとえ当選しても、選挙資金の寄付をもって、大使たちを任命しようとは考えない旨は、既に声明したとおりであります。その声明を出して以来、わたくしは父から、ただの1セントさえももらっておりません。(P101)

 これのどこかおかしいのか。
 まず、アメリカでは大統領選挙に多大な貢献をすると見返りに外国大使に任命してもらえるという話がもっぱらであることを知っていないといけない。そしてケネディの父親は大変な金持で、フランクリン・ルーズヴェルトに多額の献金をして英国大使になったと言われていた。また、父親がケネディに多額の選挙資金を出しているとも言われていた。(そういえば現駐日大使のキャロライン・ケネディも、オバマを支持した功績による論功行賞人事だという話があった。)
 ジョークを理解するには知識と教養が必要なのだ。しかしこの本はそういう注釈がちょっと足りない。
 

101  ケネディのウィット

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    (書名)  ケネディの ウィット
      (著者)  ビル・アドラー 編
           井坂 清 訳
      (出版者)  扶桑社 
      (形状)     文庫
      (頁数)     188
      (出版年)   2002/05/30

100の『ケネディ ウィット』と同じ本の新訳。こちらの方が訳がこなれている。注釈も詳しくてわかりやすい。

 

102  天皇家のユーモアPhoto_7
    (書名)  天皇家のユーモア
          
あんなジョークも!こんなシャレも!!
      (著者)  女性自身」皇室取材班
      (出版者)  光文社 
      (形状)     四六判ソフトカバー
      (頁数)     233
      (出版年)   2000/05/30

・副題に「あんなジョークも!」とあるが、残念ながらジョークらしいジョークは載っていない。いわゆる「ほのぼの系」のエピソードがあつめられている。

 

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2014年7月15日 (火)

神奈川宿田中家 3/3

 田中家ともお龍とも関係ないが、前掲の『よみがえった老舗料亭』という本について、ついでにひとこと書いておきたい。
 この本は、田中家の歴史が一応の本筋だが、神奈川宿や江戸時代の料亭の話とか、お龍さんの生涯とか、本筋以外の説明の部分が多い。記者が一所懸命勉強した知識で間をつないでいるという感じで、当時の状況を読者に知らせるためにやむをえなかったとしても、少々まとまりにかける。
 中に一箇所、これはいけないと思うところがあった。
 
 明治新政府の要人がなぜ横浜へ足繁く通ったか、当時有名だった横浜の料亭富貴楼(ふうきろう)の「女将お倉はその理由を次のように述べている」として、お倉の言葉を引用してある。

 ”大久保(利通)さん、伊藤(博文)さん、井上(薫)さん、大隈(重信)さん、陸奥(宗光)さん、山県(有朋)さん、皆さん、大層な自信家のように振る舞い、自信ありげにしゃべっておいででしたが、あの頃、本当は自信なんかこれっぽっちもありませんでした。これまでにしたことのないことをしなければならず、……何をするに当たっても、きまって反対だ、してはならない、延期せよという大きな声がありました。(だからこそ)皆さん、自分の決めたことは正しい、自分のやっていることは正しい、自分のやっていることは間違っていない、こう言った自信を持とうとして新橋駅に向かい、汽車に乗りました。
 (そして)六郷川を一気に渡った時には、渡し舟を待って川原に立っていた夏の日、冬の日のことを思いだし、自分のしていることは間違っていないのだと自信が湧いてきます。反対を押しきり、この鉄道をつくったのは正しかったのだ。「開化」の方針は間違っていないのだと思うようになります。……弱気を吹き飛ばし、自信を取り戻そうとして、皆さん、汽車に乗りました。鉄道を建設したのは正しかった、学校を建てる,橋をかける、道路をつくる、港をつくる、工場を建てる、これは間違っていないと考え、自信を回復なさって横浜に着きます”。(P70)

 引用元を書いてないが、これは鳥居民(とりい、たみ)の『横浜富貴楼お倉』(草思社、1997)から取ったものである。適当に省略したり、かなを漢字を変えたりしてあるのもいけないが、一番いけないのは、もとの『横浜富貴楼お倉』(P248)にあるのは、ナマのお倉の言葉ではなく、著者鳥居民が想像で書いたせりふであることだ。
 それを実際の回顧談として「さすがは明治の女傑と呼ばれたお倉で、その観察眼は鋭い」などと書いてしまっている。たしかにここはちょっと感心するところだが、その功は鳥居民の想像力に帰すべきもので、お倉にではない。
 本全体が講演会で話している形で書かれていて、途中で「テープをまわします」と回顧談の録音を講演会場で聞いているように書いてある。引用箇所のすぐ前にも「もういちど、テープをまわします」とあるので、ひっかかってしまったようだが、お倉が死んだのは明治43年(1910)でテープなんかあるわけがない。著者も、テープというのは「冗談です」と前の方に書いている(P38)。
 ひょっとすると記者は、生まれたときにはもうウォークマンがあったくらいの若い世代で、テープなんてずっと昔からあるものだと思っていたのかもしれない。しかし、こういうところがあると、他のところも心配になってしまう。神奈川新聞社、がんばってください。
 

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 さらについでに書いておくと、鳥居民には、『横浜山手―日本にあった外国』(草思社、1977)という明治時代の横浜を描いた著書もある。
 ライフワーク『昭和二十年』(草思社、1985~)は、軍人・政治家から一般市民までの日記や回想録などの膨大な資料をもとに、昭和二十年の日本を1月1日から時間をおって叙述しようとした大河ノンフィクションである。
 残念ながら第13巻7月2日まで刊行したところで、昨年(2013)、84歳で亡くなった。
 とてもおもしろい本であるが、わたしはまだ第2巻3月19日までしか読んでいない。

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2014年7月12日 (土)

神奈川宿田中家 2/3

 田中家の売りのひとつ「坂本龍馬の妻おりょうが、龍馬の死後仲居として働いていた」ことについて、ちょっと気になっていた。若い頃にはそういう話は聞いたことがなかった。むろん歴史の専門家でもないわたしが知らなくても不思議はないので、疑っているわけではない。しかし、横浜ではよく知られていたけれど、無学なわたしは知らなかったという話でもないような気がする。

 そのあたりは女将の話を聞いてもわからなかったので、お龍の生涯について『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』(鈴木かほる、新人物往来社、2007)という本を読んでみた。著者は横須賀市在住の中世史研究家で、『相模三浦一族とその周辺史』などの著書があるそうだ。

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  「第三章龍馬の死後・その流転生活」の中に「神奈川の料亭」と題した項がある。(P132~136)
 これによれば、お龍が田中家にいたというハッキリした証拠はない。しかし昭和初期の新聞記事や当時の人びとの回顧談には、神奈川の料亭にいたという話があり、田中家の関係者にはお龍がいたという伝聞が残っていたことから、「事実であれば、その神奈川の料亭とは、現在の割烹田中家(横浜市神奈川区台町)であろう。」ということである。
 

 龍馬の死後、お龍は土佐の龍馬の実家へ身を寄せたが、坂本家とうまくいかず離縁となった。その後京都へ戻り、明治6年に東京へ出てきた。
 新聞記事に明治7年に神奈川へ来たとあり、明治8年には横須賀の西村松兵衛方に入籍しているので、神奈川の料亭にいたのはその間の一時期だろうという。
 また明治7年であれば、当時勝海舟が、海軍卿として横須賀との行き来によく神奈川宿に立ち寄っているので、海舟が料亭に世話したのではないか、と著者は想定している。

 西村松兵衛との出会いについて、鈴木漁龍という大道易者の談話記録にはこんなふうに書かれているそうだ。

(回漕業で景気がよかった西村松兵衛は度々神奈川の茶屋に遊びに来た。) その茶屋には、一ときは秀れて美しい女中が居った。それがりょう女で、大柄でうるんだ情けの深そうな眼、鼻も口も大まかに、そして色白で頭の毛は濃く、それで居て無類と鉄火な、いわば姐御肌(あねごはだ)の女で、いくらでも酒を飲むというしろものだった。すっかり松兵ヱと意気投合してしまい、遂に夫婦約束も出来て、横須賀へ来て所帯を持つことになったのだ。(P134)

 著者によれば、これには潤色があって、実は松兵衛は京都時代からの旧知の仲だった。しかし鈴木漁龍は、横須賀の新楽寺(しんぎょうじ)にあるお龍の墓碑建立の賛助人であり、神奈川宿の料亭にいたという証言は捨てがたいという。
 
 また横須賀へ移ってからの二人の生活はあまりめぐまれたものではなく、貧乏長屋に暮らし、そこで明治三十九年66歳で亡くなったそうだ。

 お龍の性格やその後の生活、横須賀の墓のことなど、おもしろそうだが、今は田中家の話なので、そちらへ話を戻そう。
 田中家については、『よみがえった老舗料亭 ハマの「田中家」奮戦記』(神奈川新聞社出版部編、奈川新聞社、2006)という本があった。

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 この本にも、女将が幼ない頃、祖父から「一時期、仲居頭としておりょうさんが働いていた」という話を聞いたと書いてあるが、いつからいつまで働いていたというような具体的な話はない。

 この本によれば田中家の歴史は次のようなものである。
 初代が文久三年(1863)に高島嘉右衛門から「下田家」という旅館を譲り受け、屋号を「田中家」と改めて旅籠料理屋を開業した。下田家は神奈川宿の脇本陣で、高杉晋作や伊藤博文、井上馨なども立ち寄った。
 明治初期の横浜は生糸の貿易などで大いに繁盛し、神奈川宿の茶屋も横浜の「奥座敷」として賑わい、田中家にも大山巌や乃木希典などが逗留した。
 大正初期には神奈川県庁や横浜市役所、鶴見浅野造船所、昭和電工などのお得意があって、田中家の「我が世の春」だった。大正十二年(1923)、関東大震災により横浜の繁栄は崩壊し、田中家も灰燼に帰した。しかしバラックの仮店舗からはじめて再建し、昭和六年(1931)には、壮麗な三階建てを建てたが、これは昭和十五年(1940)開催を予定された東京オリンピックも視野に入れてのものだった。

Photo_2          (『よみがえった老舗料亭』口絵より)

 太平洋戦争では横浜空襲により全焼したが、再度立ち直って、昭和二十七年(1952)には三階建ての鉄筋コンクリートと木造の建物を建てた。日本の復興とともに田中家も官庁や地元企業とともに繁盛した。石油ショック後、次第に料亭の数は減少していったが、田中家は生き残っていた。
 しかし平成三年(1991)のバブル崩壊後、料亭政治に対する批判や「官官接待」禁止もあって、料亭は冬の時代になった。経営は厳しくなり、その前に跡継ぎをなくしていた四代目夫婦は経営意欲をなくしていった。そこで平成四年(1992)、今の女将が海外から帰国して五代目を継いだ。
 店主の娘とはいえ、海外での主婦生活からいきなり女将になって、大変な苦労をした。規模を縮小して三階建ての別棟は高層マンションにして、二階建ての本棟だけにした。旧来の料亭より敷居の低い、親しみやすい割烹料理店にするため、新しい料理を取り入れるなどで客層を広げて再生させ、今では横浜最古の料亭、「和の高級レストラン」として繁盛を続けている。

 これでみると、明治初期から戦後のバブル崩壊まで、田中家は、官公庁や大小企業の宴会、接待などを中心に営業して繁盛していたということである。芸者の出入りする高級料亭だから、個人の客といっても横浜界隈の大きな商店の経営者やご隠居さんといったところだっただろう。
 だから、お龍が短い期間いたからといって、営業には関係なかったのだ。
 それに明治初期には坂本龍馬は全国的にはほとんど知られていなかった。
 明治三十七年(1904)、日露戦争の前夜、明治天皇の皇后(昭憲皇太后)の夢枕に坂本龍馬が立ち「皇国の海軍を守護いたします」と告げた、という話があって、それ以降、坂本龍馬の名が広く知られるようになったという。だからそれまでは「お龍」といっても誰も知らなかった。売り物にはならなかったのである。
 それ以後も商売は繁盛を続けていたから、龍馬が有名になったからといって「お龍」を売り物にする必要はなかった。
 しかし時代とともに旧来の料亭のままではやっていけなくなった。そこで新しい客層を取りいれるために、横浜最古の料亭としての歴史を見直し、お龍の記憶もよみがえった、ということだろうか。
 1960年代には司馬遼太郎の『竜馬がゆく』があり、2010年にはNHKの大河ドラマ「龍馬伝」もあった。今や坂本龍馬は、歴史上の人物のなかでもトップクラスの人気があって、「お龍」も有名になっている。
 「その後のお龍」のことはほとんど知られていないから、「え、横浜にいたの」という意外性もある。わたしも興味をひかれてついつい詮索してしまった。

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2014年7月 9日 (水)

神奈川宿田中家 1/3

 7月1日に、横浜の神奈川区にある「田中家(たなかや)」という料亭へ行ってきた。料亭へ行くような身分ではないが、下記のサンケイ・リビングの参加者募集記事を見て、応募してみた。このときは抽選ではずれたけれど、その後はずれた人を対象に再募集があったので、ようやく行くことができた 

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Pa0_0004 見出しにあるように、東海道神奈川宿に残る横浜最古の料亭で、坂本龍馬の妻おりょうが仲居として働いていた、というのが売りである。
 忘年会をここでやろうという話もあったので、どんなところか一度来てみたかった。
 横浜駅から徒歩七分。神奈川区台町という地名のとおり、ちょっとした坂をのぼったところ。まわりはマンションばかりの中に、二階建て和風建築があった。

 前の道路が旧東海道で、広重の浮世絵「神奈川 台之景」に出てくる茶屋のうち、上から三番目の「さくらや」が田中家の前身だという。(下の写真の赤い矢印。大きな松の木がある。)
 台地の下は海だったのが、明治以来の埋め立てて今はビルだらけになり見通しもきかなっている。坂のすぐ下あたりの海が今の横浜駅周辺らしい。

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 門を入る。
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 二階へ上がる階段の途中にはさまざまな資料が掲示してある。伊藤博文や高杉晋作の肖像写真、浮世絵、古いこの料亭の写真などで壁面はいっぱいで、龍馬からお龍へあてた手紙は、額に入れて床にそのまま置いてあった。

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 四〇人くらいが一緒だった。高い座椅子の席になっている。背もたれがあって、正座しなくてもいいから足が楽だ。「高座椅子」というらしい。机は座椅子の高さに合わせて高くなっている。これからお座敷はだんだんこうなっていくのだろうか。

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 本日の昼会席のお品書き。

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 そして料理。こういう料理の味をどうこう言えるような生活をしていないので、ともかく写真を並べておく。

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 「沢蟹姿揚げ」を殻ごとバリバリ食べていたら、うちの奥さんが自分の分もくれた。こちらは雄ガニらしくハサミが大きい。ガブッとやったら歯にガツン!固い。どちらが勝つか再度勝負!と一瞬思ったが、やっぱりあきらめた。この歳になったら歯の方が大事だ。

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 食事後は、料理長からの簡単な説明の後、女将から、この店の歴史についての話があった。神奈川宿の歴史からはじまって、自分が後を継いでからの苦労話まで多岐にわたった。
 お龍については、美人で、酒に強く、英語もできて外人客の相手もでき、客には評判がよかったが、同僚の仲居たちとは仲がよくなかった、というような話だった。
 「どのくらいの期間ここにいたんですか」という質問に対し、女将は「はっきりしません」と答えていた。昔働いていた人の証言などがあるけれど、具体的な期間などははっきりしないらしい。
 女将は若くして商社マンの妻になったのでずっと海外での主婦生活だった。跡継ぎの兄が死んで、経営を引き継いだのは45歳のときだったという。
 ちょっと早口であちこち話が飛ぶので、わからないところもあったけれど、経験のないままはじめて苦労の多かった「細腕繁盛記」、聞かせてもらった。 
 

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2014年7月 6日 (日)

JB24 ロシア・ソ連のジョーク集 2/2

94 大笑い!ソ連激烈ジョーク集

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    (書名)  大笑い!ソ連激烈ジョーク集 
      (著者)  深見 弾 編
      (出版者)  大陸書房 
      (形状)     新書
      (頁数)     248
      (出版年)   1992/02/20

・この本の「まえがき」には1991年、ソ連で初めて『ソビエトの政治ジョーク』(第一分冊)が刊行された、と書かれている。ソ連ではアネクドートが盛んだと言われながら、ペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(情報公開)の時代が来るまで、あくまでそれは語り伝えられるものだった。

天才的ジョーク
 後半のあと、検事は同僚たちが仕事をしている部屋へ、にたにた笑いながらぶらりと入ってきた。
「なにがそんなにおかしいんだ」
 同僚たちが聞いた。
「たいしたもんだ、あれは天才的なジョークだったよ」
「聞かせてくれ」
「とんでもない、話せるわけがなかろう!ついさっきそのジョークを喋ったやつに、五年の禁固刑を求刑したばかりなんだぜ」(P19)

 

95 ロシアのユーモア

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    (書名)  ロシアのユーモア
                     政治と生活を笑った三〇〇年 
      (著者)  川崎 浹(かわさき、とおる)
      (出版者) 講談社
      (形状)     四六判ソフトカバー
           (講談社選書メチエ)
      (頁数)     254
      (出版年)   1999/05/10

・カバーに「体制にとって「危険な世論」であり続けたアネクドートは、口から口へと広まる。辛辣に権力を嗤い続けたロシア人の過激な「笑い」を通して、ピョートル大帝期から現代に至る、激動のロシア300年を読む。」とある。
・ピョートル大帝からエリツィンの時代までの社会の変遷を政治アネクドートを通して見ていこうという趣旨。ジョークだけ読みたい人には社会史部分がちょっと面倒かもしれない。

 

96 ロシアン・ジョーク

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    (書名)  ロシアン・ジョーク 
      (著者)  酒井 陸三
      (出版者) 学習研究社
      (形状)     新書(学研新書)
      (頁数)     245
      (出版年)   2007/07/11

・時代はエリツィンからプーチンへ。カバーの袖にこんなジョークが書かれている。

指導者たちの教訓

ロシアの指導者たちは、次のような教訓を後世にもたらした。
レーニン……絵空事でも国を支配することができる。
スターリン……一人でも国を支配することができる。
フルシチョフ……バカでも国を支配することができる。
エリツィン……家族でも国を支配することができる。
プーチン……スパイでも国を支配することができる。
 

 

97 ジョークで読むロシア

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    (書名)  ジョークで読むロシア 
      (著者)  菅野 沙織(すげの、さおり)
      (出版者) 日本経済新聞出版社
      (形状)     新書(日経プレミアシリーズ)
      (頁数)     207
      (出版年)  2011/01/08

・いよいよ現代。プーチンとメドベージェフの時代。
・著者はロシアから日本に帰化したエコノミストで、これはジョーク本というより、ジョークを交えたロシア経済の現況紹介の本。

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2014年7月 3日 (木)

JB23 ロシア・ソ連のジョーク集 1/2

 ロシア・ソ連のジョーク集には政治関連のものが多いのは、日本人が興味をもつという理由の他に、大きな政治変動を何度も経てきた国なので、実際にそういうジョークがたくさんあるのだろう。

90 ジョーク「ロシア革命史」

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    (書名)  ジョーク「ロシア革命史」 
      (著者)  歴史探検隊
      (出版者)  文藝春秋
      (形状)     文庫
      (頁数)     314
      (出版年)   1990/11/10

・革命前夜から、ソ連の誕生、スターリン、フルシチョフの時代を経てゴルバチョフの時代までを、数々のエピソードとジョークでたどる。おもしろくて勉強になる本である。

 

91 スターリン・ジョーク

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    (書名)   スターリン・ジョーク 
      (著者)   平井 吉夫 編
      (出版者)  河出書房新社
      (形状)     四六判ソフトカバー
      (頁数)     302
      (出版年)   1983/08/20

・これはスターリン、フルシチョフの時代が中心でブレジネフまで。ロシア革命や政治・外交について、それなりの知識がないとわからないジョークも多い。

 

92 マンガとユーモアでみるソ連

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    (書名)  マンガとユーモアでみるソ連 
      (著者)  寺谷 弘壬
      (出版者) 太陽企画出版
      (形状)     四六判ハードカバー
      (頁数)    279
      (出版年)   1990/07/25

・ゴルバチョフの時代に集めたアネクドート(小咄)とマンガとのこと。ゴルバチョフはこの本が出版されたころ西欧では人気があったが、ジョークではそれまでの独裁者たちと同じように悪口の対象になっている。
 これは口絵のマンガ。「ペレストロイカは、ムチとアメの政策。ムチはたくさんいただくが、アメの方はなかなか口には入らない。」とある。

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93 ロシアより笑いをこめて

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    (書名)  ロシアより笑いをこめて
          世界のジョーク集4        
      (著者)  ジャンナ・ドルゴボーロワ
           深見 弾 訳
      (出版者)  光文社
      (形状)     文庫
      (頁数)     222
      (出版年)  1986/03/20

Russia Dies Laughing: Jokes from Soviet Russia という原題なので、アメリカで出版された本か? ブレジネフ時代のジョーク集。政治を離れたジョークもたくさんある。

 

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