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2014年8月14日 (木)

おりょうの写真 2/2

 そしてこの議論が、現在どうなっているかというと、今年(平成26年(2014))の1月4日読売新聞夕刊に、こんな記事が載った。

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 昨年(平成25年)古書店から、座り姿で写真3と少しだけポーズが違う写真が発見された。また他のところでは、複数の芸者や華族の女性をセットにした組写真の中に、立ち姿の写真2が発見された。
 当時写真撮影は高価だったので庶民が複数カットを撮ることはなかった。しかし写真館は人気芸者の写真を無料で撮影して、それを大量に販売していた。また複数の芸者や華族の女性の写真を組み合わせたものも人気があった。
 だからこれまでおりょうではないかと言われていた写真2・3は、販売目当てに撮られた新橋あたりの芸者の写真である可能性が高い、ということである。

 これで結論は出たのではないかとわたしは思う。
 しかし、だいたい偽物だという結論が出たといっても、世間はきっとこの結論を好まないだろう。

 偽写真であると主張している阿井景子は、『龍馬と八人の女性』(ちくま文庫、2009)にも強くそのことを書いている。

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 若いおりょうの写真の出現以来、テレビ番組ではもっぱらこちらがおりょうの写真として流されるようになった。あれは偽物だとテレビ局に抗議を申し入れても、自分がかかわった番組ですら「もう撮ってしまったから」と言われ、他の番組ではタイトルに「伝」とつけたからとかわされ、取り合ってもらえなかったそうだ。

 おりょうの写真は、老齢で美しくない、だから偽おりょうと知りつつも使用する(テレビ担当者の発言)というのは、視聴者を馬鹿にしている。
 いや、現在だって「偽」がおりょうになっているのだから、後世には、偽写真がおりょうとしてまかり通るのは目にみえている。」(P203)

 思わずもらしたテレビ局の本音である。真偽より見栄えが大事。なるほどやっぱり、と思わざるをえない。

 田中家のパンフレットにも若い写真が使われていた。

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 横須賀・大津の「おりょうさん」ののぼり旗もそうである。

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 こんな帯のついた本もある。一坂太郎『わが夫 坂本龍馬』(朝日新書、2009)

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 おりょう会館のところで感じた「商魂」を同じように感じる。どちらの写真が視聴者や客に受けるか、業界的には考えるまでもない、というところか。本物の写真はちゃんとあるのに。

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 上記の新聞記事にある発見も、決定的な証拠とまではならない。だいぶ分が悪くなったとしても、若い写真が「おりょうと伝えられる写真」であることには変わりない。
 これまでそう伝えられてきたということなんだから、おりょうだと断定せず「伝おりょう」ならいいじゃないか。そう注釈をつけてきっとこれからも使われ続けるだろう。

 神奈川宿の料亭田中家にも、お龍が写っていると言われている写真があるそうだ。→http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie/e/9ac71d211e438a9e84c39dec22a8a76b
 当時の田中家の社内旅行の従業員集合写真で、テレビで紹介されたこともあるという。わたしが行ったとき(神奈川宿田中家 1/3)、この写真の説明を聞いたかどうか、よく覚えていない。ビールを飲んでいて聞き逃した可能性もある。わたしがその写真をちゃんと見てこなかったのはたしかだ。
 しかしネットで見たところ、わたしには、明治8年頃よりもっと後の写真のように感じられた。ある古写真の研究家は、二百三高地の髪型だから完全に違う、と言っている。二百三高地の髪型は日露戦争後の流行であり、明治初期ではありえない。
 おりょうの写真の真贋を論じている人達の間ではほとんど問題にされていないようだ。おそらく「田中家でこれがおりょうだと伝えられている」ことには間違いがないのだろうけれど。

 また田中家のパンフには「龍馬からおりょうにあてた恋文が、今も田中家に残っております。」と書いてあり、ホームページには「館内には、「いとし恋しおりょう」とつづった龍馬の手紙が飾られている。」と書いてある。(→http://www.tanakaya1863.co.jp/?page_id=183)
 わたしも、通路に置いてあった手紙を見てきた。(→神奈川宿田中家 1/3) つまずきそうなところに無造作に置いてあったので、これはレプリカで、きっと本物は奧にしまってあるのだろうと思った。
 もらったチラシにはその内容も書かれてあった。

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 そして、ここには「龍馬がおりょうへあてた手紙」は、龍馬の死後、お龍が焼却してしまったため、ほとんど残されていない。この手紙は確認されている唯一のもの。」と書かれている。
 おりょうが土佐の坂本家を離れるとき、龍馬からの手紙をみんな焼いてしまったというのはよく知られた話で、これ一通しか残っていないというのもそのとおりらしい。
 ところが、宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003)には、この手紙は近江屋の子孫の井口家文書から発見されたもので、実物は京都国立博物館にあると書いてある。(P371)

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 この本にある龍馬の手紙の内容は、田中家のチラシと同じで、印影も同じだ。しかし、京都国立博物館と田中家との間でこの手紙の真贋論争があるわけでもないらしい。
 手紙の内容は「恋文」とは言いがたいとか、「いとし恋しおりょう」とはどこにもつづられていない、という話はご愛敬ですませるとしても、いったいこれはどういうことだろう。
 これも「田中家に残っている」ことは間違いありません、という話だろうか。
 

 京都には「勤王の志士ゆかりの旅館」とうたっていながら来歴の怪しい高級旅館や、あったかどうかさえわからない「大階段」を「リアルに再現した」居酒屋があるそうだ。どちらも「歴史マニア必見」とか言われて、にぎわっているらしい。
 嘘あるいは嘘らしいとわかって楽しんでいるうちはいいけれど、使われ続けているうちに嘘が本物としてまかり通るようになる危険はいつの時代にもある。
 偽写真説が正しいと思っているわたしにしても、何度も見ているうちに「おりょう」として思い浮かべるイメージは、だんだん若い方の写真になりつつある。困ったものだ。

 わたしの田舎には町名を冠した「□□□音頭」という歌があった。たしかわたしが小学校高学年のときに作られた新しい歌で、島倉千代子がレコードを吹き込んだ。(そのころ島倉千代子もまだ若かった。「からたち日記」の頃である。) 盆踊りの時など盛んに使われ、今も残っていると思う。
 その歌詞に「○○城主の△△様を…」という部分があって、これが子どものわたしには納得できなかった。
 ○○城はわが町の史跡で、△△様は有名な戦国武将の一人である。しかし○○城主であったことはない、嘘だ。たしかにわが町に縁はあって、△△は○○城で生まれたが、幼いころ○○城は焼き討ちされ、逃れた△△は諸国流浪ののち、信長、秀吉、家康に仕えて、他所の国で一国一城の主として名を残した。
 郷土が生んだ英雄として、ある程度のことは知っていたから、「○○城主の△△様を…」という歌詞の嘘が納得できなかった。大人たちが誰も、学校の先生もみんな何も言わないのが解せなかった。よく覚えていなけれど、きっと「そんな細かいことはどうでもいい」と相手にされなかったのだろう。誰も間違いを指摘せず、何の問題もなく、盆踊りは毎年にぎやかに行われた。
 営業的には、面倒な話は省いて、郷土の史跡○○城に英雄△△を手っ取り早く結びつけたほうがいい。それが作詞家の「技」の一部でもあるということは、成長するに従い理解したけれど、いまだに納得はしていない。
 この手のものをうのみにしてはいけない、嘘でも平気でまかり通る世界だということだけは、このときにしっかり覚えたと思う。
 しかし覚えたことがその後の人生で何か役にたったかというと、何の役にも立たなかったような気がする。この歳になっても相変わらず、この写真は本物か偽かみたいな話を気にしている。

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