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2014年8月

2014年8月29日 (金)

第二十一番 日輪寺

 佐竹寺の次は第二十一番八溝山日輪寺(やみぞさんにちりんじ)です。茨城県久慈郡大子町(だいごまち)にあって、大子町袋田の滝で有名なところです。残念ながら滝へは行きませんが、昼食はその袋田にある「関所の湯」という日帰り温泉でとりました。

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 食べる前に食事作法(じきじさほう)といって、先達さんについて、こんな言葉を唱えます。

一滴の水にも、天地の恵みを感じ
一粒の米にも、万民の労苦を思い
ありがたく、頂きます。

 これが昼食で、左から常陸牛の鍋、湯葉で包んだサラダ、その下がこんにゃくの田楽、湯葉とこんにゃくの刺身、天ぷらと並んでいます。このほかに小さな盛りそばもつきました。
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 こんにゃくが袋田の特産品なのだそうです。
 わたしは小さい頃からあまり好き嫌いはなかったのですが、唯一苦手としていたのがこんにゃくでした。家では、嫌いだ、で済んでも、給食の時は無理でもこんにゃく食べなければなりません。ぐにゅぐにゅしているしているくせにそれなりに固く、黒いつぶつぶがのどにざわざわと触りながら通っていくような感じが何とも言えず不気味で、無理矢理呑み込もうとすると、おえーっとこみあげてきたものでした。
 今でも自分から進んで食べたいと思うものではありませんが、出されれば食べます。それになんといっても巡礼中の身です。食事作法にしたがい、ぬめぬめの刺身こんにゃくにも、固めの牛肉にも、天地万民に感謝しつつ、ありがたくいただきました。
 この後「こんにゃく関所」という土産物屋へ行ったときには、こんにゃくを買ってしまったくらいです。

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21_3 日輪寺は、茨城、福島、栃木三県の境にある標高1,022mの八溝山(やみぞさん)の八合目、標高800mあたりにあります。
 だから昔は坂東札所第一の難所で、山を登れずに麓にある遙拝所から拝んで済ませる人もいて、それを「八溝知らずの偽(にせ)坂東」と呼んだといいます。
 今は自動車で行けますが、それでも大型のバスでは無理とのことで、バスツアー一行は袋田でマイクロバス、ワゴン車、タクシーの三台に分乗して、日輪寺へ向かいました。
 なるほど、舗装はされていても狭い道でした。ずっとガスっていて景色が見えなかったのが残念でした。お寺の駐車場で降りると、下界の暑さが嘘のようで涼しい風が吹いていました。

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 かつての最大の難所も、この階段を登るだけで着いてしまいます。

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 本堂です。山門はありません。

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 本堂脇に旧堂がありました。いかにも古そうです。

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 山の中の小さなお寺で、通り抜ける風が涼しい。住職は、先頃台風が行ってから、八溝の天気はずっとこんなものです。夏は終わった、とおっしゃっていました。
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 もう少し若くて元気だったら、この山へ登って、それから袋田の滝も見ていくところだが、と思いつつ、今回もおとなしくそのままバスツアーで帰りました。楽な方へ流れていきます。
 

 こ詠歌は、

迷ふ身が 今は八溝へ 詣りきて
仏のひかり 山もかがやく

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 お盆休みの渋滞は、途中つくば市のあたりで事故渋滞の情報が流れましたがたいしたことはなく、首都高速もお台場から大井のあたりが少しつながっていたくらいで、順調に帰ることができました。
 これで二十四カ所です。あと九カ所、とうとう残り一桁になりました。

 

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2014年8月26日 (火)

第二十二番 佐竹寺

 8月17日、また坂東三十三カ所のバスツアーに行ってきました。 今回は茨城県の北部の二カ所です。地図を見てわかるように、横浜からは一番遠いところで、二カ所しか行かないのに、料金も一番高くなっています。今回はじめて運転手さんが二人いたのは、一人だと一日あたりの走行距離が規定を越えてしまうためかもしれません。
 申し込むとき、8月17日はお盆休みの最終日曜日にあたっていることに気づかず、後から帰りの渋滞が心配になりました。出発してすぐの添乗員さんのあいさつにも、今日の帰りは渋滞が予想されます、と覚悟を促す言葉がありました。

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 22_3北関東は曇りで、途中見晴らしはよくありません。田んぼの稲が黄緑色に色づき始めたのが目につきました。
 最初は第二十二番札所妙福山佐竹寺(みょうふくざん・さたけでら)で、北向観音(きたむきかんのん)とも呼ばれているそうです。茨城県常陸太田市にあります。
 もとは常陸の豪族であった佐竹氏の寺として大いに栄えたが、佐竹氏が関ヶ原で徳川方につかなかったため秋田へ移封されてしまい、次第に衰えたとのことです。
 現在の敷地は狭く、まわりは道路や住宅に囲まれて、昔の威勢はないようです。
 
 

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 この仁王門は、瓦が欠けているところや崩れそうになっているところがあって、また台風や豪雨が来たらたら、と心配になります。

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 仁王様は古そうだけれど、なかなか立派です。

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 そしてこれが本堂。天文十二年(1543)の建立で、茅葺きの大きな屋根にこけら葺きの裳階(もこし)がついています。落ち着いた、いい建物で、国の重要文化財だそうです。

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 仁王門にも本堂にも、入口の上には日の丸のついた五本骨の扇が飾られています。これが佐竹氏の紋所だそうです。

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 鰐口から五色の紐が本殿内まで続いています。中は見えませんが、ご本尊までつながっているはずです。今年は午年なので、どこもこうやっているようです。
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 本堂脇の丸窓や、海老虹梁(えびこうりょう)と呼ばれる梁はり)などが特徴的なものだそうだ。下の写真で横に走っている梁が海老虹梁。虹のように反ったのが虹梁で、それがさらに海老のように曲がっているということらしい。
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 本堂前の石灯籠が倒れたままになっています。これは佐竹氏のせいではなく、東日本大震災のとき倒れたものらしい。それがずっとそのままになっているというのは、仁王門の屋根瓦のこともあるし、ちょっと心配になります。

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 境内の墓地には、提灯ではなく灯籠らしいものが飾られていました。お盆のためでしょう。

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 さて、境内をあれこれ見終わっても、バスはなかなか出発できませんでした。
 巡礼ではどこでも、納経帳に朱印を押してもらい、本尊を表す梵字や寺名などを書いてもらいます。これにけっこう時間がかかります。大きなお寺で書き手が複数いるところもありますが、小さなお寺で書き手が一人のところはどうしてもそれなりの時間がかかってしまいます。バスツアーが重なったりするとさらに大変です。
 今回はツアーが重なったわけではなかったのですが、書き手が一人で、しかも八十何歳かの高齢で、一枚ずつゆっくりとていねいにお書きになるのだそうです。添乗員さんたちはいつも苦労されているようです。
 以前行ったところでは、小さなことで参拝客を怒鳴りつける住職もいました。資本主義的効率とかサービスとは別の世界にお住まいになっていらっしゃるのだと理解しましょう。
 

 ご詠歌は、

ひとふしに 千代をこめたる 佐竹寺
かすみがくれに 見ゆるむらまつ

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2014年8月23日 (土)

JB27  丸善ライブラリーのジョーク本

 英米人とのつきあいにジョークは必須であるからと、英語とジョークを一緒に勉強させてくれる本もたくさんある。
 その中から、新書の丸善ライブラリー・シリーズに収められているジョーク関連本を紹介する。英語の学習が中心なので、真面目に全部読もうとするとけっこう疲れる。わたしはこういう本は、和訳してあるジョークだけ拾い読みすることにしている。

110 アメリカン・ユーモア

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    (書名)  アメリカン・ユーモア
           
英語にみるジョークと文化
      (著者)  鈴木進、岩田道子、L.G.パーキンズ
      (出版者)  丸善 
      (形状)     新書
      (頁数)     170
      (出版年)   1993/02/28・

・アメリカのユーモアとアメリカ文化がテーマで、ジョークの前提となっているアメリカ人の文化的土壌や価値観などを解説しながら、ジョークを紹介している。

・最初に子どものなぞなぞが少し載っているが、けっこうブラックなものもあった。

What is worse than finding a worm in an apple?
(りんごの中に虫を見つけるよりいやなことは)
Answer: Finding half a worm.
(P20)

 

111 英語ユーモア学

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    (書名)  英語ユーモア学
      (著者)  鈴木進、岩田道子、L.G.パーキンズ
      (出版者)  丸善 
      (形状)     新書236
      (出版年)   1995/03/25

110『アメリカン・ユーモア』の続編で、今度はアメリカに限らず、ひろく英語国民を対象にして、ユーモアの技法を、同義語、反意語、慣用表現などに分類し、実例を挙げて説明している。引用されているジョークはあまり多くない。

・対立する条件節を使った例。ソクラテスがこう言ったとされている。

"By all means marry. If you get a good wife, you'll be very happy.  If you get a bad wife, you'll become a philosopher."
 「とにかく結婚しなさい.よい妻なら万々歳.悪い妻でも哲学者になれます」
(p131)

 

112 英語ユーモアのセンス

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    (書名)  英語ユーモアのセンス
      (著者)  鈴木進、宮下邦子、L.G.パーキンズ
      (出版者)  丸善 
      (形状)     新書
      (頁数)     196
      (出版年)   1996/03/20

110111に続く第三弾。

・double meaning(言葉の二義性)をつかったジョークはむずかしい。

Boy: I'll be good for a dollar
Mother : Why can't you be good for nothing like your father?
坊や:1ドルくれたらお利口にしてる.
ママ:パパみたいにただで大人しくしていられないかしら.
(P57)

 これだけでもおもしろいけれど、実は”be good for nothing ”には「役立たず」とか「取るに足りぬ」という意味もあって、それも加味されているそうだ。

 

113 ユーモア英語のすすめ

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    (書名)  ユーモア英語のすすめ   
                     
こんな時・こんな表現
      (著者)  山岸勝榮
      (出版者)  丸善 
      (形状)     新書
      (頁数)     185
      (出版年)  1998/05/20

・これはジョークの本ではない。ユーモラスな英語表現の実例集である。似たようなタイトルなので、とりあえず入れた。

・「用足し」に行きたいときには、” answer the  call of nature "を使う、という例があった。その昔、東京オリンピックの頃のベストセラー『英語に強くなる本』に”Nature calls me."があったのを思いだした。

・"A shotgun marriage" というのは、「やむなき結婚」で、男親がショットガンを持ち出して、娘の相手に結婚を迫るのでやむなくということらしい。いかにもアメリカ的で、これに比べたら日本の「できちゃった婚」ということばはずっとやさしい。

 

114 パーティ・ジョークを楽しもう

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    (書名)  パーティ・ジョークを楽しもう
          
英語ユーモア社交術
      (著者)  トミー植松
      (出版者)  丸善 
      (形状)     新書
      (頁数)     188
      (出版年)   2001/07/20・

・パーティにおける基本的なマナーや話し方など、日本人と英米人の感覚や作法の違いなども教えてくれる。

・これはジョークというより、日本人のイエス・ノーの使い方をからかった笑い話。わたしとしてはこの日本人に同情する。

ストレートに言って!

Waiter  : Would you like milk and sugar with your coffee?
Japanese: No.
Waiter  : No milk, no sugar, sir?
Japanese: Yes.
Waiter  : Milk and sugar, then?
Japanese: No, no. No milk and no sugar.
Waiter  : No milk, no sugar, then, sir?
Japanese: Yes.
Waiter  : Gee!/Somebody helps me!
(P148)

 

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2014年8月20日 (水)

テルマエ・ロマエⅡ

 もう一カ月くらい前になるが、7月17日に映画「テルマエ・ロマエⅡ」を見た。
 「テルマエ・ロマエ」とはラテン語で、ローマの浴場という意味で、古代ローマ人がタイムスリップして、なぜか現代日本の風呂や温泉にやってくる、という話である。

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 ヤマザキマリの『テルマエ・ロマエ』というマンガが原作で、マンガの第一話は、古代ローマで新しい公衆浴場の設計に苦しむ建築技師ルシウスが、入浴中に溺れてタイムスリップし、浮かびあがったのが日本の銭湯の浴槽の中だったところから始まる。そして富士山のペンキ絵に驚き、脱衣籠に感心し、フルーツ牛乳のうまさに夢心地になる。そしてローマへ戻ったルシウスが設計したのは、大きなヴェスビオス火山の壁絵のある浴場で、脱衣籠もフルーツ牛乳もあって、ローマ人に大人気になるという落ち。
 その後もルシウスは、日本人を辺境の「平たい顔族」と見下しながらも、古代ローマと現代日本を何度も往復して、温泉玉子やシャンプーハットなどをローマの風呂に取りいれていく。古代ローマ人が日本の風呂文化に出会って驚嘆する…というおかしさが、ストーリーの基本パターンになっている。

 わたしはこのマンガのファンだったので、映画化第一作「テルマエ・ロマエ」も見た。第一作は、マンガのおかしさをなぞっているだけのような感じがして、いまいち不満が残った。
 この第二作は、原作のストーリーから少し離れ、平和主義のハドリアヌス帝対世界征服の元老院の対立を軸に、元横綱の扮する剣闘士アケボニウスの迫力ある戦闘シーンなどを入れて、テンポよく進んで痛快だった。むろん風呂のギャグもふんだんで、相撲取りの団体の迫力ある入浴シーンや、ローマ人が草津温泉の「湯もみ」を覚えて「チョイナ、チョイナ」と歌うなど、気持ちよく笑えた。
 ちょい役で、白木みのる松島トモ子が出てきた。全盛期を知っているから、その老けぶりにはちょっと驚いた。いくつになっても映画に出たい、ということか。
 第二作は納得できる映画だった。

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 こちらはマンガの『テルマエ・ロマエ』第1巻から第6巻。(ヤマザキマリ、エンターブレイン、2009~2013)

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 いちおう第6巻で終了している。
 さすがに古代ローマが日本風呂に驚いているだけではなかなかストーリーが続かないとみえて、第4巻から、古代ローマ史学者だからラテン語ができて、しかも温泉芸者と二足のわらじを履いているという日本人女性さつきが出てきた。
 そしてルシウスと恋に落ち、古代ローマに移動したさつきがルシウスと結ばれたところで、第6巻は終わっている。
 最後の頁には後日譚がまた始まるような文句も載っている。期待して待とう。

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2014年8月17日 (日)

J58 中国の古いジョーク3

 前に32 論語で笑う 33 中国の古いジョークと 34 中国の古いジョーク2で中国の古い笑い話を紹介した。これもと同じようなものなので3とした。
 いずれも村山吉廣訳編『中国笑話集』(現代教養文庫、1972)からとったものである。

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川の字

 ある先生、ただ川の字しか知らぬ。弟子から来ている手紙をめくってその中から川の字をとり出して人に教えてやろうと思ったが、なかなか見つからぬ。
 やっと三の字を見つけてこの字を指さしながら、ののしった。
「さんざんさがしても見つからぬと思ったら、この野郎、こんなところに寝ころんでやがった」

(原注) 原文ではこの先生は「蒙師(もうし)」といい、いわゆる童蒙の師、子どもに素読(そどく)を教える先生である。この種の先生にはピンからキリまであって、ずいぶんお粗末な先生もいたらしく、笑話のなかではよくからかわれている。(P130)

 

死にまちがい

 ある人、妻の母親が亡くなったので,お抱えの師匠に頼んで祭文を作らせた。頼まれた師匠、古書から引き写しをはかったが、まちがって妻を祭る文を書き与えてしまう。その人、怪しんで聞くと、師匠、
「この祭文は本にちゃんと書いてあるものなんですよ。おおかた、そちらさまの死にまちがいでございましょう」(P139)

 

本の効用

 ある乳母(うば)、子どもを寝かせつけようとするが、泣いてばかりいて寝ようとしない。困りはてたあげく、乳母は突然主人を呼んだ。
「旦那さま、ご本を持って来ていただけませんでしょうか」
「何をするんだ」
「私は知っておりますですよ。旦那さまはいつもご本をご覧になるとすぐおやすみでございます」(P142)

 

水練

 ある医者、誤診をして人を死なせ、その家の者に縛りあげられた。夜中にぬけ出し、川を渡ってにげ帰ったが、家に着いて見れば息子が「脈訣(みゃくけつ)」を勉強している。そこで、
「せがれや、本を読むのは後のこと、それより泳ぎを習うがさきじゃ。」

(原注) 「脈訣」は六朝時代に出来たとされる医書の名。脈のとり方などを記す。

 

難経

 ある医者、易者の机上に「易経」があるのを見て嘆いて言うに、
「せがれも医術を学ばせずに易をやらせたらよかった」
 人がそのわけを聞くと、
「むこうは易経だ。易(やさ)しいにちがいない。難経(なんぎょう)のようなことはあるまいて」

(原注) 「難経」は古医書の一つ。二巻。「易経」はいうまでもなく儒家の経典で五経の一つ。内容はむしろ難解である。ここでは、易経、難経という字面の対比から来る早トチリにおもしろさがある。(P159)

 

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2014年8月14日 (木)

おりょうの写真 2/2

 そしてこの議論が、現在どうなっているかというと、今年(平成26年(2014))の1月4日読売新聞夕刊に、こんな記事が載った。

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 昨年(平成25年)古書店から、座り姿で写真3と少しだけポーズが違う写真が発見された。また他のところでは、複数の芸者や華族の女性をセットにした組写真の中に、立ち姿の写真2が発見された。
 当時写真撮影は高価だったので庶民が複数カットを撮ることはなかった。しかし写真館は人気芸者の写真を無料で撮影して、それを大量に販売していた。また複数の芸者や華族の女性の写真を組み合わせたものも人気があった。
 だからこれまでおりょうではないかと言われていた写真2・3は、販売目当てに撮られた新橋あたりの芸者の写真である可能性が高い、ということである。

 これで結論は出たのではないかとわたしは思う。
 しかし、だいたい偽物だという結論が出たといっても、世間はきっとこの結論を好まないだろう。

 偽写真であると主張している阿井景子は、『龍馬と八人の女性』(ちくま文庫、2009)にも強くそのことを書いている。

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 若いおりょうの写真の出現以来、テレビ番組ではもっぱらこちらがおりょうの写真として流されるようになった。あれは偽物だとテレビ局に抗議を申し入れても、自分がかかわった番組ですら「もう撮ってしまったから」と言われ、他の番組ではタイトルに「伝」とつけたからとかわされ、取り合ってもらえなかったそうだ。

 おりょうの写真は、老齢で美しくない、だから偽おりょうと知りつつも使用する(テレビ担当者の発言)というのは、視聴者を馬鹿にしている。
 いや、現在だって「偽」がおりょうになっているのだから、後世には、偽写真がおりょうとしてまかり通るのは目にみえている。」(P203)

 思わずもらしたテレビ局の本音である。真偽より見栄えが大事。なるほどやっぱり、と思わざるをえない。

 田中家のパンフレットにも若い写真が使われていた。

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 横須賀・大津の「おりょうさん」ののぼり旗もそうである。

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 こんな帯のついた本もある。一坂太郎『わが夫 坂本龍馬』(朝日新書、2009)

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 おりょう会館のところで感じた「商魂」を同じように感じる。どちらの写真が視聴者や客に受けるか、業界的には考えるまでもない、というところか。本物の写真はちゃんとあるのに。

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 上記の新聞記事にある発見も、決定的な証拠とまではならない。だいぶ分が悪くなったとしても、若い写真が「おりょうと伝えられる写真」であることには変わりない。
 これまでそう伝えられてきたということなんだから、おりょうだと断定せず「伝おりょう」ならいいじゃないか。そう注釈をつけてきっとこれからも使われ続けるだろう。

 神奈川宿の料亭田中家にも、お龍が写っていると言われている写真があるそうだ。→http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie/e/9ac71d211e438a9e84c39dec22a8a76b
 当時の田中家の社内旅行の従業員集合写真で、テレビで紹介されたこともあるという。わたしが行ったとき(神奈川宿田中家 1/3)、この写真の説明を聞いたかどうか、よく覚えていない。ビールを飲んでいて聞き逃した可能性もある。わたしがその写真をちゃんと見てこなかったのはたしかだ。
 しかしネットで見たところ、わたしには、明治8年頃よりもっと後の写真のように感じられた。ある古写真の研究家は、二百三高地の髪型だから完全に違う、と言っている。二百三高地の髪型は日露戦争後の流行であり、明治初期ではありえない。
 おりょうの写真の真贋を論じている人達の間ではほとんど問題にされていないようだ。おそらく「田中家でこれがおりょうだと伝えられている」ことには間違いがないのだろうけれど。

 また田中家のパンフには「龍馬からおりょうにあてた恋文が、今も田中家に残っております。」と書いてあり、ホームページには「館内には、「いとし恋しおりょう」とつづった龍馬の手紙が飾られている。」と書いてある。(→http://www.tanakaya1863.co.jp/?page_id=183)
 わたしも、通路に置いてあった手紙を見てきた。(→神奈川宿田中家 1/3) つまずきそうなところに無造作に置いてあったので、これはレプリカで、きっと本物は奧にしまってあるのだろうと思った。
 もらったチラシにはその内容も書かれてあった。

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 そして、ここには「龍馬がおりょうへあてた手紙」は、龍馬の死後、お龍が焼却してしまったため、ほとんど残されていない。この手紙は確認されている唯一のもの。」と書かれている。
 おりょうが土佐の坂本家を離れるとき、龍馬からの手紙をみんな焼いてしまったというのはよく知られた話で、これ一通しか残っていないというのもそのとおりらしい。
 ところが、宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003)には、この手紙は近江屋の子孫の井口家文書から発見されたもので、実物は京都国立博物館にあると書いてある。(P371)

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 この本にある龍馬の手紙の内容は、田中家のチラシと同じで、印影も同じだ。しかし、京都国立博物館と田中家との間でこの手紙の真贋論争があるわけでもないらしい。
 手紙の内容は「恋文」とは言いがたいとか、「いとし恋しおりょう」とはどこにもつづられていない、という話はご愛敬ですませるとしても、いったいこれはどういうことだろう。
 これも「田中家に残っている」ことは間違いありません、という話だろうか。
 

 京都には「勤王の志士ゆかりの旅館」とうたっていながら来歴の怪しい高級旅館や、あったかどうかさえわからない「大階段」を「リアルに再現した」居酒屋があるそうだ。どちらも「歴史マニア必見」とか言われて、にぎわっているらしい。
 嘘あるいは嘘らしいとわかって楽しんでいるうちはいいけれど、使われ続けているうちに嘘が本物としてまかり通るようになる危険はいつの時代にもある。
 偽写真説が正しいと思っているわたしにしても、何度も見ているうちに「おりょう」として思い浮かべるイメージは、だんだん若い方の写真になりつつある。困ったものだ。

 わたしの田舎には町名を冠した「□□□音頭」という歌があった。たしかわたしが小学校高学年のときに作られた新しい歌で、島倉千代子がレコードを吹き込んだ。(そのころ島倉千代子もまだ若かった。「からたち日記」の頃である。) 盆踊りの時など盛んに使われ、今も残っていると思う。
 その歌詞に「○○城主の△△様を…」という部分があって、これが子どものわたしには納得できなかった。
 ○○城はわが町の史跡で、△△様は有名な戦国武将の一人である。しかし○○城主であったことはない、嘘だ。たしかにわが町に縁はあって、△△は○○城で生まれたが、幼いころ○○城は焼き討ちされ、逃れた△△は諸国流浪ののち、信長、秀吉、家康に仕えて、他所の国で一国一城の主として名を残した。
 郷土が生んだ英雄として、ある程度のことは知っていたから、「○○城主の△△様を…」という歌詞の嘘が納得できなかった。大人たちが誰も、学校の先生もみんな何も言わないのが解せなかった。よく覚えていなけれど、きっと「そんな細かいことはどうでもいい」と相手にされなかったのだろう。誰も間違いを指摘せず、何の問題もなく、盆踊りは毎年にぎやかに行われた。
 営業的には、面倒な話は省いて、郷土の史跡○○城に英雄△△を手っ取り早く結びつけたほうがいい。それが作詞家の「技」の一部でもあるということは、成長するに従い理解したけれど、いまだに納得はしていない。
 この手のものをうのみにしてはいけない、嘘でも平気でまかり通る世界だということだけは、このときにしっかり覚えたと思う。
 しかし覚えたことがその後の人生で何か役にたったかというと、何の役にも立たなかったような気がする。この歳になっても相変わらず、この写真は本物か偽かみたいな話を気にしている。

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2014年8月11日 (月)

おりょうの写真 1/2

 おりょうに関する本など少し読んだ。いろいろ興味を引かれる話があった中で、写真の真偽の話がまずおもしろかった。

 おりょうの写真は、生前の明治37年12月15日に「東京二六新聞」に載った。「坂本龍馬未亡人龍子」と題する八回連載の記事の第一回で、この年、明治天皇の皇后(昭憲皇太后)の夢枕に坂本龍馬が立ったという話から、龍馬が有名になり、その後のおりょうのことも取り上げられた。

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 この第一回には、当時のおりょうの状況をこう書いてある。

 龍子は近来中気に罹って在横須賀なる退職海軍々人工藤外太郎(そとたろう)なる義侠者の保護に余命を托し極めて悲哀なる詩的境遇に陥って居る、志士の未亡人として殊に時局に感奮せる者は誰しも同情の涙を禁じ得ないに相違ない。

 「悲哀なる詩的境遇」とはどんなものか、義侠者の保護を受けているというのは具体的にどういうことか、よくわからない。しかし中気にかかっていて、めぐまれた状態でないことはわかる。
 写真については「本年六十四歳で撮影したものである」と書いてあるが、これには明治33年に撮った写真だという説もある。この後、おりょうは明治39年、66歳で死亡した。
 上の新聞に載った写真がこれ。見たとおり、晩年60歳くらいの写真である。ともかくこれが本物であることには疑いがない。(原本は横須賀大津の信楽寺にあるそうだ。)

        写真1Photo_2    (鈴木かほる『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』表紙より)

 昭和54年(1977)に発見されたこの写真が、おりょうのものではないか、と取り上げられた(写真2)。龍馬が殺された近江屋の子孫の井口家が保管するアルバムにあったもので、台紙の左下には「お竜」という鉛筆書きの文字が見える。
 

       写真2Photo   (大津観光協会パンフ「「おりょうさん」追想」より)

 そして、平成12年(2000)には、写真2と同一人物の座り姿の写真が発見された(写真3)。同じ紬の着物で同じ場所(東京の内田写真館)だから同じ日に撮ったものと思われる。
 この写真の裏には「たつ」と墨書きがあるそうだ。

          写真3Photo_3(井桜直美『セピア色の肖像』(朝日ソノラマ、2000))より)

 そしてこれらの写真2・3の人物が本当におりょうであるかどうかが問題になった。
 偽物説の論拠は、

1 写真2の発見当時の記録には「お竜」の字のことは触れられていない。これは後で書き加えられたものではないか。写真3は「たつ」で、「りょう」ではない。
2 この衣紋を抜いた着付けは玄人のもので、当時ブロマイドのように売られていた芸者の写真ではないか。写真1の老齢のおりょうは、素人らしく衿を詰めて着ている。
3 晩年の本物の写真と比べて目の大きさがちがう、耳の形がちがう。
4 明治の初めに撮られたものと思われるが、当時の写真は高価で、貧乏なおりょうにはそんな余裕はなかった。

 本物説は
1 「お竜」の文字は最初からあった。このアルバムの他の写真は木戸孝允や後藤象二郎などすべて男性で女性はこれ一枚、芸者の写真が入るのは不自然。
 「たつ」の字は、知らない人が「龍」をまちがって読んで書いたものだろう。
2 紬の着物を着ている。芸者なら紬でなく絹を着て撮るはずだ。
3 2008年に高知県立坂本龍馬記念館が警察庁科学警察研究所にこれらの写真の鑑定を依頼したところ「同一人物の可能性がある」との結果が出た。
4 当時東京でおりょうが会った政府の顕官が写真館に連れて行って撮影したものではないか。

 というわけで推理小説を読むようにおもしろい。
 ひとつ気になるのは科学警察研究所の鑑定である。科捜研のマリコさんが同一人物と鑑定したのなら信頼度は高いと思われるが、「科警研」というのは警察庁にあるもので、警視庁及び各道府県警にあるのが「科捜研(科学捜査研究所)」なんだそうだ。知らなかった。
 鑑定結果を報じた読売新聞(2008年5月15日夕刊)にはこう書いてある。

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 龍馬記念館によると、顔の輪郭や目、鼻、口など7項目に分類して鑑定。目、鼻、口の位置や輪郭、鼻の下の長さ、下唇とあごの間の隆起などに整合性が認められ、「別人であることを本質的に示す根拠はない」と結論づけられたという。

 
 「別人であることを本質的に示す根拠はない」というのは、かなりの確率で同一人物であると言っているのか、別人と断定できるだけの証拠はないという程度のことなのか、よくわからない。鑑定書は高知県の龍馬記念館まで行かないと見られないそうだ。
 偽写真説の人達は、過去に科警研に依頼して間違っていたこともあった。100%信用はできないと言っている。
 
 
 最近出入国の際に「顔認証システム」を取りいれるというニュースが流れた。写真の精度の問題ももあるけれど、あれで調べたらどういう結果が出るだろう。

 

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2014年8月 8日 (金)

おりょう終焉の地

  お墓の次は、おりょう終焉の地へ行ってみた。貧乏長屋でめぐまれないまま66歳で亡くなったという場所である。
 京浜急行横須賀中央駅から歩いて7分。昔は三浦郡豊島村深田観念寺と言ったそうだ.が、現在の地名は横須賀市米が浜通(よねがはまどおり)となっている。

 道路脇におりょう終焉の地の碑がひっそりとあった。このあたりにあることを知っていなければ、そのまま通り過ぎてしまいそうだ。

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 おりょうからの聞き書きを残している安岡重雄(秀峰)は、「坂本龍馬の未亡人」と題した文章の中で、明治30年(1897)にここを訪れたときのことをこう書いている。

 場末だけに、汚い貧乏長屋が軒を並べて居た。女の住居は、海軍病院の塀に沿った奥まった路次の中で、一棟二戸建ての長屋であった。
 屋根は茅葺、六尺の格子の裡側(うちがわ)が三尺の土間で、障子を開けたところが三畳、その横が六畳の居間、一間の押し入れがあり、六畳の背後が一坪の台所になって居た。(鈴木かほる史料が語る坂本龍馬の妻お龍』、p257)

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 さすがにもう長屋はなく、こぎれいな通りである。海軍病院は現在、横須賀共済病院になっている。

 同じ場所について、昭和60年(1985)発行の『別冊歴史読本 坂本龍馬の謎』(新人物往来社)にはこんな写真がある。「お龍が晩年を過ごしたところ。路次を入った左側」と説明がついている。(P147)

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 そしてその下にはこの写真。看板には「坂本龍馬未亡人龍子の最期の地…」とある。

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 これを見ると、今の碑のある場所からちょっと奧へ入ったところのようだが、道路の拡幅などがあったのかもしれない。ともかくこのあたりということだ。

 碑の背後にこの建物があることは、ネットで碑の場所を調べたときに知った。知っていても現物を見るとやはり、ちょっと驚くというか違和感がある。

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 「おりょう会館」という葬祭場である。この日も何件か葬儀が行われているようだった。

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 おりょうの胸像もある。ちょうど逆光になって、顔立ちがよくわからないが、葬祭場だから写真を撮るのも気が引けて、早々に引き上げた。

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 おりょうの縁者の経営ということでもなさそうだ。ここで不遇のうちに死んだおりょうの供養の意味もこめられているのだろうが、失礼ながら商魂という言葉を思い浮かべてしまう。
 高知県には龍馬にちなんだ名前をつけた食堂や施設がゴマンとあるというから、おりょう終焉の地に葬祭場があってもおかしくないのかもしれないが。

 夫松兵衛はテキ屋のようなしがない大道商人だった。おりょうは晩年アル中になって、ただ坂本龍馬の妻だったことだけを支えに生きていた、と書いている人もいる。
 ここ横須賀では、死んでからようやく龍馬の妻として日が当たるようになった。「おりょうさんの街」に「おりょう会館」、おりょうは喜んでいるだろうか。

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2014年8月 5日 (火)

おりょうの墓

 横須賀まで、坂本龍馬の妻おりょうの墓を見に行ってきた。
 京浜急行京急大津駅から徒歩5分。駅近くの道路脇には「おりょうさんの街」などののぼり旗がたっている。

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 ちょっとした山を背に浄土宗宮谷山信楽寺(きゅうこくさんしんぎょうじ)はあった。
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 司馬遼太郎の『街道をゆく42 三浦半島記』(朝日文庫、1998)には、こうある。

 山門が、すでに高い。その山門へのぼる石段の下に――つまり狭い道路に沿って寺の石塀があり、その石塀を背に――いわば路傍にはみだして――墓が一基ある。路傍の墓である。(P227)

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 しかし、現在この墓は路傍にはなく、山門をくぐった正面にある本堂から左手へ行ったところにあった。平成10年(1998)寺域改修の際に移転されたという。

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 広い敷地に大きく立派な墓碑で、説明の看板もある。

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 表には「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」とある。明治39年1月15日、66歳で死亡。
 裏面には「実妹中沢光枝建立」とあり、側面には賛助人として西村松兵衛、鈴木魚龍、新原了雄の三人の名前があるそうだ。(裏面、側面はよく読めなかった。)
 この墓碑は死去8年後の大正3年に、篤志家からの資金が募られて建立された。司馬遼太郎は前掲書で海軍の有志が金を出しあって建てたものらしいと書いている。
 横須賀海軍工廠のドック建設用の石材で造られているという。横須賀は海軍の街であり、龍馬の海援隊は海軍の源流の一つでもあった。
 「阪」の字が使われているが、山城からやってきた土佐坂本家の初代の墓も「阪本」となっているそうだ。
 この墓碑を見て、おりょうに四位が贈られたと勘違いする人もいるようだが、四位を贈られた龍馬のその妻ということである。明治24年に坂本龍馬中岡慎太郎に正四位が追贈されている。Dscf9104

 本堂へ入ると、脇にはこんな龍馬とおりょうの等身大座像もある。木像で平成18年(2006)に製作されたという。

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 座像の後には三つの位牌が置かれている。左から母楢崎貞、夫西村松兵衛、養子西村松之助の位牌である。

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 夫がいるのに墓は「坂本龍馬の妻」となっていた。側面の建立の賛助人の一人として夫の名前があった。それなりの事情があったようだが、夫西村松兵衛はどういう気持ちだったのか。松兵衛もこの寺に葬られたが、墓はないという。ちょっとかわいそうな気がする。

 横須賀の貧乏長屋で不遇のまま死んだというおりょうだったが、今では「おりょうさんの街」というのぼり旗が立つようになった。路傍の墓は墓地の一角に大きな場所を占めるようになり、座像まで飾られるようになった。おりょうは有名になったのだ。
 駅近くの大津行政センターには右下の大津観光協会発行のパンフも置いてあった。しかし「おりょうさんの街」というのはちょっとどうかと思わないでもない。ここはお墓があるだけで、おりょうが暮らしたのは横須賀でも別の場所のはずだ。「おりょうさんのお墓の街」ではぱっとしないのはわかるけれど…

追記(2014/08/16)
 すみません、間違いがありました。おりょうは横須賀に来たとき、まず妹光枝が住んでいた大津保込(ほおめ)へやってきて一緒に暮らし、その後深田観念寺へ移ったとのことです。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』P137) 「おりょうさんの街」に異存ありません。

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2014年8月 2日 (土)

JB26 中国笑話集

 JB22 中国の古い笑話集で紹介したのは昔の笑話集の忠実な翻訳だが、これらからおもしろい話を選んで、わかりやすく書き改めたものを編んだ笑話集が昔からたくさんあった。そしてそれが江戸小咄ともつながっているようだ。
 しかし古いものまでは手が出せないので、そういう笑い話集の最近のものを紹介する。


103 中国笑話集

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    (書名)  中国笑話集
      (著者)  駒田 信二 編訳
      (出版者)  講談社 
      (形状)     文庫
      (頁数)     421
      (出版年)   1978/02/15

・駒田信二は中国文学者で、中国艶笑譚の書き手でもあった。この本にも下ネタの話がずいぶんある。
・この本の笑話については、本のジョーク32 論語で笑う33 中国の古いジョーク、 34 中国の古いジョーク2で紹介した。

 

104 中国笑話集
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    (書名)  中国笑話集
      (著者)  駒田 信二 編訳
      (出版者) 筑摩書房 
      (形状)     文庫
      (頁数)     420
      (出版年)   1999/07/22
           (2001/05/30、2刷)

・これは103の『中国笑話集』が、ちくま文庫で再刊されたもので内容は同じ。

 

105 中国笑話集

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    (書名)  中国笑話集
      (著者)  村山 吉廣 訳編
      (出版者)  社会思想社
      (形状)     文庫
      (頁数)     284
      (出版年)   1972/12/30
           (1983/04/30、27刷)

・これも古い笑話集から選んでまとめたもの。駒田信二のものと重複している話もある。

 

106 中国のユーモア

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    (書名)  中国のユーモア
      (著者)  寺尾 善雄
      (出版者)  河出書房新社 
      (形状)     文庫
      (頁数)     324
      (出版年)   1982/10/04

・これは純粋のジョーク集ではない。はじめの部分は昔の笑話集からひろったものだが、その後はトンチ話から民話、魯迅や郭沫若などのユーモア短篇小説まで広く含む「中国のユーモア」集となっている。

 

107 続・中国のユーモア

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    (書名)  続・中国のユーモア
      (著者)  寺尾 善雄
      (出版者)  河出書房新社
      (形状)     文庫
      (頁数)     254
      (出版年)   1983/08/04

・これも前の106 『中国のユーモア』と同じく、笑話集からユーモア短篇小説までを含む。冒頭には現代マンガが(といっても、30年前だが)30頁ほど収録されている。

・その現代マンガのひとつ。

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108 笑話三昧

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    (書名)  笑話三昧
      (著者)  丁 秀山
      (出版者)  東方書店 
      (形状)     四六判ソフトカバー
      (頁数)     328
      (出版年)   1992/02/20

・著者は戦前に北京大学を卒業して日本に留学。戦後すぐ日清食品の安藤百福が名古屋に設立した中華交通学院という自動車・鉄道関係の専門学校にかかわって、以来、名古屋の大学でずっと教えてこられた人のようだ。

 

109 古代中国ユーモア100話

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    (書名)  古代中国ユーモア100話
      (著者)  丁聡
      (出版者)  而立書房 
      (形状)     菊判ハードカバー
      (頁数)     203
      (出版年)   1994/12/25

JB20 現代中国ジョークで紹介した「83 現代中国ユーモア100話」と対をなすもので、こちらは古い笑話にマンガをつけたもの。

・現代中国で発表したものを集めたもののせいか、これには下ネタはない。

・これも実例をひとつ。

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丑(牛)年生まれの夫人

 ある役人の誕生日に、部下たちは、彼が鼠年生まれだと聞きつけて、お金を出し合って、黄金の鼠を鋳造してお祝いの品とした。役人は喜んで受け取りながら、いうのだった、「女房の誕生日も近いんだ。あれは丑(牛)年生まれなんだがね」。(P193)

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