« JB26 中国笑話集 | トップページ | おりょう終焉の地 »

2014年8月 5日 (火)

おりょうの墓

 横須賀まで、坂本龍馬の妻おりょうの墓を見に行ってきた。
 京浜急行京急大津駅から徒歩5分。駅近くの道路脇には「おりょうさんの街」などののぼり旗がたっている。

Dscf9094 Dscf9095

 ちょっとした山を背に浄土宗宮谷山信楽寺(きゅうこくさんしんぎょうじ)はあった。
Dscf9100

 司馬遼太郎の『街道をゆく42 三浦半島記』(朝日文庫、1998)には、こうある。

 山門が、すでに高い。その山門へのぼる石段の下に――つまり狭い道路に沿って寺の石塀があり、その石塀を背に――いわば路傍にはみだして――墓が一基ある。路傍の墓である。(P227)

42_2

 しかし、現在この墓は路傍にはなく、山門をくぐった正面にある本堂から左手へ行ったところにあった。平成10年(1998)寺域改修の際に移転されたという。

Dscf9101_2

 広い敷地に大きく立派な墓碑で、説明の看板もある。

Dscf9102
 表には「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」とある。明治39年1月15日、66歳で死亡。
 裏面には「実妹中沢光枝建立」とあり、側面には賛助人として西村松兵衛、鈴木魚龍、新原了雄の三人の名前があるそうだ。(裏面、側面はよく読めなかった。)
 この墓碑は死去8年後の大正3年に、篤志家からの資金が募られて建立された。司馬遼太郎は前掲書で海軍の有志が金を出しあって建てたものらしいと書いている。
 横須賀海軍工廠のドック建設用の石材で造られているという。横須賀は海軍の街であり、龍馬の海援隊は海軍の源流の一つでもあった。
 「阪」の字が使われているが、山城からやってきた土佐坂本家の初代の墓も「阪本」となっているそうだ。
 この墓碑を見て、おりょうに四位が贈られたと勘違いする人もいるようだが、四位を贈られた龍馬のその妻ということである。明治24年に坂本龍馬中岡慎太郎に正四位が追贈されている。Dscf9104

 本堂へ入ると、脇にはこんな龍馬とおりょうの等身大座像もある。木像で平成18年(2006)に製作されたという。

Dscf9111

 座像の後には三つの位牌が置かれている。左から母楢崎貞、夫西村松兵衛、養子西村松之助の位牌である。

Dscf9112
 夫がいるのに墓は「坂本龍馬の妻」となっていた。側面の建立の賛助人の一人として夫の名前があった。それなりの事情があったようだが、夫西村松兵衛はどういう気持ちだったのか。松兵衛もこの寺に葬られたが、墓はないという。ちょっとかわいそうな気がする。

 横須賀の貧乏長屋で不遇のまま死んだというおりょうだったが、今では「おりょうさんの街」というのぼり旗が立つようになった。路傍の墓は墓地の一角に大きな場所を占めるようになり、座像まで飾られるようになった。おりょうは有名になったのだ。
 駅近くの大津行政センターには右下の大津観光協会発行のパンフも置いてあった。しかし「おりょうさんの街」というのはちょっとどうかと思わないでもない。ここはお墓があるだけで、おりょうが暮らしたのは横須賀でも別の場所のはずだ。「おりょうさんのお墓の街」ではぱっとしないのはわかるけれど…

追記(2014/08/16)
 すみません、間違いがありました。おりょうは横須賀に来たとき、まず妹光枝が住んでいた大津保込(ほおめ)へやってきて一緒に暮らし、その後深田観念寺へ移ったとのことです。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』P137) 「おりょうさんの街」に異存ありません。

  Dscf9094_2  Photo

 

 

|

« JB26 中国笑話集 | トップページ | おりょう終焉の地 »

なむや文庫雑録」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: おりょうの墓:

« JB26 中国笑話集 | トップページ | おりょう終焉の地 »