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2014年8月 8日 (金)

おりょう終焉の地

  お墓の次は、おりょう終焉の地へ行ってみた。貧乏長屋でめぐまれないまま66歳で亡くなったという場所である。
 京浜急行横須賀中央駅から歩いて7分。昔は三浦郡豊島村深田観念寺と言ったそうだ.が、現在の地名は横須賀市米が浜通(よねがはまどおり)となっている。

 道路脇におりょう終焉の地の碑がひっそりとあった。このあたりにあることを知っていなければ、そのまま通り過ぎてしまいそうだ。

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 おりょうからの聞き書きを残している安岡重雄(秀峰)は、「坂本龍馬の未亡人」と題した文章の中で、明治30年(1897)にここを訪れたときのことをこう書いている。

 場末だけに、汚い貧乏長屋が軒を並べて居た。女の住居は、海軍病院の塀に沿った奥まった路次の中で、一棟二戸建ての長屋であった。
 屋根は茅葺、六尺の格子の裡側(うちがわ)が三尺の土間で、障子を開けたところが三畳、その横が六畳の居間、一間の押し入れがあり、六畳の背後が一坪の台所になって居た。(鈴木かほる史料が語る坂本龍馬の妻お龍』、p257)

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 さすがにもう長屋はなく、こぎれいな通りである。海軍病院は現在、横須賀共済病院になっている。

 同じ場所について、昭和60年(1985)発行の『別冊歴史読本 坂本龍馬の謎』(新人物往来社)にはこんな写真がある。「お龍が晩年を過ごしたところ。路次を入った左側」と説明がついている。(P147)

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 そしてその下にはこの写真。看板には「坂本龍馬未亡人龍子の最期の地…」とある。

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 これを見ると、今の碑のある場所からちょっと奧へ入ったところのようだが、道路の拡幅などがあったのかもしれない。ともかくこのあたりということだ。

 碑の背後にこの建物があることは、ネットで碑の場所を調べたときに知った。知っていても現物を見るとやはり、ちょっと驚くというか違和感がある。

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 「おりょう会館」という葬祭場である。この日も何件か葬儀が行われているようだった。

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 おりょうの胸像もある。ちょうど逆光になって、顔立ちがよくわからないが、葬祭場だから写真を撮るのも気が引けて、早々に引き上げた。

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 おりょうの縁者の経営ということでもなさそうだ。ここで不遇のうちに死んだおりょうの供養の意味もこめられているのだろうが、失礼ながら商魂という言葉を思い浮かべてしまう。
 高知県には龍馬にちなんだ名前をつけた食堂や施設がゴマンとあるというから、おりょう終焉の地に葬祭場があってもおかしくないのかもしれないが。

 夫松兵衛はテキ屋のようなしがない大道商人だった。おりょうは晩年アル中になって、ただ坂本龍馬の妻だったことだけを支えに生きていた、と書いている人もいる。
 ここ横須賀では、死んでからようやく龍馬の妻として日が当たるようになった。「おりょうさんの街」に「おりょう会館」、おりょうは喜んでいるだろうか。

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