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2014年9月16日 (火)

『汗血千里の駒』 1/2

 前に神奈川宿田中家 2/3で、坂本龍馬の全国的な認知度についてこう書いた。

 明治初期には坂本龍馬は全国的にはほとんど知られていなかった。
 明治三十七年(1904)、日露戦争の前夜、明治天皇の皇后(昭憲皇太后)の夢枕に坂本龍馬が立ち「皇国の海軍を守護いたします」と告げた、という話があって、それ以降、坂本龍馬の名が広く知られるようになったという。

 しかし、明治の中頃に、坂崎紫攔(さかざきしらん)が高知の「土陽新聞」に連載した、『汗血千里の駒』という龍馬の伝記小説がベストセラーになった、という話があることが気になっていた。それなら日露戦争よりずっと前に龍馬は有名になっている。

 坂崎紫攔というのは土佐の自由民権運動家で、運動のために、新聞記者のほか講談師までやったという。
 平成22年(2010)のNHK大河ドラマ「龍馬伝」は、明治15年に、三菱財閥の創始者岩崎弥太郎に、ある新聞記者が、当時無名だった坂本龍馬について取材するというかたちで話が始まった。
 「徳川幕府を倒したのも、明治政府の枠組みを作ったのも、実は一介の浪士坂本龍馬だったということですが、今では誰も知りません…」
  その新聞記者が坂崎紫攔だった。あんなかたちで取材したとは思われないが、紫攔の「汗血千里駒」が土佐の土陽新聞に連載されたのは、翌明治16年のことだった。
 連載をまとめた単行本が出版され、それが相当数売れたらしい。

 これは筑摩書房の『明治文学全集5 明治政治小説集(一)』(1966)に入っていて、岩波書店の『新日本古典文学全集明治編 政治小説集(一)』(2003)にも収録された。土佐史談会による復刻版というのもあるそうだ。
 わたしは、明治文学全集版をずっと持っていたけれど、菊判の大きな本に二段組みぎっしりで取りつきにくく、読まないままだった。こういう大きな全集ものは持ち歩きながら読むのに不便で、落ち着いて、さあ読むぞ、と気合いを入れないと取りかかれないのが難点だ。

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 最近岩波文庫にも入った。おりょうの話のついでにこちらで読んでみたら、これがなかなかおもしろい。(坂崎紫攔作、林原純生校注『汗血千里の駒 坂本龍馬君之伝』、岩波文庫、2010)

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 いかにも講談調の文語文で、例えば第一回はこんな調子である。

此処は井口の村はずれ やがて土橋にさしかかれば早や永福寺の四つの鐘諸行無常の響きさえ陰にこもりて物さみしく 又一しきりパラパラと誘う嵐を名残にて 散りゆく花か降る雨に傘(からかさ)かたむけ急がんと互いに足をはやめし折しも 暗さはくらし向うより勢こんだる一人の壮士忽ちハタと突当ぬ(p7)

 龍馬が寺田屋で襲われた場面はこんなふうだ。

 斯(かか)りける所に討手の中より太刀抜きかざして一人の壮士 我につづけと喊(おめ)いて上るを龍馬は見るよりチッとも動ぜずツトさし向くる短銃にズドンと一発 ねらい違わで憐れや壮士は眉間を打たれて斃(たお)るる死骸を踏み越え踏み越え…(p149) 

 文庫版には新聞連載中の挿絵も全部入れてある。これが寺田屋の場面の絵。(p147)

Photo_2
 難しい漢語もでてくるけれど、ふりがながついているので、意味が分からなくても気にしなければそのままけっこう調子よく読める。ただ、おもしろおかしく書くだけでなく、実際の歴史も知ってほしいという著者の意向から、手紙や漢詩、中岡慎太郎の「攘夷論」などをそのまま引用してあるところは、さすがに読みづらい。しかしこの当時本を読むほどの人はこれくらい普通に読めたのだ。

 本邦初の龍馬伝で、これ以降おびただしい龍馬伝が出版されるわけだが、この本で、以後の龍馬物語の基礎的な枠組みが完成している。

 わたしは、『竜馬がゆく』を読むまでは、土佐藩の武士には上士・下士の根深い対立があったことなどまるで知らず、驚かされた。
 しかもその上士とは、関ヶ原の功により徳川家康から土佐一国を与えられた山内一豊がそれまでの領国掛川から連れてきた、いわば天下りの一族で、下士とは征服された長宗我部の家来の一族で、幕末まで下士はずっと上士に虐げられてきたというのは、目からウロコが落ちる話だった。
 だから幕末になっても、関ヶ原の復讐の意味もあった薩摩・長州とは違って、土佐は、徳川の恩顧を重視する上士と勤王の下士との対立が激しく、複雑な動きをした。
 『汗血千里の駒』は、その上士・下士の対立の話から始まって、龍馬は寝小便たれの子供だったとか、剣術修行の千葉道場で千葉家の娘と恋仲だったとか、現在有名なエピソードはほとんど入っている。中には若い頃天狗をかたるニセ神主を成敗したという話もあるが、これはあんまり嘘っぽくて、最近の物語では採用されていないようだ。
 おりょうとの出会いももちろんあり、龍馬が寺田屋で襲われた後、一緒に薩摩へ傷の療養に行ったのが、本邦初の「ホネームーン=新婚旅行」だという話もちゃんとある。

都を跡に船出したるは 自(おのず)とかの西洋人が新婚の時には「ホネー、ムーン」と呼びなして花婿花嫁互いに手に手を取りて伊太利等の山水に逍遥するに叶いたりとや謂わん(p174)

 おりょうはかなりのじゃじゃ馬で、このとき霧島山に登って、頂上にある神代からの「天の逆鉾」を引き抜いてしまう。あとで土地の人が尊んでいるものに無礼を働くんじゃない、と龍馬に怒られたことになっている。
 実際には龍馬も一緒で、二人して引き抜いたそうだ。福沢諭吉がお稲荷さんの御神体の石を入れ替えてしまった話を思い出す。迷信に黙っていられない、時代の変わり目だったのだろう。

Photo_5      逆鉾を抜くおりょう。隣は付添の書生。(p181)

 そして、当然のことだが、幕末の政治情勢、中でも土佐藩の動きに詳しい。
 日本中に尊皇攘夷の嵐が吹き荒れる中で、土佐では上士中心の吉田東洋の保守派と下士が中心の武市半平太の土佐勤王党が対立する。吉村寅太郎らは脱藩して藩の外で活動。龍馬は勝海舟に師事し、武市や吉村らと連絡を取りながらも別の道を進んでいく。
 やがて禁門の変や長州征伐を経て、坂本龍馬中岡慎太郎の斡旋で薩長同盟が成立。
 さらに上士の後藤象二郎とも手を結び、藩主山内容堂を動かして幕府に大政奉還を建白させる。将軍慶喜が大政奉還を告げた席になぜか龍馬が同席していて発言までする場面はご愛敬だ。いかに土佐が大政奉還・明治維新に貢献したかを、著者は言いたい。
 しかし京都近江屋で、龍馬は、中岡慎太郎とともに暗殺されてしまう。

Photo_6           坂本・中岡襲われる(p287)

 その後土佐でもいろんな動きがあって、明治維新の世となった。今では龍馬の甥坂本南海男(なみお)が土佐の立志社で民権運動の闘士として活躍している。ナポレオン三世にも比すべきである、というところで終わる。
 ネットには「『竜馬がゆく』のタネ本」みたいな書き方もあったようだが、司馬遼太郎は当然これも含めた膨大な資料をもとに書いている。
 しかしいくつかのエピソードや龍馬が豪放磊落で明るい性格であることなど、この本が、これ以後の龍馬伝の基本的な骨格をつくったことは間違いないだろう。

 
 これがおりょうで、龍馬の死後、髪を切って短くしている。右手にこうもり傘、左手には洋書を持ち、袴をはいて明治のハイカラさんみたいな格好をしている。明治二、三年頃、こういう姿で土佐に現れ、おまけに六連発の短銃まで持っていたので、土佐の人は驚いた。その後、京都の親里に帰ったまま行方しれずということでおりょうの話は終わっている。横須賀へ行ったという話はない。
 偽写真のかわりに、この絵はどうだろう。

Photo_8       おりょう(p312)

 

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コメント

この項、京都検定2級合格者にも読ませました。
司馬遼もこの本読んだのでしょうか、興味深いですね。

投稿: jiseizai | 2014年9月16日 (火) 09時51分

 司馬遼太郎は当然読んでいます。『竜馬がゆく』を書くために古書店に集めさせた資料は、当時の金で千二百万円くらいになったそうです。わたしが高校生・大学生くらいの頃ですからすごい金額です。
 そしてまるで写真を撮るように資料が読める人だったそうです。

投稿: 窮居堂 | 2014年9月16日 (火) 10時11分

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