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2014年9月19日 (金)

『汗血千里の駒』 2/2

 さて、この『汗血千里の駒』がベストセラーだったという話。
 『お龍と龍馬 蜜月の三カ月』(原口泉、東邦出版、2010)という本にはこう書いてある。

(皇后の夢に龍馬が出てくる前に)最初の龍馬伝といっていい新聞連載の小説が高知県の土陽新聞に載った。「天下無双人傑 南海第一伝奇」と銘打ち『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』と題して、土佐出身の自由民権運動家で文士でもあった坂崎紫攔が書いた講談調の連載小説である。
 (中略)
『汗血千里駒』は新聞小説なので毎回挿絵が入り、その絵の人気も手伝って大変な評判となり、それに目をつけた駸々堂ほか数社の出版社が、連載中から競うようにして単行本にして売り出した。この本によって、坂本龍馬の名は一躍全国区となった。
 坂崎は土佐の人間だから、幕末事情に詳しい人間が周囲にたくさんおり、そうした人物たちから話を聞くなどして小説を書いた。新聞連載は高知だけだったが、単行本化されるや全国でベストセラーになり、五十版を重ねたものもある。(P11)

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 『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』(鈴木かほる、新人物往来社、2007)にも、年表の明治16年の項に書いてある。

坂崎紫攔、龍馬とお龍の実伝を挿絵小説『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』と題して「土陽新聞」に連載、ベストセラーとなる。(P173)

 そしてこの『汗血千里の駒』の現代語抄訳である『坂本龍馬伝』(中村茂生、磯田和秀訳、東邦出版、2010)の帯にはこう書いてある。

明治16年、高知県で発行されていた「土陽新聞」に連載されて人気を博し、大坂や東京の複数の版元で単行本化されて話題に。
50版を重ねた
明治期のベストセラー!

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 ベストセラーという言葉からは、『竜馬がゆく』のように日本中で売れて評判になった状態を想像してしまうが、はたしてどうだったのか。

 明治のベストセラーというと福沢諭吉の『学問のすすめ』や中村正直の『西国立志篇』などが思い浮かぶ。しかしこれまで『汗血千里の駒』の名をベストセラ-・リストには見たことがない。
 念のため、瀬沼茂樹の『本の百年史 ベストセラーの今昔』(出版ニュース社、1965)と出口一雄編『出版を学ぶ人のために』(第一書店出版部、1980増訂版)をあたってみたが、明治期のベストセラーとしての記載はなかった。
 上記三冊の龍馬本の著者・訳者は学者・研究者という人たちらしいが、何を根拠にベストセラーと言っているのか、よくわからない。
 「50版を重ねた」と言っているので、50版という刊本があるのはたしかなのだろう。しかしその一版が何部で、全部で何万部、何十万部売れた、という話がない。どれほど評判だったか、という話もない。
 出版事情もちがうし、統計もなかった時代だけれど、そういうデータなしに、「ベストセラー」と言っていいのだろうか。何かあるのだったら提示してほしい。

 むろんまるで売れなかったということではない。
 筑摩書房の『明治文学全集第5巻政治小説集(一)』の月報の「政治小説の世界」と題した文の中で、木村毅(きむら き)がこう書いている。

「汗血千里駒」は、近ごろ大衆小説ではやりの坂本龍馬の、最初の傳記小説である。坪内逍遙博士なども、若いころこの書や、それから「近世紀聞」を読んで、維新革命の大たいの輪郭を知ったと書いておられる。

 坪内逍遙(1859~1935)の若い頃はだいたい明治十年代にあたる。その頃読んでいるというから、発行されてから何年もたたないうちに読んでいたと思われる。

 また、明治32年に、安岡秀峰という青年がまとめた、おりょうからの聞き書き「反魂香」は、最初に『汗血千里駒』の嘘のところを書く、と書いており、こんな短評も附記されている。(当時の投稿文学雑誌『文庫』に掲載された)

『汗血千里駒』は、わが五六年前まで愛読せし書の一つにてありき。歴史七分、小説三分ともいふべき作なれど、随分、手際よく書き成せしものなれば、そのころの我は、物のあやめも解たず、全然の正史とまで信仰したりき。(以下略)(烏水)。
(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』に収録、p182)

 この短評を書いた烏水(うすい)というのは、あの登山家・紀行文学家の小島烏水である。この雑誌の常連投稿家から、投稿を批評する側になっていた。明治32年に「五六年前まで愛読」というから、二十年代に読んでいたことになる。

 同じ明治32年に、土陽新聞には川田雪山という青年の「千里駒後日譚(せんりのこまごじつのはなし)」も掲載されており、こちらも、おりょうから昔の話を聞いて書き留めたものである。
 おりょうからの聞き書きをまとめた二人の青年も当然『汗血千里駒』の読者であり、中には、おりょうが『汗血千里駒』の内容の不満を述べるところもあるから、おりょうも読んでいた。

  文芸評論家の尾崎秀樹は、民権運動から帝国議会開設(明治23年)までの間を第一次維新ブームの時代と言っていたそうだ。(第二次は大正末期から昭和初期。第三次は明治百年が騒がれた昭和四十年代はじめ。)
 この頃、西南戦争や明治14年の政変を経て、明治政府もそれなりの形を整え落ち着いてきて、明治維新についてあれこれ検証するような動き、あるいは薩長政府に反駁するかたちで事実の掘り起こしなどが行われるようになったのだろう。

 その維新ブームのせいか、『汗血千里駒』は、若い坪内逍遙小島烏水も読んだ。龍馬の知名度もかなり上がったようだ。相当数売れたのは間違いなさそうだ。しかし、「ベストセラー」という言葉をあてはめていいものかどうかは疑問が残る。
 連載された土陽新聞は土佐の地方新聞であり、本の内容も、明治維新で土佐がどれほど頑張ったか、土佐の内情はどうだったに力点が置かれている。土佐の誰々はこういう働きをした、誰々はこうだった、という話も多い。
 土佐ではベストセラーだったかもしれないけれど、全国的な人気を博すというところまではいかなかったのではないか。維新史に興味を持った人々の間で広く読まれたのは確からしいが。

 なぜこれが気になるかというと、現在「ベストセラー」という言葉でわれわれが考えるほど売れて有名になったのなら、きっと横須賀の片隅にいたおりょうにもスポットライトが当たったにちがいないと思うからだ。

 『汗血千里の駒』の連載は明治16年(1883)だから、それ以後単行本が全国的なベストセラーになっていれば、明治20年頃には、おりょうもそれなりの有名人になっていたはずだ。それなら地元の新聞に近況が報じられるとか、あってもよさそうだが、これまでのところそういう史料は見つかっていない。
 明治24年に坂本龍馬、中岡慎太郎に正四位が追贈されたときにも何もない。これは坂本家から離れて再婚していたおりょうには、そもそも関係ないこととして行われたのだろうけれど。
 前述のように、明治32年には、維新史に興味を持った二人の青年があいついでおりょうのもとを訪れ、聞き書きを発表した(上掲『文庫』の「反魂香」、土陽新聞の「千里駒後日譚」など)。
 「反魂香」は、作家の長谷川伸が、若い頃におりょうの回顧談を『文庫』で読んだと書いていたことから、後日発掘されたものだそうだ( 『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p10)。だから読む人は読んでいたけれど、そのまま埋もれていたくらいで、全国的な反響があったわけではない。土陽新聞もそうだろう。
 
 明治37年、皇后の夢に龍馬が現れたことが全国に報道されてから、ようやくおりょうの存在も世に知られ、新聞に病気で「悲哀なる境遇」であることが報道された。そして横須賀鎮守府司令長官や篤志家から救護が与えられたが、明治39年1月、おりょうは死んだ。

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コメント

現在何部売れたらベストセラーと言われるのですか?
明治の中頃の日本の人口はどの位だったのでしょうかね?
今みたいに出版社も多くないでしょうし、、。

投稿: jiseizai | 2014年9月19日 (金) 11時09分

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