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2014年10月

2014年10月31日 (金)

正蔵・喬太郎ふたり会

 10月19日は、また鎌倉芸術館の「かまくら名人劇場」へ行った。今回は林家正蔵・柳家喬太郎ふたり会」。
 これは三回共通のチラシの裏面。赤で囲ったのが今回である。

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出し物は、

林屋なな子  元犬
柳家喬太郎  小言幸兵衛

(中入り)
林家二楽    紙切り
林家正蔵    ねずみ

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 前座の林家なな子の「元犬」は元気があっていい。まだ身体のしぐさはいまいち。

 喬太郎の「小言幸兵衛」は、人を見れば小言を言わないではいられない家主 幸兵衛が、長屋の空き部屋を借りに来た者にいろいろ難癖をつけて結局ことわってしまう話。
 年頃の若い息子を持った仕立屋には、引っ越してくると長屋の若い娘と心中事件を起こすに違いないと言い出して、あれこれ妄想がはじまる。だんだん芝居仕立てになったりして、家主一人別世界へ入って行くが、「南無阿弥陀」のセリフが入るところで宗旨をたしかめて、「南無妙法蓮華経、ドンツクドンドンツク」とやり出したり、ときどき変にリアルになってしまう。このあたり、喬太郎はうまい。表情が豊かでおもしろい。
 突然とんでもない大声を出して驚かせるのは、喬太郎の芸のひとつらしい。前に見たときもやっていた。本当に突然やるので、ビクッとしてしまうくらい。すごい声量だ。

 二楽の紙切りも楽しい。出されたお題にあわせて絵を切り出すだけでも相当年期のいる技だ。それを身体をゆすることで客の目を集め、あれこれしゃべって間を持たせながら、退屈させないでやっている。ふしぎな芸能だ。

 正蔵の「ねずみ」は左甚五郎もの人情話。後妻と番頭の悪だくみで老舗旅館をのっとられた老主人が、まだ小さい子供と貧乏旅籠を細々とやっている。子供が客引きをして泊めた甚五郎が、話を聞いて、木のねずみを彫ってくれた。これが本物のように動きまわるので評判になり、大繁盛する、という話。
 正蔵は、声がどうもいけなかった。しゃがれてかすれるような感じで、聴き取りにくかった。テレビドラマなんかで見たときにはこんな感じはなかったので、今回はのどの調子が悪かったのかもしれない。ちょっと残念だった。

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2014年10月28日 (火)

岬の喫茶店

 17日、横浜へ帰る途中、鋸山のすぐ下の明鐘岬(みょうがねみさき)の喫茶店へ寄ってみました。
  最近、吉永小百合の映画「ふしぎな岬の物語」で、突然有名になったところです。
 ここに喫茶店があるらしいことは知っていましたが、フェリー乗り場に近すぎるので、ここで休憩する気にはならず、行ったことはありませんでした。
 このあたりの、海と鋸山の間を通る街道は、明治時代にトンネルができるまでは、難所とされていたところだそうです。

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 映画の原作、『虹の岬の喫茶店』(森沢明夫、幻冬舎文庫、2013)の内容案内には、こうありました。

トンネルを抜けたら、ガードレールの切れ目をすぐ左折。雑草の生える荒地を進むと、小さな岬の先端に、ふいに喫茶店が現れる。そこには、とびきりおいしいコーヒーとお客さんの人生にそっと寄り添うような音楽を選曲してくれるおばあさんがいた。

 そのとおり、何もない岬の先端にぽつんと小さな喫茶店がありました。

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 白い建物はトイレで、右側が喫茶店です。まだ金曜日で平日ですが、一杯でした。できれば昼食を、と思っていたのですが、この混み具合では、フェリーの時間もあるのであきらめました。
 吉永小百合のようなおばあさんがやっているというわけではなく、この店が小説・映画のモチーフ=動機・きっかけになっているということで、いわゆるモデルにした、のとはちょっと違うようです。

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 まわりの景色を見て、帰ります。いいところです。

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 三浦半島方面がよく見えます。

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 ちょっと前まで、知る人ぞ知るという店だったらしいけれど、現在は房総観光のホットスポットになっているようです。駐車場にはこんなに車がとまっています。
 ちょうど鋸山の裏側が見えます。石を切り出した跡が崖になっています。

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 そのうち映画を見に行きたいと思っています。

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2014年10月25日 (土)

秋のみのり

 4カ月もほったらかしたので、草が茂り放題、荒れ放題なのは覚悟していました。それでも秋になって、果樹は実をつけてくれていました。
 これは富有柿。二本あって、こちらは摘果をちゃんとやった方。ずいぶん落ちてしまい、鳥がつついたのもありました。

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 上の写真はもう秋の終わりみたいですが、摘果が終わっていなかった方の柿はこんな状態で、秋の盛りです。
 来月また来られるかどうかわからないので、二本とも、できるだけとって帰りました。甘さはいまいちでしたが、一応食べられました。

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 夏にもう一度摘果する予定だったキウイは、数は多くても、やっぱり実が全体に小さいようです。Dscf9350
 摘果して、取った小さい実を大事に持ち帰りました。しばらく熟成して食べられるかどうか、試してみます。

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 温州ミカンが例年になくたくさんの実をつけた、というか、これはつけすぎです。これもきちんと摘果して肥料をやるべきでした。

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 色づきはじめたのもあります。みんな皮が固い。これも摘果したのを持ち帰って食べてみました。食べられないことはないが、かなりすっぱい。

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 甘夏の実は三つだけですが、来年期待です。

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 レモンは、実が少ない。どうも一部の枝は病気か虫かにやられたようです。

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 ビワへの夏の施肥を、毎年かかしたことはなかったのですが、今年はこんな時期になってしまいました。ちゃんと花芽をつけてくれていますが、来年の収穫はどうなるか、天候とともに心配です。

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 グアバです。いつも食べられるところまではいきません。

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 畑だったところは、トゲトゲ雑草のコセンダングサが一面にひろがっています。ただの草っ原になってきました。

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 ブタクサもあちこちに見られます。

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 それでも雑草の中で、ひとかたまりになって咲いている花もあります。
 キバナコスモス。

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 ホトトギスという名前だそうです。

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 あとはいつもの花たちです。

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2014年10月22日 (水)

ハチ難去ってまたハチ難

 10月15日から17日まで南無谷へ行っていました。ほとんど4カ月ぶり、これまでの最長記録です。夏の暑さや、夫婦揃って日程・体調ともにいいときがなかなかなかったりで、こんなに間があいててしまいました。

Dscf9027 今回いちばん気がかりだったのは、ブルーシートにくるんだまま放置してきたダンボールの中のスズメバチの巣。殺虫剤をめいっぱい噴霧したので、まさか生き残っていることはないと思うけれど、確認するまでは心配です。

Dscf9325_3 南無谷へ着いた15日は朝から雨だったので、外での作業はできません。 ともかくベランダのダンボールの梱包をときました。羽音も聞こえず、ダンボールをたたいてみても、前回のようなガサゴソ動く反応はない。よし、と開けました。

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 ひからびた巣と、ハチの死骸が少しありました。ひろって、シートの上に広げました。巣にある白いものはひからびた幼虫です。

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 来年も巣作りのシーズンには注意して、早めに対応しないといけないなと思っていたけれど、ともかくこれでハチ騒動は一件落着したと思っていました。
 ところが翌日の夕方、庭の中央にあるソテツが伸び放題になっていたので、下から葉を少しずつ落としていったら、こんなものが現れました。

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 おどろきました。ハサミの刃がぶつからなくてよかった。
 直径十センチくらい、わたしの握りこぶしくらいの大きさでしょうか。ハチはそんなに大きくない。幸いスズメバチではなさそうです。アシナガバチでしょうか。
 下から見上げると、こうなっていました。おそるおそる撮ったので写真がぶれています。数十匹はいそうです。

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 とにかく暗くなってハチが静かになるのを待って、またハチ・ジェットで退治することにしました。
 ところがハチ用だとばかり思っていた新品のスプレーは、カミキリムシの幼虫退治用でした。前回ハチ用は全部使ってしまっていました。
 しょうがないのでそのままにして、明くる朝、見てみると、ハチはこんなになっていました。

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 きちんと行儀よく一列に並んでいます。アシナガバチがこんなに寝相がいいとは知りませんでした。下の方もこうです。

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 上ほどではありませんが、だいたい行儀よく並んでいます。アシナガバチは寝るときには、おいそっちから順番に詰めろよ、とかやっているのでしょうか。
 買物に行って、ハチ・ジェットも買ってきましたが、帰って来たときには、もうハチの活動ははじまってしまいました。

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 だから、アシナガバチの寝相のいいのに免じて、今回はこのままにして、横浜へ帰りました。
 ウィキペディアにはこう書いてありました。

 アシナガバチはおとなしい性格で,巣にいたずらをしなければ,ほとんど刺してくることはない。 むしろ、蛾や蝶の幼虫を駆除してくれる大変な益虫である。アシナガバチの駆除をしない市町村は増えているが、駆除業者にとっては美味しい仕事である。

 だとすると巣を取り払うのもちょっとかわいそうですが、家の出入口の前をブンブン飛び回られるのは困ります。それにスズメバチがアシナガバチの巣を襲いに来ることもあるそうです。
 次に行くまでに子育てを終えて出て行ってくれればいいけれど、このままだったら、やっぱり撤去しなければなりません。

 

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2014年10月19日 (日)

魚龍の話もう少し

 前回の、酒浸りのおりょう で紹介した『歴史読本』の鈴木魚龍からの聞き書き記事は、おりょうが「とんでもない鉄火婆さん」だったことを強調しすぎているように感じられる。
 そこで高橋恭一の『坂本龍馬の妻りょう女』(横須賀観光協会、1968.12.15)という本にある鈴木魚龍からの聞き書きも見てみる。

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 わかりにくいかも知れないが、表紙の写真は、昭和43年(1968)のNHK大河ドラマ「竜馬がゆく」でおりょうを演じた浅丘ルリ子である。ちなみに竜馬は北大路欣也だった。
 ちょうど明治百年にあたり、龍馬ブームの年でもあった。その12月に横須賀観光協会から発行された、横須賀の郷土史家によるおりょうの伝記だから、このあたりが「おりょうさんの街」のはじまりだったのか、という気がする。

 「昭和十一年私の訪問を喜んで次のように話してくれた。」と魚龍、鈴木清治郎からの聞き書きは始まる。

りょう子は龍馬の死んだ後、土佐の龍馬の姉さんの処に居たが、ともにその性格が合わなかったので、そこを飛び出してしまった。それから龍馬の親友だった人達の間を転々として渡り歩いていたらしい。伯爵香川敬三のもとに土方久元の処にもいたが、何しろ奔放で自堕落で、その上一升酒を飲む女だったから、そのような華族などの堅苦しい生活は窮屈でたまらなかったことだろう。とどのつまりは淪落の女となって神奈川の某茶屋に女中として現われるような運命に落ちてしまったのだ。
その当時、横須賀造船所の建設がはじめられていたので、東京からいろいろの資材を伍大力という船で運搬するつまり回漕業を商売として大へん景気がよかった西村松兵ヱが、横須賀からの東京へ帰る途中、度々神奈川に寄り込んでその茶屋に遊んだものだった。その茶屋には一きは秀れて美しい女中が居った。それがりょう女で大柄でうるんだ情けの深そうな眼鼻も口も大まかに、そして色白で頭の毛は濃く、それで居て無類と鉄火ないわば姐御肌の女で、いくらでも酒を飲むというしろものだった。すっかり松兵ヱと意気投合してしまい遂に夫婦約束も出来て、横須賀へ来て世帯をもつことになったのだ。(p64)

その後、松兵ヱは商売に失敗して観念寺の祖師堂(龍本寺)の下の米が浜にあった棟割長屋の二畳と四畳半のきたない家に住んでいた。(今の米が浜一丁目国分医院の辺)そして松兵ヱは「ドッコイドッコイ」という露天の大道商売をしていた。露天商というものは晴天の時でなけりゃ収入もない。「露天商人を殺すに刃物はいらぬ。雨の十日も降ればよい。」という諺歌もあるくらいで、露天商となった松兵ヱもその家計には閉口していた。ところが龍子は、家に居ってもどこへも出ないで酒ばかり飲んで。「龍馬の女房だったのだ」といばってばかりいたものだ。(『坂本龍馬の妻りょう女』(p65)

 ろくに収入もないのに酒を買ってはおりょうに与えなければならない松兵ヱの苦労は一通りではなく、魚龍は米や味噌などを貸して遣ることもたびたびだった。

 ということで、活き活きした会話などはないが、内容は『歴史読本』の記事と大差ない。
 ただ、神奈川の茶屋にいたおりょうの容姿の形容が「大柄でうるんだ情けの深そうな眼鼻も口も大まかに、そして色白で頭の毛は濃く、それで居て無類と鉄火ないわば姐御肌の女で、いくらでも酒を飲むというしろものだった」と、ほとんど歴史読本と変わらない。これはひょっとすると、高橋氏自身の記録・記憶だけでなく、歴史読本の元になった『サンデー毎日』を参照しながら、書かれたのではないかという気がする。

 それと『歴史読本』の方では、泊めてもらってから後、松兵ヱからあれこれ聞いた話はあるが、何度も訪問したというような話はなく、二年後、おりょうが死んだときも知らなかったと言っているのに、こちらでは家ぐるみの親しいつきあいがあったようになっている。

 また横須賀鎮守府や工廠の首脳部たちが、坂本龍馬の妻が住んでいることを知って、士官たちから募金を集めてたびたびおりょうに贈ったとも書かれていて、高橋氏は、これからおりょうが松兵ヱを尻にしくようになったのかも知れない、と言っている。
 これが明治37年以前からあったことなのか、魚龍が泊めてもらった明治37年の2月がちょうど当時の皇后(昭憲皇太后)の夢に龍馬が現れたときだが、それ以降の話なのか、よくわからない。
 2月に魚龍が訪れたときにはもう完全に尻に敷かれていたわけだから、募金が原因ならそれ以前から募金があったということになるが、新聞記事に募金の話などが出てくるのは夢以後のようだ。夫婦でどちらが威張るかは、金だけの問題ではないだろうけれど。
 

 おりょうが病気になったころについて、魚龍のこんな話もある。

妹の光枝も海軍の下士官に嫁いでいたが、未亡人となって松兵ヱ方にころがりこんで来て、目明き按摩までしていた。(『坂本龍馬の妻りょう女』(p71)

 だから松兵ヱはほんとうに大変だったということだが、魚龍が訪れた時には、光枝が同居していたような様子はない。この妹の同居については、また別の問題が生じたという話もあって、ややこしいが、その話はまた今度にしよう。

 そして葬儀は、知人や隣人の助けでささやかに行われ、遺骨は横須賀大津の信楽寺に埋葬された。高橋氏は、これも住職と親しかった魚龍が世話したものだろうと言うが、『歴史読本』の方では、死んだことを知らなかったと魚龍は言っている。このあたりもわからない。
 その後のおりょうの墓の建立にあたって、魚龍の力が大きかったのはたしからしい。

金儲けにこれを利用しようとした者が相当にあったようだっただけに、これらを排してての建碑についての苦心はなみたいていのことではなかった。当時の皇后宮大夫の香川敬三さんに話を持ちかけて、資金として百五十円のお金を貰い、これを基金として建碑の募金をした。ところが幸いのことに、理解ある人たちの援助を得ることができた。この募金の取扱など一切は自分が引受け新原住職と松兵ヱの二人が賛助人ということで、工事を進め、実妹の中沢光枝がこれを建てたということにした。(『坂本龍馬の妻りょう女』(p74)

 高橋氏には工藤の話はしなかったのか、不確かな話なので高橋氏が書かなかったのか、これもわからない。
 おりょうの三十回忌にも魚龍は貢献し、昭和11年1月7日の報知新聞神奈川版には次のように、魚龍の談話が掲載されているという。

龍子の墓碑は畏くも日露戦争当時昭憲皇太后様の御夢枕に坂本龍馬が立ったといふので、坂本龍馬と同輩の香川敬三から二百五十円の寄附を仰ぎ建立したが、当時追善法要も残った金が僅かに二十銭しかないのでやることが出来ず、今日までやらずじまひといふ訳です。十五日が三十回忌に相当するので海軍関係の人々も盛大にやるつもりです。実際、龍子が死んだときは葬式も出来ず町から寄附をもらってやったほどで、志士の妻としての龍子の末路は可哀さうだった。(『坂本龍馬の妻りょう女』p75)

Photo_4     (『史料が語る坂本龍馬の妻おりょう』p151より)

 高橋恭一氏のこの本、横須賀市の戸籍調べのような事実調査の話と、さまざまな龍馬小説に描かれたおりょうの姿をつないでまとめたようなところがある。できるだけ読みやすいものにしたかったのだろうけれど、事実だけで書いた方がよかったのではないか。
 魚龍の聞き書きも、もう少し詳しく書いてくれていればと残念だ。

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2014年10月16日 (木)

酒浸りのおりょう

 おりょうの墓には、建立の賛助人として、西村松兵衛鈴木魚龍(ぎょりゅう)、新原了雄(にいはらりょうゆう)三人の名前がある。西村松兵衛は夫、新原了雄は当時の信楽寺(しんぎょうじ)の住職である。
 鈴木魚龍は本名清治郎(せいじろう)。足が悪かったこともあり、若い頃から易者をやっていて、大道商人だったおりょうの夫松兵衛の商売仲間でもあった。といっても松兵衛より三十数歳年下で、ずっと若い。
 その魚龍が若い頃に、松兵衛宅を訪れておりょうに会ったときの懐古談が、『歴史読本スペシャル1989年5月号』に載っている。
 もとは『サンデー毎日』昭和15年1月21日号に載った記事で、このとき魚龍は横須賀の堀之内で提灯屋をやっていたが、翌年の昭和16年3月30日に60歳で死亡している。

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 「日本史の目撃者」特集で、「歴史の決定的瞬間に立ち会った目撃者たちの貴重な証言」というわけだが、魚龍の「易者が語る坂本龍馬夫人お龍の酒浸りの日々」の記事は、ちょっと歴史の決定的瞬間とは言いがたい。袖見出しには「いやどうも、とんでもない鉄火婆さんだったよ」と書かれ、リード(前文)はこうなっている。

 場所は横須賀の観念寺、裏長屋のちゃちな家を占領する豪勢な婆さん――。大道易者鈴木老人が、隣で店を出す松兵衛の家に誘われて行くと、大酒飲みでやたらに威張り散らす「同居人」がいた。彼女は何と幕末維新の英雄、坂本龍馬の妻、お龍だったのだ。龍馬が愛したといわれるお龍の男まさりの気性。後に、お龍の墓まで建てることになる鈴木老人の懐古談は、”その後のお龍”をいかんなく伝える。(p250)

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 内容がどこまで信用できるかはともかく、魚龍の話を読んでみよう。

 横須賀の海兵団(海軍横須賀鎮守府に設置されていた陸上部隊)近くの草っぱらに、工廠の職工や水平相手の露店街があった。そこで魚龍は西村松兵衛の「どっこい屋」の店の隣りに易の店を出していた。「どっこい屋」というのは、カリン糖を並べて、ぶん回しのルーレットのようなものを回す。止まるところが当たったら、客がカリン糖を取れる、というものだった。
 松兵衛は、因業で、こすっからいエゴイストだったので、テキヤ仲間には人望がなく、あまり付き合う人もいなかった。
 ところが夕方からひどい吹雪になった夜、魚龍の家は観音崎で遠いからと、松兵衛がうちへ泊まれと誘ってくれた。(明治37年(1904)2月9日のことだというから、魚龍は二十三歳、松兵衛は五十九歳、おりょうは六十四歳くらいの頃である。)

 棟割長屋の、二畳と四畳半のその家へ帰って行くと、そこに、ちゃちな家いっぱいの豪勢な婆さんがいる。堂々とした、大柄な、眼も大きな婆さんだったが、いきなり、
「松兵衛帰ったかい」
 と頭ごなしだ。爺さん、うんとか何とかもそもそしていて、
「さあ、まぁ上んな、ここが、わしの家さ」
 という。婆さんが覗いてみて、
「なんだ、若造を引っぱって来やがったのか。おい若造、家(うち)ぃ来たって食うものはありゃあしないよ、おまんまがねえんだよ」
 というご挨拶だ。とんでもねえ変な婆(ばばあ)さ。気味が悪かったね。
「でも飲み残りの焼酎があらぁ。こいつを三人でぶっくらって寝るべい、おい松兵衛! 茶でも沸かしとくれよ、なに? なにをぶつくさあぶくを吹いてやがんだ。耄碌爺(もうろくじじい)のくせして、」さっさとしろよ」
 婆さんが爺さんに対する命令なんだ。
 焼酎を三人で飲んだ。婆さんが一ばん強い。茶碗で、ぐびり、ぐびりと引っ傾(かたむ)けるんだ。めんどくせいやといって、しまいには大肌脱ぎの大あぐらになった。豊満というか、太々とした、白い柔らかい餅みたいな肌をもった婆さんなのだ。
「若いの、おい飲まねえかい」
「もう飲めないよ、お婆さん」
「いくじのねえ。腹の立つときゃ茶碗で酒ぉ……とくらぁ、飲めどツルシャン、酔えぬツルテン……か」
 なぞとね、いやどうも、とんでもない鉄火婆さんだったよ。(p252)

 松兵衛を顎でこき使う、とんでもない婆さんに驚いて、後日松兵衛に聞いてみると、昔、羽振りのよかった頃、神奈川の茶屋で知り合って背負い込んだという。

「そうさ、あれは明治四、五年のころだったなあ、この横須賀に、政府の造船所ができてね、そのころ俺ぁ江戸からここの造船所へ物を納めに来る商人だった。当今でいやぁさしずめ、御用商人だね。だから景気がよかろうじゃあねえか。よく神奈川の茶屋で飲んだものよ。
 そのころ、その茶屋女の中に、ひときわすぐれて、みごとな女中がいたんだ。いい女だった。大柄で、うるんだ、情の深そうな、眼鼻も口も、大まかに、ぱらっとして、色白で、手が濃くて、それでいて、無類と鉄火な姐ご肌のやつで、いくらでも酒を飲みゃぁがる。
 そいつがすなわち、あの、いまうちにいる婆なんだ。年をとったから、だんだん婆さんになりやがったけど」(p254)

 ところが松兵衛はこの婆さんは自分の女房じゃない、一緒に住んでいても関係はないと言う。どういうわけで、と聞いても話そうとしない。いろいろしつこく聞いていくうちに、とうとう松兵衛は「実はあれぁ坂本の妻だった女でね」と言った。坂本とは誰だ、まさか坂本龍馬ではあるまいと聞くと、その坂本だという。
 興味にかられて、それ以来松兵衛から、龍馬とおりょうの話をあれこれ聞いた。
 龍馬死後のおりょうは、姉の乙女と性格が合わず、土佐を飛び出して、龍馬の知り合いだった人々の間を転々としていたらしい。

 伯爵香川敬三(かがわけいぞう)のもとにもお世話になっていたし、また、もとの宮内大臣だった土方久元(ひじかたひさもと)のところにもいたのだが、奔放で自堕落で、一升酒を飲むような女だから、そうしたところの生活は窮屈でたまらなかったんだろう。ついに一所に長くはいなかった。
 とどのつまりが、淪落の女となって、神奈川の茶屋に女中として現れるような運命に落ちてしまったのだな。(p256)

 松兵衛宅にはじめて泊めてもらってから二年ばかりたった頃、明治39年、おりょうは、大酒のための脳溢血で死んでしまった。
 そのときは知らなかったが、二年ぐらいあと、石屋の二階に貧乏所帯を持った頃に、その石屋へ工藤なにがしという質(たち)のよくない三百代言みたいな男がやってきて、おりょうの墓を誂えにきた。それでようやく死んだのを知った。
 ところが、この五十円ばかりの墓をいくら待っても引き取りに来ない。石屋はしかたがないから、墓の文字を削り落として他で使ってしまった。
 大正三年に、新聞に坂本龍馬の記事が出たのを読んで、おりょうの墓だけでも建ててやりたい気持ちになって、香川敬三さんに相談した。すると、香川さんは、前に工藤某から墓を建てるといって七百円くらいだまし取られているという。
 それで工藤の件を松兵衛に聞いてみると、工藤が大半をせしめたが、松兵衛も一枚かんでいて、おりょうを食い物にしていたらしい。おりょうと同棲していながら、関係がないと言い張っていたのは、こういうわけがあったからだった。
 ともかく香川さんから百五十円の金を出してもらい、寄附金を集めたり、海軍の司令長官から石材をもらったりして、大津の信楽寺に「贈正四位坂本龍馬之妻龍子之墓」を建てた。
 
 

 以上が魚龍、鈴木清治郎のおりょうにまつわる懐古談である。
 昭和15年(1940)に聞いた明治37年(1904)の思い出話にしては、ちょっと会話が活き活きしすぎている。魚龍先生何度もこの話をして、定型ができあがっていたのか、あるいはサンデー毎日の記者が張り切って活写したのか。両方ともあるような気がする。

 おりょうを「大柄な」「大柄で」と言っているが、若い頃はどちらかと言えば小柄だったという話がある。太って、あぐらをかいて酒を飲んでいる姿が、魚龍には大きく見えたのだろうか。
 
 

 「工藤某」というのは、前に おりょうの写真 1/2 で紹介した、「東京二六新聞」の「坂本龍馬未亡人龍子」の記事の第一回(明治37年12月15日)に出てくる工藤外太郎(そとたろう)だろうか。

 龍子は近来中気に罹って在横須賀なる退職海軍々人工藤外太郎(そとたろう)なる義侠者の保護に余命を托し極めて悲哀なる詩的境遇に陥って居る、志士の未亡人として殊に時局に感奮せる者は誰しも同情の涙を禁じ得ないに相違ない。

 「退職海軍軍人」「義侠者」と書いてあるが、魚龍の言によれば、とんだ詐欺師だということになる。詐欺師だったとすれば、有名な龍馬の未亡人への見舞金やらその後の弔慰金を集めるために、新聞社などに自分が面倒を見ているんだと吹聴していもおかしくはない。

 この新聞の連載の第八回にも工藤外太郎は出てくる。龍馬が近江屋で襲われたとき、床の間には、龍馬が大切にしていた掛物が掛けてあった。

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◎其後近江屋で襲撃を受けた時、龍馬は一刀の下に脳天を砕かれ、其脳漿が床間に掛けてあった此掛物に迸り、稀世の俊傑が最期の惨状を追想さるべき紀念物として遺された。其一幅は現に龍子の保護者たる工藤外太郎氏の手許に在る。記者もこれを一見したが、當時の血痕斑々(はんぱん)として紙上颯然(さつぜん)腥風(せいふう)を生じ來るのぢゃ。

 この掛軸は現在、京都国立博物館にあるそうだ。坂本弥太郎という龍馬の親族が寄贈したという。工藤からどういう経緯で渡ったのか。工藤というのは詐欺師ではなかったのか。それとも掛軸もおりょうからまきあげたものなのか。
 この工藤外太郎については、よくわからない。本当に松兵衛と組んで墓の金をだまし取ったのかどうか。どなたか何かご存じでしたらご教示ください。

 この歴史読本の記事には作家の阿井景子の「おりょうの「夫」松兵衛の情愛」と題する解説がついていて、阿井はこう書いている。
 『汗血千里駒』がベストセラーになった明治17年以降、龍馬は国民的英雄になった。
 おりょうの存在を知った横須賀鎮守府や工廠の幹部たちが、募金を集めておりょうに贈り、龍馬に興味を持った記者や青年たちがおりょうのもとを訪れるようになり、それからおりょうは松兵衛に威張り出した。
 松兵衛は、威張るおりょうに辟易しながらも、龍馬の妻だった女を妻にした優越感をいだいていたに違いない、おりょうを食い物にしているという意識はなかったのではないか。
 威張られ、こき使われながらも大酒飲みの妻を養ったのは、おりょうに対する情愛があったからだろう。

 工藤についての言及はない。

 

 

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2014年10月13日 (月)

J61 『頭がよくなるユダヤ人ジョーク集』

 ユダヤ・ジョーク、続いては、烏賀陽正弘『頭がよくなるユダヤ人ジョーク集』(PHP研究所、2008)から。タイトルは仮にわたしがつけました。

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喜びと誇り(仮題)
ある日、サムが非常に驚いた。友人のソールが、憎悪と悪意に満ちた反ユダヤ主義の新聞を読んでいるではないか。そこでソールに聞いた。
「一体、なぜそんな新聞を読むんだ?」
「これを読むと、非常な喜びと誇りを感じるからさ」
「非常な喜びと誇りを感じる? さっぱりわけが分からないね」
「分からないの? ユダヤ人の新聞を読むと、ユダヤ人が殺害されたとか、暴行を受けたとか、暗い話ばかりだ。ところがこれを読むと、おれたちユダヤ人が、大銀行を所有し、強大な権力を持ち、世界を支配しているかのような記事ばかりだ。これを読んで喜びと誇りを感じないかね!」(p49)

散髪のお礼(仮題)
 ある日、散髪にやってきた客が、プロテスタントの牧師だと知ると、主人は言った。
「私はプロテスタントではありませんが、神の教えを布教する人を尊敬します。ですから代金はいただきません」
 一時間後、その牧師がやってきて、お礼の印として、豪華な革表紙の新約聖書一冊を、彼にプレゼントした。
 やがて、白いカラーを首につけたカトリックの神父が入ってきた。
「神父さん、私はもちろんカトリック教徒です。ですからお金は頂戴しません」
 神父は感激し、その一時間後に戻ってきて、主人に、見事な細工を施した十字架のペンダントをお礼にあげた。
 数日後、ある男がやってきて、散髪屋は、彼がユダヤ教のラバイ(聖職者)だと知った。
「私はユダヤ教徒ではありませんが、神の教えを布教する人を尊敬します。ですから代金はいただきません」
 ラバイは感激し、お礼の言葉を丁寧に述べて去った。その一時間後、先ほどのラバイがやってきて、知人のラバイを一〇人連れてきた。(p94)

歴史上の人物(仮題)
 ソールは懸命に就職先を探していた。自分にその資格があるかどうかは、どうでもよかった。ともかく働き口がほしかった。
 百科辞典出版社の担当者との面接に、運よくパスした彼は、人事部長との最終面接に臨んで、こう聞かれた。
「書籍を販売した経験は?」
「豊富にあります」
「大学でアメリカ史を専攻して、学位を持っているそうですが」
「その通りです」
「結構です。じゃこの用紙に記入次第、入社していただきます」
 部長がその用紙に書き込んでいる間に、ソールは、その立派な部屋を眺め回し、壁にかかっているワシントンとリンカーン大統領の肖像画を指差しながら言った。
「上品で立派な紳士ですね! 御社のパートナーでしょうか?」(p109)

縁の切れ目(仮題)
 聖職者のラバイを目ざすサムが、シナゴーグで懸命に勉強をしていた。ところが、訪問者がひっきりなしに来るので、集中して本を読むことができない。困り果てた彼は、父親に、どうしたらいいかを相談した。
 父親は忠告した。
「相手が金持ちなら、お金を貸してほしいと言えば、二度と来ないだろう。相手が貧乏だったら、お金を貸すがいい。二度と返しにはやって来ないからね!」(p121)

 

 おまけ。これは、加瀬俊一『ユダヤ・ジョークの叡智』(光文社、2003)から。Photo_3

時間を教えてください
 見るからに裕福そうなユダヤ人紳士と、貧しいユダヤ人の学生が列車で向かい合って、座っていた。
 もう、発車してから、三十分以上がたっていた。
 紳士のほうは、新聞を読み耽っていた。学生は、厚い学術書を読んでいた。二人はずっと黙っていた。
「あの、今、何時でしょうか?」
 と、学生が顔をあげてたずねた。
「教えたくないね!」
 と、紳士が新聞から目を離さずに、答えた。
「しかし、その金の鎖の先には、懐中時計がついているんでしょう? ちょっと、時間を教えてくださっても、よいでしょう?」
「たしかに、この鎖には時計がついている。でも、時間を教えたくない」
 紳士のチョッキから、見るからに高級そうな金の古い鎖が、下がっていた。
「それでも教えてくださるというのが、親切というものでしょう?」
「そこまでいうのなら、説明しよう。
 もう三十分で、目的の駅に着く。
 君も、そこで降りるかもしれない。
 そこには、私の娘、それも美しい娘が、わたしを出迎えている。
 君は、なかなか美男子だ。本を読んでいる態度を見ると、勉強もできそうだ。
 私が君に時間を教えると、それが切っ掛けになって、会話が始まる。
 私と一緒に駅に降りると、私は娘を紹介しなければならない。
 君は私の娘に、一目惚れするだろう。娘も、君に対して、好意をいだくにちがいない。
 そのうちに君は、私の家を訪ねることになる。妻と娘が、手料理をつくる。
 そのうちに君と娘が懇(ねんご)ろになって、結婚しよう、ということになる。
 しかし、時計も持っていない貧乏学生に、嫁にやるわけにはいかん!」(p188)

 

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2014年10月10日 (金)

J60 『ユダヤの笑話と格言』

ユダヤのジョークはこれまでに、22 ユダヤのジョークJ44 ユダヤ笑話集1J45 ユダヤ笑話集2でも紹介した。今回は『ユダヤの笑話と格言』(ザルチア・ラントマン編、三浦靭郎訳、社会思想社、1976)から紹介する。

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聞いてもむだ
 ユダヤの詩人で、随筆も書き、翻訳もしているダヴィド・フリッシマンは、有名な諧謔家だった。
 彼の本を出しているベルリンの出版社の社長と話していたとき、彼の唇が歪んで、皮肉な薄笑いを浮かべた。
 それを見て、社長は言った。
 「あなたが今、何を考えているか、教えていただけたら、二十マルク上げますよ。」
 「私が今考えているのは、一マルクの値打ちもないことなんだ。」
 「何をいったい、考えていらっしゃるんです。」
 「あんたのことだよ。」(p8)

 

新聞の論説
 レンベルクの詩人ヤン・シュトゥフは、しばしば、反ユダヤ系の新聞から攻撃を受けた。
 あるとき彼は、評論家の中でもいちばんしつこい男に、つぎのような手紙を送った。
 「私は今、便所に入って、あなたの論評を読んでいます。まもなく、私はそれをつかわせてもらうことでしょう。」(p9)

絵入りの祈祷書
 ワルシャワのヘブライ人の本屋に、同化したユダヤ人が入ってきて、言う。
 「絵入りの祈祷書が欲しいんだが……」
 本屋の主人はその顔をふしぎそうに見て、言う、
 「あんたの言うのはきっと、ハガダ、絵の入った過越の祭に読むあれでしょう。」
 「違う。」
 「それとも、絵入りのエスター書ですか。」
 「違う。」
 「じゃ、言ってください。祈祷書のどんな絵をあんたに出してみせればいいんですか。」
 「私の欲しいのはね」と、客は答える、「やってはいけないことが表になっている章に、みんながどんな風に罪を犯すのか、絵で説明してあるやつだよ……」(p126)

 

ユダヤの格言

・ユダヤの著作家は、たとえ飢えて死んでも、死後に生きようとする。

・ユダヤ人は、本を買うより、本を書く。

・序文のない本は魂のない肉体と同じだ。 

・ペンは矢よりも鋭い。

・言葉は、重さを計らなければいけない。数をかぞえてはいけない。(p12)

 

 おまけ。これは前に紹介した三浦靭郎・訳編『ユダヤ笑話集』(社会思想社、1975)から。

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祈祷書
 コップシュタインは、木曜日の午後、遊郭で、友だちのチトリンバウムとばったり顔を合わせた。
 コップシュタイン「きみはここで何をしてるんだね。」
 チトリンバウム「いや、家内が湯治場へ出かけたもんでね、それで考えたんだよ、この機会に……その‥ ‥まあ、こんなところに……いや、分ってるじゃないか。」
 コップシュタイン「ああ、その気持はよくわかるよ。だが、小脇にかかえている本は、そりゃ何だい。」
 チトリンバウム「祈祷書だよ。」
 コップシュタイン「冗談はよせよ。なんでまた、選りに選って祈祷書なんかもって行くんだね。」
 チトリンバウム「それがね――こう考えたんだよ、もし居心地がよかったら、安息日まで居続けをしてやろうと。」(p64)

 

誤植
 マルクス・ヘルツは、哲学者であり醫者でもあった。長いあいだ通っていた患者がばったり姿を見せなくなった。人づてに、その患者が医学書を手許において、自分で治療をはじめた、と聞いて、言った、
 「かわいそうに、本の誤植で死んでしまうだろうよ。」(p257)

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2014年10月 7日 (火)

吉井勇『或日の龍馬』

 歌人の吉井勇が、雑誌キングの昭和4年3月号(第5巻3号)に「或日の龍馬」と題する文章を発表していた。
 これが2009年に龍馬資料として発掘された。高知県立坂本龍馬記念館に展示され、高知新聞に報道された。ネットに一部引用されているので、全文をを読みたいと思ってさがしたら原物が見つかった。
 状態がいいとはいえないが読むにはさしつかえない。裏表紙は「美顔水(びがんすい)」の広告。なつかしい。子供のころ、うちで使っていた。

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 「ある日の信長」や「ある日の芭蕉」などと並んで載っている。本文の肩には小さく「或日小説」と入っている。この号がたまたま「或日小説」の特集だったのか、それともキングには「或日小説」というジャンルがあって毎号掲載していたのだろうか。

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 吉井勇の祖父、吉井幸輔(のち友実(ともざね))は薩摩藩の志士として西郷や大久保と共に活動し、維新後は要職を歴任し伯爵になっている。
 龍馬が寺田屋で襲われたときには薩摩藩邸に避難させて護衛をしている。その後龍馬ととおりょうの薩摩への新婚旅行の案内役もつとめた。
 これはそのとき十歳ぐらいだった吉井幸輔の長男の吉井幸蔵が、晩年になってから息子の吉井勇に語った、龍馬とおりょうの思い出話である。
 子供のころの思い出であり、吉井勇の潤色もあるかもしれないので、内容をどこまで信用できるかは別の問題として、なかなかおもしろい。全文を転記してみた。

 原文は旧字旧仮名である。転記にあたっては、できるだけ原文のまま、と思ったが、PCでは表記できない旧漢字があるし、総ルビを全部括弧書きにするのは読みにくくなるばかりである。「青空文庫」のルールに従うことも考えたが、ルールを憶えるのが面倒だった。
 結局、表記もかなづかいも、わたしの判断で適当にやったとしか言いようがない。転記ミスも当然あることと思うが、後日訂正したい。

 著作権の問題はないと思われるので、わたしのように、引用を一部読んで全文が読みたくなった方のために、ともかくここに載せる。内容の話はまた後日。

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或日の龍馬     吉井勇Photo_5

 一昨年の二月頃のことであった。私は寄贈を受けた「雋傑(しゅんけつ)坂本龍馬」を携へ、一年ばかり前から房州布良(めら)の海岸に病を養いに行ってゐる老父の見舞いに出懸けて往った。
 父は海に臨んだ斷崖の上に建てられた家に住んでゐたが、もうその時は病がかなり重くなってゐて、どっと床に就いたまま暗い日々を送ってゐた。そこに着いたのは夜に入ってからだったが、父はまだ起きてゐて、私の持って往った「雋傑坂本龍馬」を手にすると、
『坂本さんの顔はまだよく憶えているよ』
 と云ひながら、その本の巻頭にある龍馬の寫真にじっと見入った。白い髯の長く延びた父の顔には、遠い少年時代を懐かしんでゐる心持がありありと見えた。
『鹿児島では小松さんの家(うち)にゐられたが、あれはおれの七つ位の時だったろう。』
 さう云って父は本を閉ぢると、瞳をじっと天井の方へ向けたが、その目は微かに潤んでゐた。風が強いので斷崖の下の方からは、闇をどよもすやうな濤聲(たうせい)が、もの凄じく響いて來た。
 これはその翌日老父から聴いた、追憶談の一節である。従って以下「私」と云ふのは、私の父のことであると思って讀んでいただきたい。
   ――――――――――――――
 私の子供の時分には、父(その時分幸輔、後に友實(ともざね))は國事に奔走して、殆んど家にをられなかったから、顔を見る機會も稀であった。偶に家に歸って來られることがあっても、その自分まだ生きてをられた祖父の慈山翁(じざんをう)と、何か二言三言話をされた位で、直ぐにまた出て往かれた。私はその頃まで殆んど祖父の手ひとつで育てられたと云ってもよかった。祖父は口數の少ない、いつも何か考へてゐるような顔附きをした方だった。
 と、やっぱり父が長い間京都の方へ往ってをられた留守、冬が過ぎて春になりかけの、或る晴れた日の朝だった。ぼんやり窓から甲突川(かふつきがわ)の方を見てゐると、毎朝散歩に出かける癖のある祖父が、いつになく慌ただしげに歸って來て、突然私に云はれるのだった。
『おう、一袈裟(いちげさ)。お父さんが歸って來られたぞ。』
 一袈裟と云ふのは私の子供の時分の名前で、何袈裟(なにげさ)とか何熊(なにくま)とか云ふ名前を、鹿児島の人はよく附ける。が、私が默ってゐると、祖父はまた言葉をつづけて、
『それでな、今わしは會うて來たんだが、お前をこれから小松さんの家へ伴れて來いと云ふことぢゃ。同伴(つれ)があるので當分ここには歸らぬらしい。』
 と云って直ぐに私を小松さんの家へ伴れて往かれた。小松さんと云ふのは小松帯刀さんのことだ。

1
 座敷に入るとそこにはがっしりした體附の、眼の鋭い、三十一二位の男と、悧巧さうな二十四五の女とがゐたが、父は私を見ると傍へ呼んで、
『坂本さん、これが私の長男です。』
と云って、その男に紹介(ひきあ)はせた。と、その男は大きな聲で、『こりゃあおやぢより出來がいい』と云ふやうな意味のことを云ったが、それは他國の音(おん)だったので、子供の私にははっきり聴き取ることが出來なかった。この『坂本さん。』と父の呼んだ男が坂本龍馬で、同伴の女はその愛妻のお龍だった。
 父はずっと京都から龍馬夫婦と一緒で、大坂から薩摩の汽船三邦丸に乗って來たと云ふことは、三人の話を聴いてゐるうちに私にも分った。
『一袈裟。坂本さんのことは誰にも云うてはならんぞ。』
 父からさう云はれてゐたので、私は誰にも云はなかったが、その後私はよく祖父の使ひで小松さんの家へ往って、西郷さんや何かを相手に議論をしている坂本さんに會ふことがあった。坂本さんは寺田屋で怪我をした後で、體が大分弱ってゐるらしく、顔色もあんまりよくなかった。で、私の父が勸めて、間もなく坂本夫婦は霧島山の傍の日當山(ひあたりやま)温泉に出懸けて往った。私も父に伴れられて、その温泉まで坂本夫婦と一緒に往ったが、その後間もなく私たちは潮積(てうせき)と云ふ温泉に移った。
『おい、坊主。一緒に來い』
 さう云って坂本さんは私を伴れて、よく近所の谷川に釣をしに出懸けたが、坂本さんは釣はあんまり上手ではないと見えて、いつも餌を取られてばかりゐた。
『はゝゝゝ、太公望だ。わしのは魚を釣るんぢゃないぞ。』
 坂本さんはそんな負惜しみを云って笑っていたが、そんな時でもお龍さんは、ずっと傍に附いてゐて、子供の私にさへ目にあまるやうなことが度々あった。如何(どう)もお龍さんと云ふ女は、どっちかと云へば蓮葉(はすは)と云った様な性質(たち)だったらしい。
 坂本さんはかうして魚がちっとも針にかからないのにもかかはらず、釣が好きで、この温泉にゐた十日ばかりの間に、四五度(たび)近所の川へ出懸けて往った。が、坂本さんには釣よりももっと好きなものがあった。それはピストルで小鳥を撃つことである。
『おい、坊主。一緒に來い』
 例の通り坂本さんは、打(ぶ)っきらぼうな調子でさう云って、私を伴れてぶらぶら懐手をしながら近所の森へ出懸けてゆく。無論お龍さんも一緒で、しなだれるように寄添って歩いてゐるかと思ふと、急に怒ったやうに離れてしまって、何時(いつ)までも口を利かずにゐるやうなこともある。兎に角(とにかく)私は子供心にもお龍さんが一風變った女のやうに思はれてならなかった。が、坂本さんにはその變ってゐるところが氣に入ってゐるらしい。
 温泉から五六町往くと、昔和氣の清麿が其の近くに庵を結んだと云ふ陰見瀑(かげみだき)と云ふ瀑(たき)があって、それから少し往くとこんもりした森があって、そこが坂本さんのいつも往く小鳥撃ちの場所だった。坂本さんの持ってゐるピストルは、その時代としてはかなり新式のものらしく、それにピストルの方は釣とは比較にならない位うまかった。
『坊主。見てゐろ。落すぞ。』
 坂本さんが片目つぶって覘(ねら)ひをつけると、枝に留まってゐる鳥ならば、十中八九は、射落とされた。
『坊主。拾って來い。』
 さう云はれるので私が駈け出して往って拾って來ると、死骸を見るなり顔をしかめて、
『ええ、棄ててしまへ。』
 と怒鳴るやうに云った。小鳥がまだ死に切らないで、血だらけになって藻掻いてゐる時なぞは、一層語氣が荒かった。

2
 或る日のことだった。わたしはやっぱり坂本さんに伴れられて、いつもの森に出懸けて往った。その日はぽかぽか温かい、木の芽の匂がぷんと漂って來るやうな日で、目の前に聳えてゐる霧島山の山の襞さへはっきりと分る位、空はからりと晴れ渡ってゐた。が、坂本さん夫婦の間には、何か氣まづいことでもあったらしく、二人とも妙に沈んでゐるのが、子供の私にもはっきりと分った。
 いつもの森に來たけれども、その日は如何したものだか、まるで小鳥の影さへなかった。何處かで囀る聲だけが聴こえて、姿がまるで見えないのだから、機嫌の惡い坂本さんは、一層苛苛(いらいら)して來たらしく、だんだん顔が蒼ざめて來ると同時に、蟀谷(こめかみ)のあたりがぴくぴく動いた。
『お龍さん。』
 坂本さんは何を思ったか、さう呻くやうにお龍さんの名を呼んでから、突然森の奥の方を目蒐(めが)けて、續けざまにピストルを二三發撃った。で、暫くじっと凄まじい反響(こだま)の音に耳を傾けてゐたが、急に體を搖り上げるやうにして、大きな聲を立てて笑ひ出した。
『はゝゝゝゝ、もういいよ。もういいよ。お龍さん。さあ、仲直りをしよう。』
 お龍さんの手をじっと握った坂本さんの目からは、私に取っては思ひがけない涙が、とめどなく頬を傳って流れ落ちた。
 私達はそれからまた更に山奥の霧島温泉に往き、坂本さん夫婦はそこにゐる間に、二人きりで霧島山に登った。その時は二人もう仲が好くって、降りて來てから父に向って、頂上に立ってゐる天(あま)の逆鉾を、二人で抜いて見たと云ふことなぞを、笑ひながら話してゐた。
 私は坂本さんと云ふと、きっとあのピストルの音を思ひ出す。その後もう六十數年經ってゐるが、未だあの時聴いたピストルの音は、ありありと耳の底に殘ってゐるやうな氣がする。
   ――――――――――――――
 父はひどく衰へてゐたが、この話をする時には、微かに頬に血の色が見え、目には涙が光ってゐた。それを見てゐると私の目には、父の少年時代のいたいけな姿が、幻のやうに浮かんで來た。(終)

 

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2014年10月 4日 (土)

JB30 ユダヤのジョーク

 戦後のある時期までは、ジョークといえば粋なフランス小咄か、ウィットの効いたイギリス紳士のジョークということになっていた。今ではアメリカン・ジョークとユダヤ・ジョークが本流になっているようだ。そのユダヤ・ジョークの本。

123 ユダヤ笑話集

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   (書名)   ユダヤ笑話集   
     (著者)   三浦 靭郎 訳編
      (出版者)  社会思想社
      (形状)     文庫
      (頁数)     270
      (出版年)   1975/11/30
           

・実業之日本社の『ユダヤ・ジョーク集』(1973)『続ユダヤ・ジョーク集』(1974)が当たったので、続いて刊行されたと考えるのはまちがいだろうか。

・「名士のジョーク」の中から

天国と地獄
劇作家トリスタン・ベルナールは言った、
「天国の方が季候はいいそうだが、地獄には、仲間がたくさんいるからなあ」

 

124 ユダヤの笑話と格言

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   (書名)   ユダヤの笑話と格言   
     (著者)   ザルチア・ラントマン 編
                       三浦 靭郎 
      (出版者)  社会思想社
      (形状)     文庫
      (頁数)     207
      (出版年)   1976/11/30
                        (1988/08/30、16刷)

・ザルチア・ラントマン(女性)は東欧系のユダヤ人で、東欧のユダヤ人の文化の研究者である。原題は「逸話と格言」で、笑話とは思えないものも入っている。
 ラントマン自身による「東欧ユダヤの格言と逸話」という解説が巻末にある。

・この本はユダヤの宗教・民俗にからんだ話も多い。タルムードにからんだあまり難解な話はのせてないとのことだが、なじみのない言葉もでてくる。
 

キニムとバニム
  ポーランドの荘園に住んでいる男が、ゼーダーと呼ばれる過越の祭の祝宴で、家族の者にハガダ(過越の祭のいわれを説明する式文)を読み聞かせる。エジプトでの十の苦しみを数え上げるところで、<キニム>(害虫)を誤って<バニム>(息子)と読んでしまう。
 教養のある娘婿があとで注意する、
 「間違ってますよ、お父さん、ハガダに出てくるのは、キニム、害虫で、バニム、息子ではあり ません。」
 父親は苦笑して答える。
 「それは間違いではない、バニムもキニムだ。」(p117) 

・ユダヤの格言の例。

おまえを尊敬する者には辞を低くせよ。おまえを蔑む者には高びしゃに出よ。

馬鹿の種をまくことはない――馬鹿はひとりでに生える。

友達と縁を切ろうと思ったら、金を借りるか、金を貸してやることだ。

善き友はただで手に入る、敵は金で買わなければならない。

 

125 ユダヤ最高のジョーク

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   (書名)   ユダヤ最高のジョーク   
     (著者)   ザルチア・ラントマン 編
           和田任弘 訳
      (出版者)  三笠書房
      (形状)     文庫
      (頁数)    233
      (出版年)   1994/07/10 

・この本は JB04 実日国別ジョーク集1/3で紹介した009 『続ユダヤ・ジョーク集』を改編、改題したもの。章の順番やジョークのタイトルを変えてあるので、別の本か思ってしまう。厳密な照合はしていないけれど、中のジョークそのものは変わっていないようだ。

・『続ユダヤ・ジョーク集』のあとがきに、ザルチア・ラントマンの本に収録された約3000編のジョークから、約250編を選んで訳出した、とある。これには宗教・民俗がらみのあまり難しい話は含まれていない。

 

126 ユダヤ・ジョーク集

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   (書名)   ユダヤ・ジョーク集   
     (著者)  ラビ・M・トケイヤー
          加瀬 英明 訳
      (出版者)  講談社
      (形状)     文庫
      (頁数)     301
      (出版年)   1994/09/20

・これは JB04 実日国別ジョーク集1/3で紹介した008 『ユダヤジョーク集』に「文庫版のためのジョーク」(7頁9ジョーク)を加えたもの。

 

127 ユダヤ・ジョークの叡智

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   (書名)   ユダヤ・ジョークの叡智
         逆境も窮地も、笑いで切り抜ける   
     (著者)   加瀬 英明
      (出版者)  光文社
      (形状)     文庫
      (頁数)     268
      (出版年)  2003/04/15

・ユダヤ人の考え方などを解説しながらジョークをはさんでいくというスタイル。ジョークはいいけれど、少しユダヤ人を持ち上げすぎ。

・ユダヤのエスニック・ジョークでは、ロシア人とポーランド人は近代に入ってもユダヤ人を迫害してきたから、損な役を演じさせられている、とある。(p150)
 間抜けなポーランド人というジョークは、ユダヤ人が吹聴してきたものだったのか。

・ユダヤ・ジョークではないが、これが面白かった。

 イギリスの外相だったヒュームの伝記によれば、ヒューム外相が訪中した埜之大して、毛沢東主席が人民大会堂で歓迎の宴を催した。
 ヒュームが食事中に、毛主席に「もし、ケネディ大統領ではなく、フルシチョフが暗殺されたとしたら、その後の歴史が、どのように変わったものでしょうか?」とたずねた。
フルシチョフはソ連の首相で、ケネディ大統領と、キューバ・ミサイル危機をめぐって対決した。
 ヒュームは、フルシチョフが中ソ対立をもたらしたことを念頭において、質問したのだった。
「その場合には、ミスター・オナシスが、フルシチョフ夫人と結婚することは、なかったでしょう」
 と毛主席は答えた。(p254)

  フルシチョフ夫人は、太っていて、ロシアの典型的な農婦を思わせる女性だったそうです。

 

128 頭がよくなるユダヤ人ジョーク集

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   (書名)   頭がよくなるユダヤ人ジョーク集   
     (著者)   烏賀陽 正弘
      (出版者)  PHP研究所
      (形状)     新書
      (頁数)     236
      (出版年)   2008/03/03

これも127 『ユダヤ・ジョークの叡智』と同じように、ユダヤ人というのはどういう人びとなのかを紹介しながら、ジョークをはさんでいく。

・こういう本を読んで頭がよくなったり、金が儲かるようになったりすることはない。こんなタイトルをつけなくてもいいのに。

・ジョークに、なぜおもしろいかの解説がついているのは、ちょっとうるさい感じがする。

・東欧から移民したユダヤ人が持ち込んだジョークがアメリカで一般化して、アメリカン・ジョークとなっているものもある、という解説がある。
 たしかにユダヤ人とかユダヤ教と書いてなければ、「アメリカン・ジョーク」として紹介せれても、わたしにはわからない。

・これはユダヤ・ジョークとわかる例。

生か死か(仮題) 
宗教裁判所の裁判官が、ある日当然、町中のユダヤ人を広場に集めて、其の指導者の長老に言った。
「帽子の中に紙切れを入れた。一枚には『生』と書いてあり、他の一枚には『死』とある。『死』と書いたほうを引いたら、きみたち全員を死刑に処す」
 しかし老獪(ろうかい)な長老は、其の両方の紙切れに「死」と書いてあることをうすうす感じ取って、帽子の中の紙切れを一枚抜くなり、何が書かれているか一瞥(いちべつ)もしないで飲み込んでしまった。驚いた裁判官は、
「なんということをするのだ! それでは、紙切れに何が書いてあるか分からないじゃないか」
 と怒鳴った。そこで彼は答えた。
「それは問題ありません。帽子の中の紙切れを見てください。それに『生』と書いてあるなら、飲み込んだのは明らかに『死』です。でも、それに『死』と書いてあったら、私が飲み込んだのは『生』なのですから」
 と答えて、ユダヤ人全員が危うく死を免れた。(p23)

 

 

129 人生最強の武器 笑い(ジョーク)の力

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   (書名)   人生最強の武器 笑い(ジョーク)の力
                    ユダヤ人の英知に学ぶ  
     (著者)   加瀬 英明
      (出版者)  祥伝社
      (形状)     新書
      (頁数)     250
      (出版年)   2010/10/10

  ・ユダヤ人の考え方などを解説しながらジョークをはさんでいくというスタイルは、127 『ユダヤ・ジョークの叡智』と同じ。ユダヤ人について述べている趣旨は変わらないので、ジョークまで同じというわけではないが、同じ本を読んでいるような錯覚に陥った。

・「北朝鮮はジョークの宝庫」という章があるけれど、北朝鮮固有のジョークではなく、これまでの独裁者・強権国家ネタを北朝鮮に置き換えたものがほとんど。

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2014年10月 1日 (水)

第十六番 水澤寺

Photo_2 今回の最後は群馬県渋川市伊香保町水沢五徳山水澤寺(ごとくさんみずさわでら)。伊香保ですから温泉もありますが、やっぱりそちらへは行きません。
 ここは水澤観音と呼ばれ、有名だそうです。なるほど広い敷地です。
 駐車場の方から入ったので、仁王門は見損ねてしまったようです。あとから案内書を見て、え、そんな所もあったの、と思うことがときどきあります。三カ寺目になるとさすがに疲れてきて、さっさとすまそうと思ってしまうこともあります。

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 これは鐘楼。額の文字は「梵音拂塵」です。賽銭箱に「一打百円也」の看板があったので、一打ちしてきました。心の塵は払えたでしょうか。
 実は前の長谷寺にも鐘楼があって「一打百円」でした。でももうお参りがすんだあとだったのでつくのをやめました。お参りの作法として、鐘はお参りの前につくものだそうです。
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 左が本堂で、右は六角堂です。
Dscf9311
 本堂です。

Dscf9309

Dscf9308

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 伝説があって、推古帝の時代、伊香保姫は継母に妬まれ、継母の父兼光の手の者に吾妻川で殺されそうになりました。『観音霊場記』にはこう書いてあります。

残る伊香保姫を沈めんとせしに、赤城山の峯より俄に黒雲起り、風雨烈しく雷電閃き鳴り、また河の中には数万の鯨波(ときのこえ)起り、兼光が一党これに驚き、前後を忘れて逃げ退きたり。かゝるところへ異形の人出で来たり、漫々たる大河を徒渡(かちわた)りし玉ふに、その渦まく流れ左右へ排(ひら)き、伊香保姫と随従の伴保(ともやす)ら、陸地の如くたやすく行き過ぐれば、忽ち雲中に声あって曰く、今仮に人の形を現じて、危き汝が命を助けしは、我汝に与えし守り本尊なりと。(p286)

 母が姫に与えた守り本尊が人の姿であらわれ、旧約聖書のモーゼの海割りよりちょっとスケールは小さいけれど、河の水を割って助けてくれました。この守り本尊が水澤観音のご本尊十一面観音である、というのです。

 先達さんもバスの中でこの話をしてくれ、最後は、継母も心を入れ替えて仲良く暮らしました、で終わりました。ところが『観音霊場記』では、継母は、甥の信州更科の住人宗季(むめすえ)の所へ追い放たれ、そして、

宗季は姨(をば)の邪(よこしま)を悪みて宇津の尾山の奧へ捨つる。この故に今に姨捨(をばすて)山と云ふ。名高き月の名所なり。

ということになっています。
 最近、伝説も少しずつやさしくなって、姥捨てなんてとんでもない、ということになっているんでしょうか。

 これが六角堂で、安置してある六地蔵を、腕木を押して台ごと回転させるようになっています。三回まわすと先祖の供養になるそうで、これもちゃんと回してきました。

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 ご詠歌は、

たのみくる 心も清き 水沢の

深き願いを うるぞうれしき

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 これで残るは千葉県の六カ寺になりました。今年の予定はこれでおしまいです。来年ちょっと頑張れば…というところですが、はたしてどうなるでしょう。

 

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