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2014年10月 7日 (火)

吉井勇『或日の龍馬』

 歌人の吉井勇が、雑誌キングの昭和4年3月号(第5巻3号)に「或日の龍馬」と題する文章を発表していた。
 これが2009年に龍馬資料として発掘された。高知県立坂本龍馬記念館に展示され、高知新聞に報道された。ネットに一部引用されているので、全文をを読みたいと思ってさがしたら原物が見つかった。
 状態がいいとはいえないが読むにはさしつかえない。裏表紙は「美顔水(びがんすい)」の広告。なつかしい。子供のころ、うちで使っていた。

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 「ある日の信長」や「ある日の芭蕉」などと並んで載っている。本文の肩には小さく「或日小説」と入っている。この号がたまたま「或日小説」の特集だったのか、それともキングには「或日小説」というジャンルがあって毎号掲載していたのだろうか。

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 吉井勇の祖父、吉井幸輔(のち友実(ともざね))は薩摩藩の志士として西郷や大久保と共に活動し、維新後は要職を歴任し伯爵になっている。
 龍馬が寺田屋で襲われたときには薩摩藩邸に避難させて護衛をしている。その後龍馬ととおりょうの薩摩への新婚旅行の案内役もつとめた。
 これはそのとき十歳ぐらいだった吉井幸輔の長男の吉井幸蔵が、晩年になってから息子の吉井勇に語った、龍馬とおりょうの思い出話である。
 子供のころの思い出であり、吉井勇の潤色もあるかもしれないので、内容をどこまで信用できるかは別の問題として、なかなかおもしろい。全文を転記してみた。

 原文は旧字旧仮名である。転記にあたっては、できるだけ原文のまま、と思ったが、PCでは表記できない旧漢字があるし、総ルビを全部括弧書きにするのは読みにくくなるばかりである。「青空文庫」のルールに従うことも考えたが、ルールを憶えるのが面倒だった。
 結局、表記もかなづかいも、わたしの判断で適当にやったとしか言いようがない。転記ミスも当然あることと思うが、後日訂正したい。

 著作権の問題はないと思われるので、わたしのように、引用を一部読んで全文が読みたくなった方のために、ともかくここに載せる。内容の話はまた後日。

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或日の龍馬     吉井勇Photo_5

 一昨年の二月頃のことであった。私は寄贈を受けた「雋傑(しゅんけつ)坂本龍馬」を携へ、一年ばかり前から房州布良(めら)の海岸に病を養いに行ってゐる老父の見舞いに出懸けて往った。
 父は海に臨んだ斷崖の上に建てられた家に住んでゐたが、もうその時は病がかなり重くなってゐて、どっと床に就いたまま暗い日々を送ってゐた。そこに着いたのは夜に入ってからだったが、父はまだ起きてゐて、私の持って往った「雋傑坂本龍馬」を手にすると、
『坂本さんの顔はまだよく憶えているよ』
 と云ひながら、その本の巻頭にある龍馬の寫真にじっと見入った。白い髯の長く延びた父の顔には、遠い少年時代を懐かしんでゐる心持がありありと見えた。
『鹿児島では小松さんの家(うち)にゐられたが、あれはおれの七つ位の時だったろう。』
 さう云って父は本を閉ぢると、瞳をじっと天井の方へ向けたが、その目は微かに潤んでゐた。風が強いので斷崖の下の方からは、闇をどよもすやうな濤聲(たうせい)が、もの凄じく響いて來た。
 これはその翌日老父から聴いた、追憶談の一節である。従って以下「私」と云ふのは、私の父のことであると思って讀んでいただきたい。
   ――――――――――――――
 私の子供の時分には、父(その時分幸輔、後に友實(ともざね))は國事に奔走して、殆んど家にをられなかったから、顔を見る機會も稀であった。偶に家に歸って來られることがあっても、その自分まだ生きてをられた祖父の慈山翁(じざんをう)と、何か二言三言話をされた位で、直ぐにまた出て往かれた。私はその頃まで殆んど祖父の手ひとつで育てられたと云ってもよかった。祖父は口數の少ない、いつも何か考へてゐるような顔附きをした方だった。
 と、やっぱり父が長い間京都の方へ往ってをられた留守、冬が過ぎて春になりかけの、或る晴れた日の朝だった。ぼんやり窓から甲突川(かふつきがわ)の方を見てゐると、毎朝散歩に出かける癖のある祖父が、いつになく慌ただしげに歸って來て、突然私に云はれるのだった。
『おう、一袈裟(いちげさ)。お父さんが歸って來られたぞ。』
 一袈裟と云ふのは私の子供の時分の名前で、何袈裟(なにげさ)とか何熊(なにくま)とか云ふ名前を、鹿児島の人はよく附ける。が、私が默ってゐると、祖父はまた言葉をつづけて、
『それでな、今わしは會うて來たんだが、お前をこれから小松さんの家へ伴れて來いと云ふことぢゃ。同伴(つれ)があるので當分ここには歸らぬらしい。』
 と云って直ぐに私を小松さんの家へ伴れて往かれた。小松さんと云ふのは小松帯刀さんのことだ。

1
 座敷に入るとそこにはがっしりした體附の、眼の鋭い、三十一二位の男と、悧巧さうな二十四五の女とがゐたが、父は私を見ると傍へ呼んで、
『坂本さん、これが私の長男です。』
と云って、その男に紹介(ひきあ)はせた。と、その男は大きな聲で、『こりゃあおやぢより出來がいい』と云ふやうな意味のことを云ったが、それは他國の音(おん)だったので、子供の私にははっきり聴き取ることが出來なかった。この『坂本さん。』と父の呼んだ男が坂本龍馬で、同伴の女はその愛妻のお龍だった。
 父はずっと京都から龍馬夫婦と一緒で、大坂から薩摩の汽船三邦丸に乗って來たと云ふことは、三人の話を聴いてゐるうちに私にも分った。
『一袈裟。坂本さんのことは誰にも云うてはならんぞ。』
 父からさう云はれてゐたので、私は誰にも云はなかったが、その後私はよく祖父の使ひで小松さんの家へ往って、西郷さんや何かを相手に議論をしている坂本さんに會ふことがあった。坂本さんは寺田屋で怪我をした後で、體が大分弱ってゐるらしく、顔色もあんまりよくなかった。で、私の父が勸めて、間もなく坂本夫婦は霧島山の傍の日當山(ひあたりやま)温泉に出懸けて往った。私も父に伴れられて、その温泉まで坂本夫婦と一緒に往ったが、その後間もなく私たちは潮積(てうせき)と云ふ温泉に移った。
『おい、坊主。一緒に來い』
 さう云って坂本さんは私を伴れて、よく近所の谷川に釣をしに出懸けたが、坂本さんは釣はあんまり上手ではないと見えて、いつも餌を取られてばかりゐた。
『はゝゝゝ、太公望だ。わしのは魚を釣るんぢゃないぞ。』
 坂本さんはそんな負惜しみを云って笑っていたが、そんな時でもお龍さんは、ずっと傍に附いてゐて、子供の私にさへ目にあまるやうなことが度々あった。如何(どう)もお龍さんと云ふ女は、どっちかと云へば蓮葉(はすは)と云った様な性質(たち)だったらしい。
 坂本さんはかうして魚がちっとも針にかからないのにもかかはらず、釣が好きで、この温泉にゐた十日ばかりの間に、四五度(たび)近所の川へ出懸けて往った。が、坂本さんには釣よりももっと好きなものがあった。それはピストルで小鳥を撃つことである。
『おい、坊主。一緒に來い』
 例の通り坂本さんは、打(ぶ)っきらぼうな調子でさう云って、私を伴れてぶらぶら懐手をしながら近所の森へ出懸けてゆく。無論お龍さんも一緒で、しなだれるように寄添って歩いてゐるかと思ふと、急に怒ったやうに離れてしまって、何時(いつ)までも口を利かずにゐるやうなこともある。兎に角(とにかく)私は子供心にもお龍さんが一風變った女のやうに思はれてならなかった。が、坂本さんにはその變ってゐるところが氣に入ってゐるらしい。
 温泉から五六町往くと、昔和氣の清麿が其の近くに庵を結んだと云ふ陰見瀑(かげみだき)と云ふ瀑(たき)があって、それから少し往くとこんもりした森があって、そこが坂本さんのいつも往く小鳥撃ちの場所だった。坂本さんの持ってゐるピストルは、その時代としてはかなり新式のものらしく、それにピストルの方は釣とは比較にならない位うまかった。
『坊主。見てゐろ。落すぞ。』
 坂本さんが片目つぶって覘(ねら)ひをつけると、枝に留まってゐる鳥ならば、十中八九は、射落とされた。
『坊主。拾って來い。』
 さう云はれるので私が駈け出して往って拾って來ると、死骸を見るなり顔をしかめて、
『ええ、棄ててしまへ。』
 と怒鳴るやうに云った。小鳥がまだ死に切らないで、血だらけになって藻掻いてゐる時なぞは、一層語氣が荒かった。

2
 或る日のことだった。わたしはやっぱり坂本さんに伴れられて、いつもの森に出懸けて往った。その日はぽかぽか温かい、木の芽の匂がぷんと漂って來るやうな日で、目の前に聳えてゐる霧島山の山の襞さへはっきりと分る位、空はからりと晴れ渡ってゐた。が、坂本さん夫婦の間には、何か氣まづいことでもあったらしく、二人とも妙に沈んでゐるのが、子供の私にもはっきりと分った。
 いつもの森に來たけれども、その日は如何したものだか、まるで小鳥の影さへなかった。何處かで囀る聲だけが聴こえて、姿がまるで見えないのだから、機嫌の惡い坂本さんは、一層苛苛(いらいら)して來たらしく、だんだん顔が蒼ざめて來ると同時に、蟀谷(こめかみ)のあたりがぴくぴく動いた。
『お龍さん。』
 坂本さんは何を思ったか、さう呻くやうにお龍さんの名を呼んでから、突然森の奥の方を目蒐(めが)けて、續けざまにピストルを二三發撃った。で、暫くじっと凄まじい反響(こだま)の音に耳を傾けてゐたが、急に體を搖り上げるやうにして、大きな聲を立てて笑ひ出した。
『はゝゝゝゝ、もういいよ。もういいよ。お龍さん。さあ、仲直りをしよう。』
 お龍さんの手をじっと握った坂本さんの目からは、私に取っては思ひがけない涙が、とめどなく頬を傳って流れ落ちた。
 私達はそれからまた更に山奥の霧島温泉に往き、坂本さん夫婦はそこにゐる間に、二人きりで霧島山に登った。その時は二人もう仲が好くって、降りて來てから父に向って、頂上に立ってゐる天(あま)の逆鉾を、二人で抜いて見たと云ふことなぞを、笑ひながら話してゐた。
 私は坂本さんと云ふと、きっとあのピストルの音を思ひ出す。その後もう六十數年經ってゐるが、未だあの時聴いたピストルの音は、ありありと耳の底に殘ってゐるやうな氣がする。
   ――――――――――――――
 父はひどく衰へてゐたが、この話をする時には、微かに頬に血の色が見え、目には涙が光ってゐた。それを見てゐると私の目には、父の少年時代のいたいけな姿が、幻のやうに浮かんで來た。(終)

 

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