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2014年10月19日 (日)

魚龍の話もう少し

 前回の、酒浸りのおりょう で紹介した『歴史読本』の鈴木魚龍からの聞き書き記事は、おりょうが「とんでもない鉄火婆さん」だったことを強調しすぎているように感じられる。
 そこで高橋恭一の『坂本龍馬の妻りょう女』(横須賀観光協会、1968.12.15)という本にある鈴木魚龍からの聞き書きも見てみる。

Photo_3
 わかりにくいかも知れないが、表紙の写真は、昭和43年(1968)のNHK大河ドラマ「竜馬がゆく」でおりょうを演じた浅丘ルリ子である。ちなみに竜馬は北大路欣也だった。
 ちょうど明治百年にあたり、龍馬ブームの年でもあった。その12月に横須賀観光協会から発行された、横須賀の郷土史家によるおりょうの伝記だから、このあたりが「おりょうさんの街」のはじまりだったのか、という気がする。

 「昭和十一年私の訪問を喜んで次のように話してくれた。」と魚龍、鈴木清治郎からの聞き書きは始まる。

りょう子は龍馬の死んだ後、土佐の龍馬の姉さんの処に居たが、ともにその性格が合わなかったので、そこを飛び出してしまった。それから龍馬の親友だった人達の間を転々として渡り歩いていたらしい。伯爵香川敬三のもとに土方久元の処にもいたが、何しろ奔放で自堕落で、その上一升酒を飲む女だったから、そのような華族などの堅苦しい生活は窮屈でたまらなかったことだろう。とどのつまりは淪落の女となって神奈川の某茶屋に女中として現われるような運命に落ちてしまったのだ。
その当時、横須賀造船所の建設がはじめられていたので、東京からいろいろの資材を伍大力という船で運搬するつまり回漕業を商売として大へん景気がよかった西村松兵ヱが、横須賀からの東京へ帰る途中、度々神奈川に寄り込んでその茶屋に遊んだものだった。その茶屋には一きは秀れて美しい女中が居った。それがりょう女で大柄でうるんだ情けの深そうな眼鼻も口も大まかに、そして色白で頭の毛は濃く、それで居て無類と鉄火ないわば姐御肌の女で、いくらでも酒を飲むというしろものだった。すっかり松兵ヱと意気投合してしまい遂に夫婦約束も出来て、横須賀へ来て世帯をもつことになったのだ。(p64)

その後、松兵ヱは商売に失敗して観念寺の祖師堂(龍本寺)の下の米が浜にあった棟割長屋の二畳と四畳半のきたない家に住んでいた。(今の米が浜一丁目国分医院の辺)そして松兵ヱは「ドッコイドッコイ」という露天の大道商売をしていた。露天商というものは晴天の時でなけりゃ収入もない。「露天商人を殺すに刃物はいらぬ。雨の十日も降ればよい。」という諺歌もあるくらいで、露天商となった松兵ヱもその家計には閉口していた。ところが龍子は、家に居ってもどこへも出ないで酒ばかり飲んで。「龍馬の女房だったのだ」といばってばかりいたものだ。(『坂本龍馬の妻りょう女』(p65)

 ろくに収入もないのに酒を買ってはおりょうに与えなければならない松兵ヱの苦労は一通りではなく、魚龍は米や味噌などを貸して遣ることもたびたびだった。

 ということで、活き活きした会話などはないが、内容は『歴史読本』の記事と大差ない。
 ただ、神奈川の茶屋にいたおりょうの容姿の形容が「大柄でうるんだ情けの深そうな眼鼻も口も大まかに、そして色白で頭の毛は濃く、それで居て無類と鉄火ないわば姐御肌の女で、いくらでも酒を飲むというしろものだった」と、ほとんど歴史読本と変わらない。これはひょっとすると、高橋氏自身の記録・記憶だけでなく、歴史読本の元になった『サンデー毎日』を参照しながら、書かれたのではないかという気がする。

 それと『歴史読本』の方では、泊めてもらってから後、松兵ヱからあれこれ聞いた話はあるが、何度も訪問したというような話はなく、二年後、おりょうが死んだときも知らなかったと言っているのに、こちらでは家ぐるみの親しいつきあいがあったようになっている。

 また横須賀鎮守府や工廠の首脳部たちが、坂本龍馬の妻が住んでいることを知って、士官たちから募金を集めてたびたびおりょうに贈ったとも書かれていて、高橋氏は、これからおりょうが松兵ヱを尻にしくようになったのかも知れない、と言っている。
 これが明治37年以前からあったことなのか、魚龍が泊めてもらった明治37年の2月がちょうど当時の皇后(昭憲皇太后)の夢に龍馬が現れたときだが、それ以降の話なのか、よくわからない。
 2月に魚龍が訪れたときにはもう完全に尻に敷かれていたわけだから、募金が原因ならそれ以前から募金があったということになるが、新聞記事に募金の話などが出てくるのは夢以後のようだ。夫婦でどちらが威張るかは、金だけの問題ではないだろうけれど。
 

 おりょうが病気になったころについて、魚龍のこんな話もある。

妹の光枝も海軍の下士官に嫁いでいたが、未亡人となって松兵ヱ方にころがりこんで来て、目明き按摩までしていた。(『坂本龍馬の妻りょう女』(p71)

 だから松兵ヱはほんとうに大変だったということだが、魚龍が訪れた時には、光枝が同居していたような様子はない。この妹の同居については、また別の問題が生じたという話もあって、ややこしいが、その話はまた今度にしよう。

 そして葬儀は、知人や隣人の助けでささやかに行われ、遺骨は横須賀大津の信楽寺に埋葬された。高橋氏は、これも住職と親しかった魚龍が世話したものだろうと言うが、『歴史読本』の方では、死んだことを知らなかったと魚龍は言っている。このあたりもわからない。
 その後のおりょうの墓の建立にあたって、魚龍の力が大きかったのはたしからしい。

金儲けにこれを利用しようとした者が相当にあったようだっただけに、これらを排してての建碑についての苦心はなみたいていのことではなかった。当時の皇后宮大夫の香川敬三さんに話を持ちかけて、資金として百五十円のお金を貰い、これを基金として建碑の募金をした。ところが幸いのことに、理解ある人たちの援助を得ることができた。この募金の取扱など一切は自分が引受け新原住職と松兵ヱの二人が賛助人ということで、工事を進め、実妹の中沢光枝がこれを建てたということにした。(『坂本龍馬の妻りょう女』(p74)

 高橋氏には工藤の話はしなかったのか、不確かな話なので高橋氏が書かなかったのか、これもわからない。
 おりょうの三十回忌にも魚龍は貢献し、昭和11年1月7日の報知新聞神奈川版には次のように、魚龍の談話が掲載されているという。

龍子の墓碑は畏くも日露戦争当時昭憲皇太后様の御夢枕に坂本龍馬が立ったといふので、坂本龍馬と同輩の香川敬三から二百五十円の寄附を仰ぎ建立したが、当時追善法要も残った金が僅かに二十銭しかないのでやることが出来ず、今日までやらずじまひといふ訳です。十五日が三十回忌に相当するので海軍関係の人々も盛大にやるつもりです。実際、龍子が死んだときは葬式も出来ず町から寄附をもらってやったほどで、志士の妻としての龍子の末路は可哀さうだった。(『坂本龍馬の妻りょう女』p75)

Photo_4     (『史料が語る坂本龍馬の妻おりょう』p151より)

 高橋恭一氏のこの本、横須賀市の戸籍調べのような事実調査の話と、さまざまな龍馬小説に描かれたおりょうの姿をつないでまとめたようなところがある。できるだけ読みやすいものにしたかったのだろうけれど、事実だけで書いた方がよかったのではないか。
 魚龍の聞き書きも、もう少し詳しく書いてくれていればと残念だ。

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