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2014年10月16日 (木)

酒浸りのおりょう

 おりょうの墓には、建立の賛助人として、西村松兵衛鈴木魚龍(ぎょりゅう)、新原了雄(にいはらりょうゆう)三人の名前がある。西村松兵衛は夫、新原了雄は当時の信楽寺(しんぎょうじ)の住職である。
 鈴木魚龍は本名清治郎(せいじろう)。足が悪かったこともあり、若い頃から易者をやっていて、大道商人だったおりょうの夫松兵衛の商売仲間でもあった。といっても松兵衛より三十数歳年下で、ずっと若い。
 その魚龍が若い頃に、松兵衛宅を訪れておりょうに会ったときの懐古談が、『歴史読本スペシャル1989年5月号』に載っている。
 もとは『サンデー毎日』昭和15年1月21日号に載った記事で、このとき魚龍は横須賀の堀之内で提灯屋をやっていたが、翌年の昭和16年3月30日に60歳で死亡している。

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 「日本史の目撃者」特集で、「歴史の決定的瞬間に立ち会った目撃者たちの貴重な証言」というわけだが、魚龍の「易者が語る坂本龍馬夫人お龍の酒浸りの日々」の記事は、ちょっと歴史の決定的瞬間とは言いがたい。袖見出しには「いやどうも、とんでもない鉄火婆さんだったよ」と書かれ、リード(前文)はこうなっている。

 場所は横須賀の観念寺、裏長屋のちゃちな家を占領する豪勢な婆さん――。大道易者鈴木老人が、隣で店を出す松兵衛の家に誘われて行くと、大酒飲みでやたらに威張り散らす「同居人」がいた。彼女は何と幕末維新の英雄、坂本龍馬の妻、お龍だったのだ。龍馬が愛したといわれるお龍の男まさりの気性。後に、お龍の墓まで建てることになる鈴木老人の懐古談は、”その後のお龍”をいかんなく伝える。(p250)

Photo

 
 内容がどこまで信用できるかはともかく、魚龍の話を読んでみよう。

 横須賀の海兵団(海軍横須賀鎮守府に設置されていた陸上部隊)近くの草っぱらに、工廠の職工や水平相手の露店街があった。そこで魚龍は西村松兵衛の「どっこい屋」の店の隣りに易の店を出していた。「どっこい屋」というのは、カリン糖を並べて、ぶん回しのルーレットのようなものを回す。止まるところが当たったら、客がカリン糖を取れる、というものだった。
 松兵衛は、因業で、こすっからいエゴイストだったので、テキヤ仲間には人望がなく、あまり付き合う人もいなかった。
 ところが夕方からひどい吹雪になった夜、魚龍の家は観音崎で遠いからと、松兵衛がうちへ泊まれと誘ってくれた。(明治37年(1904)2月9日のことだというから、魚龍は二十三歳、松兵衛は五十九歳、おりょうは六十四歳くらいの頃である。)

 棟割長屋の、二畳と四畳半のその家へ帰って行くと、そこに、ちゃちな家いっぱいの豪勢な婆さんがいる。堂々とした、大柄な、眼も大きな婆さんだったが、いきなり、
「松兵衛帰ったかい」
 と頭ごなしだ。爺さん、うんとか何とかもそもそしていて、
「さあ、まぁ上んな、ここが、わしの家さ」
 という。婆さんが覗いてみて、
「なんだ、若造を引っぱって来やがったのか。おい若造、家(うち)ぃ来たって食うものはありゃあしないよ、おまんまがねえんだよ」
 というご挨拶だ。とんでもねえ変な婆(ばばあ)さ。気味が悪かったね。
「でも飲み残りの焼酎があらぁ。こいつを三人でぶっくらって寝るべい、おい松兵衛! 茶でも沸かしとくれよ、なに? なにをぶつくさあぶくを吹いてやがんだ。耄碌爺(もうろくじじい)のくせして、」さっさとしろよ」
 婆さんが爺さんに対する命令なんだ。
 焼酎を三人で飲んだ。婆さんが一ばん強い。茶碗で、ぐびり、ぐびりと引っ傾(かたむ)けるんだ。めんどくせいやといって、しまいには大肌脱ぎの大あぐらになった。豊満というか、太々とした、白い柔らかい餅みたいな肌をもった婆さんなのだ。
「若いの、おい飲まねえかい」
「もう飲めないよ、お婆さん」
「いくじのねえ。腹の立つときゃ茶碗で酒ぉ……とくらぁ、飲めどツルシャン、酔えぬツルテン……か」
 なぞとね、いやどうも、とんでもない鉄火婆さんだったよ。(p252)

 松兵衛を顎でこき使う、とんでもない婆さんに驚いて、後日松兵衛に聞いてみると、昔、羽振りのよかった頃、神奈川の茶屋で知り合って背負い込んだという。

「そうさ、あれは明治四、五年のころだったなあ、この横須賀に、政府の造船所ができてね、そのころ俺ぁ江戸からここの造船所へ物を納めに来る商人だった。当今でいやぁさしずめ、御用商人だね。だから景気がよかろうじゃあねえか。よく神奈川の茶屋で飲んだものよ。
 そのころ、その茶屋女の中に、ひときわすぐれて、みごとな女中がいたんだ。いい女だった。大柄で、うるんだ、情の深そうな、眼鼻も口も、大まかに、ぱらっとして、色白で、手が濃くて、それでいて、無類と鉄火な姐ご肌のやつで、いくらでも酒を飲みゃぁがる。
 そいつがすなわち、あの、いまうちにいる婆なんだ。年をとったから、だんだん婆さんになりやがったけど」(p254)

 ところが松兵衛はこの婆さんは自分の女房じゃない、一緒に住んでいても関係はないと言う。どういうわけで、と聞いても話そうとしない。いろいろしつこく聞いていくうちに、とうとう松兵衛は「実はあれぁ坂本の妻だった女でね」と言った。坂本とは誰だ、まさか坂本龍馬ではあるまいと聞くと、その坂本だという。
 興味にかられて、それ以来松兵衛から、龍馬とおりょうの話をあれこれ聞いた。
 龍馬死後のおりょうは、姉の乙女と性格が合わず、土佐を飛び出して、龍馬の知り合いだった人々の間を転々としていたらしい。

 伯爵香川敬三(かがわけいぞう)のもとにもお世話になっていたし、また、もとの宮内大臣だった土方久元(ひじかたひさもと)のところにもいたのだが、奔放で自堕落で、一升酒を飲むような女だから、そうしたところの生活は窮屈でたまらなかったんだろう。ついに一所に長くはいなかった。
 とどのつまりが、淪落の女となって、神奈川の茶屋に女中として現れるような運命に落ちてしまったのだな。(p256)

 松兵衛宅にはじめて泊めてもらってから二年ばかりたった頃、明治39年、おりょうは、大酒のための脳溢血で死んでしまった。
 そのときは知らなかったが、二年ぐらいあと、石屋の二階に貧乏所帯を持った頃に、その石屋へ工藤なにがしという質(たち)のよくない三百代言みたいな男がやってきて、おりょうの墓を誂えにきた。それでようやく死んだのを知った。
 ところが、この五十円ばかりの墓をいくら待っても引き取りに来ない。石屋はしかたがないから、墓の文字を削り落として他で使ってしまった。
 大正三年に、新聞に坂本龍馬の記事が出たのを読んで、おりょうの墓だけでも建ててやりたい気持ちになって、香川敬三さんに相談した。すると、香川さんは、前に工藤某から墓を建てるといって七百円くらいだまし取られているという。
 それで工藤の件を松兵衛に聞いてみると、工藤が大半をせしめたが、松兵衛も一枚かんでいて、おりょうを食い物にしていたらしい。おりょうと同棲していながら、関係がないと言い張っていたのは、こういうわけがあったからだった。
 ともかく香川さんから百五十円の金を出してもらい、寄附金を集めたり、海軍の司令長官から石材をもらったりして、大津の信楽寺に「贈正四位坂本龍馬之妻龍子之墓」を建てた。
 
 

 以上が魚龍、鈴木清治郎のおりょうにまつわる懐古談である。
 昭和15年(1940)に聞いた明治37年(1904)の思い出話にしては、ちょっと会話が活き活きしすぎている。魚龍先生何度もこの話をして、定型ができあがっていたのか、あるいはサンデー毎日の記者が張り切って活写したのか。両方ともあるような気がする。

 おりょうを「大柄な」「大柄で」と言っているが、若い頃はどちらかと言えば小柄だったという話がある。太って、あぐらをかいて酒を飲んでいる姿が、魚龍には大きく見えたのだろうか。
 
 

 「工藤某」というのは、前に おりょうの写真 1/2 で紹介した、「東京二六新聞」の「坂本龍馬未亡人龍子」の記事の第一回(明治37年12月15日)に出てくる工藤外太郎(そとたろう)だろうか。

 龍子は近来中気に罹って在横須賀なる退職海軍々人工藤外太郎(そとたろう)なる義侠者の保護に余命を托し極めて悲哀なる詩的境遇に陥って居る、志士の未亡人として殊に時局に感奮せる者は誰しも同情の涙を禁じ得ないに相違ない。

 「退職海軍軍人」「義侠者」と書いてあるが、魚龍の言によれば、とんだ詐欺師だということになる。詐欺師だったとすれば、有名な龍馬の未亡人への見舞金やらその後の弔慰金を集めるために、新聞社などに自分が面倒を見ているんだと吹聴していもおかしくはない。

 この新聞の連載の第八回にも工藤外太郎は出てくる。龍馬が近江屋で襲われたとき、床の間には、龍馬が大切にしていた掛物が掛けてあった。

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◎其後近江屋で襲撃を受けた時、龍馬は一刀の下に脳天を砕かれ、其脳漿が床間に掛けてあった此掛物に迸り、稀世の俊傑が最期の惨状を追想さるべき紀念物として遺された。其一幅は現に龍子の保護者たる工藤外太郎氏の手許に在る。記者もこれを一見したが、當時の血痕斑々(はんぱん)として紙上颯然(さつぜん)腥風(せいふう)を生じ來るのぢゃ。

 この掛軸は現在、京都国立博物館にあるそうだ。坂本弥太郎という龍馬の親族が寄贈したという。工藤からどういう経緯で渡ったのか。工藤というのは詐欺師ではなかったのか。それとも掛軸もおりょうからまきあげたものなのか。
 この工藤外太郎については、よくわからない。本当に松兵衛と組んで墓の金をだまし取ったのかどうか。どなたか何かご存じでしたらご教示ください。

 この歴史読本の記事には作家の阿井景子の「おりょうの「夫」松兵衛の情愛」と題する解説がついていて、阿井はこう書いている。
 『汗血千里駒』がベストセラーになった明治17年以降、龍馬は国民的英雄になった。
 おりょうの存在を知った横須賀鎮守府や工廠の幹部たちが、募金を集めておりょうに贈り、龍馬に興味を持った記者や青年たちがおりょうのもとを訪れるようになり、それからおりょうは松兵衛に威張り出した。
 松兵衛は、威張るおりょうに辟易しながらも、龍馬の妻だった女を妻にした優越感をいだいていたに違いない、おりょうを食い物にしているという意識はなかったのではないか。
 威張られ、こき使われながらも大酒飲みの妻を養ったのは、おりょうに対する情愛があったからだろう。

 工藤についての言及はない。

 

 

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