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2014年11月 3日 (月)

坂本龍馬未亡人龍子 1/2

 前にも紹介した(→おりょうの写真 1/2)「東京二六新聞」の新聞記事「坂本龍馬未亡人龍子」を転記した。
 明治37年12月15日から同年12月28日まで、八回にわたって連載された。この年、明治天皇の皇后(昭憲皇太后)の夢枕に坂本龍馬が立ったという話が伝えられて龍馬が有名になり、おりょうのことも取り上げられたものである。
 第一回は「本龍馬未亡人龍子」と「」になっているが、第二回以降は「」に訂正されている。
 長いので、二回にわける。

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※ 転記にあたっては、吉井勇『或日の龍馬』と同じく、表記もかなづかいも、わたしの判断で適当にやったとしか言いようがない。転記ミスもあることと思うが、後日訂正したい。ご了承ください。
 下線部は原文では傍点。

第一回(明治37年12月15日)

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◎阪本龍馬の事蹟は人口に膾炙し居るのみならず、畏れ多くも 國母陛下の御夢に入(い)ったので頃日(このごろ)義勇艦隊寄附金募集の為め劇に仕組まれて明治座に演ぜらるゝに至った次第で、龍馬が高知藩の海軍振興者たると同時に、日本海軍中興の一勢力ぢゃからである。
◎龍馬の事蹟中に於て、餘り世人に知られて居らぬのは夫人龍子の事ぢゃが、明治座の劇(しばい)には此龍子の事が少しく實際と違へて仕組んである。
◎本日畫報として掲げたる寫真は、龍馬が二十八歳の時、長崎に撮影したものと、龍子が本年六十四歳で撮影したものである。
◎龍子は近来中気に罹って在横須賀なる退職海軍々人工藤外太郎(そとたろう)なる義侠者の保護に余命を托し極めて悲哀なる詩的境遇に陥って居る、志士の未亡人として殊(こと)に時局に感奮せる者は誰しも同情の涙を禁じ得ないに相違ない。
◎龍子は維新前世の中(うち)の物騒な時、薩、長、土、肥の豪傑が京都に於ける隠れ場所の一ツとして居った楢崎將作(ならさきしょうさく)という御殿醫の長女である。
◎此楢崎と云ふ醫者は勤王家で是等豪傑と親密に交はり浪人を庇護すると云ふので、幕府の忌諱に触れ禁錮せられ、後ち解放されたけれども間もなく病死したので、楢崎一家は柱石を失ひ、途方に暮れたが、未亡人貞子(さだこ)は龍子を龍馬に縁付けたのである。
◎龍馬は同家に出入りする一人當時年こそ若かったが、却々(なかなか)の俊才で諸豪傑の牛耳を執り、前途頗る多望なので、楢崎は女房の貞子に話し龍子を龍馬に呉るゝ事に定(き)めたのを死後に至り實行したのであらうと傳へられて居る。
◎龍子は妙齢の時から却々(なかなか)氣丈な婦人なので、父の死去後間もなく妹の君枝が土地の悪徒に誘拐せられたのを怒り、人々の止(とど)むるをも聞かず、亡父遺愛の短刀を懐にし、其在處を襲った剣幕却々凄まじかった為め悪徒も之に屈し遂に君枝を龍子に渡した。
◎龍馬に嫁した後は、殆んど夫と同體と為り如何なる危険の場合でも臆したことなく、寺田屋に於て龍馬が刺客(せっかく)に襲われた時には、身を以て龍馬を庇ひ亂刃の間に立ちて傍らの火鉢を抛げ付け敵の氣勢を挫いたなどは却々の女丈夫である。
◎龍馬は此騒動に短銃(ピストル)を持ったる右手(めて)の指に傷を受けたのみならず、その後も刺客の狙撃が激しかったので、西郷、大山(綱良)桂(小五郎)などは心配して龍馬をして危難を霧島山麓の温泉場に避けしめた。此時も龍子は同道して山河を跋渉し又霧島の山頂に登り有名なる天の逆鉾を抜いたなどは、當時の豪傑連をして舌を巻かしめた。
◎此保養中に西郷、大山等の豪傑連は鶏や卵子を數多担いで見舞いに行き、龍子は短銃にて毎朝(まいてう)鶏を射殺(いころ)して膳羞(ぜんしゅう)を調へた。
◎龍馬の短銃八面打(うち)は有名であったが龍子はこれを真似しつヽ餘程上達したとのことである。

第二回(明治37年12月16日)

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◎其後龍馬は龍子を携へて復京都へ上り近江屋に陣取って國事に奔走したが、何分にも幕府の物色が甚だしく風前の燈火同様の運命なので、當時豪傑連の心配は一通りでなく、一先づ阪本夫婦を薩州邸へ匿すことにした。
◎ソコで西郷等は途中の要撃に備へる為め夜中龍馬を駕籠に載せ、前後左右を警護しつヽ行ったが、道程(みちのり)の半分ほど行った頃。警護者の中に見慣れぬ一人が居たので桂小五郎(後の木戸孝允)が發見して吟味したが豈圖らんや是れ別人ではなく、龍馬の愛妻龍子で袴に股立、腰に両刀を横(よこた)へ鐵砲を肩に深編笠と云ふ扮装(いでたち)であったから一同ハットばかりに吃驚仰天致した。
◎其後龍馬は薩邸を去って長府へ歸り、伊藤助太夫の宅を根墟ととして諸國の志士と商量計劃し復も京阪に出没して形勢を窺ひ通つヽあったが、龍子は伊藤の宅に留守して良人の消息如何と待って居る折柄、一夕惡夢に魘(おそ)はれて覺めてから不快で耐らなくなった。
◎丁度其翌日の事であった。豫(かね)て龍馬の身上を気遣って居る門人二三名上京する事になったので、竜子に向ひ「先生へ御傳言(ことづて)でもありますなら承りたい」と促したが、龍子は「實は昨夜の夢に龍馬が血塗れになり刀を提げて歸ったから如何(どう)しやはったと問ふたら只だ冷然(ひやり)と笑ふた丈で何も言はなんだ是れが誠に氣にかヽるよって所夫(おっと)にお會ひなすったら用心致すやうに言ふて下され」と頼んだので、門人共は愈ゝ(いよいよ)龍馬の身上を気遣った。
◎門人等の東上したと行違ひに京都から急報ありて龍馬は近江屋で刺客に暗殺せられた事は分り伊藤宅でも大混雑したが、龍馬の凶變は當分龍子に秘する事になった。
◎けれども龍子はそれと察して愈ゝ決心し亡父龍馬が故郷を出る時龍馬の姉から護身刀(まもりがたな)とて呉れた良人の短刀を操(と)り、佛壇の前で漆の如き髪を根元より切捨てた。之を見たる人々は何れも其決心に感服し涙を流して遂に實状を明かした。嗚呼悲絶壮絶!軍人の夫人方は定めて同情の涙を禁じ得ないであらう。
◎幾世を契りし所夫(おっと)に訣別(しにわか)れたる龍子は最早此世に望みとては一つもなく比丘尼となって墓守しやうとまで決心し間もなく、遙々(はるばる)京都へ上り心を砕きつゝあった折しも坂本の實家では若後家を尼にするのは可哀想だと云ふので、使者に金を持たせて迎へに遣り、遂に引取って了った。是れ實に坂本未亡人が運命變轉の端緒である。

第三回(明治37年12月18日)

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◎引取られて見たが嫂(あによめ)さんと折合いが惡くて居溜(ゐたゝま)らず、其上龍馬の死後、母貞子、弟太一郎、二妹君枝、光枝の四人が、足手纏ひで思ふ様にならず、言はゞ龍子が四人に頼るのでなく四人が龍子を頼む様になったので、龍馬の姉は懇(ねんごろ)に仲裁を試みたけれども成就せず、龍子は遂に無我無中で浮世の眞中に飛出した。これが抑ゝ(そもそも)龍子一生の誤りで、今の戦死軍人の未亡人方の能く鑑みねばならぬ所であらう。
◎其後五六年間、母及弟妹と共に知人(しるべ)を尋ねて世話を受けて居ったが、何分にも年若き婦人の事とて、保護者も、折々は煩さヽに堪へないこともあったと見え、再び離散することになった。所が不思議にも、或時西郷南州と高輪邊で邂逅し、西郷の厚誼に救はれた。
◎さて南州と會ったのは、丁度征韓論で政界の大波瀾の起った後で、西郷は馬車の中から龍子を認めて呼留め、種々(いろいろ)現況を聞いて哀れを催ほし『己(お)れは近い内田舎に歸り何時(いつ)出て來くるか分らぬが、是から吉井幸輔の宅へ行くからお前も行け』と言ふので、龍子は随いていった。是れ西郷が征韓論敗れて、故山に歸臥する數日前の事であった。
◎吉井邸に行って、西郷は吉井に龍子を引合わせ、種々(いろいろ)善後策を講じた末吉井は二十両西郷は三十両を、今なら五百圓位であらう、即座に龍子に與(や)って、家族の扶助をなすべく命じ、尚ほ西郷は吉井と計り、龍子の實弟太一郎をば龍馬の名目(みょうもく)を継がしむべく吉井が引取る事になった。
◎さて太一郎は吉井家に引取られたけれども、何分龍馬の後を継ぐ器でないので、數年間吉井に養はれた後、一時海軍の樂隊となったこともあり、今は麻布邊に住み砲兵工廠の職工を勤めて細い煙を立てゝいゐるとの事である。
◎龍子は西郷と吉井との義心により一時は方法も立ったけれども、婦人の身で母と妹を世話するので、貯蓄(たくはえ)も漸々(だんだん)乏しくなって又々離散した。
◎其後の坂本未亡人は實に書くに忍びないのである。彼女は亂世の女丈夫で、志士豪傑の配偶たるべき資格は十二分であるが、所謂(いはゆる)才子や俗吏や事務家や守銭奴の妻となり舅姑や嫂や小姑の顔色を窺ひ、巧く操縦(あやつ)って行くやうな技倆は極々乏しかった。故に彼女は現代婦人の模範とするには足らぬけれども、現代婦人に教訓を與ふることは頗る多いのである。

第四回(明治37年12月20日)

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◎龍子は豪傑の匹耦(つれあひ)だけに、随分洒落た事を遣ったが、其一世一代の活劇とも謂ひつべきは、寺田屋の女中に化けて竜馬の為めに密偵をして居った時代の事柄である。先づこゝには少し遡って、両人縁談の極妙不可思議な一條を書かう。
◎龍子の父將作が死んでから、従来(これまで)同家に出入りした豪傑連の足が次第に遠くなり、何れも東奔西走しつゝあったが、龍馬は幕府の一人物勝安房に最も注目し、此人が飽くまで徳川を守り立てヽ行こうとの考へであると聞いて、是非一度面會して議論を上下(しやうか)し、彼にして若し服さぬならば刺殺さうまで決心の臍を固め、江戸へ來て千葉重太郎を介し勝と面談した。
◎所が漸々(だんだん)勝安房と議論を闘はして見ると従来(これまで)世間に傳へられた所と違ひ、歸する所己れの説と同じであるので、此に兩雄肝膽相照し、勝は大阪に在る姉小路卿引返しに關する重任を龍馬に托した。
◎龍馬は此重任を帯びて大阪に歸る途中。京都を通りかヽかると、忽ち今日は楢崎將作と云ふ恩人の命日であると想出し、竜馬の性質として其儘通過ぎ得ないので、楢崎の遺族を尋ねた。所が其家(そこ)は空家になって楢崎は知足院と云ふ御寺へ移ったことが判ったから、再び足を其處に轉じたのである。
◎知足院と云うふは楢崎家代々の菩提寺で其住職も劫々(なかなか)親切な仁(ひと)ゆゑ、寺の一室を貸し與へて何暮れと世話し、今日は佛の命日と云ふので、楢崎の遺族は佛事の準備をして居ると、竜馬の姿が見えたから、一同は歓び迎へ竜馬も來意を告げて香花を手向けた。
◎楢崎の未亡人たる貞子(ていこ)は、頼む柱を失ふてから娘を許嫁(いいなづけ)した龍馬の消息を思ふて居つた矢先の事とて、亡父の遺志を實行する為め、今日の命日を幸ひに根因の事を龍馬に迫つたが、龍馬は眼前に大事を控えて居るから、それを濟ました後(のち)にして呉れと辭退した。
◎所が貞子は、其れではホンの内祝言で宜(い)いと言ふので、漸く之を納得し、知足院の住持が表向きの媒酌人となり準備に取掛り居る矢先、丁度龍馬の同志三好慎蔵は龍馬を元の楢崎の家に尋ね、楢崎家が移つたと聞いて、知足院へ遣つて來た。
◎慎蔵の來意は姉小路卿が大阪へ下られた事に就ての要件であるを聞いたので、龍馬はそれなら此儘直ぐ行かうと申出たが、慎蔵は其様(さう)急ぐに及ばぬとて、内祝言を一通り濟まさせた。
◎龍馬は故郷を出る時姉のおとめから護刀(まもりがたな)に貰ふた短刀をば龍子に引出物として渡し爰(こヽ)に稀世の豪傑は稀世の女丈夫を得て意氣相投じ、共に國事に苦心するに至った。

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