« 2014年10月 | トップページ | 2014年12月 »

2014年11月

2014年11月30日 (日)

おりょうの悪評1

 
 龍馬死後のおりょうについて、当時の新聞などにどのように伝えられたかを見てみる。

1 坂崎紫攔『汗血千里駒』

 前にも紹介したが、まずは明治16年(1883)の坂崎紫攔『汗血千里駒』である。(参考→『汗血千里の駒』 1/2

Photo

 龍馬の未亡人鞆子(ともこ)は明治二三年の頃高知に迎え来たりしが 鞆子は緑の黒髪を雪なす首まで切りさげていとも妙なる柳の腰に男子(なんし)の如く袴をつけて六連の短銃をさえ帯びたりければ見る者皆奇異の想(おもい)をなしたり その後(のち)鞆子は西京(さいきょう)の親里にかえりしまま行衛(ゆくえ)知れず 豈(あ)に所謂神龍の頭を現わして尾を現わさざる者なる乎」(p325)

 「鞆子(ともこ)」というのはおりょうが龍馬と結婚してから名乗った名前である。寺田屋では「お春」で、横須賀での再婚後は「西村ツル」になった。
 おりょうは、土佐へ来たとき、男のように袴をはいて短銃まで持っていたので、「見る者皆奇異の想をなしたり」と書いてあるだけで、特に問題があったとは書いてない。そしてその後京都へ帰ったまま行方知れずということになっている。
  

2 弘松宣枝『坂本龍馬』

 この後、明治29年(1896)に刊行された弘松宣枝『坂本龍馬』(民友社)では、おりょうの評判はよくない。
 これはインターネットで、国会図書館近代デジタルライブラリーの画像から読んだものである。(コマ番号70)http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781435/1

138_3
彼れ逝りてより、妻龍女は彼が遺言を以て三好之を預かりて同居せり。長府の藩主其不幸を憫み、扶助米を送らる。彼の女が妹きみにもかねて龍馬か内意を以て菅野覚兵衛に娶はすへきの約ありしに因り、此れも同家に住みけるが、明治六年中島作太郎(信行)三吉を訪ひ、龍馬が遺物として正宗の短刀を贈る。此時海援隊の協議を以て、龍をが更らに土佐なる龍馬が姉乙女の所に送れり。去れど彼の女放恣にして土佐を出て、身を淫猥に沈む、乙女怒て彼の女を離姻す。遂に漂泊するに到れり。然れども天の成せる麗質は衰ふることなく、今尚ほ某縣に在りと云ふ。婦節を全ふせす人をして龍頭蛇尾の恨あらしむ。(p138) 

 「彼の女放恣にして土佐を出て、身を淫猥に沈む、乙女怒て彼の女を離姻す」とかなりきびしい。「放恣」で「淫猥」となると、龍馬の姉乙女が怒るのも無理はないが、具体的にどういうことがあったのかは何も書いてない。
 「遂に漂泊するに到れり。然れども天の成せる麗質は衰ふることなく、今尚ほ某縣に在りと云ふ。」というのは、横須賀にいるという話は聞いていたのだろうか。
 「天の成せる麗質は衰ふることなく」とわざわざ書いているところをみると、やっぱり美人という評判だったのだ。
 「婦節を全ふせす人をして龍頭蛇尾の恨あらしむ。」 何があったのか、気になる。

3 東京二六新聞坂本龍馬未亡人龍子

 明治37年(1904)には皇后の夢に龍馬が現れ、日本中で評判になった後、東京二六新聞には「坂本龍馬未亡人龍子」という記事が連載された。(→坂本龍馬未亡人龍子 1/2)

Photo_4

第三回(明治37年12月18日)

◎引取られて見たが嫂(あによめ)さんと折合いが惡くて居溜(ゐたゝま)らず、其上龍馬の死後、母貞子、弟太一郎、二妹君枝、光枝の四人が、足手纏ひで思ふ様にならず、言はゞ龍子が四人に頼るのでなく四人が龍子を頼む様になつたので、龍馬の姉は懇(ねんごろ)に仲裁を試みたけれども成就せず、龍子は遂に無我無中で浮世の眞中に飛出した。これが抑ゝ(そもそも)龍子一生の誤りで、今の戦死軍人の未亡人方の能く鑑みねばならぬ所であらう。
(中略)
◎龍子は西郷と吉井との義心により一時は方法も立つたけれども、婦人の身で母と妹を世話するので、貯蓄(たくはえ)も漸々(だんだん)乏しくなつて又々離散した。
◎其後の坂本未亡人は實に書くに忍びないのである。彼女は亂世の女丈夫で、志士豪傑の配偶たるべき資格は十二分であるが、所謂(いはゆる)才子や俗吏や事務家や守銭奴の妻となり舅姑や嫂や小姑の顔色を窺ひ、巧く操縦(あやつ)つて行くやうな技倆は極々乏しかつた。故に彼女は現代婦人の模範とするには足らぬけれども、現代婦人に教訓を與ふることは頗る多いのである。

 こちらでは嫂=兄嫁さんと折り合いが悪くて、姉の乙女は仲裁に入ったけれど、おりょうが我慢しきれずに飛び出してしまったことになっている。
 「其後の坂本未亡人は實に書くに忍びないのである。」と言わずに、 知っていたのならちゃんと書いておいてくれればよかったのに。
 おりょうは女丈夫で勝ち気なあまりこうなってしまったが、現代の戦争未亡人などは十分注意して、うかうか飛び出したりせずうまくやるように、と教訓を垂れているのは、ちょうど日露戦争中だったためか。

4 千頭清臣『坂本龍馬伝』

 おりょうの死後になるが、大正3年((1914)に刊行された千頭清臣(ちかみきよおみ)『坂本龍馬伝』(博文館)もおりょうには厳しい。(引用は新人物往来社の復刊本(1995)による)

Photo_5

 龍子を三吉慎蔵に托してより、僅に一年有半にして龍馬逝く。逝くに當り、龍馬重ねて龍子を三吉に托するや、長藩主は龍子の不幸を憐み扶助米を贈り、三吉は居を同ふして養ふ。一妹君江亦三吉の家にあり。
 明治元年三月、中島作太郎、三吉を訪ひ、龍馬が遺物として短刀一振を贈る。時に海援隊士相議して龍子を高知へ送れり。三吉の日記に曰く、

お龍は遺言により十二月十五日慎蔵宅に引受け、同居す。就ては藩主其事情を憐み、扶助米あり。海援隊の諸士協議の上土州へお龍引取に決す、終に馬関より土佐なる坂本姉の住所に護送す。時に明治三年三月なり。

 されど龍子は放恣(ほうし)にして家を守らず非行を敢てす。乙女子怒って龍子を離別す。龍子終に横浜に去り、某の妾として世を終はれりといふ。女丈夫惜しむらくは婦節を全うせず、地下の龍馬、霊あらば果して何とか言はむ。(p245~246)

 司馬遼太郎が『竜馬がゆく』のあとがきに、土佐の記録に「竜子、家を守らず、非行をあえてす。乙女怒って竜子を離別す」とあると書いたのは、この本のことのようだ。
 これも非行の内容にはふれていない。そして「女丈夫惜しむらくは婦節を全うせず」である。この時代「婦節」は重要だったのだ。
 龍馬が評価されてえらくなっただけに、その妻も貞節な「婦人の鑑」であってほしかったのだろう。

5 白柳秀湖坂本龍馬』

 さらに時代を下って、昭和4年(1929)刊行の白柳秀湖(しらやなぎしゅうこ)『坂本龍馬』(『現代大衆文学全集第二〇巻白柳秀湖集』、平凡社)もみておこう。(写真と引用は復刊本(白柳秀湖『坂本龍馬』(作品社、2009)による)
 この作品が雑誌「雄弁」に連載されたのは1925~1927年とのこと。昭和初期は尾崎秀樹のいう第二次維新ブームで、この『坂本龍馬』もけっこう売れたらしい。ただこれは『汗血千里駒』をネタにして書かれた「社会講談」で、史実にそれほど忠実ではなさそうだ。

Photo_6

 龍馬の未亡人龍子の後半生に就いては語るべき材料も多いが、それは地下の龍馬の為に之を筆にするに忍びぬ。彼女は一面に於ては稀に見る烈婦であったと同時に、他の一面に於いては極めて多情多恨の婦人であったということを附加えて置けば、それで十分であろう。(p359)

 おりょうのその後は、「地下の龍馬の為に之を筆にするに忍びぬ。」とまで書かれている。そのうえ「多情多恨」と、おもわせぶりに書いている。

 以上見てきたように、龍馬死後のおりょうについては、男関係に問題があった、そのため、土佐を追い出され、その後も哀れな末路をおくった、とするものが多い。
 しかし、龍馬に敬意を払って書くに忍びないと、みんな具体的な話が書いてないので、どうもよくわからない。最近の芸能レポーターのような人間はこの頃いなかったのか。
 あまり趣味のいいこととは思えないが、わからないことは気になるので、男関係の不行跡について、さらに具体的な話をさがしてみた。(つづく)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年11月27日 (木)

その後のおりょう

 ここのところ坂本龍馬死後のおりょうのことを書いたものをぼちぼち読んできた。
 まず最初にみたのは、龍馬本の定番中の定番、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』だった。これを読んだのはもう四十年も前のことなので、その後のおりょうについて、何か書いてあったかどうか、まるでおぼえていなかった。

 昔読んだ単行本は全5冊だったのが、文庫本では8冊になっている。そのため単行本の各巻末にあった「あとがき」が、文庫本では最後の第8巻の巻末に「あとがき一~五」としてまとめて掲載されている。

Photo
 小説の本編にはその後のおりょうのことは書かれていなかったが、「あとがき五」に、次のように書かれていた。ちょっと長くなるが、そのまま引用する。

竜馬の死の当時、おりょうは下関の海援隊支店伊藤助太夫方にいた。事変当時、全身朱(あけ)に染んで血刀をさげた竜馬の夢を見たという。ほどなく竜馬の死を知った。
 その後、助太夫方をひきあげ、長府の三吉慎蔵にひきとられた。三吉は寺田屋遭難のとき、竜馬と同室にいたあの青年である。
 三吉の藩主である長府侯はおりょうをあわれみ、扶持米を給した。
 その後海援隊士が協議し、おりょうを高知城下の竜馬の生家に送りとどけた。この間、おりょうを世話した三吉慎蔵に対しては、後藤象二郎が国産の紙を贈り、海援隊士中島作太郎は伝正宗作の短刀を贈っている。
 高知城下本丁筋一丁目の坂本家に入ったおりょうは、竜馬の兄権平や姉乙女とはじめて対面した。とくに乙女については竜馬からさんざんきかされていたので、初対面ともおもえなかったであろう。
「私を真実の姉と思いなさい」
 といって「坂本のお仁王様」はおりょうを大事にもてなした。が、次第に仲がわるくなってきた。乙女にすれば竜馬を育てたのは自分だと思っていたし、事実そうであった。かつ竜馬を理解するところがもっとも深かったから、なんだこの女、という底意地のわるさもつい出てきたであろう。乙女とおりょうは、女仕事ができないという点では共通していたが、相違する点も多い。乙女は武家女としての教養がありすぎ、その節度の美しさももっている。その節度美をもって人を見、他人を律するから、無教養でどこか投げやりなところのあるおりょうが許せなくなったように思われる。
「竜子、家を守らず、非行をあえてす。乙女怒って竜子を離別す」
 土佐の記録にある。たたき出してしまったのである。しかし土佐の土陽新聞明治三十二年十一月八日付のおりょうの回想談のなかに、
「姉さんはお仁王という名があって元気な人でしたが、私には親切にしてくれました。私が土佐を出るときにも、一所に近所へ暇乞いに行ったり、船まで見送ってくれたのは乙女姉さんでした」
 とあり、いっっこうに不仲らしくもない。察するに乙女はこの「善悪さだかならず」(佐佐木三四郎)という女性に対し、腹にすえかねることがあっても、表面ニコニコしていたのであろう。が、親戚などのおりょうへの不評もあってついに、
「あなたは出てゆきなさい」
 と、乙女らしい単刀直入でからりと申しわたしてしまったかと思われる。
「まことにおもしろき女にて」
 とは、竜馬が手紙で乙女に紹介したおりょうの人柄である。が、竜馬の目からみるときらきらと輝いてみえたおりょうの性格は、他の者の冷静な目からみればそのあたらしさは単に無智であり、その大胆さは単に放埒(ほうらつ)なだけのことであったのだろう。おりょうの面白さは竜馬のなかにしか棲んでいない。
 高知を出てから、おりょうはその故郷の京都へ行った。竜馬の墓守りをする、とひとにも言っていたが、墓守りでは食えない。おりょうには養うべき老母や妹があった。その後、東京へ出た。東京にさえ出れば竜馬の友人がいる。最初、西郷隆盛を頼ろうとしたが、西郷は征韓論にやぶれて鹿児島へ帰ってしまっていた。海援隊関係者も、中島作太郎や白峰駿馬は洋行中であった。
 放浪のすえ、横須賀に住み、人の妾になったりした。明治三十九年、六十六歳で死んでいる。大正三年八月、おりょうの実妹中沢光枝が墓碑を建てようとし、もと陸援隊士だった田中光顕、水戸脱藩の香川敬三などが多額の寄付をした。彼等、維新当時の三流志士たちはすでに華族になっていた。おりょうの戒名は昭竜院閑月珠光大姉、墓は横須賀市大津町信楽寺門前にある。おりょうは竜馬の生前、自分の亭主をさほどの人物ともおもっていなかったらしい。(p421~423)

 単行本の『竜馬がゆく5 回天篇』は1966年の刊行で、それから三十年後の1996に単行本が刊行された『街道をゆく42 三浦半島記』の「久里浜の衝撃」と題する章には、こう書かれている。(引用は朝日文庫版による。)

42

りょうの運命も変転した。
明治の一時期、土佐の高知の坂本家に身を寄せていたが、龍馬の姉の乙女との折り合いがわるく、ほどなく高知を去った。
 その後のことはよくわからない。東京にいたという。晩年は横須賀に住み、西村松兵衛方に”西村ツル”として過ごした。いわば陋巷(ろうこう)の人だった。
 明治三十九年(一九〇六)一月十五日の夜、病没した。
 近所の人の手でささやかな葬儀が営まれたが、ふしぎなのはこの巷の野辺の送りに、海軍士官たちがまじっていたことである。
 生前、彼女は自分は坂本龍馬の妻であるとよく話していて、おそらくそのうわさが、この地の水交会(海軍士官のクラブ)にもきこえていたのにちがいなかった。
 明治は薩長藩閥の世で、坂本龍馬の名など無名に近くなっていた。
 ところが、明治三十八年春に、この名が新聞紙面をにぎわした。
 当時、ロシアのバルチック艦隊が日本海への侵入をめざすか、それとも太平洋まわりにウラジオストックに入るのか、国民一般までが気にしていた。皇后も、そのことが脳裡にあって、そういう夢を見られたらしい。夢に白装の武士があらわれ、ご心配になるようなことはありません、といったという。
 このときの皇后宮大夫(こうごうぐうだいぶ)は、水戸藩出身の香川敬三だった。その夢の話を宮内大臣の田中光顕(みつあき)に伝えた。土佐出身の田中は、それは坂本龍馬だ、といった。
「その証拠は白装ということだ。上着も袴も海援隊の制服は白かった」
 当時、田中は、政界にも官界にも土佐派の勢力が衰えていることを気にしていたから、維新回天のときに土佐も功があったことを世間に思いださせるために、花火を揚げたかったにちがいない。
 田中が漏らし、皇后の夢が新聞に出、大きな花火になった。
 りょうの死は、その翌年一月である。横須賀海軍鎮守府の士官たちが葬儀に参加したのは、そういう知識(傍点)によるものかもしれなかった。
 もっとも海軍を買いかぶるとすれば、龍馬の海援隊まで知っていて、海援隊こそ日本海軍の祖の一つだと思ってのことだったかもしれないが、この点は私には自信がない。
 ついでながら、明治政府は龍馬に対し、明治二十四年、正四位を追贈した。りょうの墓碑は、おそらく海軍の有志が金を出しあって建てたものらしく、りっぱなものである。碑面に、
「贈正四位阪(傍点)本龍馬之妻龍子之墓」
とある。りょうの明治後の戸籍名である”西村ツル”は、無視されているのが、おもしろい。(p231~233))

 つまり、その後のおりょうは、おおよそこんなことになる。
 龍馬の死後、おりょうは土佐の坂本家へ身を寄せたものの、坂本家と折り合いが悪く、結局離縁された。京都へもどって墓守をしているだけでは母や妹を養っていけず、竜馬の友人を頼ろうと東京へ出た。
 東京では折悪しく西郷隆盛は征韓論にやぶれて鹿児島へ帰るところだった。海援隊の関係者からも十分な援助は受けられなかった。
 その後いろいろ曲折があって、横須賀に流れ、西村松兵衛という男と結婚して「西村ツル」となった。そのまま陋巷の人としてその後の人生をすごした。
 晩年の明治37年(1904)に、皇后の夢に龍馬が現れたと日本中に報じられ、おりょうの現況が新聞に取り上げられたときには、すでに病気療養中で、明治39年(1906)1月に死亡した。

 気になったことが三点あった。
 まず、おりょうはなぜ坂本家にいられなかったのか、ということ。土佐では、
「竜子、家を守らず、非行をあえてす。乙女怒って竜子を離別す」
と言われたというのは、いったいどういうことなのか。
 二番目に、海援隊関係者が、どうして面倒をみなかったのか、ということ。立身出世した者もそれなりにいた筈なのに。
 そして三番目が、おりょうが再婚した西村松兵衛というのが、どういう男で、「陋巷にいた」というのは、具体的にどういう暮らしをしていたのか、ということ。 
 この三点に注意しながら、いくつか資料を見てみたい。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年11月24日 (月)

J62 フランス・ジョーク

 最近「本のジョーク」のカテゴリーと「ジョークの本」のカテゴリーが同じようなものになってきた。この先どうするかはともかく、今回は「本のジョーク」である。
 まず、野内良三、稲垣直樹『フランス・ジョーク集』(旺文社文庫、1987)から。

Photo
モーセ

 イスラエルの中学校で教師が生徒たちに質問した。
「モーセのことはみなさん知っていますね?」
 すると、ひとりの生徒がさっと手をあげた、
「出エジプト記に出てくる指導者のことです。全く先見の明がない人です」
「なんてことを口走るんです! われらが偉大な先祖さまですよ」
「だって先生、そうじゃありませんか? イスラエルの民を率いてエジプトを出て、紅海を渡ったまではいいですよ。そのあと、なんで左へ曲がったんです? 右へ曲がっていれば、今頃、わが国は世界有数の産油国、それこそ大金持になっていたのに!」(p69)

論より証拠

 夜汽車の中で、熱心に本を読みふけっている乗客がいた。隣の席の乗客がのぞきこんで言った。
「それは幽霊の物語じゃないですか? そういった話はわたしなんかには、どうもくだらないとしか思えませんね。どうしたらそんな子供だましの話をお信じになれるんです?」
 乗客は答える代わりに、その場からすっと消えた。(p182)

 

 次は河盛好蔵編訳『ふらんす小咄大全』(ちくま文庫、1991)から。

Photo_3
のぞいてみれば

 マリウスがバスに乗った。
 乗客は美しい年増の女がひとりだけで、彼女は一心に本に読みふけっていて、彼が入ってきても眼もあげない。マリウスはいろいろと話の糸口をさがしていたが、やがて思いきっていった。
 ――奥さん、奥さんは実にすばらしい脚をお持ちですね。失礼ですが、もしお膝のところをちょっと見せていただけましたら、よろこんで百フランさしあげますが。ほんのお膝のところだけでいいんです。
 すると彼女はだまってスカートを少しまくって、膝のところを、ほんとうに膝のところだけを見せてくれた。
 ――いやこれはますますすばらしい、とマリウスは感にたえた様子をした。 
 それを見て彼女は相手を促した。
 ――あなた、百フランお払いにならなければいけません、粋なお方!
 ――いいですとも、さあ百フラン!
 それからちょっとしてマリウスはまたいった。
 ――どうでしょう奥さん。おみ脚の奥の方をもう十センチだけ見せていただけたら、もう百フランさしあげますが。本の十センチだけで結構なんです。
 すると彼女は脚の奧を十センチメートルだけ見せてくれて、それから次のようにいった。
 ――あなたはほんとうに粋な方でいらっしゃいますから、もし三百フランくださいましたら、そしたら……。
 ――そしたら、どうなんです、とマリウスは息をはずませてたずねた。
 ――そしたら、あたくし、盲腸の手術をしてもらったところをお眼にかけますわ。
 マリウスはすぐに百フラン札三枚をさし出した。彼女がそれを受け取ったちょうどそのとき、バスがとまった。彼女は立ち上がってバスを降りながら、正面にある不格好な一つの建物を指していった。
 ――これでございますわ。
 そこには大きな字で「外科病院」と書かれてあった。(p137)

 

読心術

 バガスは泳ぎが飯より好きである。ちょうど家の近くに川があって流れは静かだし、岸辺は草原になっている。暑い日にはかれは、どぶんどぶんととびこんで悦に入っていた。
 ある日の夕方、いつものようにそこに出かけ、草原で服を脱いですっぱだかになって跳びこんだ。長いこと泳ぎまわって、さて岸にもどろうとすると、服を脱いだところのすぐそばに若い娘がひとりしゃがんで本を読んでいるではないか。これは困った。バガスは泳ぎながら、なんとかこの純真らしい娘を恥ずかしがらせないですむ方法はないものかと考えた。突然うまい方法がバガスの頭にひらめいた。さきほど潜ったとき川底に古い桶のあったのを思いだしたのだ。そこで、もう一度潜ってみると幸いその桶が見つかった。これでひと安心。かれはそれをいちばん問題だと思われるところに当てがって岸にあがり、若い娘のほうに近よった。「こんな簡単な服装ですみません。ふだんはだれもこのへんは通らないので」などどいいわけをしながら……
 若い娘はにっこり笑って、「いいえご心配にはおよびません」というのでバガスも急に気が軽くなって話しかけた。
 ――小説を読んでるんでしょう、きっと。
 ――小説じゃないんです。これは人の心を読む方法を教える本なんです。
 ――お嬢さん、そういう本はみんなまやかしですよ、あてにはなりませんよ。
 ――まやかしじゃありませんわ。その証拠に、あたしはあなたが何を思ってらっしゃるかちゃんとわかります。
 ――これはオドロキですね。
 ――では申します。あなたはあなたの桶に底があると思っておいでです。ところがそれがないのです!(p189)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年11月21日 (金)

JB34 光文社「世界のジョーク集」

 1985年から1986年に光文社文庫で出た「世界のジョーク集」シリーズ5冊。うち4冊はラリー・ワイルド著で、第4巻だけ別の著者の『ロシアより笑いをこめて』という編成になっている。『ロシアより笑いをこめて』JB23 ロシア・ソ連のジョーク集 1/2で紹介したが、シリーズの1冊なので、ここにも入れておく。
 ウィキペディアによれば、ラリーワイルドは、アメリカのスタンダップ・コメディアンでテレビや舞台俳優もやり、ユーモア関係の著書が53冊あるとのこと。

141 男と女のジョーク集

Photo_2
    (書名)  男と女のジョーク集
          世界のジョーク集1        
      (著者)  ラリー・ワイルド
           浅倉久志 訳
      (出版者)  光文社
      (形状)     文庫
      (頁数)     174
      (出版年)  1985/12/20

142 『男と女のジョーク集』は、表から開けると「男のジョーク集」、裏から開けると「女のジョーク集」になっている。表紙写真のように逆さまに印刷されているので、どちらからでも読める。

・製本は凝っているけれど、男のジョークと女のジョークと、それほど差があるようには思えない。

・もとの本は”The Official Dirty Joke Book”と”The Official Bedroom/Bathroom Joke Book”というそうだ。ダーティ・ジョークというのは下ネタの下品なジョークのこと。
ラリー・ワイルドには”Official"を冠したジョーク集がいっぱいあるようだ。

142 バージンと色魔のジョーク集

Photo_4

    (書名)  バージンと色魔のジョーク集
          世界のジョーク集2        
      (著者)  ラリー・ワイルド
           浅倉久志 訳
      (出版者)  光文社
      (形状)     文庫
      (頁数)     174
      (出版年) 1986/01/20

・これも141と同じつくりで、どちらからでも読めるようになっている。

・内容もダーディ・ジョーク集で、141と同じようなものg。もとの本は”The Official Dirty Joke Book”と”The Official Virgins/Sex Maniacs Joke Book”

 

 143 犬と猫のジョーク集

Photo_6

    (書名)  犬と猫のジョーク集
          世界のジョーク集3        
      (著者)  ラリー・ワイルド
           浅倉久志 訳
      (出版者)  光文社
      (形状)     文庫
      (頁数)     158
      (出版年) 1986/02/20

・これも141と同じつくりで、犬からでも猫からでも読めるようになっている。

・もとの本は”The Official Cat Lovers/Dog Lovers Joke Book”

・イタリアやドイツに限らず、どうも西洋人の家庭は、嫁姑の関係より娘婿と姑の関係が問題らしい。犬のジョークにまででてくる。

「昨日、君のところの犬が、女房のお袋さんに噛みついたんだ」
「そいつは知らなかった。すまん、すまん。どうお詫びすればいいだろう?」
「そんなことはいいんだ。それより、犬へのお礼はなににしよう?」(犬p8) 

・猫のジョークのほうにもある。

 細君の母親が同居して、なにかと険悪になってきたある家庭。妻が夫に訴えた。
「ねえ、またネズミが出たのよ。母さんたら、あのネズミをなんとかしないと、もうこんな家には住んでられない、って」
 それを聞くや、夫はぱっと椅子から立ち上がった。
「あなた、どこへ行くの?」
「猫を捨ててくるんだ!」(p犬12)

・猫のこんな話があった。

 骨董屋がうらぶれた安食堂の前を通りかかった。薄汚れた仔猫が皿のミルクをなめていた。ところが、その皿は古代中国の数少ない名品だ。
 骨董屋は、食堂の主人に仔猫を五ドルで売ってくれとかけあった。
「いや、あの猫は売り物じゃねえんだ」
「いいかね、汚れかたからして、この猫はどうみたって上等そうには見えない。わたしももの好きなものだ、こんな猫が欲しくなるなんて。よし、十ドルだそう」
「ようがす。うりましょう」
「十ドルも出すんだから、どうだね、ついでにあの小汚い皿も持っていっていいだろう?」
「いや、あれはいけねえ。あの皿のおかげで、今週だけでもう三十八匹も猫が売れたんだから」(猫p9)

 これは落語の「猫の皿(または茶碗)」である。起源はどこの国で、どう伝わったのだろうか?

・もうひとつおまけ。

 スターリンが毛沢東に共産主義の講義をした。
「同志、毛よ。猫にカラシを食べさせるには、どうするかね?」
「ふたつ方法があります」と、毛沢東は答えた。「ひとつは、無理矢理に喉に押しこむ。もうひとつは、魚の腹の中にカラシを詰めて、それを猫にやる」
「きみは間違っている。それはどれも共産主義の理想と反するものだ。最初の方法は強制であり、二番目の方法はペテンだ。人民に対しては、強制もペテンも許されない」
「では、どうすればいいのですか?」
「カラシを猫の尻尾に塗るのだ。ヒリヒリしてくれば、猫はたまらなくなって尻尾をなめる。こうすれば自発的にカラシを食べることになるではないか」(p猫18)

 

93 ロシアより笑いをこめて

Photo_4
    (書名)  ロシアより笑いをこめて
          世界のジョーク集4        
      (著者)  ジャンナ・ドルゴボーロワ
           深見 弾 訳
      (出版者)  光文社
      (形状)     文庫
      (頁数)     222
      (出版年)  1986/03/20

JB23 ロシア・ソ連のジョーク集 1/2に紹介済。

 

144 ゴルフ・ジョーク集

Photo_8

    (書名)  ゴルフ・ジョーク集
          世界のジョーク集5        
      (著者) ラリー・ワイルド
           浅倉久志 訳
      (出版者)  光文社
      (形状)     文庫
      (頁数)     196
      (出版年)  1986/10/20

・もとの本は”The Official Golfers Joke Book”

・短いのを3例。

 自分のパットが冴えているときは、もちろんパットがうまいからだ。しかし、相手のパットが冴えているときは、もちろんパターがいいからだ。(p34)

 

「聞いたか。バーニーがかみさんを殺したんだって」
「ほんとかい、どうやって?」
「4番アイアンで」
「へーえ、で、いくつたたいた?」(p52)

 

うそつきの論理
 べつにスコアをごまかしてるわけじゃない。わたしがゴルフをやるのは健康のためだし、スコアの少ないほうが気分がよくなるんだ。(p94)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年11月18日 (火)

JB33 イタリアのジョーク

 フランス、ドイツときたので、今回はイタリアだが、残念ながら紹介できる本は二冊しかない。

 

139 トッティ王子のちょっぴしおバカな笑い話

Photo

(書名)   トッティ王子のちょっぴしおバカな笑い話
(著者)   フランチェスコ・トッティ
        沖山ナオミ、いとうやまね、ヴァレンティナ・マルツィアリ 訳
(出版者) ベースボール・マガジン社
(形状)    新書
(頁数)    111
(出版年)   2004/05/10
        (2004/05/31、2刷)

フランチェスコ・トッティは、イタリアのプロ・サッカー選手で、セリアAのASローマ所属。現在のASローマのキャプテンで、イタリア代表として2006FIFAワールドカップの優勝メンバーだというから相当の選手である。しかもローマ生まれのローマ育ちであることから、「ローマの王子様」と呼ばれたという。

・そのトッティをなぜか天然のおバカさんとして、イタリアではたくさんのジョークが作られたのだそうだ。本人は決してジョークのようなバカではないというから、日本で昔はやった「がんばれ!! タブチくん!!」のようなものか。

・しかし、このジョーク集のほとんどが、イタリア語のダジャレのようなものでできているので、残念ながら解説を読まないとわからないものが多い。
 そのダジャレもトッティのローマ弁と標準イタリア語のズレを使ったものが多いようで、正直なところ解説を読んでもなかなかピンとはこない。

・これならわかるというのをひとつ。

コールセンター

テレフォンショッピングをしようと電話に向かうトッティ。
テープの声が聞こえてきた。

テープ音声:「プッシュボタンで10を押してください」

トッティ:「え? 俺のボタン、9までしかないんスけど…」(p14)

140 抱腹!! イタリアン・ジョーク

Photo

(書名)   抱腹!! イタリアン・ジョーク
(著者)   赤尾泰子、 C・カッチャプオティ
(出版者) 遊学社
(形状)    四六判ソフトカバー
(頁数)   224
(出版年)  2013/01/10

・イタリアの文化や社会の解説を入れたジョーク集。
 ドイツと同じくイタリアでも、嫁姑より、娘婿と姑の関係が問題になっているらしい。母親が強くて、娘の家庭までとりしきろうとするという。

丸い家
男が建築家に設計を頼んだ。
「丸い住宅を建ててほしい。どの部屋も丸くして庭も丸くしてもらいたい」
「分かりました。ですがそのような家の設計ははじめてですが」
「うちの姑が、家を建てるなら、どこか一角をくれというんだ」(p62)

・カラビニエリという軍事警察のまぬけさをからかうジョークがたくさんあるそうだ。昔、資格や学歴がなくてもなれ、地方出身者が多かったことからきているらしい。

指が痛い
病院へ行ったカラビニエリ。
「先生、腹を触ると痛いです。鼻も触ると痛いんです。胸を触っても痛いです。どういうことでしょうか」
「指が骨折しています」(p115)

・元首相ベルルスコーニについてのジョークもいろいろあるようだ。

発明
イタリアで、キーワードを言えば選曲できる新しいカーステレオが発明された。
男が車を運転しながらその新製品を試していた。
「美しい」と言うと、カーステレオからバッハの美しいメロディが流れた。
「ラブソング」と言うと、フランク・シナトラの懐かしい曲に変わった。
その時、彼の車の前をもう1台の車が横切り、危うく衝突しそうになった。
男がびっくりして「バカ野郎!」と怒鳴ったら、カーステレオからベルルスコーニの声が流れ始めた。(p96)

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年11月15日 (土)

雀々・昇太東西二人会

 11月9日(土)は鎌倉芸術館の「第27回かまくら名人劇場 桂雀々・春風亭昇太 東西二人会」へ行った。

Photo_3
 出し物は、

春風亭昇羊(しょうよう) 黄金の大黒
春風亭昇太        宴会の花道
(中入り)
鏡味正二郎
(まさじろう) 太神楽曲芸
桂雀々(じゃくじゃく)   代書

Photo_5
 前座の昇羊は、まだ日が浅いのか.。今回の評価はとりあえず、「がんばろう」。

 昇太の「宴会の花道」は新作落語。会社の宴会で、酒が飲めない者に毎回酒を強要するのは理不尽と、酒なしで、それぞれが好きなものを食べるという宴会をやってみたところ…という話。
 昇太の話し方が、かなりハイテンションで、力をこめてしゃべる。それで早口になると、自分でも言っているように、滑舌がよくないのでちょっと聴き取りにくくなる。
 熱演で笑わせてくれたが、まくらの「笑点」や大河ドラマに出た時の裏話のほうがおもしろくて、客にも受けているようだった。
 前回昇太を見た時は(→雀昇ゆかいな二人)、古典が二席だったので、はじめて昇太の新作を聴いた。今回の話は、とくに前衛的だとか飛んでるとかいうところはない。師匠の春風亭柳昇あたりでも作りそうな話。

 鏡味正二郎太神楽は、まず五階茶碗という、顎の上に乗せた棒のうえに板を乗せ、茶碗を乗せ…と次々積み上げていくバランス芸。業界では「立てもの」というそうだ。そのあと皿回しや傘まわしも見せてくれた。芸の技があってのことだが、間に入る「危ないところは早めにやめます」みたいな、とぼけたせりふもおもしろい。

 桂雀々は死んだ二代目枝雀の弟子で、「代書」は枝雀の十八番でもあった。
 まともにに字が書けない人がまだそれなりの数いた頃の話で、就職のため履歴書を書いてもらいに代書屋へやってきたが、言うことがトンチンカンで…という話。
 大きな声に大きな身振り、顔も大きく歪めて、派手な話しぶりで、とにかく笑える。これでもか、これでもかとやるところがいかにも関西風。
 この話の初演は、戦前の昭和14年(1939)だというから、75年前の新作である。東京でもやっていて、前に柳家権太楼で聴いたことがある。古典になりつつあるというところか。昇太の「宴会の花道」は、75年後にどうなっているだろうか。

Photo Photo_2

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年11月12日 (水)

JB32 ドイツのジョーク

 フランスの次はドイツである。

135 ヒトラー・ジョーク

Photo
   (書名)    ヒトラー・ジョーク
                   
ジョークでつづる第三帝国史
    (著者)   関 楠生 編訳
     (出版者) 河出書房新社
     (形状)    四六判ソフトカバー
    (頁数)    212
    (出版年)   1980/07/25
                    (1984/08/17、3版)

・わたしの若いころには第二次大戦に関する本はたくさん出ていて、第三帝国うんぬんという本もよく見た。さすがに最近はあまり見なくなって、ゲーリングやゲッペルスの名前を知っている若い人は少なくなっているだろう。
 この本は、当時の年代記をはさんで政治状況などを説明しながら、ジョークを紹介している。それでもよくわからないところがけっこうある。この時代のドイツを勉強しながら読むといいかもしれない。

・わかりやすいジョーク。これは政治家の名前を変えて、あちこちで使われている。

事故
 ヒトラー、ゲーリング、ゲッベルス、ヒムラーの四人が、一台の飛行機に乗って出発した。事故が起きて、飛行機は墜落した。誰が助かったろうか?
 ドイツ国民。(p66)

 

136 ドイツのジョーク

Photo_3

(書名)    ドイツのジョーク      
       笑っておぼえるドイツ語会話
(著者)   木阪允信、牛田栄次 訳
(出版者) 太陽出版
(形状)    B6ソフトカバー
(頁数)     105
(出版年)   1983/04/25
              (1988/09/25、2刷)

・これはドイツ語学習用の日独対訳ジョーク集。ドイツ語のほうはまったくわからないが、日本語のほうはちょっと固い気がする。

・見本をひとつ。(日本語が固いという例ではありません)

無知

Ich habe gesten mit meinemneuen Freund den >Ring des Nibelungen< angesehen.
Und? Wird er ihn dir kayfen?

 昨日、新しいボーイフレンドと「ニーベルンゲンの指輪」を見に行ったわ
 それで? 彼、その指輪を買ってくれるの?(p50)

 

137 ドイツ人のバカ笑い

Photo_7

(書名)   ドイツ人のバカ笑い
 ジョークでたどる現代史
(著者)  D・トーマ、M・レンツ、C・ハウランド
      西川賢一 訳

(出版者) 集英社
(形状)    新書
(頁数)    205
(出版年)   2004/06/22

・原著はもっと大部で、ドイツのユーモアの解説などがあるそうだが、それは割愛し、ジョークも厳選してあるとのこと。

・「ジョークでたどる現代史」とあるように、年代別に章をたて、略年表を添え、さらにジョークの間にその頃のドイツの状況なども適宜入っている。

・ちょっと長いけれど、東西ドイツに分かれていた時代のものをひとつ。

 一台のトラービ※がアウトバーンを走っていたところ、パトカーに追い越され、停止させられた。警官が四人降り、車に向かってきたが、なんだかにこにこしている。
「東ドイツ交通警察、陸軍曹長ヒューブナーです」と、いちばん上役らしいのが自己紹介した。
「わたしら、あなたの車を百キロ以上も追走してみたんですが、もうお知らせしてもいいでしょう。よく気をくばり、交通法規を守った運転の仕方だから、あなたを今年の『ベストドライバー』として表彰します。さ、ここにサインしてください。表彰されると賞金が八百マルク出るんですよ」
「お、すごい」、ドライバーが言った、「それだけあれば、おれもとうとう免許証がつくれるな」
「うちの人のいうことなんか本気にしないでね」、助手席の妻が言った、「すぐあんなバカばなしをはじめるの、酔っぱらうといつも」
「ほらごらんよ」、うしろから子供が声をはりあげた、「ぼくがさっき言ったとおりじゃないか。盗んだ車で行ってもすぐつかまる、って」
 このとき後部トランクルームのボンネットが開いた。おばあちゃんが顔を出して尋ねるには、「どうしたの? もう西に着いたのかい?」(p138)

※東ドイツの国民車

 

138 ドイツ産ジョーク集888(ワッハッハ)

Photo_5
   (書名)   ドイツ産ジョーク集888(ワッハッハ)
     (著者)   田中 紀久子 訳編
     (出版者) アートダイジェスト
      (形状)    四六判ソフトカバー
      (頁数)     303
      (出版年)  2009/04/16

・「888」には「ワッハッハ」とかながふってあって、888篇のジョークが収録されている。訳編者の知人のドイツ人のジョーク・コレクションを翻訳したものだそうだ。

・訳編者によれば、ドイツでは嫁姑の関係より、姑と婿との関係がうまくいかないことが多く、それをネタにしたジョークが多いという。この本にもいくつか収録されている。
 その中からひとつ。

滞在期間
 ミヒャエルが義母を迎えて言った。
「お義母(かあ)さん、今回はどれくらい泊まっていってくれるの?」
「おまえ達の邪魔になる前には帰らせてもらうよ」
「なんだ、そんなに早く?」(p89)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年11月 9日 (日)

JB31 フランス小話

 わたしの若い頃までは、フランスといえば芸術の国、文化の国だった。ジョークですら粋で垢抜けていると考えられていた。大学でも第二外国語としてフランス語は随分人気があった。
 世界中にアメリカの影響力が拡大していく中で、ヨーロッパの地位が低下し、今ではフランスのジョーク集の新刊もさっぱり見ない。
 古いのをさがせばもっといろいろありそうだけれど、現在手元にある フランスの小話集はこんなところ。

130 フランス小話集

Photo_6
    (書名)   フランス小話集   
     (著者)   田辺貞之助
      (出版者)  高文社
      (形状)     新書
      (頁数)     144
      (出版年)   1966/07/10

・これはJB28 田辺貞之助の本へ入れてもよかったか。

・この会社の「アメリカ小話集」の巻末には、「世界小話全集」と銘打って、この本を含め全16巻の小話集のリストが載っている。うち3冊しか見ていないが、田辺貞之助、金子登、宮尾しげを、といった名前が並んでいるので、艶笑譚が中心のシリーズと思われる。
 この本も艶笑譚が中心で、どこかで読んだような話が多い。

・こんなジョークもあった。

戦後戦争防止法
――永久に戦争をなくして、世界平和を樹立する方法はないものだろうか?
――そんなことわけないさ。勝ったほうが全部の費用を払うってことにすりゃ、戦争をはじめる国はなくなるだろう? (p122)

 アメリカは、このジョークのように、結局戦争のツケを払わなければならなくなっているような気がする。

 

131 フランス笑話集 

Photo

    (書名)   フランス笑話集   
     (著者)   奥平堯 訳編
      (出版者)  社会思想社
      (形状)     文庫
      (頁数)    222
      (出版年)   1981/05/30・

・この『フランス笑話集』132『フランス小ばなし集』は二冊とも、フランスで刊行された『世界民話集』から、フランスの笑話、小ばなしとしてふさわしいものを選んで編んだものとのことである。

・だから二冊とも、ジョーク集というより、民話集、昔話集である。ほら吹きや愚か者、知恵ある庶民が司祭や領主をだます話。粋で洒落たフランスではなく、田舎のフランスが舞台のお話集。
 こういう話が後に小咄やジョークになっていったのだろうけれど、実はわたしはジョーク集だとばかり思って買ったら、そうではなかったのでちょっと残念だった本である。

・編者あとがきによれば、この本に好色物がないのは、原著にないからだという。フランスの民話にその類のものがないとは、と編者も疑問を呈している。

 

132 フランス小ばなし集

Photo

    (書名)   フランス小ばなし集   
     (著者)   奥平堯 訳編
      (出版者)  社会思想社
      (形状)     文庫
      (頁数)    254
      (出版年)   1981/07/15
            1981/09/30 2刷

131フランス笑話集』 で書いたとおり、これもフランスの民話集である。131より短めの話がこちらには収録してある。

・「聖ペテロの母親」という話があった。
 地獄へ落ちた性悪の母親を救うため、母親の生前の唯一の善行――餓死寸前の男に葱(ネギ)の葉を一枚くれたやった――を根拠に、聖ペテロは天国から地獄へ一枚の葱の葉を垂らしてやる。長くのびた葱の葉に母親がぶら下がってのぼりはじめると、その後を次々に罪人たちがのぼってくる。それを見た性悪の母親が、下の罪人たちを蹴落とそうとすると……
 これは芥川の「蜘蛛の糸」ではないか! 芥川はお釈迦様ではなく聖ペテロからヒントを得たのか。

133 ふらんす小咄集

Photo_2

    (書名)   ふらんす小咄集   
     (著者)   野内良三
      (出版者)  旺文社
      (形状)     文庫
      (頁数)     224
      (出版年)   1987/03/25

.・これは通常のフランス・ジョーク集で、好色話がたっぷりある。あとがきには、最近フランス小咄の本格的な本が出ない、と書いてある。1987年頃にはもうフランスの地位は低下していたようだ。

・また、あとがきには、280篇中すでに紹介済みが数十篇ある、と書いてある。こういう正直なジョーク集はめずらしい。どこかで読んだことがあるようなジョークばかりの本もけっこうあるのだ。

 

134 フランス・ジョーク集

Photo_4

    (書名)   フランス・ジョーク集   
     (著者)   野内良三、稲垣直樹
      (出版者)  旺文社
      (形状)     文庫
      (頁数)     208
      (出版年)   1987/06/25

.・これも通常のジョーク集で、こちらのあとがきには、250篇中すでに紹介済みが50篇ほどある、と書いてある。

・こんなジョークがあった。

信念
 一代で巨万の富を築いた実業家に新聞記者がインタヴューした。
「社長が今日あるのは、どんな信念をもってやってこられたからですか?」
「別にタイしたことではありませんよ。ただ、私の信念というのはですね、お金は二の次。様は身を粉にして働くということです」
「なるほど、そうですか。それで、そういう信念をお持ちになったお蔭でわが国でも指折りの億万長者になられたわけですね?」
「いや、そういった信念をうちの全社員に植え付けたお蔭だよ」(p32)

 最近のブラック企業のことを思うと、ちょっと笑いにくい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年11月 6日 (木)

坂本龍馬未亡人龍子 2/2

第五回(明治37年12月21日)

Photo_15
◎祝言を了って、龍馬は龍子と其母の貞子に對し、自分の奔走は國事の為なるが。動(やや)もすれば反對黨の危害を免れぬ、實に旦夕を知らざる命だからとて其決心を語つた。
◎斯様(こん)な事情(わけ)だから、龍子を表向き女房として世帯を持つなどは迚(とて)も出來ぬ、いっそ自分の定宿として居る寺田屋に女中として住はせ、敵味方の虚實を探らするが得策であると考へ、母貞子諸共龍子を寺田屋へ連れ行き寺田屋の女将とも密議の上トウトウそれを取極めた。
○寺田屋の女将おトセと云ふは歳三十を超ゆる僅かに二三、才色兼備の女豪傑で、龍馬夫婦と母貞子の志に感じ、龍子が龍馬の妻たることは堅く隠し、表向き養女として貰ひ受け、常に他の女中と一所に他に侍らしめたので、何人も此内情を知つた者はなかつた。
◎龍馬は其當時深く本名を秘して種々(いろいろ)に名前を偽り、此頃は齊田梅太郎と稱して政界に出没し龍子は女中お春と稱して女将及び龍馬の指導の下に密偵をなし、龍馬の為め實に必要なる探偵機關となった。
◎龍子が女中お春と化けて入つたる寺田屋と云ふは、御承知の通り京都の宿屋で、諸國の旅人――殊に浪人共がお得意の宿で、幕府方の新選組なども能く飲みに行つたのである。
◎女将のおトセは女中のお春が龍馬の妻であると云ふのを蔽ふ為めには却々の 苦心したもので、新選組の客などの面前で叱りもし打擲もすると云ふが、毎々の事であったので、三好を除くの外、龍馬の腹心の者すら容易に之を發見し得なかつたとの事である。
◎さて寺田屋のお春おとく二人は評判の美人で、殊にお春は才氣の勝れて居る為め、諸國の豪傑連をして恍惚たらしめる勢で、此美人を見る為めに態々用を拵えて出入した者も少なくは無かつた。
◎血氣壯(さかん)の豪傑連の中には、お春を掌中の花にせんと執心した者も數多あつたが、中にも以前楢崎の家に出入して面識ある薩摩の豪傑某は、特に熱心の度が高かつたので龍子のお春も宛然(さながら)許したかの如く見せ掛けてサンザン翻弄したとは、さてさて罪深い心根、凄い腕ではあつた。
◎薩摩組で新納(にひろ)と云ふ豪傑も横恋慕の一人である、彼はお春を挑んだが、案外手輕く靡きさうに見えたので、一夕お春の寝所へ奇襲を試みた。所がお春は靡くどころか、失敬千萬と言はぬばかりに枕頭(まくらもと)に隠し置いたる短刀を抜き翳し、寄らば斬らんと云ふ意氣込を見せたので、流石の豪傑も度膽を抜かれ、二足三足後へたぢろき、ハヽヽヽと高笑ひするお春を尻目にかけ、女の分際短刀など持ち居るは怪しい奴に相違ない、直ぐ河原へ連出して首を斬(きる)と騒ぎ出した。

第六回(明治37年12月23日)

Photo_8
◎さてお春は平氣であったが、女將は心配して詫びる、新納は如何(どう)あつても許さぬと威張り返って居る。所へ西郷、大山(綱良)等が遣つて來て其仔細を聴き取り、兎に角その短刀から檢(あらた)めんとて大山が先づ手に取つて見始めた。豈に圖らんや、此短刀は紛れもなく龍馬が實の姉から貰った愛刀なので、一同これは不思議と首を傾け居ると、三好はお春と龍馬の關係を知つて居るから、今更隠し立てすることも出來ず、チョット大山に耳打ちした。
◎スルト大山は新納に對し、極厳めしい調子で『お春どんは坂本殿(どん)の夫人ぢや無禮をし玉ふな』と遣つたので、居合はした人々は一時呆気にとられ、是迄再三お春を挑んだ三四の豪傑連は膽を潰したとの事である。
◎其翌日でもあつたか、西郷、新納を始めお春を挑んだ四人の者は、當時居合はした同志に連れられ、齋田梅太郎即ち龍馬の面前で無禮を謝し、龍馬も龍子の事を披露に及んで。圓満に局を結んだと云ふ事である。
◎此待設けざる珍事より漸々(だんだん)お春の素性も世間に知れ渡つたのみならず、また龍馬の信用した下男某は其後新選組に裏切りをした為め、お春が龍馬の妻たる事も敵方に知れる様になつたので、お春は密偵としての働きが出來ない様になつた。
◎併し龍馬の為めに手足となつて働いた事は大したもので、龍馬が寺田屋で新選組に夜襲せられた時、若しお春の龍子が居らなかつたなら、龍馬と三好の運命は、彼(あ)の時定まつたのであらうと思はれる。其寺田屋騒動に於ける龍子の働きをチヨツト話さう。
◎さて龍馬等が畫策した薩長連衡策も略(ほ)ぼ成就したので、幕府は一通ならぬ恐慌を起し、之に奔走せる志士に對する迫害の度を加へたので、幕府方の壯士新選組十三名は、遂に寺田屋に龍馬を襲ふたのである。
◎其晩龍馬は來合せて居つた三好と入浴を了へ、おはるの龍子を侍べらせて、晩酌を傾けながら、色々時務に就て熟談を試み、午後十時頃に龍子は『ちよいと風呂へ入つて参りますさかい……』とて、浴槽に入つて居つた所、ゴツンと云ふ物音と共に閃く鎗の穂先が龍子の髻(たぶさ)を掠めた。
◎これが尋常(なみ)の婦人ならば、膽を潰ぶして気絶でもする所だらうが、龍子は天性豪膽なるが上に龍馬の薫陶があるので少しも騒がず。ハテ來たなと感付き、直様(すぐさま)鎗の柄を捕まへて揮(ふ)り搖(うごか)しながら『女に手向ひする卑怯者め』と叫んだが、外では女ぢゃ〈とて鎗を抜き、今度は戸口へ向かつた様子。
◎龍子は所天(をつと)の一大事と、身體も拭はずに着物を纏ひ、捷路(ちかみち)の梯子を登り二階の所天に急報しやうとしたが、廊下でバツタリ敵の先鋒に會あつて胸倉を取られ『二階に客が居るだらう、案内しろ……ナニ虚言(うそ)だ居るに相違ない』と嚇されたが、其處は度胸の据わつた女丈夫だけに平氣なものであつた。
◎『成程先刻迄客が居りました……確か西郷とか云ふ薩摩のお方』『イヤ齋田梅太郎が居るに相違ない』『イヽエ其様(そん)な方の名もお聞き申しません』と遣って見たが、其内の一人は『薩州でも構はん上れ〈〈』とて先刻(さつき)まで客の居つたと云ふ部屋へ案内なしに打入ろうとした。

第七回(明治37年12月27日)

Photo_17
◎こヽに至つて龍子は勢(いきほひ)窮つたので、好い加減に饒舌(しやべり)つヽ態々遠くの方を教へて遣り、自分は捷路(ちかみち)から一直線に龍馬の部屋へ行き、唐突(いきなり)龍馬の背中をたヽき『新選組が亂暴しに來ましたさかい御仕度なされ』と告げた。龍馬は此時三好と差向ひで密議を凝らして居たので、トント新選組の龍來に気が付かずに居った上に、廣い家ではあるし、女将其他の家族は大抵縛られたり、監視を付けられたりして居たので、龍子の外に注進する者がなかつたのである。
◎さて新選組の連中は方々の部屋をば靜かに家捜して廻り、遂に裏の梯子から上つて行つたのだが、龍馬は最早(もう)龍子の急報によつて其邊の障子を外させ邪魔者を取片付けさせて、悠々と傍らにあつた袴を着け、三好も曲者御参(ござん)なれと云ふ調子で羽織を脱ぎ襷を綾どり、部屋に用意してある槍を操(と)つて身支度をした。龍馬は最(いと)鷹揚に床の間を背に身構へ、龍子に向かつて『お龍お前は乃公(おれ)の脇に居つて如何(どう)なるか観て居れ』と如何にも敵を呑んだ言分であつた。
◎斯くて坂本三好の両人は今や遅しと待つて居る所へ、階子(はしご)を上つて來た曲者の龕燈提灯がパツと映つるや否や直ぐドカ〈遣って來た。龍子の大膽不敵なる、斯様(こん)な危機一髪の場合にも沈着(おちつき)佛つて少しも騒がず、直ぐに己が着て居た袢纏を脱いで行燈に被らせ、燈光(あかり)を先方(さき)へ向けた早速の氣轉、聞く者誰でも舌を巻いて驚嘆した。
◎龍馬は曲者の姿を見るや、大喝一聲、『無禮者控へろ』と怒鳴り、打込んで來る敵の先鋒一人を第一發のピストル弾に斃した。龍子もこれと前後して側にあつた二個の火桶を抛り投げたところ、一個は見事に第二番目の曲者の顔へ當つたので、曲者は忽ち氣絶した。 ◎三好は槍を操つて縦横に突入り、敵に數多の傷を負はせ、龍馬のピストルは六發のうち五發まで敵を斃したが、横合から來た曲者の一刀に身を躱(かわ)したる一刹那、ピストルを持たる右の拇指(おやゆび)と人さし指を切(きら)れた。
◎此時代のピストルと云ふのは、ちょつと珍しい利器なので、如何に豪膽な士(さむらい)でも、これには大に恐がつ居つたのだが、此晩の曲者も此のピストルの為に多大の損害を被って退却し、龍馬も指に疵を負ふたので、曲者等の退却に次いで、一方の路から隣屋敷へ身を避けた。
◎三好は餘勇勃々(よゆうぼつ〈)、血に塗れたる鎗を提(ひつさ)げて、敵を追駆けやうとしたが、其時龍子は危險已に去つたことゆゑ、此上進んで萬一(もしか)大切(だいじ)の身體に怪我でもあつてはならぬと引き留めたので、三好も成程と其儘追窮を見合せ、多くの時間を費して途中忍びつヽ薩摩邸に避けた。龍子も床間にある所天が大切にして居る、掛物を抱へて薩邸に逃げ落ちる途中、新選組の逆襲に會つた。其一節は次號に書かう。

第八回(明治37年12月28日)

Photo_18

◎龍子は所天(をつと)龍馬の身上を気遣ひ、多分薩州邸だらうと思つたが、近所に懇意な醫者があるから、或は其家に龍馬が居るかも知れぬと考へたので、先づ其醫者を尋ねた。所が其家では、若し寺田屋の騒動が此方(こちら)まで及んでは大變と云ふので、家族は悉皆(すっかり)出拂ひ、家中真闇で寂然(ひつそり)してあつたゆゑ、直に薩州邸へと足を向けた。
◎龍子が凡そ三四丁も行くと、先方(むかふ)から抜身の槍を提(ひつさ)げた者を案内として遣って來る十數人の一隊を見た。所が先方(さき)では早くも龍子を寺田屋のお春と猜して『お前はお春だらう』と詰問した。けれども龍子はビクともせず、『イヤ其様(そん)な者ではありません、私は此邊の醫者の娘で今使(つかい)の歸りです……ハテ其様(さう)いふ婦人なら唯今一人跣足(はだし)で向ふへ行きましたが……』と騙して切り抜けたる膽力機知、實に男子も及ばぬ所なので、新選組の逆襲連はツカリ乘せられ、先を急げ〈と寺田屋指して駆け出した。
◎斯くて龍子は漸く虎口を脱し、薩州邸の門衛に斯く〈と告げて邸内に入り込み、丁度邸内に來合わして居た豪傑連に寺田屋騒動を話したが、西郷を始め一同大に立腹し、何れも早速出掛けやうと袴を股立にそれぞれ身繕ひした。時しも三好は途中を忍びつつ漸く薩邸に達したので、共に寺田屋へ出掛けることになった。
◎龍子は龍馬の居らぬ為め大心配して居つたのであるが、併し最早大した怪我をせずに逃げ延びたことは確かに見届けたので、心當りを話して、寺田屋の附近を捜して貰つた。豪傑連は寺田屋へ出掛けては見たとこと、敵味方の影も無かつたが、龍馬は材木の陰に身を潜めて居つたので、互に無事を祝し、兎に角連れ立つて薩州邸へ歸つた。 ◎龍馬は薩邸へ歸つて龍子の無事な顔を見るや、喜(よろこび)極まつて『お前最早(もう)來て居つたか』と叫び、人前も憚らず寺田屋に於ける龍子の働きを歎賞したが、西郷等も『お春殿(どん)は尋常(ただ)の婦人ぢゃなか』とて大に褒めた。
◎龍馬は更に竜子に向ひ、『お前は掛物を持って來たか』と聞いたので、龍子は『ハイ此處に』と言ふと共に出した。死ぬるか生きるかと云ふ騒動の際にも、所天の秘蔵品を持ち出すなどは、實に沈着(おちつ)いた擧動(ふるまひ)である。
◎さて此掛物と云ふは、長藩の重役岡三橋と云ふ學者の筆なので、龍馬が長府に居つた時に三橋が龍馬の為人(ひとヽなり)に傾倒して作つた絶句を書いたものだが、龍馬は其詩を愛して酔ふ毎に之を吟誦して居た位に大切な物であつた。
◎其後近江屋で襲撃を受けた時、龍馬は一刀の下に脳天を砕かれ、其脳漿が床間に掛けてあった此掛物に迸り、稀世の俊傑が最期の惨状を追想さるべき紀念物として遺された。其一幅は現に龍子の保護者たる工藤外太郎氏の手許に在る。記者もこれを一見したが、當時の血痕斑々(はんぱん)として紙上颯然(さつぜん)腥風(せいふう)を生じ來るのぢゃ。
◎龍子の生涯に於ける沈着剛勇出没變幻なる巨細の逸事を調べたらば、尚ほ多くを書き得るであらうが、茲に一先づ筆を擱き、他日を待つて書くことにした。要するに龍子は亂世の女丈夫として比類稀なる者であるが、所天の早く死んだのと。日本の舞臺が急に一轉した為に、忽ち閑却されたのである。嗚呼、時世の變遷とは言ふものヽ、活きながら葬られた坂本未亡人の現状は、實に心ある者をして同情の涙を禁じ得ざらしめるでは無いか。(完)

 

横浜市中央図書館所蔵の、東京二六新聞のコピーを製本したものによる。公開書庫にあった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年11月 3日 (月)

坂本龍馬未亡人龍子 1/2

 前にも紹介した(→おりょうの写真 1/2)「東京二六新聞」の新聞記事「坂本龍馬未亡人龍子」を転記した。
 明治37年12月15日から同年12月28日まで、八回にわたって連載された。この年、明治天皇の皇后(昭憲皇太后)の夢枕に坂本龍馬が立ったという話が伝えられて龍馬が有名になり、おりょうのことも取り上げられたものである。
 第一回は「本龍馬未亡人龍子」と「」になっているが、第二回以降は「」に訂正されている。
 長いので、二回にわける。

Photo_14

※ 転記にあたっては、吉井勇『或日の龍馬』と同じく、表記もかなづかいも、わたしの判断で適当にやったとしか言いようがない。転記ミスもあることと思うが、後日訂正したい。ご了承ください。
 下線部は原文では傍点。

第一回(明治37年12月15日)

Photo_9
◎阪本龍馬の事蹟は人口に膾炙し居るのみならず、畏れ多くも 國母陛下の御夢に入(い)ったので頃日(このごろ)義勇艦隊寄附金募集の為め劇に仕組まれて明治座に演ぜらるゝに至った次第で、龍馬が高知藩の海軍振興者たると同時に、日本海軍中興の一勢力ぢゃからである。
◎龍馬の事蹟中に於て、餘り世人に知られて居らぬのは夫人龍子の事ぢゃが、明治座の劇(しばい)には此龍子の事が少しく實際と違へて仕組んである。
◎本日畫報として掲げたる寫真は、龍馬が二十八歳の時、長崎に撮影したものと、龍子が本年六十四歳で撮影したものである。
◎龍子は近来中気に罹って在横須賀なる退職海軍々人工藤外太郎(そとたろう)なる義侠者の保護に余命を托し極めて悲哀なる詩的境遇に陥って居る、志士の未亡人として殊(こと)に時局に感奮せる者は誰しも同情の涙を禁じ得ないに相違ない。
◎龍子は維新前世の中(うち)の物騒な時、薩、長、土、肥の豪傑が京都に於ける隠れ場所の一ツとして居った楢崎將作(ならさきしょうさく)という御殿醫の長女である。
◎此楢崎と云ふ醫者は勤王家で是等豪傑と親密に交はり浪人を庇護すると云ふので、幕府の忌諱に触れ禁錮せられ、後ち解放されたけれども間もなく病死したので、楢崎一家は柱石を失ひ、途方に暮れたが、未亡人貞子(さだこ)は龍子を龍馬に縁付けたのである。
◎龍馬は同家に出入りする一人當時年こそ若かったが、却々(なかなか)の俊才で諸豪傑の牛耳を執り、前途頗る多望なので、楢崎は女房の貞子に話し龍子を龍馬に呉るゝ事に定(き)めたのを死後に至り實行したのであらうと傳へられて居る。
◎龍子は妙齢の時から却々(なかなか)氣丈な婦人なので、父の死去後間もなく妹の君枝が土地の悪徒に誘拐せられたのを怒り、人々の止(とど)むるをも聞かず、亡父遺愛の短刀を懐にし、其在處を襲った剣幕却々凄まじかった為め悪徒も之に屈し遂に君枝を龍子に渡した。
◎龍馬に嫁した後は、殆んど夫と同體と為り如何なる危険の場合でも臆したことなく、寺田屋に於て龍馬が刺客(せっかく)に襲われた時には、身を以て龍馬を庇ひ亂刃の間に立ちて傍らの火鉢を抛げ付け敵の氣勢を挫いたなどは却々の女丈夫である。
◎龍馬は此騒動に短銃(ピストル)を持ったる右手(めて)の指に傷を受けたのみならず、その後も刺客の狙撃が激しかったので、西郷、大山(綱良)桂(小五郎)などは心配して龍馬をして危難を霧島山麓の温泉場に避けしめた。此時も龍子は同道して山河を跋渉し又霧島の山頂に登り有名なる天の逆鉾を抜いたなどは、當時の豪傑連をして舌を巻かしめた。
◎此保養中に西郷、大山等の豪傑連は鶏や卵子を數多担いで見舞いに行き、龍子は短銃にて毎朝(まいてう)鶏を射殺(いころ)して膳羞(ぜんしゅう)を調へた。
◎龍馬の短銃八面打(うち)は有名であったが龍子はこれを真似しつヽ餘程上達したとのことである。

第二回(明治37年12月16日)

Photo_10
◎其後龍馬は龍子を携へて復京都へ上り近江屋に陣取って國事に奔走したが、何分にも幕府の物色が甚だしく風前の燈火同様の運命なので、當時豪傑連の心配は一通りでなく、一先づ阪本夫婦を薩州邸へ匿すことにした。
◎ソコで西郷等は途中の要撃に備へる為め夜中龍馬を駕籠に載せ、前後左右を警護しつヽ行ったが、道程(みちのり)の半分ほど行った頃。警護者の中に見慣れぬ一人が居たので桂小五郎(後の木戸孝允)が發見して吟味したが豈圖らんや是れ別人ではなく、龍馬の愛妻龍子で袴に股立、腰に両刀を横(よこた)へ鐵砲を肩に深編笠と云ふ扮装(いでたち)であったから一同ハットばかりに吃驚仰天致した。
◎其後龍馬は薩邸を去って長府へ歸り、伊藤助太夫の宅を根墟ととして諸國の志士と商量計劃し復も京阪に出没して形勢を窺ひ通つヽあったが、龍子は伊藤の宅に留守して良人の消息如何と待って居る折柄、一夕惡夢に魘(おそ)はれて覺めてから不快で耐らなくなった。
◎丁度其翌日の事であった。豫(かね)て龍馬の身上を気遣って居る門人二三名上京する事になったので、竜子に向ひ「先生へ御傳言(ことづて)でもありますなら承りたい」と促したが、龍子は「實は昨夜の夢に龍馬が血塗れになり刀を提げて歸ったから如何(どう)しやはったと問ふたら只だ冷然(ひやり)と笑ふた丈で何も言はなんだ是れが誠に氣にかヽるよって所夫(おっと)にお會ひなすったら用心致すやうに言ふて下され」と頼んだので、門人共は愈ゝ(いよいよ)龍馬の身上を気遣った。
◎門人等の東上したと行違ひに京都から急報ありて龍馬は近江屋で刺客に暗殺せられた事は分り伊藤宅でも大混雑したが、龍馬の凶變は當分龍子に秘する事になった。
◎けれども龍子はそれと察して愈ゝ決心し亡父龍馬が故郷を出る時龍馬の姉から護身刀(まもりがたな)とて呉れた良人の短刀を操(と)り、佛壇の前で漆の如き髪を根元より切捨てた。之を見たる人々は何れも其決心に感服し涙を流して遂に實状を明かした。嗚呼悲絶壮絶!軍人の夫人方は定めて同情の涙を禁じ得ないであらう。
◎幾世を契りし所夫(おっと)に訣別(しにわか)れたる龍子は最早此世に望みとては一つもなく比丘尼となって墓守しやうとまで決心し間もなく、遙々(はるばる)京都へ上り心を砕きつゝあった折しも坂本の實家では若後家を尼にするのは可哀想だと云ふので、使者に金を持たせて迎へに遣り、遂に引取って了った。是れ實に坂本未亡人が運命變轉の端緒である。

第三回(明治37年12月18日)

Photo_11

◎引取られて見たが嫂(あによめ)さんと折合いが惡くて居溜(ゐたゝま)らず、其上龍馬の死後、母貞子、弟太一郎、二妹君枝、光枝の四人が、足手纏ひで思ふ様にならず、言はゞ龍子が四人に頼るのでなく四人が龍子を頼む様になったので、龍馬の姉は懇(ねんごろ)に仲裁を試みたけれども成就せず、龍子は遂に無我無中で浮世の眞中に飛出した。これが抑ゝ(そもそも)龍子一生の誤りで、今の戦死軍人の未亡人方の能く鑑みねばならぬ所であらう。
◎其後五六年間、母及弟妹と共に知人(しるべ)を尋ねて世話を受けて居ったが、何分にも年若き婦人の事とて、保護者も、折々は煩さヽに堪へないこともあったと見え、再び離散することになった。所が不思議にも、或時西郷南州と高輪邊で邂逅し、西郷の厚誼に救はれた。
◎さて南州と會ったのは、丁度征韓論で政界の大波瀾の起った後で、西郷は馬車の中から龍子を認めて呼留め、種々(いろいろ)現況を聞いて哀れを催ほし『己(お)れは近い内田舎に歸り何時(いつ)出て來くるか分らぬが、是から吉井幸輔の宅へ行くからお前も行け』と言ふので、龍子は随いていった。是れ西郷が征韓論敗れて、故山に歸臥する數日前の事であった。
◎吉井邸に行って、西郷は吉井に龍子を引合わせ、種々(いろいろ)善後策を講じた末吉井は二十両西郷は三十両を、今なら五百圓位であらう、即座に龍子に與(や)って、家族の扶助をなすべく命じ、尚ほ西郷は吉井と計り、龍子の實弟太一郎をば龍馬の名目(みょうもく)を継がしむべく吉井が引取る事になった。
◎さて太一郎は吉井家に引取られたけれども、何分龍馬の後を継ぐ器でないので、數年間吉井に養はれた後、一時海軍の樂隊となったこともあり、今は麻布邊に住み砲兵工廠の職工を勤めて細い煙を立てゝいゐるとの事である。
◎龍子は西郷と吉井との義心により一時は方法も立ったけれども、婦人の身で母と妹を世話するので、貯蓄(たくはえ)も漸々(だんだん)乏しくなって又々離散した。
◎其後の坂本未亡人は實に書くに忍びないのである。彼女は亂世の女丈夫で、志士豪傑の配偶たるべき資格は十二分であるが、所謂(いはゆる)才子や俗吏や事務家や守銭奴の妻となり舅姑や嫂や小姑の顔色を窺ひ、巧く操縦(あやつ)って行くやうな技倆は極々乏しかった。故に彼女は現代婦人の模範とするには足らぬけれども、現代婦人に教訓を與ふることは頗る多いのである。

第四回(明治37年12月20日)

Photo_12
◎龍子は豪傑の匹耦(つれあひ)だけに、随分洒落た事を遣ったが、其一世一代の活劇とも謂ひつべきは、寺田屋の女中に化けて竜馬の為めに密偵をして居った時代の事柄である。先づこゝには少し遡って、両人縁談の極妙不可思議な一條を書かう。
◎龍子の父將作が死んでから、従来(これまで)同家に出入りした豪傑連の足が次第に遠くなり、何れも東奔西走しつゝあったが、龍馬は幕府の一人物勝安房に最も注目し、此人が飽くまで徳川を守り立てヽ行こうとの考へであると聞いて、是非一度面會して議論を上下(しやうか)し、彼にして若し服さぬならば刺殺さうまで決心の臍を固め、江戸へ來て千葉重太郎を介し勝と面談した。
◎所が漸々(だんだん)勝安房と議論を闘はして見ると従来(これまで)世間に傳へられた所と違ひ、歸する所己れの説と同じであるので、此に兩雄肝膽相照し、勝は大阪に在る姉小路卿引返しに關する重任を龍馬に托した。
◎龍馬は此重任を帯びて大阪に歸る途中。京都を通りかヽかると、忽ち今日は楢崎將作と云ふ恩人の命日であると想出し、竜馬の性質として其儘通過ぎ得ないので、楢崎の遺族を尋ねた。所が其家(そこ)は空家になって楢崎は知足院と云ふ御寺へ移ったことが判ったから、再び足を其處に轉じたのである。
◎知足院と云うふは楢崎家代々の菩提寺で其住職も劫々(なかなか)親切な仁(ひと)ゆゑ、寺の一室を貸し與へて何暮れと世話し、今日は佛の命日と云ふので、楢崎の遺族は佛事の準備をして居ると、竜馬の姿が見えたから、一同は歓び迎へ竜馬も來意を告げて香花を手向けた。
◎楢崎の未亡人たる貞子(ていこ)は、頼む柱を失ふてから娘を許嫁(いいなづけ)した龍馬の消息を思ふて居つた矢先の事とて、亡父の遺志を實行する為め、今日の命日を幸ひに根因の事を龍馬に迫つたが、龍馬は眼前に大事を控えて居るから、それを濟ました後(のち)にして呉れと辭退した。
◎所が貞子は、其れではホンの内祝言で宜(い)いと言ふので、漸く之を納得し、知足院の住持が表向きの媒酌人となり準備に取掛り居る矢先、丁度龍馬の同志三好慎蔵は龍馬を元の楢崎の家に尋ね、楢崎家が移つたと聞いて、知足院へ遣つて來た。
◎慎蔵の來意は姉小路卿が大阪へ下られた事に就ての要件であるを聞いたので、龍馬はそれなら此儘直ぐ行かうと申出たが、慎蔵は其様(さう)急ぐに及ばぬとて、内祝言を一通り濟まさせた。
◎龍馬は故郷を出る時姉のおとめから護刀(まもりがたな)に貰ふた短刀をば龍子に引出物として渡し爰(こヽ)に稀世の豪傑は稀世の女丈夫を得て意氣相投じ、共に國事に苦心するに至った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年10月 | トップページ | 2014年12月 »