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2014年11月30日 (日)

おりょうの悪評1

 
 龍馬死後のおりょうについて、当時の新聞などにどのように伝えられたかを見てみる。

1 坂崎紫攔『汗血千里駒』

 前にも紹介したが、まずは明治16年(1883)の坂崎紫攔『汗血千里駒』である。(参考→『汗血千里の駒』 1/2

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 龍馬の未亡人鞆子(ともこ)は明治二三年の頃高知に迎え来たりしが 鞆子は緑の黒髪を雪なす首まで切りさげていとも妙なる柳の腰に男子(なんし)の如く袴をつけて六連の短銃をさえ帯びたりければ見る者皆奇異の想(おもい)をなしたり その後(のち)鞆子は西京(さいきょう)の親里にかえりしまま行衛(ゆくえ)知れず 豈(あ)に所謂神龍の頭を現わして尾を現わさざる者なる乎」(p325)

 「鞆子(ともこ)」というのはおりょうが龍馬と結婚してから名乗った名前である。寺田屋では「お春」で、横須賀での再婚後は「西村ツル」になった。
 おりょうは、土佐へ来たとき、男のように袴をはいて短銃まで持っていたので、「見る者皆奇異の想をなしたり」と書いてあるだけで、特に問題があったとは書いてない。そしてその後京都へ帰ったまま行方知れずということになっている。
  

2 弘松宣枝『坂本龍馬』

 この後、明治29年(1896)に刊行された弘松宣枝『坂本龍馬』(民友社)では、おりょうの評判はよくない。
 これはインターネットで、国会図書館近代デジタルライブラリーの画像から読んだものである。(コマ番号70)http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781435/1

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彼れ逝りてより、妻龍女は彼が遺言を以て三好之を預かりて同居せり。長府の藩主其不幸を憫み、扶助米を送らる。彼の女が妹きみにもかねて龍馬か内意を以て菅野覚兵衛に娶はすへきの約ありしに因り、此れも同家に住みけるが、明治六年中島作太郎(信行)三吉を訪ひ、龍馬が遺物として正宗の短刀を贈る。此時海援隊の協議を以て、龍をが更らに土佐なる龍馬が姉乙女の所に送れり。去れど彼の女放恣にして土佐を出て、身を淫猥に沈む、乙女怒て彼の女を離姻す。遂に漂泊するに到れり。然れども天の成せる麗質は衰ふることなく、今尚ほ某縣に在りと云ふ。婦節を全ふせす人をして龍頭蛇尾の恨あらしむ。(p138) 

 「彼の女放恣にして土佐を出て、身を淫猥に沈む、乙女怒て彼の女を離姻す」とかなりきびしい。「放恣」で「淫猥」となると、龍馬の姉乙女が怒るのも無理はないが、具体的にどういうことがあったのかは何も書いてない。
 「遂に漂泊するに到れり。然れども天の成せる麗質は衰ふることなく、今尚ほ某縣に在りと云ふ。」というのは、横須賀にいるという話は聞いていたのだろうか。
 「天の成せる麗質は衰ふることなく」とわざわざ書いているところをみると、やっぱり美人という評判だったのだ。
 「婦節を全ふせす人をして龍頭蛇尾の恨あらしむ。」 何があったのか、気になる。

3 東京二六新聞坂本龍馬未亡人龍子

 明治37年(1904)には皇后の夢に龍馬が現れ、日本中で評判になった後、東京二六新聞には「坂本龍馬未亡人龍子」という記事が連載された。(→坂本龍馬未亡人龍子 1/2)

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第三回(明治37年12月18日)

◎引取られて見たが嫂(あによめ)さんと折合いが惡くて居溜(ゐたゝま)らず、其上龍馬の死後、母貞子、弟太一郎、二妹君枝、光枝の四人が、足手纏ひで思ふ様にならず、言はゞ龍子が四人に頼るのでなく四人が龍子を頼む様になつたので、龍馬の姉は懇(ねんごろ)に仲裁を試みたけれども成就せず、龍子は遂に無我無中で浮世の眞中に飛出した。これが抑ゝ(そもそも)龍子一生の誤りで、今の戦死軍人の未亡人方の能く鑑みねばならぬ所であらう。
(中略)
◎龍子は西郷と吉井との義心により一時は方法も立つたけれども、婦人の身で母と妹を世話するので、貯蓄(たくはえ)も漸々(だんだん)乏しくなつて又々離散した。
◎其後の坂本未亡人は實に書くに忍びないのである。彼女は亂世の女丈夫で、志士豪傑の配偶たるべき資格は十二分であるが、所謂(いはゆる)才子や俗吏や事務家や守銭奴の妻となり舅姑や嫂や小姑の顔色を窺ひ、巧く操縦(あやつ)つて行くやうな技倆は極々乏しかつた。故に彼女は現代婦人の模範とするには足らぬけれども、現代婦人に教訓を與ふることは頗る多いのである。

 こちらでは嫂=兄嫁さんと折り合いが悪くて、姉の乙女は仲裁に入ったけれど、おりょうが我慢しきれずに飛び出してしまったことになっている。
 「其後の坂本未亡人は實に書くに忍びないのである。」と言わずに、 知っていたのならちゃんと書いておいてくれればよかったのに。
 おりょうは女丈夫で勝ち気なあまりこうなってしまったが、現代の戦争未亡人などは十分注意して、うかうか飛び出したりせずうまくやるように、と教訓を垂れているのは、ちょうど日露戦争中だったためか。

4 千頭清臣『坂本龍馬伝』

 おりょうの死後になるが、大正3年((1914)に刊行された千頭清臣(ちかみきよおみ)『坂本龍馬伝』(博文館)もおりょうには厳しい。(引用は新人物往来社の復刊本(1995)による)

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 龍子を三吉慎蔵に托してより、僅に一年有半にして龍馬逝く。逝くに當り、龍馬重ねて龍子を三吉に托するや、長藩主は龍子の不幸を憐み扶助米を贈り、三吉は居を同ふして養ふ。一妹君江亦三吉の家にあり。
 明治元年三月、中島作太郎、三吉を訪ひ、龍馬が遺物として短刀一振を贈る。時に海援隊士相議して龍子を高知へ送れり。三吉の日記に曰く、

お龍は遺言により十二月十五日慎蔵宅に引受け、同居す。就ては藩主其事情を憐み、扶助米あり。海援隊の諸士協議の上土州へお龍引取に決す、終に馬関より土佐なる坂本姉の住所に護送す。時に明治三年三月なり。

 されど龍子は放恣(ほうし)にして家を守らず非行を敢てす。乙女子怒って龍子を離別す。龍子終に横浜に去り、某の妾として世を終はれりといふ。女丈夫惜しむらくは婦節を全うせず、地下の龍馬、霊あらば果して何とか言はむ。(p245~246)

 司馬遼太郎が『竜馬がゆく』のあとがきに、土佐の記録に「竜子、家を守らず、非行をあえてす。乙女怒って竜子を離別す」とあると書いたのは、この本のことのようだ。
 これも非行の内容にはふれていない。そして「女丈夫惜しむらくは婦節を全うせず」である。この時代「婦節」は重要だったのだ。
 龍馬が評価されてえらくなっただけに、その妻も貞節な「婦人の鑑」であってほしかったのだろう。

5 白柳秀湖坂本龍馬』

 さらに時代を下って、昭和4年(1929)刊行の白柳秀湖(しらやなぎしゅうこ)『坂本龍馬』(『現代大衆文学全集第二〇巻白柳秀湖集』、平凡社)もみておこう。(写真と引用は復刊本(白柳秀湖『坂本龍馬』(作品社、2009)による)
 この作品が雑誌「雄弁」に連載されたのは1925~1927年とのこと。昭和初期は尾崎秀樹のいう第二次維新ブームで、この『坂本龍馬』もけっこう売れたらしい。ただこれは『汗血千里駒』をネタにして書かれた「社会講談」で、史実にそれほど忠実ではなさそうだ。

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 龍馬の未亡人龍子の後半生に就いては語るべき材料も多いが、それは地下の龍馬の為に之を筆にするに忍びぬ。彼女は一面に於ては稀に見る烈婦であったと同時に、他の一面に於いては極めて多情多恨の婦人であったということを附加えて置けば、それで十分であろう。(p359)

 おりょうのその後は、「地下の龍馬の為に之を筆にするに忍びぬ。」とまで書かれている。そのうえ「多情多恨」と、おもわせぶりに書いている。

 以上見てきたように、龍馬死後のおりょうについては、男関係に問題があった、そのため、土佐を追い出され、その後も哀れな末路をおくった、とするものが多い。
 しかし、龍馬に敬意を払って書くに忍びないと、みんな具体的な話が書いてないので、どうもよくわからない。最近の芸能レポーターのような人間はこの頃いなかったのか。
 あまり趣味のいいこととは思えないが、わからないことは気になるので、男関係の不行跡について、さらに具体的な話をさがしてみた。(つづく)

 

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