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2014年11月27日 (木)

その後のおりょう

 ここのところ坂本龍馬死後のおりょうのことを書いたものをぼちぼち読んできた。
 まず最初にみたのは、龍馬本の定番中の定番、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』だった。これを読んだのはもう四十年も前のことなので、その後のおりょうについて、何か書いてあったかどうか、まるでおぼえていなかった。

 昔読んだ単行本は全5冊だったのが、文庫本では8冊になっている。そのため単行本の各巻末にあった「あとがき」が、文庫本では最後の第8巻の巻末に「あとがき一~五」としてまとめて掲載されている。

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 小説の本編にはその後のおりょうのことは書かれていなかったが、「あとがき五」に、次のように書かれていた。ちょっと長くなるが、そのまま引用する。

竜馬の死の当時、おりょうは下関の海援隊支店伊藤助太夫方にいた。事変当時、全身朱(あけ)に染んで血刀をさげた竜馬の夢を見たという。ほどなく竜馬の死を知った。
 その後、助太夫方をひきあげ、長府の三吉慎蔵にひきとられた。三吉は寺田屋遭難のとき、竜馬と同室にいたあの青年である。
 三吉の藩主である長府侯はおりょうをあわれみ、扶持米を給した。
 その後海援隊士が協議し、おりょうを高知城下の竜馬の生家に送りとどけた。この間、おりょうを世話した三吉慎蔵に対しては、後藤象二郎が国産の紙を贈り、海援隊士中島作太郎は伝正宗作の短刀を贈っている。
 高知城下本丁筋一丁目の坂本家に入ったおりょうは、竜馬の兄権平や姉乙女とはじめて対面した。とくに乙女については竜馬からさんざんきかされていたので、初対面ともおもえなかったであろう。
「私を真実の姉と思いなさい」
 といって「坂本のお仁王様」はおりょうを大事にもてなした。が、次第に仲がわるくなってきた。乙女にすれば竜馬を育てたのは自分だと思っていたし、事実そうであった。かつ竜馬を理解するところがもっとも深かったから、なんだこの女、という底意地のわるさもつい出てきたであろう。乙女とおりょうは、女仕事ができないという点では共通していたが、相違する点も多い。乙女は武家女としての教養がありすぎ、その節度の美しさももっている。その節度美をもって人を見、他人を律するから、無教養でどこか投げやりなところのあるおりょうが許せなくなったように思われる。
「竜子、家を守らず、非行をあえてす。乙女怒って竜子を離別す」
 土佐の記録にある。たたき出してしまったのである。しかし土佐の土陽新聞明治三十二年十一月八日付のおりょうの回想談のなかに、
「姉さんはお仁王という名があって元気な人でしたが、私には親切にしてくれました。私が土佐を出るときにも、一所に近所へ暇乞いに行ったり、船まで見送ってくれたのは乙女姉さんでした」
 とあり、いっっこうに不仲らしくもない。察するに乙女はこの「善悪さだかならず」(佐佐木三四郎)という女性に対し、腹にすえかねることがあっても、表面ニコニコしていたのであろう。が、親戚などのおりょうへの不評もあってついに、
「あなたは出てゆきなさい」
 と、乙女らしい単刀直入でからりと申しわたしてしまったかと思われる。
「まことにおもしろき女にて」
 とは、竜馬が手紙で乙女に紹介したおりょうの人柄である。が、竜馬の目からみるときらきらと輝いてみえたおりょうの性格は、他の者の冷静な目からみればそのあたらしさは単に無智であり、その大胆さは単に放埒(ほうらつ)なだけのことであったのだろう。おりょうの面白さは竜馬のなかにしか棲んでいない。
 高知を出てから、おりょうはその故郷の京都へ行った。竜馬の墓守りをする、とひとにも言っていたが、墓守りでは食えない。おりょうには養うべき老母や妹があった。その後、東京へ出た。東京にさえ出れば竜馬の友人がいる。最初、西郷隆盛を頼ろうとしたが、西郷は征韓論にやぶれて鹿児島へ帰ってしまっていた。海援隊関係者も、中島作太郎や白峰駿馬は洋行中であった。
 放浪のすえ、横須賀に住み、人の妾になったりした。明治三十九年、六十六歳で死んでいる。大正三年八月、おりょうの実妹中沢光枝が墓碑を建てようとし、もと陸援隊士だった田中光顕、水戸脱藩の香川敬三などが多額の寄付をした。彼等、維新当時の三流志士たちはすでに華族になっていた。おりょうの戒名は昭竜院閑月珠光大姉、墓は横須賀市大津町信楽寺門前にある。おりょうは竜馬の生前、自分の亭主をさほどの人物ともおもっていなかったらしい。(p421~423)

 単行本の『竜馬がゆく5 回天篇』は1966年の刊行で、それから三十年後の1996に単行本が刊行された『街道をゆく42 三浦半島記』の「久里浜の衝撃」と題する章には、こう書かれている。(引用は朝日文庫版による。)

42

りょうの運命も変転した。
明治の一時期、土佐の高知の坂本家に身を寄せていたが、龍馬の姉の乙女との折り合いがわるく、ほどなく高知を去った。
 その後のことはよくわからない。東京にいたという。晩年は横須賀に住み、西村松兵衛方に”西村ツル”として過ごした。いわば陋巷(ろうこう)の人だった。
 明治三十九年(一九〇六)一月十五日の夜、病没した。
 近所の人の手でささやかな葬儀が営まれたが、ふしぎなのはこの巷の野辺の送りに、海軍士官たちがまじっていたことである。
 生前、彼女は自分は坂本龍馬の妻であるとよく話していて、おそらくそのうわさが、この地の水交会(海軍士官のクラブ)にもきこえていたのにちがいなかった。
 明治は薩長藩閥の世で、坂本龍馬の名など無名に近くなっていた。
 ところが、明治三十八年春に、この名が新聞紙面をにぎわした。
 当時、ロシアのバルチック艦隊が日本海への侵入をめざすか、それとも太平洋まわりにウラジオストックに入るのか、国民一般までが気にしていた。皇后も、そのことが脳裡にあって、そういう夢を見られたらしい。夢に白装の武士があらわれ、ご心配になるようなことはありません、といったという。
 このときの皇后宮大夫(こうごうぐうだいぶ)は、水戸藩出身の香川敬三だった。その夢の話を宮内大臣の田中光顕(みつあき)に伝えた。土佐出身の田中は、それは坂本龍馬だ、といった。
「その証拠は白装ということだ。上着も袴も海援隊の制服は白かった」
 当時、田中は、政界にも官界にも土佐派の勢力が衰えていることを気にしていたから、維新回天のときに土佐も功があったことを世間に思いださせるために、花火を揚げたかったにちがいない。
 田中が漏らし、皇后の夢が新聞に出、大きな花火になった。
 りょうの死は、その翌年一月である。横須賀海軍鎮守府の士官たちが葬儀に参加したのは、そういう知識(傍点)によるものかもしれなかった。
 もっとも海軍を買いかぶるとすれば、龍馬の海援隊まで知っていて、海援隊こそ日本海軍の祖の一つだと思ってのことだったかもしれないが、この点は私には自信がない。
 ついでながら、明治政府は龍馬に対し、明治二十四年、正四位を追贈した。りょうの墓碑は、おそらく海軍の有志が金を出しあって建てたものらしく、りっぱなものである。碑面に、
「贈正四位阪(傍点)本龍馬之妻龍子之墓」
とある。りょうの明治後の戸籍名である”西村ツル”は、無視されているのが、おもしろい。(p231~233))

 つまり、その後のおりょうは、おおよそこんなことになる。
 龍馬の死後、おりょうは土佐の坂本家へ身を寄せたものの、坂本家と折り合いが悪く、結局離縁された。京都へもどって墓守をしているだけでは母や妹を養っていけず、竜馬の友人を頼ろうと東京へ出た。
 東京では折悪しく西郷隆盛は征韓論にやぶれて鹿児島へ帰るところだった。海援隊の関係者からも十分な援助は受けられなかった。
 その後いろいろ曲折があって、横須賀に流れ、西村松兵衛という男と結婚して「西村ツル」となった。そのまま陋巷の人としてその後の人生をすごした。
 晩年の明治37年(1904)に、皇后の夢に龍馬が現れたと日本中に報じられ、おりょうの現況が新聞に取り上げられたときには、すでに病気療養中で、明治39年(1906)1月に死亡した。

 気になったことが三点あった。
 まず、おりょうはなぜ坂本家にいられなかったのか、ということ。土佐では、
「竜子、家を守らず、非行をあえてす。乙女怒って竜子を離別す」
と言われたというのは、いったいどういうことなのか。
 二番目に、海援隊関係者が、どうして面倒をみなかったのか、ということ。立身出世した者もそれなりにいた筈なのに。
 そして三番目が、おりょうが再婚した西村松兵衛というのが、どういう男で、「陋巷にいた」というのは、具体的にどういう暮らしをしていたのか、ということ。 
 この三点に注意しながら、いくつか資料を見てみたい。

 

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