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2014年12月

2014年12月30日 (火)

海援隊とおりょう2

 ただ、おりょうの回顧談の中には、東京でばったり出会った元海援隊士の橋本久太夫が、親切にしてくれたという話もある。
 おりょうは昔、橋本がお房という女と結婚する面倒をみたことがあった。

後に私が東京に出た時、高輪でフイと橋本に邂逅(めぐりあ)ひ、マア私の家に来なさいと云ふから二三日お世話になりましたが、お房が、あなたのお蔭で酒呑みだけれど、マア橋本さんと、副つて居ます。恩返しは、こんな時にせねばする時が無いと云つて親切にして呉れました。(2-2千里駒後日譚拾遺」、『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p251)

 貴田菊雄の「坂本龍馬の未亡人に就いて」では、橋本久太夫はその頃東海丸という汽船の船長をしていて、品川南天王側の薩摩屋敷に住んでいた。そして二三日のことではなく、十年くらい世話をしたことになっている。

久太夫は龍馬の舊恩と今は餘りにいたはしく變つた未亡人に同情し彼の屋敷に伴ひ帰つた。
「屋敷に参りますと多勢の男が出て來て私は先生のお蔭を蒙りました。私も龍馬様にお附添ひ申した者ですと交わ/\妾の前へ出て申さるゝので妾は何だか蘇生つたやうな心持御座いました」
それから橋本は長い年月の間舊主への恩返へしの為め親切によく世話をし、彼女は此處で明治二十年までを過した。(「傳記」三巻三号p110)

 明治20年までというのは長すぎる。戸籍によれば、おりょうが横須賀の西村松兵衛の籍に入籍されたのが明治8年(1875)だというから、その頃にはもう横須賀へ移っていたと考えられる。(このあたり、貴田菊雄のいう「新聞記者の原稿」の信憑性を疑わせる。)
 それはともかく、ここではおりょうはみんなから感謝されている。橋本久太夫は土佐ではなく越後の出身で、場所も薩摩屋敷というから、意地悪く考えると、こで会った人たちはその後のおりょうの噂を聞いていなかったのかもしれないが。

 おりょうは2-1千里駒後日譚(五回)」でも、橋本久太夫が立派な船乗りだったとほめている。
 龍馬夫妻の乗った船を薩摩から長崎へ回航する際、甑灘(こしきなだ)で大波にあって、乗組員もたくさん船酔いで唸っていた。そんな中で橋本はひとり身体を帆柱に縛りつけて、帆を巻いたり張ったり、働いていた。起きているおりょうを見て「奥さんでさえ起きているぞ、貴様ら恥を知れ」と呼ばわった。
 その後港へ着く頃にようやくみんな起きてきて、着物を着替えるやら顔を洗うやら大騒ぎを始めたので、おりょうは言った。

私が、港が見え出すとソンナ真似をして、お前等何だ、酔つて寝ていた癖にと云ふと、橋本が、ソラ見よ、皆な来て誤れ/\と云つて、此奴は一番酔つた奴、彼奴は二番三番と一々指すと、皆な平伏して真(まこ)にと悪うご座りましたと誤つて居りました。ホゝ私も悪い事をしたもんですネー。すると龍馬が出て来て、ソンナ事をするな、酔ふ者は酔ふ、酔ぬ者は酔はぬ性分だから仕方が無いと笑つて居りました。(2-1千里駒後日譚」、『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p247)

 おりょうは自慢話のように言っているが、怒られた海援隊士や水夫の側からすれば、これは「イヤな女」である。酔う酔わないは龍馬の言うとおり体質的、経験的なもので避けがたい。それを自分が酔わなかったからといって、直接の主従関係にあるわけでもないのに、威張り散らされてはたまらない。社長の奥さんに怒られる筋合いはない。
 おりょうの方はそんなことはまるで考えていないようだが、こういうことをしていたら、やっぱり評判は悪くなるだろう。「第一に生意気な女である、坂本を笠に着て、兎角[とかく]他の同志を下風に見たがる」というのは、こういうことだったのか、と思い当たってしまう。

 龍馬人気でたくさんの関連資料が拾い上げられているようだけれど、上記の他に海援隊士がおりょうについて言及した史料があるのかどうか、わたしにはわからない。だからこれも確言はできないが、親切にしてくれた人もいたけれど、多くの海援隊士に嫌われていたというのは、どうもありそうな気がする。

 

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2014年12月27日 (土)

海援隊とおりょう1

 二番目に気になっていた、おりょうと海援隊関係者の関係については、おりょうの回顧談の聞き手である安岡秀峰1-4「坂本龍馬の未亡人」(「実話雑誌」一の六、1931)の中で、こう書いている。(引用は鈴木かほる『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』(』(新人物往来社、2007)より)

 茲(ここ)で少しくお良さんの性格を書いて置かう。お良さんは当時の婦人気質(かたぎ)から言うと、御転婆な、京女には似合はない、大酒呑みのおしやべりであつた。俗に言う俠(きやん)の方で、随分人を食つた女であつたらしい。
 坂本は、ぞつこんお良さんに惚れて居たが、坂本を首領(かしら)と仰ぐ他の同志達は、お良さんを嫌つて居た。第一に生意気な女である、坂本を笠に着て、兎角[とかく]他の同志を下風に見たがる、かう言つた性格が、坂本の死後、お良さんを孤立させた。坂本の姉のおとめは、誰よりもお良さんが嫌ひであつた。
 だから、坂本の家は、甥の高松太郎が相続してお良さんは坂本家から離縁された。と言つても其当時、戸籍は無かつたので、離縁に就いての面倒な手続きは要らなかつた。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p258)

 昭和6年だから、おりょうの死後25年後に発表したもの、安岡秀峰は五十歳ぐらいになっていた。
 若い頃の「反魂香」ではおりょうの言い分をそのまま書いていたが、ここではおりょうの性格を乙女が嫌って離縁になった、そして、海援隊の同志達も、おりょうを嫌っていたという。
 こうも書いている。安岡秀峰の父は海援隊士であった。

 不思議に私の父はお良さんを嫌つた。坂本の死後、同志の中には。出世をした人が尠[すくな]くないのに、誰一人お良[お龍]さんや松兵衛さんを世話しようといふ者がなかつた。私の父がお良さんを嫌つたのも、お良さんの昔の生意気や、おしやべりや、蓮ツ葉[はすっぱ]な性格以外に、どこかお良さんには、人に嫌はれる天分があつたのかも知れない。(同書p263)

 これは、わたしの疑問に対するずばりの解答である。おりょうは性格が悪く、海援隊関係者からは嫌われていた。だから世話をしようとするものがいなかった。「人に嫌はれる天分があつたのかも知れない」とまで言われている。そうだったのか。

 『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』にはこうも書かれている。

 旧勤王派田中光顕の回顧談によると、志士の生き残りの者たちが瑞山会(土佐勤王党首領・武市瑞山(たけちずいざん)以下の犠牲者を顕彰する会)に集まり、お龍の処遇を話し合ったが、覚兵衛は、お龍は自分の義姉だが、品行が良くないので意見をするが、聞き入れぬから面倒は見れぬと反対したという。(p131)

 菅野覚兵衛(千屋寅之助)はおりょうの妹起美(君枝)の夫であり、土佐出身で海援隊の副長であった。それが、あれは面倒みきれないと言ったというのである。(この話の元の田中光顕の回顧談は、どこに載っているのかわからず未確認。)
 おりょうはかなり強烈な個性の持ち主だったらしい。

 瑞山会は、上記のとおり武市瑞山半平太)と血盟を交わした土佐藩の元勤王の志士たちのあつまりで、中心は政府高官となった田中光顕佐々木高行土方久元などである。この会が編纂した「維新土佐勤王史」には、『汗血千里駒』の坂崎紫攔が主筆としてあたったという。
 武市半平太は慶応元年(1865)切腹させられたが、明治10(1877)に名誉を回復され、明治24年(1891)には坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎ととも正四位が追贈された。
 そして切腹以後生活に困窮していた武市未亡人富子は、瑞山会に庇護され、晩年は手厚く遇された。ウィキペディアにはこんな記載もある。

朝廷から半平太に正四位が贈位された際、上京した富子を囲んで祝宴が開かれたが、かつて半平太に尋問し、最終的に切腹を申し渡した責任者である後藤象二郎と、同じく半平太に尋問した板垣退助から富子に対し、その席で「武市半平太を殺したのは、我々の誤りだった。」と後悔の言葉があったと伝わる。

 龍馬の家督相続にも、正四位追贈にも何の音沙汰もなかったおりょうとは大きな違いである。またちょっとおりょうがかわいそうになる。海援隊には瑞山会のような組織はできなかったのか。

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2014年12月24日 (水)

第二十九番 千葉寺

 12月18日(木)、ひとりで電車に乗って第二十九番札所千葉寺(ちばでら、せんようじ)へ行ってきました。その名のとおり千葉県千葉市にあります。
 三十三カ所巡礼も残り六カ寺(那古寺はもう行ったけれど、最後に結願に行かないといけないので含めると七カ寺)。だから来年ゆっくりまわればいいと思っていました。
 ところが残念なことに、来年はわが町港南台発のバスツアーが開催されないことが判明しました。今年スタートしたツアーの終わりの部分1、2月分は残っていますが、それ以降新規に実施される予定はありません。もうこの近在の顧客は見込めないということでしょうか。
 2月は最後の三十三カ所満願のツアーですから、これに参加するためには、それまでに他を全部まわっておかなければなりません。幸い1月のツアーには行っていない二カ寺が含まれているので、これにも参加するとして、あと三カ寺を自力で行けば間に合います。
 18日は、午前中、神田の三省堂古書館スーパー源氏神保町店に本の補充と整理に行って、午後は総武線で簡単に行ける千葉寺へ、とりあえず行くことにしました。
 

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 総武線JR千葉駅で降りて、徒歩で京成千葉駅へ。京成千原線に乗って二駅目が千葉寺(ちばでら)駅です。駅名になっているくらいだから、門前町かもしれない、降りればすぐわかるだろうと思っていたら、これがわかりません。
 門前町どころか駅の売店もない、駅員さんもどこにいるのか姿が見えない。駅前は開発途中の新興住宅地のような感じで、千葉寺の案内も周辺案内図もなく、おまけに人通りも少ない。晴れてはいても、寒波がやってきて冷たい風が吹きつける日でした。

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 33観音巡りのパンフレットの小さな地図をたよりに行きました。しばらく歩いてから、犬の散歩をしていたおばさんに
「千葉寺はどっちでしょう」と聞いたら、
「千葉寺はこっちだよ」と今来た方を指されました。
「いや駅じゃなくて、お寺の千葉寺」と聞き返したら、
「お寺は知らない」との返事。
 驚きました。地名にもなっていて「千葉寺何丁目」みたいな看板が貼ってあります。でもお寺は有名じゃないようです。門前町どころじゃない。単なる地名、駅名としか思われていないようです。
 高円寺や吉祥寺でお寺のありかを聞く人はめったにいないだろうけれど、ここは千葉県千葉市で、昔の豪族千葉氏のお寺の千葉寺なんだから、せめて案内表示くらいは出してほしい。
 回り道をしながらたどりついた海上山千葉寺(かいじょうざんせんようじ)は、住宅地の中ですが、古い立派な仁王門がありました。

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 仁王門の龍です。

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 そして境内は広い。樹齢千年以上、行基菩薩以来と伝えられる大銀杏がありました。

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 これが本堂。Dscf9450_2
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 しかし本堂の扉は閉じられていて、窓からのぞいた正面の仏壇も閉まっていて観音様は見えません。外側の大扉は毎月21日の縁日の日だけ開かれ、観音様は秘仏で33年に一度ご開帳されるのだそうです。
 参拝をしてから納経帳に朱印を、と思っても納経所の案内もありません。参詣の客もほとんどいない。本堂のまわりをうろうろしていたら、通りかかった地元の人が声をかけてくれて、ようやく納経所がわかりました。
 ちょっと離れたところの「本坊」がそうでしたが、ここも人影がなく、「御用の方はインタフォンを押して下さい」と貼り紙がありました。まことに愛想がない。

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 それでもなんとか納経帳に朱印をいただきました。ここまで来てこれをもらわないで帰ると、きっとすごく損したような気がすると思います。お参りよりハンコを集める方に気持ちがいっているようで、ちょっといけないなと思いつつ、一息つきました。
 最近の言葉では全部揃うのを「コンプリート」と言うそうです。あと五カ所で三十三カ所コンプリートです。

 帰りは行きと違った道をとったら、こっちにも案内表示はなく、駅までまた回り道をしてしまいました。どうもこの町とはうまくないようです。
 おまけに改札口を通った後、どっちのホームに行ったらいいのかわからない。あれ、どっち方面だっけと思っているうちに電車が来たので、あわてて階段を駆け上がりましたが、乗っていいのか躊躇しているうちに発車してしまいました。
 その後、ホームを見てみるとこうなっていました。

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 ホームは両側にあるけれど線路は片側しかありません。単線です。向こうのホームは使われていないのです。降りたときには気がつきませんでした。どっちへ行くにもこちら側でよかった、おまけに今行った電車に乗ればよかった、次は20分後まで来ないということもわかりました。
 今回は、駅も町も寺も愛想なしの印象が強かったけれど、これはずっとバスツアーで楽ばかりしてきたからそう感じるのでしょう。ろくに下調べもしませんでした。昔の人は全部歩いてまわったのだ。これも観音様の与えたもうた試練と甘受して、また次回に臨むことにしましょう。

 ご詠歌は、

千葉寺へ 詣る吾が身も たのもしや

岸うつ波に 船ぞうかぶる

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2014年12月21日 (日)

セレナからタントへ

 車を買い換えました。
 11月23日に突然、愛用のニッッサン・セレナのエンジンがかからなくなりました。駐車場ではないところだったので、ロードサービスを呼んでレッカー車で運んでもらいました。バタバタしましたが、これは保険の有効活用ということですみました。
 燃料ポンプが駄目になっている、これの取り替えが六万五千円くらい、付随するパイプも取り替えることになると…という話です。もうポンコツなのできちんと点検すると、どんどん悪いところがでてきそうです。「替えた方がいい」部品だらけで、その部品も、探さないと見つからないくらい車が古い。
 走行距離は約12万キロ。中古で買ったので、わたしが全部走ったわけじゃないけれど、10年ぐらい乗りました。

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 来年の5月が車検だったので、それに合わせて軽自動車に買い替えるつもりでした。ちょっと予定より早いけれど、思いきって替えることにしました。

 もともと車にはほとんど趣味がなく、あまり運転したくない方でした。それでも子供の保育園の送迎の必要にせまられてトヨタ・カローラを買ったのを手始めに、その後ニッサン・ラルゴ、ニッサン・セレナと乗り継ぎました。どれも中古を買って乗りつぶすまで、という使い方で、みなけっこう長く乗りました。今度のダイハツ・タントでようやく四台目です。一台十年、というところでしょうか。
 子供が小さい頃は車で旅行に行ったこともありましたが、わざわざ自分の神経をすり減らしながら移動するのはいやだ。列車の車窓をぼんやり眺め、缶ビールと新しい推理小説を楽しみながら移動するのが人間的で正しい、と今でも思っているくらいなので、それほど有効に活用はしていませんでした。
 運転が下手なこともありますが、あんな技術はそのうち機械に置き換わります。運転の自動化の研究はずいぶん進んでいるようなので、そのうち人力運転は一般的ではなくなるでしょう。
 南房総へ行くようになってからは、どうしても車がないと不便なので、けっこう乗るようになりました。収穫物や花、植木の苗、肥料、それに園芸用具や日曜大工の材料などの運搬がもっぱらなので、ワゴン車の後部にはブルーシートを敷きっぱなし。「うちの車はまるで工務店の車だね」と子供に言われました。
 最盛期には、毎週末ごとに出かけるくらいだったので、運転距離もずいぶん伸びました。しかしここ一、二年は夫婦共に体力が落ちてきて出かけるのが間遠になり、たまに行っても大きな作業はしなくなってきました。
 だから、税金や維持費のこともあるし、そろそろ軽自動車にしようかと思っていたところでした。ある程度の荷物は積まないといけないので、ホンダのNボックスとかダイハツ・タントのような荷室の広いものがいい。年が明けたら、5月の車検までにぼちぼち探そうかと思っていました。
 壊れてしまってはしょうがない。いつも車検などをお願いしている自動車屋さんに、いい車があったら、とお願いしました。 

 12月10日、ダイハツ・タントが届きました。黒色、総排気量650cc。

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 平成23年式、走行距離24,000kmの立派な中古車です。

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 内装も豪華とはいえません。ナビとETCはつけました。

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 前が2,000ccだったせいか、やっぱりパワーが小さいという気がしますが、一人、二人で乗っているぶんには問題はないでしょう。買物のときなどに駐車場へ止めるのはたしかに楽です。
 これにいつまで、何歳まで乗ることになるのでしょう。次の車は自動運転にならないものか。いやその前に、はたして次の乗り換えはあるのか…
 

 

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2014年12月18日 (木)

瀬上池紅葉

 12月6日(土)、近所の瀬上池(せがみのいけ)へ紅葉を見に行ってきました。わが家から歩いて30分ほどのところで、以前にも同じような写真を載せたけれど(→瀬上池晩秋)、もう6年前のことなので、最新の写真を載せることにします。これが一番紅葉らしい写真です。

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 このあたりは円海山から鎌倉アルプスまでつながる緑地の一部です。小さな山と山の間、谷戸(やと)と呼ばれるところへ入って行きます。

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 こんな落ち葉の道を歩いていきます。ハイキングコースとして整備されていて、「瀬上沢小川アメニティ」という看板もあります。でも「アメニティ」って何だっけ、と思うのはわたしだけでしょうか。
 ここでは「自然を保全して快適な環境をつくっているところ」というような意味らしいけれど、日本語として定着したのは、ホテルに置いてあるおまけのシャンプーや石鹸の方でした。

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 ここは「池の下広場」と呼ばれるところで、この階段を登ると池の縁の堰堤に出ます。

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 もとは江戸時代につくられた農業用の溜池だそうです。堰堤には柵があるので、ちょいとくぐってみると、こんな景色が見えました。
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 池の水はあまりきれいじゃないけれど、映っている空や紅葉はきれいです。

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 こちらは山側の通路です。途中下へ下りる階段もあります。小さな桟橋のようなところもあって、ときどき魚釣りをしている人がいます。何が釣れるのかは知りません。カメと大きなウシガエルは見たことがあります。

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 写真だけ見ると深山渓谷ふうですが、小さな池ですから、たいした規模ではありません。
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 「池の上休憩所」まで行って、水際で写真をとろうとしたら、雨の後だったので足がずぶずぶと潜ってしまい、左足が泥だらけになってしまいました。柵をくぐろうとしたときには身体がうまく伸びずに尻餅をつきそうになったし、もう歳です。

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 調子がよければ少し尾根道を歩こうかと思ってきたのですが、泥足が気になるので今回はあきらめて、来た道を帰りました。

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2014年12月15日 (月)

ふしぎな岬の物語

 12月2日、港南台シネサロンで「ふしぎな岬の物語」を見た。

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 前に書いた(→岬の喫茶店)房総の明鐘岬(みょうがねみさき)にある喫茶店を舞台にした映画である。
 だからまず見た事がある景色が出てくるのがうれしい。明鐘岬の風景はもちろん、房総のあちこちでロケをしているので、この港はどこだろう、あ、このポピー畑はあそこあたりか、この夕陽は館山の夕陽にちがいない、と準地元人のような楽しみ方ができた。上のチラシ下部のボートに乗っているところは、何度か行ったことのある館山沖の島らしい。

 岬の喫茶店の女店主(吉永小百合)と問題児の甥(阿部寛)を中心に、それをとりまく岬村の常連客(笹野高史、笑福亭鶴瓶など)や、男と別れて東京から帰ってきた常連客の娘(竹内結子)などとの、いくつかのエピソードをとりまぜた、しみじみ、ほのぼの話。
 女主人と甥の関係が、全体を貫く筋になっているが、これがどういう関係か最初のうちはよくわからない。最後の方の、吉永小百合の長いセリフでようやく説明される。もう少し早めにわからせてくれてもよかった。
  けっこう豪華なキャストのわりにいまいち盛り上がりに欠ける気がした。もっとベタベタの筋で三倍泣けます、みたいな話にしたらどうだったろう。そうしないで、しみじみの落ち着いた癒やし系でいったからモントリオールの映画祭で賞を取れたのかもしれないが。

 最近亡くなった高倉健もそうだったが、吉永小百合は、何十年もずっと吉永小百合をやっている。この歳になっても、いまだにかわらない。えらいものだ。
 例えば、おいいしいコーヒーを入れるためにと、手をかざして「おいしくなーれ、おいしくなーれ」というシーンがあった。子供相手ならともかく、大人相手にまじめな顔してやるか、恥ずかしい、というところだが、吉永小百合がやるとなんとなく納得して、「一杯いただきます」と言いたくなる。
 まもなく七〇歳だそうだが、もう少しがんばってもらおう。

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2014年12月12日 (金)

おりょうの言い分3

 あとは、兄権平がおりょうを妾あつかいしたから、という話である。
 このことについては、明治文学研究者の柳田泉が、雑誌「傳記」の三巻五号(昭和十一年五月)に、次のように書いている。これは三月号の貴田菊雄の「坂本龍馬の未亡人に就いて」(→おりょうの言い分1)に対して書かれたものである。

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 お良未亡人が坂本家に引取られてから、龍馬の兄権平が彼女のことを妾だと人々に語つたと言ふが、これは勿論「龍馬の妾」と言ふ意味であらう。それは然し、権平の立場から言へば、同未亡人に對する當然の感情であつたかも知れない。凡て武士の家では、結婚養子などといふことも非常にやかましかったから、たとひ當人同志が結婚したと言つても父兄の正式の承諾がない限りは、正妻とは認めないのが常だ。お良未亡人の場合も、それと同じで、いくら未亡人の方で正當な妻の積りでゐても、父兄の方からいふとこれに對しては妾だといふ様な感じを持つのもやむを得ないことであらう。まして若し権平が龍馬にはチャントした許婚の女性があるのだと言ふ事を知つて居たら、お良未亡人の事をさう思ふのがむしろ自然ではなかろうか。(p95)

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 つまり当時の武家の風習としては、家長たるものが認めなければ正式の嫁とは認められないのがあたりまえだった。「不身持ち」をするように仕向けるような面倒なことをしなくても、離縁することだってできたはずだ。
 気の強いおりょうが、正妻あつかいされないことが不満で飛び出したというのは理解できる。これも出て行った理由のひとつかもしれないが、これだけでは伝記作者たちの悪評は説明できない。

 それに鈴木かほるによれば、兄権平は、最初、坂本家で引き取ることを事を拒んでいたという。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p106)
 そこへ海援隊の協議により連れてこられたおりょうが、当時の武家の価値観にあうような女性――節度や教養があって、後生をひたすら龍馬を弔うことに捧げますというのであればまだしも、司馬遼太郎が書いているように、

竜馬の目からみるときらきらと輝いてみえたおりょうの性格は、他の者の冷静な目からみればそのあたらしさは単に無智であり、その大胆さは単に放埒(ほうらつ)なだけのことであったのだろう。

というような「新しい女」だったすると、正式の嫁として認めるのは難しいだろう。
 外部的に「龍馬の妾」だと言っていたというのは十分考えられる。
 鈴木かほるの前掲書には、高知から移った和食村でのおりょうについて、こんな記載がある。山脇信徳という画家が母親から聞いた話で、平成12年5月に『高知新聞』に掲載されたという。

[お龍が]管野(ママ)の家にゐた時も、酔ったまぎれに浜辺に出て、磯に引き上げてある漁船に寝て夜を明かしたり、坂本から貰ったといふ拳銃などもってゐて、空の小鳥を打って見たりしたといふ様な話を母から聞くと、私は何んとなく、お龍の放縦な性格を見る様な気がする。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p120)

 若くで美人だけれど、放恣で、酒飲みで、おまけに拳銃までうつとなると、「新しい女」を超えて「翔んでる女」だ(この言葉はもう古いか)。そのうえ男の噂まで出てきたとあっては、謹厳実直な武士であった兄権平は、とても嫁として認めるどころではなかっただろう。坂本家の名を守るためにも追い出すしかなかったというのは、確証はないが、かなり納得できる話だと思う。
 以上、おりょうの言い分を検討してみても、やはり男にまつわるなんらかの事件があり、それが実際どうだったのかはわからないが、高知では噂になって、坂本家を出ることになったのではないか、と考えられる。

 なお柳田泉が「まして若し権平が龍馬にはチャントした許婚の女性があるのだと言ふ事を知つて居たら」と書いている許婚とは千葉佐那(さな)のことである。
 佐那は龍馬が剣を学んだ江戸の北辰一刀流桶町道場主千葉定吉の娘で、剣や薙刀に乗馬もできたという。(千葉定吉は千葉周作の実弟)
 この記事の中で柳田は明治26年9月2日発行の『女学雑誌』に載った「坂本龍馬未亡人を訪ふ」という記事を全文紹介している。こちらの未亡人は千葉佐那のことで、龍馬が千葉道場にいたとき婚約した話などが書かれている。
 文久三年の龍馬から乙女へあてた手紙には、佐那のことが「かほかたち平井より少しよし」「まあ/\今の平井/\」と、書いてある。「平井」は龍馬の友人の妹「平井加尾」のことで、初恋の人とされている。この手紙を見る限り、当時龍馬が佐那に気があったことは間違いない。
 龍馬の乙女への手紙は、こんなふうに開けっぴろげで、いろんなことを書いている。龍馬の性格と姉弟の仲の良さを感じさせる。
 しかし坂本・千葉両家承認のうえ正式に婚約したかどうかは定かでない。
 佐那は終生独身で、「私は、龍馬の許婚者でした」とまわりに語っていたという。東京に住み東京で死んだが、甲府に知人が建てた佐那の墓があり、裏には「坂本龍馬室」と刻まれている。
 龍馬から聞いたことがあったのか、それとも坂崎紫攔の『汗血千里駒』などで後から知ったのかわからないが、おりょうは回顧談で、佐那の片思いだったとし、佐那の悪口を言っている。

 

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2014年12月 9日 (火)

おりょうの言い分2

 おりょうの言い分でまず気になるのは、「 家はあまり富豊ではありませむから」というところである。坂本家は富裕だった筈だ。
 高知屈指の豪商才谷屋(さいたにや)が、郷士株を手に入れて子供に分家させたのが郷士坂本家で、身分は下士だが上士なみの豊かな暮らしをしていたと言われている。龍馬が二度にわたって江戸へ剣術修行に出ているのも実家が裕福だったからこそである。(NHK大河ドラマの「龍馬伝」では、香川照之扮する貧乏で汚い岩崎弥太郎が、裕福で鷹揚に育った龍馬をいつも妬んでいた。)
 おりょうは坂本家を出たあと、妹起美(君枝)が嫁いでいた土佐安芸郡和食村(わじきむら)の菅野覚兵衛(=千屋寅之助)方へ身を寄せた。その後菅野が海軍省出仕となって米国留学を命じられ東京へ移住することになったため、明治2年中頃にはおりょうも土佐を出て、京都へ戻った。だからおりょうが土佐にいたのは、高知と和食村をあわせても、慶応4年(=明治元年(1868))から明治2年の一年ほどのことである。
 この後、士族が没落し、武家への金貸しが焦げついて才谷屋も没落することになるが、それはまだ先のことで、おりょうがいた頃の坂本家はまだ裕福だったと思われる。

 「褒賞金」と言っているが、おりょうがいた明治元年頃は明治政府もできたばかりで、褒賞金などという話が本当にあったものかどうか。
 龍馬の功績が認められて、甥にあたる小野淳輔(=高松太郎)が龍馬のあとに一家を立てることが許され、永世十五人扶持を下賜されたのは明治4年(1871)のことである。このときにはおりょうはすでに坂本家を離れていた。
 また龍馬に正四位が追贈されたのは明治24年(1891)で、このときもおりょうは何の関係も持っていない。
 兄の権平は、奔放な龍馬と違って謹厳実直な人だったという話はあるが、ケチだったという話はなさそうだ。
 金の話は、おりょうがあとからとってつけた話ではないか。
 おりょうが土佐を出た頃には無名だった龍馬も、この回顧談をした明治30年頃には功績を顕彰され、かなり有名になっていた。ところが自分はそういう栄誉とは何の関係もなかった…とついつい金の話が出てしまったのではないだろうか。証拠もなにもないけれど、そう思えてならない。そう思うとちょっとかわいそうな気がする。

 そして一番気になるのは「不身持ちをする様に仕向て居たのです。」という話。
 これだと、おりょうが不身持ちをするように、兄夫婦が男を差し向けていたとか、罠を仕掛けていたという、芝居がかった話になる。
 謹厳実直の兄がはたしてそんなことをするだろうか。金の為という話は上記のように信用できない。これもおりょうの言いわけではないかと思う。
 また証拠のない話になるが、ここは聞き手の安岡秀峰から「男関係の噂」の話が出たのではないか。安岡の父安岡金馬(きんま)は土佐脱藩の海援隊士で、維新後は海軍に勤務し、横須賀で海軍機関学校の教官をしていたという。さらに金馬の兄重房の妻は、菅野覚兵衛の妹という関係があった。
 だから当然おりょうにまつわる男関係の噂も聞いており、それを質問したのだろう。それに対しおりょうは、あれは兄夫婦のせいだ、と言いわけをした、そういうことではないか。
 ここで注意しなければならないのは、おりょうは「根も葉もないこと」とは言ってないことだ。「不身持ち」の事実があったかどうかははっきりしないが、そういう噂になるようなことがあったのは認めていることになる。何らかの事件があったことは認めるが、それは自分のせいではない、兄夫婦が悪い。
 想像をたくましくすると、兄夫婦が引き合わせた龍馬の昔の友人と何かあったのかもしれない。また、何もなくても二人で会って話をしているだけで噂がたったのかもしれない。明治元年の地方都市の狭い町だ。京都からやってきた派手な美人の未亡人の動静が、噂にならないわけがない。
 「不身持ち」だったのかどうかはわからない。ともかく噂のもとになるような、なんらかの事実はあったのだろう、そのことはおりょうも認めているように思われる。

 
 

 

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2014年12月 6日 (土)

おりょうの言い分1

 明治32年(1899)に、二人の若者が、別々におりょうの回顧談の聞き書きを発表した。安岡秀峰(十八歳くらい)と川田雪山(二十一歳くらい)である。
 それぞれが発表した記事と媒体・時期は次のとおり。安岡秀峰は昭和6年にも回想記をのこしている。

1 安岡秀峰(重雄)
1-1 反魂香(雑誌「文庫」、全6回)明治32年2月~8月
1-2 続反魂香(雑誌「文庫」、全5回)明治32年12月~33年2月
1-3 維新の残夢(雑誌「文庫」、全3回)明治33年3月~33年7月
1-4 阪本龍馬の未亡人(「実話雑誌」、全1回)昭和6年 

2 川田雪山(瑞穂)
2-1 千里駒後日譚(せんりのこまごじつのはなし)(土陽新聞 全6回)明治32年11月 
2-2 千里駒後日譚拾遺 (土陽新聞 全3回)明治32年11月

 鈴木かほる史料が語る坂本龍馬の妻お龍』(新人物往来社、2007)には、上記の記事がすべて収められている。こういう、まるごと資料を収録している本は素人にはありがたい。
 

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Photo     雑誌「文庫」(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p11より)


 このうち、1-1「反魂香」の第4回(『文庫』12巻4号、明治32年6月15日)に次の記載がある。

 所が義兄及び嫂(あによめ)との仲が悪いのです。なぜかといふと、龍馬の兄といふのが家はあまり富豊ではありませむから、内々龍馬へ下る褒賞金を当にして居たのです、が龍馬には子はなし、金は無論、お良より外に下りませむから、お良が居てはあてが外れる、と言って殺す訳にもゆきませむから、只お良の不身持ちをする様に仕向て居たのです。既に阪本は死むで仕舞ふし、海援隊は瓦解(がかい)する、お良を養ふ者は、さしづめ兄より外にありませむから、夫婦して苛(さいなめ)てやれば、きつと国を飛び出すに違ひない、その時は、お良は不身持故、龍馬にかはり兄が離縁すると言へば赤の他人、褒賞金は此方の物といふ心で、始終喧嘩ばかりして居たのです、之れが普通の女なら、苛められても恋々と国に居るでしやうが、元来きかぬ気のお良ですから、何だ金が欲しいばかりに自分を夫婦して苛めやがる、妾あ金なぞは入らない、そんな水臭い兄の家に誰が居るものか、追ひ出されない内に、此方から追ん出てやろうといふ量見で、明治三年に家を飛び出して、京都東山へ家を借り、仏三昧に日を送つていましたが、座して喰へば山も空しで、蓄はつきて仕舞ひ、ついには糊口(ここう)に苦しむ様になりました。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p193、下線部は原文傍点)

 おりょうは龍馬の兄権平夫婦との仲が悪かった。それは金のためだった。龍馬への褒賞金をおりょうに渡さず、自分たちが手に入れるため、兄たちが不身持ちを仕向けた。
 「妾(わたし)あ金なぞは入らない、そんな水臭い兄の家に誰が居るものか」と、追い出される前に自分からおん出たんだと勇ましい。
 明治37年の東京二六新聞「坂本龍馬未亡人龍子」の「引取られて見たが嫂(あによめ)さんと折合いが惡くて居溜(ゐたゝま)らず」とあるのは、この記事によったものか。
 なお「明治三年に家を飛び出して」とあるのはおりょうの勘違いで、明治二年が正しい。

 2-1「千里駒後日譚」の第四回(土陽新聞、明治32年11月8日)では、兄権平と姉乙女についてこう言っている。

◎兄(あに)さんは、龍馬とは親子程、年が違つて居ました。一番上が兄さん(権平氏)で、次が乙女姉さん、其次が高松太郎の母、其次が又女で、龍馬は季子(まっし)です。龍馬が常に云つていました。おれは、若い時、親に死別れてからは、お乙女姉さんの世話になつて成長(ふと)つたので、親の恩より姉さんの恩が太(ふと)いつてね、大変、姉さんと中良しで、何時でも長い〈〈手紙を寄(よこ)しましたが、兄さんには匿して書くので、龍馬に遣(や)る手紙を色男なんかにやる様に、おれに匿さいでも宜からうと怒つて居たさうです。伏見で私が働いたことを国へ言つて遣ると云つて居ましたから、ソウしては、あなたが大変、私にのろい様に見えるから、お廃止(よし)なさいと止めました。姉さんは、お仁王と云ふ綽名(あだな)があつて元気な人でしたが、私には親切にしてくれました。(龍馬伝には「乙女、怒つて彼女を離婚す」とあれど、是れ亦た誤りなり。お龍氏が龍馬に死別れて以来の経歴は予委(くわ)しく之を聴きたれど、龍馬の事に関係なければ今姑(しば)らく略しぬ、されど此の這(こ)の女丈夫が三十年間、如何にして日月を過せしかは、諸君の知らんと欲する所なるべし、故に、予(よ)は他日を期し、端を改めて叙述する所あらんと欲す、請ふ諒せよ)私が土佐を出る時も、一処に近所へ暇乞(いとまご)ひに行つたり、船迄、見送つて呉れたのは乙女姉さんでした。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p246)

 乙女とは仲が好かった、と言っている。司馬遼太郎は、乙女は腹にすえかねることがあっても表面ニコニコしていたのだろうと書いている。どちらにせよ、表面上、乙女との対立はなかったように見える。
 川田雪山がここで「他日を期し改めて叙述する所あらん」と書いたとおり、死別以後のおりょうの経歴をくわしく書いておいてくれればよかったのに、それは残ってないようだ。
 川田はこのときは一介の書生にすぎなかったが、のち漢学者として早稲田大学教授となり、終戦の詔書の文案のチェックをしたという。えらくなって、おりょうどころではなかったのかもしれない。

 上記の二者による回顧談のほかに、もうひとつ作者不詳のものがあるという話がある。
 昭和11年の雑誌「傳記」の第三巻三号)(1936、傳記学会)に載っている貴田菊雄「坂本龍馬の未亡人に就いて」という記事である。
 
 明治゙32年に横須賀のおりょうを探訪した一新聞記者の「坂本龍馬未亡人之物語」と題する原稿で、それを貴田が所蔵しているという。
 これは国会図書館のデジタルコレクションの中にあったので、インターネット申し込んでコピーを送ってもらうことができた。これもありがたい。素人は資料を見るだけで苦労するのだ。

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 貴田菊雄は原稿を持っているが、その新聞記者の所属も名前もわからない。発表媒体もわからない。それに原稿が長文だからと、この記事の大半は原稿の要約で、直接の引用は一部しかない。
 貴田菊雄がどういう人なのか知らないし、内容にどこまで信頼がおけるものかわからない。せめて原稿の全文が読めるといいのだが、ネットをさがしてもそれらしいものは見当たらない。
 しかし、とりあえずこれを上記のリストに加えて、
3 貴田菊雄伝作者不詳「坂本龍馬未亡人之物語」
としておこう。

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 これには、土佐でのおりょうについて、次のように書いてある。(貴田による要約であるが、一応おりょうの言い分としておく。)

 これにより未亡人の數奇にして不遇な生涯の双六がふり出されたのだった。明治元年に至り彼女は高知の龍馬の兄権平の家に引取られた。
 然し彼女は長崎にゐる頃から良人終焉の地で且又己が故郷である京の空が戀しく、郷愁にかられて居た矢先き、兄権平が良子を妾なり等と人々に言つたのを耳にしたから急ぎ高知を立ち去るに至つた。(「傳記」の第三巻三号p108)

 京都が恋しく、また、兄権平が、おりょうを妾あつかいしたから家を出たのだという。
 これは龍馬の正妻としてちゃんとあつかわれなかったということだろう。ネットには兄の権平の妾あつかいされたから、というような記事もあったが、誤読だと思う。

 以上の、三者による聞き取りをみると、姉乙女に追い出されたのではなく、兄権平夫婦との関係がうまくいかず、坂本家を出たように見受けられる。
 次は、このおりょうの言い分について考えてみよう。

 

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2014年12月 3日 (水)

おりょうの悪評2

6 貴司山治「妻お龍その後」

 「不義者見つけたり」ではないが、男関係の不行跡・非行の話が見つかった。雑誌『歴史読本』の昭和42年2月号(12巻2号、人物往来社)に掲載されている。貴司山治(きし やまじ)の「妻お龍その後」という記事である。

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 貴司山治はプロレタリア文学者とのことだが、読んだことがない。どういう作家なのか知らない。
 「妻お龍その後」は、題名のとおり、龍馬死後、おりょうが土佐へ行き、坂本家を離縁されて東京へ出、横須賀の裏長屋で病死するまでを、挿絵入りで10頁にまとめた読み物である。

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 問題の部分は、貴司が、昭和15年(1940)に、龍馬の姉乙女の娘、岡上菊栄(おかのうえきくえ)を訪ねて、聞き取りをしたところである。
 貴司はまず、おりょうと乙女の仲が悪かったという話について質した。岡上菊栄は次のように答えた。

「いいえ、それは大違いです。母はお龍さんがくると、得意の一弦琴をおしえたり、お龍さんは自分で刺繍などをして、私はよくそれをみに行き、しまいにそばで刺繍のまねごとなどをして遊びましたが、その時私は二つか三つでした。
 その幼い印象では、お龍さんは色の白い派手な美人でしたが、とてもやさしい人でした。母にも姉さん姉さんと、しきりに親しみうやまっていたように思います。
 ところが、いつのまにか、私がお龍さんの部屋に行って遊んでいると、母が下からよび立てるようになり、お龍さんのところへ行ってはいけないらしいことを、私も何となくカンづくようになりました。
 その内、その人の姿もみえなくなりましたが、ずっと大きくなってから母からはじめてお龍さんが高知を去った真相をきかされて、今でも叔父(龍馬)の名誉のため、口にしたくないような気持ちで、一杯です」。

 その秘密にしたい真相というのを、しいて菊栄刀自にききただしてみると、それはお龍の素行に関するものであった。
 お龍は、「坂本の女房がきている」ときいて訪ねてくる何人かの龍馬の旧友と親しくなった。
 その一人と情を通じた。それが母家の兄権平や、はなれの階下に起居する乙女に知られては大へんだから極力かくした。
 しかし男が裏口――小溝の向こうの路上にあらわれて、二階の雨戸に小石をなげると、中にいるお龍はそっと雨戸をあけお高祖頭巾をして窓から庇屋根にはい出し、階下の乙女に跫音が気取られぬようニャーオという猫の啼き声をくり返し唱えながら、やがて頃をみすまして庇屋根から、下の小溝ごしに路上へとび下りる。

 そうしてその男との密会を楽しんでいるのを竜馬の友人の何人もに見られたのです。注意をうけた母(乙女)が気をつけていると、庇屋根に出たお龍がニャーオと啼くのがきこえる。母はオカしさにたえられなくて、何度もフキ出しかけたそうですが、その内にお龍さんのその相手が、龍馬の幼な友達の男だとわかり、懇々と説諭して『それでは龍馬ほどの人間の名にかかわるから、どうか、やめてくれ』と、諫めたのです。ところがお龍さんが猫のマネ啼きをする相手はまだ外にもあることがわかり、『そんなに男に止め度のない乱淫症の女はおいとけない』と、権平おじが怒り出し、手切金を与えて高知を去らせたのだそうです。
 もっとも権平伯父はおとなしい人ですから、『よそへ行っても、龍馬の名を出さんようにしてくれ』とたのむようにさとし、涙をながして見送ったら、お龍さんも泣きながら出て行ったということです。

 私は「その相手の男の名をきくわけにはいわんか」ときいてみた。
「それだけはカンベンしてつかァさい。その人の名は、文久元年の土佐勤王党の帳面にものっていますから、それだけは言いたくありません」(p73~74)

 つまり、土佐にいる間におりょうは男をつくって、そのため坂本家から追い出されたということだ。
 貴司は、次のように、家の間取りまで聴き取っている。おりょうは母家から離れた六畳の二階にいて、三尺ほどの溝川の道路から合図があると、庇屋根を伝って、と具体的である。

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 この話が本当であるかどうかは、これ以上たしかめようがない。このほかに具体的な話はないようだ。
 本当であれば、おりょうが坂本家を追い出されたのも無理はない。明治・大正の伝記作者たちが、「龍馬のために書くに忍びない」と言っているのもわかる。
 おりょう自身の回顧談では、ちがう理由で坂本家を出た、と言っている。おりょうの回顧談については後でくわしくみたい。
 しかし坂本家周辺や土佐では、こうしたことがあったと考えられ、そのように伝えられていたのだろう。海援隊や土佐の関係者から援助がえられなかったのには、そのせいもあったのではないか。
 白柳秀湖の一節を再度引いておこう。

 龍馬の未亡人龍子の後半生に就いては語るべき材料も多いが、それは地下の龍馬の為に之を筆にするに忍びぬ。彼女は一面に於ては稀に見る烈婦であったと同時に、他の一面に於いては極めて多情多恨の婦人であったということを附加えて置けば、それで十分であろう。(白柳秀湖『坂本龍馬』、作品社、2009、p359)

 岡上菊栄は、前述のように坂本龍馬の姉乙女とその夫岡上樹庵(おかのうえじゅあん)の娘である。乙女は樹庵と離縁した後も菊栄を養育していて、武道をはじめ、武士の男並みのきびしいしつけをしたという。家庭の事情は複雑で、菊栄は乙女の実の子ではないという話もあるらしいが、そのあたりはよくわからない。

 『おばあちゃんの一生-岡上菊栄伝-、三十余年の懐古』(宮地仁、大空社、1989)という本がある。昭和25年に岡上菊栄女史記念碑建設会から刊行された本の復刻版である。記念碑を建てられるくらいの人だったのだ。

Photo          『おばあちゃんの一生』 扉・口絵

 父の岡上樹庵は医師で、それなりの資産があったけれど、父の死後、吝嗇な叔父に引き取られ、財産を巻き上げられてしまった。苦労して教員の資格を取った。
 教員時代、特殊部落の児童の教育にかかわるなどしていた。四十代で慈善協会からスカウトされて、夫は猛反対したが、高知の孤児院博愛園の園母になった。以後、長年社会事業に携わって、晩年には各種の表彰を受けた。高知県の社会事業の先駆者の一人である。 
 この本はそういう社会事業の功労者としての伝記であり、残念ながら、おりょうの話は出てこない。
 龍馬についても、菊栄の兄赦太郎に「試し斬りをやれ、その手水鉢を切ってみよ」と言ったら、赦太郎は抜く手もみせず切りつけたので、龍馬はその勇気に感心して、脇差しを与えた。(p24)という話があったくらいだ。もっとも、菊栄は龍馬の死んだ慶応三年の生まれだから、直接の思い出話はありようがない。
 おりょうには二、三歳の頃に会っていて、それが上記の貴司山治からの引用になるわけだが、この記事の他には、おりょうの話は残していないようだ。血統を誇りにしていた人だったらしいから、ずっとこういう話をしなかったというのは理解できる。
 それを聞き出したという貴司山治は信用できるのか、という問題がないでもない。貴司はおりょうを「相当多情型の女であった」と書いて、あまり同情はない。菊栄の証言の真偽を疑ってみた形跡もない。二、三才歳時の話なのだから、裏付けもなく書いていいのか、という気もする。
 
 しかし、事実関係はともかく、当時こういう疑いがあり、周辺にこういう噂が流れていたとすれば、坂本家や海援隊関係者の対応もある程度理解でき、伝記作者たちが憤っているのも了解できる。
 龍馬の兄権平が、おりょうを正式の妻ではなく、妾扱いしたので、おりょうが怒って出て行ったという説もあるようだが、それでは「多情多恨の女」とか、書くに忍びない、という話にはなるまい。
 周辺にこういう噂が流布されていたことは、おそらく間違いないだろう。

 

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