« おりょうの悪評1 | トップページ | おりょうの言い分1 »

2014年12月 3日 (水)

おりょうの悪評2

6 貴司山治「妻お龍その後」

 「不義者見つけたり」ではないが、男関係の不行跡・非行の話が見つかった。雑誌『歴史読本』の昭和42年2月号(12巻2号、人物往来社)に掲載されている。貴司山治(きし やまじ)の「妻お龍その後」という記事である。

122

 貴司山治はプロレタリア文学者とのことだが、読んだことがない。どういう作家なのか知らない。
 「妻お龍その後」は、題名のとおり、龍馬死後、おりょうが土佐へ行き、坂本家を離縁されて東京へ出、横須賀の裏長屋で病死するまでを、挿絵入りで10頁にまとめた読み物である。

Photo_2

 問題の部分は、貴司が、昭和15年(1940)に、龍馬の姉乙女の娘、岡上菊栄(おかのうえきくえ)を訪ねて、聞き取りをしたところである。
 貴司はまず、おりょうと乙女の仲が悪かったという話について質した。岡上菊栄は次のように答えた。

「いいえ、それは大違いです。母はお龍さんがくると、得意の一弦琴をおしえたり、お龍さんは自分で刺繍などをして、私はよくそれをみに行き、しまいにそばで刺繍のまねごとなどをして遊びましたが、その時私は二つか三つでした。
 その幼い印象では、お龍さんは色の白い派手な美人でしたが、とてもやさしい人でした。母にも姉さん姉さんと、しきりに親しみうやまっていたように思います。
 ところが、いつのまにか、私がお龍さんの部屋に行って遊んでいると、母が下からよび立てるようになり、お龍さんのところへ行ってはいけないらしいことを、私も何となくカンづくようになりました。
 その内、その人の姿もみえなくなりましたが、ずっと大きくなってから母からはじめてお龍さんが高知を去った真相をきかされて、今でも叔父(龍馬)の名誉のため、口にしたくないような気持ちで、一杯です」。

 その秘密にしたい真相というのを、しいて菊栄刀自にききただしてみると、それはお龍の素行に関するものであった。
 お龍は、「坂本の女房がきている」ときいて訪ねてくる何人かの龍馬の旧友と親しくなった。
 その一人と情を通じた。それが母家の兄権平や、はなれの階下に起居する乙女に知られては大へんだから極力かくした。
 しかし男が裏口――小溝の向こうの路上にあらわれて、二階の雨戸に小石をなげると、中にいるお龍はそっと雨戸をあけお高祖頭巾をして窓から庇屋根にはい出し、階下の乙女に跫音が気取られぬようニャーオという猫の啼き声をくり返し唱えながら、やがて頃をみすまして庇屋根から、下の小溝ごしに路上へとび下りる。

 そうしてその男との密会を楽しんでいるのを竜馬の友人の何人もに見られたのです。注意をうけた母(乙女)が気をつけていると、庇屋根に出たお龍がニャーオと啼くのがきこえる。母はオカしさにたえられなくて、何度もフキ出しかけたそうですが、その内にお龍さんのその相手が、龍馬の幼な友達の男だとわかり、懇々と説諭して『それでは龍馬ほどの人間の名にかかわるから、どうか、やめてくれ』と、諫めたのです。ところがお龍さんが猫のマネ啼きをする相手はまだ外にもあることがわかり、『そんなに男に止め度のない乱淫症の女はおいとけない』と、権平おじが怒り出し、手切金を与えて高知を去らせたのだそうです。
 もっとも権平伯父はおとなしい人ですから、『よそへ行っても、龍馬の名を出さんようにしてくれ』とたのむようにさとし、涙をながして見送ったら、お龍さんも泣きながら出て行ったということです。

 私は「その相手の男の名をきくわけにはいわんか」ときいてみた。
「それだけはカンベンしてつかァさい。その人の名は、文久元年の土佐勤王党の帳面にものっていますから、それだけは言いたくありません」(p73~74)

 つまり、土佐にいる間におりょうは男をつくって、そのため坂本家から追い出されたということだ。
 貴司は、次のように、家の間取りまで聴き取っている。おりょうは母家から離れた六畳の二階にいて、三尺ほどの溝川の道路から合図があると、庇屋根を伝って、と具体的である。

Photo

 この話が本当であるかどうかは、これ以上たしかめようがない。このほかに具体的な話はないようだ。
 本当であれば、おりょうが坂本家を追い出されたのも無理はない。明治・大正の伝記作者たちが、「龍馬のために書くに忍びない」と言っているのもわかる。
 おりょう自身の回顧談では、ちがう理由で坂本家を出た、と言っている。おりょうの回顧談については後でくわしくみたい。
 しかし坂本家周辺や土佐では、こうしたことがあったと考えられ、そのように伝えられていたのだろう。海援隊や土佐の関係者から援助がえられなかったのには、そのせいもあったのではないか。
 白柳秀湖の一節を再度引いておこう。

 龍馬の未亡人龍子の後半生に就いては語るべき材料も多いが、それは地下の龍馬の為に之を筆にするに忍びぬ。彼女は一面に於ては稀に見る烈婦であったと同時に、他の一面に於いては極めて多情多恨の婦人であったということを附加えて置けば、それで十分であろう。(白柳秀湖『坂本龍馬』、作品社、2009、p359)

 岡上菊栄は、前述のように坂本龍馬の姉乙女とその夫岡上樹庵(おかのうえじゅあん)の娘である。乙女は樹庵と離縁した後も菊栄を養育していて、武道をはじめ、武士の男並みのきびしいしつけをしたという。家庭の事情は複雑で、菊栄は乙女の実の子ではないという話もあるらしいが、そのあたりはよくわからない。

 『おばあちゃんの一生-岡上菊栄伝-、三十余年の懐古』(宮地仁、大空社、1989)という本がある。昭和25年に岡上菊栄女史記念碑建設会から刊行された本の復刻版である。記念碑を建てられるくらいの人だったのだ。

Photo          『おばあちゃんの一生』 扉・口絵

 父の岡上樹庵は医師で、それなりの資産があったけれど、父の死後、吝嗇な叔父に引き取られ、財産を巻き上げられてしまった。苦労して教員の資格を取った。
 教員時代、特殊部落の児童の教育にかかわるなどしていた。四十代で慈善協会からスカウトされて、夫は猛反対したが、高知の孤児院博愛園の園母になった。以後、長年社会事業に携わって、晩年には各種の表彰を受けた。高知県の社会事業の先駆者の一人である。 
 この本はそういう社会事業の功労者としての伝記であり、残念ながら、おりょうの話は出てこない。
 龍馬についても、菊栄の兄赦太郎に「試し斬りをやれ、その手水鉢を切ってみよ」と言ったら、赦太郎は抜く手もみせず切りつけたので、龍馬はその勇気に感心して、脇差しを与えた。(p24)という話があったくらいだ。もっとも、菊栄は龍馬の死んだ慶応三年の生まれだから、直接の思い出話はありようがない。
 おりょうには二、三歳の頃に会っていて、それが上記の貴司山治からの引用になるわけだが、この記事の他には、おりょうの話は残していないようだ。血統を誇りにしていた人だったらしいから、ずっとこういう話をしなかったというのは理解できる。
 それを聞き出したという貴司山治は信用できるのか、という問題がないでもない。貴司はおりょうを「相当多情型の女であった」と書いて、あまり同情はない。菊栄の証言の真偽を疑ってみた形跡もない。二、三才歳時の話なのだから、裏付けもなく書いていいのか、という気もする。
 
 しかし、事実関係はともかく、当時こういう疑いがあり、周辺にこういう噂が流れていたとすれば、坂本家や海援隊関係者の対応もある程度理解でき、伝記作者たちが憤っているのも了解できる。
 龍馬の兄権平が、おりょうを正式の妻ではなく、妾扱いしたので、おりょうが怒って出て行ったという説もあるようだが、それでは「多情多恨の女」とか、書くに忍びない、という話にはなるまい。
 周辺にこういう噂が流布されていたことは、おそらく間違いないだろう。

 

|

« おりょうの悪評1 | トップページ | おりょうの言い分1 »

なむや文庫雑録」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: おりょうの悪評2:

« おりょうの悪評1 | トップページ | おりょうの言い分1 »