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2014年12月30日 (火)

海援隊とおりょう2

 ただ、おりょうの回顧談の中には、東京でばったり出会った元海援隊士の橋本久太夫が、親切にしてくれたという話もある。
 おりょうは昔、橋本がお房という女と結婚する面倒をみたことがあった。

後に私が東京に出た時、高輪でフイと橋本に邂逅(めぐりあ)ひ、マア私の家に来なさいと云ふから二三日お世話になりましたが、お房が、あなたのお蔭で酒呑みだけれど、マア橋本さんと、副つて居ます。恩返しは、こんな時にせねばする時が無いと云つて親切にして呉れました。(2-2千里駒後日譚拾遺」、『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p251)

 貴田菊雄の「坂本龍馬の未亡人に就いて」では、橋本久太夫はその頃東海丸という汽船の船長をしていて、品川南天王側の薩摩屋敷に住んでいた。そして二三日のことではなく、十年くらい世話をしたことになっている。

久太夫は龍馬の舊恩と今は餘りにいたはしく變つた未亡人に同情し彼の屋敷に伴ひ帰つた。
「屋敷に参りますと多勢の男が出て來て私は先生のお蔭を蒙りました。私も龍馬様にお附添ひ申した者ですと交わ/\妾の前へ出て申さるゝので妾は何だか蘇生つたやうな心持御座いました」
それから橋本は長い年月の間舊主への恩返へしの為め親切によく世話をし、彼女は此處で明治二十年までを過した。(「傳記」三巻三号p110)

 明治20年までというのは長すぎる。戸籍によれば、おりょうが横須賀の西村松兵衛の籍に入籍されたのが明治8年(1875)だというから、その頃にはもう横須賀へ移っていたと考えられる。(このあたり、貴田菊雄のいう「新聞記者の原稿」の信憑性を疑わせる。)
 それはともかく、ここではおりょうはみんなから感謝されている。橋本久太夫は土佐ではなく越後の出身で、場所も薩摩屋敷というから、意地悪く考えると、こで会った人たちはその後のおりょうの噂を聞いていなかったのかもしれないが。

 おりょうは2-1千里駒後日譚(五回)」でも、橋本久太夫が立派な船乗りだったとほめている。
 龍馬夫妻の乗った船を薩摩から長崎へ回航する際、甑灘(こしきなだ)で大波にあって、乗組員もたくさん船酔いで唸っていた。そんな中で橋本はひとり身体を帆柱に縛りつけて、帆を巻いたり張ったり、働いていた。起きているおりょうを見て「奥さんでさえ起きているぞ、貴様ら恥を知れ」と呼ばわった。
 その後港へ着く頃にようやくみんな起きてきて、着物を着替えるやら顔を洗うやら大騒ぎを始めたので、おりょうは言った。

私が、港が見え出すとソンナ真似をして、お前等何だ、酔つて寝ていた癖にと云ふと、橋本が、ソラ見よ、皆な来て誤れ/\と云つて、此奴は一番酔つた奴、彼奴は二番三番と一々指すと、皆な平伏して真(まこ)にと悪うご座りましたと誤つて居りました。ホゝ私も悪い事をしたもんですネー。すると龍馬が出て来て、ソンナ事をするな、酔ふ者は酔ふ、酔ぬ者は酔はぬ性分だから仕方が無いと笑つて居りました。(2-1千里駒後日譚」、『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p247)

 おりょうは自慢話のように言っているが、怒られた海援隊士や水夫の側からすれば、これは「イヤな女」である。酔う酔わないは龍馬の言うとおり体質的、経験的なもので避けがたい。それを自分が酔わなかったからといって、直接の主従関係にあるわけでもないのに、威張り散らされてはたまらない。社長の奥さんに怒られる筋合いはない。
 おりょうの方はそんなことはまるで考えていないようだが、こういうことをしていたら、やっぱり評判は悪くなるだろう。「第一に生意気な女である、坂本を笠に着て、兎角[とかく]他の同志を下風に見たがる」というのは、こういうことだったのか、と思い当たってしまう。

 龍馬人気でたくさんの関連資料が拾い上げられているようだけれど、上記の他に海援隊士がおりょうについて言及した史料があるのかどうか、わたしにはわからない。だからこれも確言はできないが、親切にしてくれた人もいたけれど、多くの海援隊士に嫌われていたというのは、どうもありそうな気がする。

 

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