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2014年12月27日 (土)

海援隊とおりょう1

 二番目に気になっていた、おりょうと海援隊関係者の関係については、おりょうの回顧談の聞き手である安岡秀峰1-4「坂本龍馬の未亡人」(「実話雑誌」一の六、1931)の中で、こう書いている。(引用は鈴木かほる『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』(』(新人物往来社、2007)より)

 茲(ここ)で少しくお良さんの性格を書いて置かう。お良さんは当時の婦人気質(かたぎ)から言うと、御転婆な、京女には似合はない、大酒呑みのおしやべりであつた。俗に言う俠(きやん)の方で、随分人を食つた女であつたらしい。
 坂本は、ぞつこんお良さんに惚れて居たが、坂本を首領(かしら)と仰ぐ他の同志達は、お良さんを嫌つて居た。第一に生意気な女である、坂本を笠に着て、兎角[とかく]他の同志を下風に見たがる、かう言つた性格が、坂本の死後、お良さんを孤立させた。坂本の姉のおとめは、誰よりもお良さんが嫌ひであつた。
 だから、坂本の家は、甥の高松太郎が相続してお良さんは坂本家から離縁された。と言つても其当時、戸籍は無かつたので、離縁に就いての面倒な手続きは要らなかつた。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p258)

 昭和6年だから、おりょうの死後25年後に発表したもの、安岡秀峰は五十歳ぐらいになっていた。
 若い頃の「反魂香」ではおりょうの言い分をそのまま書いていたが、ここではおりょうの性格を乙女が嫌って離縁になった、そして、海援隊の同志達も、おりょうを嫌っていたという。
 こうも書いている。安岡秀峰の父は海援隊士であった。

 不思議に私の父はお良さんを嫌つた。坂本の死後、同志の中には。出世をした人が尠[すくな]くないのに、誰一人お良[お龍]さんや松兵衛さんを世話しようといふ者がなかつた。私の父がお良さんを嫌つたのも、お良さんの昔の生意気や、おしやべりや、蓮ツ葉[はすっぱ]な性格以外に、どこかお良さんには、人に嫌はれる天分があつたのかも知れない。(同書p263)

 これは、わたしの疑問に対するずばりの解答である。おりょうは性格が悪く、海援隊関係者からは嫌われていた。だから世話をしようとするものがいなかった。「人に嫌はれる天分があつたのかも知れない」とまで言われている。そうだったのか。

 『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』にはこうも書かれている。

 旧勤王派田中光顕の回顧談によると、志士の生き残りの者たちが瑞山会(土佐勤王党首領・武市瑞山(たけちずいざん)以下の犠牲者を顕彰する会)に集まり、お龍の処遇を話し合ったが、覚兵衛は、お龍は自分の義姉だが、品行が良くないので意見をするが、聞き入れぬから面倒は見れぬと反対したという。(p131)

 菅野覚兵衛(千屋寅之助)はおりょうの妹起美(君枝)の夫であり、土佐出身で海援隊の副長であった。それが、あれは面倒みきれないと言ったというのである。(この話の元の田中光顕の回顧談は、どこに載っているのかわからず未確認。)
 おりょうはかなり強烈な個性の持ち主だったらしい。

 瑞山会は、上記のとおり武市瑞山半平太)と血盟を交わした土佐藩の元勤王の志士たちのあつまりで、中心は政府高官となった田中光顕佐々木高行土方久元などである。この会が編纂した「維新土佐勤王史」には、『汗血千里駒』の坂崎紫攔が主筆としてあたったという。
 武市半平太は慶応元年(1865)切腹させられたが、明治10(1877)に名誉を回復され、明治24年(1891)には坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎ととも正四位が追贈された。
 そして切腹以後生活に困窮していた武市未亡人富子は、瑞山会に庇護され、晩年は手厚く遇された。ウィキペディアにはこんな記載もある。

朝廷から半平太に正四位が贈位された際、上京した富子を囲んで祝宴が開かれたが、かつて半平太に尋問し、最終的に切腹を申し渡した責任者である後藤象二郎と、同じく半平太に尋問した板垣退助から富子に対し、その席で「武市半平太を殺したのは、我々の誤りだった。」と後悔の言葉があったと伝わる。

 龍馬の家督相続にも、正四位追贈にも何の音沙汰もなかったおりょうとは大きな違いである。またちょっとおりょうがかわいそうになる。海援隊には瑞山会のような組織はできなかったのか。

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