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2014年12月 6日 (土)

おりょうの言い分1

 明治32年(1899)に、二人の若者が、別々におりょうの回顧談の聞き書きを発表した。安岡秀峰(十八歳くらい)と川田雪山(二十一歳くらい)である。
 それぞれが発表した記事と媒体・時期は次のとおり。安岡秀峰は昭和6年にも回想記をのこしている。

1 安岡秀峰(重雄)
1-1 反魂香(雑誌「文庫」、全6回)明治32年2月~8月
1-2 続反魂香(雑誌「文庫」、全5回)明治32年12月~33年2月
1-3 維新の残夢(雑誌「文庫」、全3回)明治33年3月~33年7月
1-4 阪本龍馬の未亡人(「実話雑誌」、全1回)昭和6年 

2 川田雪山(瑞穂)
2-1 千里駒後日譚(せんりのこまごじつのはなし)(土陽新聞 全6回)明治32年11月 
2-2 千里駒後日譚拾遺 (土陽新聞 全3回)明治32年11月

 鈴木かほる史料が語る坂本龍馬の妻お龍』(新人物往来社、2007)には、上記の記事がすべて収められている。こういう、まるごと資料を収録している本は素人にはありがたい。
 

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Photo     雑誌「文庫」(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p11より)


 このうち、1-1「反魂香」の第4回(『文庫』12巻4号、明治32年6月15日)に次の記載がある。

 所が義兄及び嫂(あによめ)との仲が悪いのです。なぜかといふと、龍馬の兄といふのが家はあまり富豊ではありませむから、内々龍馬へ下る褒賞金を当にして居たのです、が龍馬には子はなし、金は無論、お良より外に下りませむから、お良が居てはあてが外れる、と言って殺す訳にもゆきませむから、只お良の不身持ちをする様に仕向て居たのです。既に阪本は死むで仕舞ふし、海援隊は瓦解(がかい)する、お良を養ふ者は、さしづめ兄より外にありませむから、夫婦して苛(さいなめ)てやれば、きつと国を飛び出すに違ひない、その時は、お良は不身持故、龍馬にかはり兄が離縁すると言へば赤の他人、褒賞金は此方の物といふ心で、始終喧嘩ばかりして居たのです、之れが普通の女なら、苛められても恋々と国に居るでしやうが、元来きかぬ気のお良ですから、何だ金が欲しいばかりに自分を夫婦して苛めやがる、妾あ金なぞは入らない、そんな水臭い兄の家に誰が居るものか、追ひ出されない内に、此方から追ん出てやろうといふ量見で、明治三年に家を飛び出して、京都東山へ家を借り、仏三昧に日を送つていましたが、座して喰へば山も空しで、蓄はつきて仕舞ひ、ついには糊口(ここう)に苦しむ様になりました。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p193、下線部は原文傍点)

 おりょうは龍馬の兄権平夫婦との仲が悪かった。それは金のためだった。龍馬への褒賞金をおりょうに渡さず、自分たちが手に入れるため、兄たちが不身持ちを仕向けた。
 「妾(わたし)あ金なぞは入らない、そんな水臭い兄の家に誰が居るものか」と、追い出される前に自分からおん出たんだと勇ましい。
 明治37年の東京二六新聞「坂本龍馬未亡人龍子」の「引取られて見たが嫂(あによめ)さんと折合いが惡くて居溜(ゐたゝま)らず」とあるのは、この記事によったものか。
 なお「明治三年に家を飛び出して」とあるのはおりょうの勘違いで、明治二年が正しい。

 2-1「千里駒後日譚」の第四回(土陽新聞、明治32年11月8日)では、兄権平と姉乙女についてこう言っている。

◎兄(あに)さんは、龍馬とは親子程、年が違つて居ました。一番上が兄さん(権平氏)で、次が乙女姉さん、其次が高松太郎の母、其次が又女で、龍馬は季子(まっし)です。龍馬が常に云つていました。おれは、若い時、親に死別れてからは、お乙女姉さんの世話になつて成長(ふと)つたので、親の恩より姉さんの恩が太(ふと)いつてね、大変、姉さんと中良しで、何時でも長い〈〈手紙を寄(よこ)しましたが、兄さんには匿して書くので、龍馬に遣(や)る手紙を色男なんかにやる様に、おれに匿さいでも宜からうと怒つて居たさうです。伏見で私が働いたことを国へ言つて遣ると云つて居ましたから、ソウしては、あなたが大変、私にのろい様に見えるから、お廃止(よし)なさいと止めました。姉さんは、お仁王と云ふ綽名(あだな)があつて元気な人でしたが、私には親切にしてくれました。(龍馬伝には「乙女、怒つて彼女を離婚す」とあれど、是れ亦た誤りなり。お龍氏が龍馬に死別れて以来の経歴は予委(くわ)しく之を聴きたれど、龍馬の事に関係なければ今姑(しば)らく略しぬ、されど此の這(こ)の女丈夫が三十年間、如何にして日月を過せしかは、諸君の知らんと欲する所なるべし、故に、予(よ)は他日を期し、端を改めて叙述する所あらんと欲す、請ふ諒せよ)私が土佐を出る時も、一処に近所へ暇乞(いとまご)ひに行つたり、船迄、見送つて呉れたのは乙女姉さんでした。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p246)

 乙女とは仲が好かった、と言っている。司馬遼太郎は、乙女は腹にすえかねることがあっても表面ニコニコしていたのだろうと書いている。どちらにせよ、表面上、乙女との対立はなかったように見える。
 川田雪山がここで「他日を期し改めて叙述する所あらん」と書いたとおり、死別以後のおりょうの経歴をくわしく書いておいてくれればよかったのに、それは残ってないようだ。
 川田はこのときは一介の書生にすぎなかったが、のち漢学者として早稲田大学教授となり、終戦の詔書の文案のチェックをしたという。えらくなって、おりょうどころではなかったのかもしれない。

 上記の二者による回顧談のほかに、もうひとつ作者不詳のものがあるという話がある。
 昭和11年の雑誌「傳記」の第三巻三号)(1936、傳記学会)に載っている貴田菊雄「坂本龍馬の未亡人に就いて」という記事である。
 
 明治゙32年に横須賀のおりょうを探訪した一新聞記者の「坂本龍馬未亡人之物語」と題する原稿で、それを貴田が所蔵しているという。
 これは国会図書館のデジタルコレクションの中にあったので、インターネット申し込んでコピーを送ってもらうことができた。これもありがたい。素人は資料を見るだけで苦労するのだ。

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 貴田菊雄は原稿を持っているが、その新聞記者の所属も名前もわからない。発表媒体もわからない。それに原稿が長文だからと、この記事の大半は原稿の要約で、直接の引用は一部しかない。
 貴田菊雄がどういう人なのか知らないし、内容にどこまで信頼がおけるものかわからない。せめて原稿の全文が読めるといいのだが、ネットをさがしてもそれらしいものは見当たらない。
 しかし、とりあえずこれを上記のリストに加えて、
3 貴田菊雄伝作者不詳「坂本龍馬未亡人之物語」
としておこう。

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 これには、土佐でのおりょうについて、次のように書いてある。(貴田による要約であるが、一応おりょうの言い分としておく。)

 これにより未亡人の數奇にして不遇な生涯の双六がふり出されたのだった。明治元年に至り彼女は高知の龍馬の兄権平の家に引取られた。
 然し彼女は長崎にゐる頃から良人終焉の地で且又己が故郷である京の空が戀しく、郷愁にかられて居た矢先き、兄権平が良子を妾なり等と人々に言つたのを耳にしたから急ぎ高知を立ち去るに至つた。(「傳記」の第三巻三号p108)

 京都が恋しく、また、兄権平が、おりょうを妾あつかいしたから家を出たのだという。
 これは龍馬の正妻としてちゃんとあつかわれなかったということだろう。ネットには兄の権平の妾あつかいされたから、というような記事もあったが、誤読だと思う。

 以上の、三者による聞き取りをみると、姉乙女に追い出されたのではなく、兄権平夫婦との関係がうまくいかず、坂本家を出たように見受けられる。
 次は、このおりょうの言い分について考えてみよう。

 

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