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2014年12月 9日 (火)

おりょうの言い分2

 おりょうの言い分でまず気になるのは、「 家はあまり富豊ではありませむから」というところである。坂本家は富裕だった筈だ。
 高知屈指の豪商才谷屋(さいたにや)が、郷士株を手に入れて子供に分家させたのが郷士坂本家で、身分は下士だが上士なみの豊かな暮らしをしていたと言われている。龍馬が二度にわたって江戸へ剣術修行に出ているのも実家が裕福だったからこそである。(NHK大河ドラマの「龍馬伝」では、香川照之扮する貧乏で汚い岩崎弥太郎が、裕福で鷹揚に育った龍馬をいつも妬んでいた。)
 おりょうは坂本家を出たあと、妹起美(君枝)が嫁いでいた土佐安芸郡和食村(わじきむら)の菅野覚兵衛(=千屋寅之助)方へ身を寄せた。その後菅野が海軍省出仕となって米国留学を命じられ東京へ移住することになったため、明治2年中頃にはおりょうも土佐を出て、京都へ戻った。だからおりょうが土佐にいたのは、高知と和食村をあわせても、慶応4年(=明治元年(1868))から明治2年の一年ほどのことである。
 この後、士族が没落し、武家への金貸しが焦げついて才谷屋も没落することになるが、それはまだ先のことで、おりょうがいた頃の坂本家はまだ裕福だったと思われる。

 「褒賞金」と言っているが、おりょうがいた明治元年頃は明治政府もできたばかりで、褒賞金などという話が本当にあったものかどうか。
 龍馬の功績が認められて、甥にあたる小野淳輔(=高松太郎)が龍馬のあとに一家を立てることが許され、永世十五人扶持を下賜されたのは明治4年(1871)のことである。このときにはおりょうはすでに坂本家を離れていた。
 また龍馬に正四位が追贈されたのは明治24年(1891)で、このときもおりょうは何の関係も持っていない。
 兄の権平は、奔放な龍馬と違って謹厳実直な人だったという話はあるが、ケチだったという話はなさそうだ。
 金の話は、おりょうがあとからとってつけた話ではないか。
 おりょうが土佐を出た頃には無名だった龍馬も、この回顧談をした明治30年頃には功績を顕彰され、かなり有名になっていた。ところが自分はそういう栄誉とは何の関係もなかった…とついつい金の話が出てしまったのではないだろうか。証拠もなにもないけれど、そう思えてならない。そう思うとちょっとかわいそうな気がする。

 そして一番気になるのは「不身持ちをする様に仕向て居たのです。」という話。
 これだと、おりょうが不身持ちをするように、兄夫婦が男を差し向けていたとか、罠を仕掛けていたという、芝居がかった話になる。
 謹厳実直の兄がはたしてそんなことをするだろうか。金の為という話は上記のように信用できない。これもおりょうの言いわけではないかと思う。
 また証拠のない話になるが、ここは聞き手の安岡秀峰から「男関係の噂」の話が出たのではないか。安岡の父安岡金馬(きんま)は土佐脱藩の海援隊士で、維新後は海軍に勤務し、横須賀で海軍機関学校の教官をしていたという。さらに金馬の兄重房の妻は、菅野覚兵衛の妹という関係があった。
 だから当然おりょうにまつわる男関係の噂も聞いており、それを質問したのだろう。それに対しおりょうは、あれは兄夫婦のせいだ、と言いわけをした、そういうことではないか。
 ここで注意しなければならないのは、おりょうは「根も葉もないこと」とは言ってないことだ。「不身持ち」の事実があったかどうかははっきりしないが、そういう噂になるようなことがあったのは認めていることになる。何らかの事件があったことは認めるが、それは自分のせいではない、兄夫婦が悪い。
 想像をたくましくすると、兄夫婦が引き合わせた龍馬の昔の友人と何かあったのかもしれない。また、何もなくても二人で会って話をしているだけで噂がたったのかもしれない。明治元年の地方都市の狭い町だ。京都からやってきた派手な美人の未亡人の動静が、噂にならないわけがない。
 「不身持ち」だったのかどうかはわからない。ともかく噂のもとになるような、なんらかの事実はあったのだろう、そのことはおりょうも認めているように思われる。

 
 

 

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