« おりょうの言い分2 | トップページ | ふしぎな岬の物語 »

2014年12月12日 (金)

おりょうの言い分3

 あとは、兄権平がおりょうを妾あつかいしたから、という話である。
 このことについては、明治文学研究者の柳田泉が、雑誌「傳記」の三巻五号(昭和十一年五月)に、次のように書いている。これは三月号の貴田菊雄の「坂本龍馬の未亡人に就いて」(→おりょうの言い分1)に対して書かれたものである。

35
 お良未亡人が坂本家に引取られてから、龍馬の兄権平が彼女のことを妾だと人々に語つたと言ふが、これは勿論「龍馬の妾」と言ふ意味であらう。それは然し、権平の立場から言へば、同未亡人に對する當然の感情であつたかも知れない。凡て武士の家では、結婚養子などといふことも非常にやかましかったから、たとひ當人同志が結婚したと言つても父兄の正式の承諾がない限りは、正妻とは認めないのが常だ。お良未亡人の場合も、それと同じで、いくら未亡人の方で正當な妻の積りでゐても、父兄の方からいふとこれに對しては妾だといふ様な感じを持つのもやむを得ないことであらう。まして若し権平が龍馬にはチャントした許婚の女性があるのだと言ふ事を知つて居たら、お良未亡人の事をさう思ふのがむしろ自然ではなかろうか。(p95)

Photo_2
 つまり当時の武家の風習としては、家長たるものが認めなければ正式の嫁とは認められないのがあたりまえだった。「不身持ち」をするように仕向けるような面倒なことをしなくても、離縁することだってできたはずだ。
 気の強いおりょうが、正妻あつかいされないことが不満で飛び出したというのは理解できる。これも出て行った理由のひとつかもしれないが、これだけでは伝記作者たちの悪評は説明できない。

 それに鈴木かほるによれば、兄権平は、最初、坂本家で引き取ることを事を拒んでいたという。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p106)
 そこへ海援隊の協議により連れてこられたおりょうが、当時の武家の価値観にあうような女性――節度や教養があって、後生をひたすら龍馬を弔うことに捧げますというのであればまだしも、司馬遼太郎が書いているように、

竜馬の目からみるときらきらと輝いてみえたおりょうの性格は、他の者の冷静な目からみればそのあたらしさは単に無智であり、その大胆さは単に放埒(ほうらつ)なだけのことであったのだろう。

というような「新しい女」だったすると、正式の嫁として認めるのは難しいだろう。
 外部的に「龍馬の妾」だと言っていたというのは十分考えられる。
 鈴木かほるの前掲書には、高知から移った和食村でのおりょうについて、こんな記載がある。山脇信徳という画家が母親から聞いた話で、平成12年5月に『高知新聞』に掲載されたという。

[お龍が]管野(ママ)の家にゐた時も、酔ったまぎれに浜辺に出て、磯に引き上げてある漁船に寝て夜を明かしたり、坂本から貰ったといふ拳銃などもってゐて、空の小鳥を打って見たりしたといふ様な話を母から聞くと、私は何んとなく、お龍の放縦な性格を見る様な気がする。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p120)

 若くで美人だけれど、放恣で、酒飲みで、おまけに拳銃までうつとなると、「新しい女」を超えて「翔んでる女」だ(この言葉はもう古いか)。そのうえ男の噂まで出てきたとあっては、謹厳実直な武士であった兄権平は、とても嫁として認めるどころではなかっただろう。坂本家の名を守るためにも追い出すしかなかったというのは、確証はないが、かなり納得できる話だと思う。
 以上、おりょうの言い分を検討してみても、やはり男にまつわるなんらかの事件があり、それが実際どうだったのかはわからないが、高知では噂になって、坂本家を出ることになったのではないか、と考えられる。

 なお柳田泉が「まして若し権平が龍馬にはチャントした許婚の女性があるのだと言ふ事を知つて居たら」と書いている許婚とは千葉佐那(さな)のことである。
 佐那は龍馬が剣を学んだ江戸の北辰一刀流桶町道場主千葉定吉の娘で、剣や薙刀に乗馬もできたという。(千葉定吉は千葉周作の実弟)
 この記事の中で柳田は明治26年9月2日発行の『女学雑誌』に載った「坂本龍馬未亡人を訪ふ」という記事を全文紹介している。こちらの未亡人は千葉佐那のことで、龍馬が千葉道場にいたとき婚約した話などが書かれている。
 文久三年の龍馬から乙女へあてた手紙には、佐那のことが「かほかたち平井より少しよし」「まあ/\今の平井/\」と、書いてある。「平井」は龍馬の友人の妹「平井加尾」のことで、初恋の人とされている。この手紙を見る限り、当時龍馬が佐那に気があったことは間違いない。
 龍馬の乙女への手紙は、こんなふうに開けっぴろげで、いろんなことを書いている。龍馬の性格と姉弟の仲の良さを感じさせる。
 しかし坂本・千葉両家承認のうえ正式に婚約したかどうかは定かでない。
 佐那は終生独身で、「私は、龍馬の許婚者でした」とまわりに語っていたという。東京に住み東京で死んだが、甲府に知人が建てた佐那の墓があり、裏には「坂本龍馬室」と刻まれている。
 龍馬から聞いたことがあったのか、それとも坂崎紫攔の『汗血千里駒』などで後から知ったのかわからないが、おりょうは回顧談で、佐那の片思いだったとし、佐那の悪口を言っている。

 

|

« おりょうの言い分2 | トップページ | ふしぎな岬の物語 »

なむや文庫雑録」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: おりょうの言い分3:

« おりょうの言い分2 | トップページ | ふしぎな岬の物語 »