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2015年1月

2015年1月29日 (木)

潮来

 龍正院のあとは、潮来で昼食となりました。潮来へ行くとは思ってもいなかったけれど、地図を見てみると、なるほど、ちょっとだけ回り道をすれば、銚子円福寺へ行く途中にあります。
 それから地図を見てわかるのは、銚子の周辺は高速道路が通ってないということ。銚子は、はずれといっても千葉県だからすぐ行けるんじゃないかと思っていたけれど、予想外に時間がかかりました。一般道路と高速道路のちがいです。「銚子連絡道路の早期建設を!」という看板をあちこちで見かけました。

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 潮来と言えば当然、「潮来の伊太郎」に「潮来花嫁さん」だと、わたしなどは思います。他の客も当然知っていると思われる歳ばかりですが、添乗員さんだけは「昔、そういう歌が流行ったそうですね」と言いました。それくらいの歳の差でした。
 潮来花嫁さんが船で行く、用水路のような観光名所も、例によって通り過ぎるだけです。でも、バスの窓から小さな川を眺めるだけで、おまけがひとつついてきたような気がします。あやめ園もまだ緑がちょっとだけで、畑のようにしか見えませんでした。
 

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 昼食会場はホテルですが、閑散としていて、他に客はいないようでした。

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 結婚披露宴の会場のようなところが昼食会場でした。他にもいくつかこんな部屋があるようでしたが、やはり他の客は見えません。

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 今日は銚子まで行くんだから、活きのいい刺身定食かと内心思っていたのですが、海まで行く途中で、川魚の鯉の洗いがメインの弁当でした。ちょっと苦手です。ここのは生臭くなくておいしいということで、歯ごたえも悪くはなかったのですが、苦手感を克服するところまでは行きませんでした。わたしは辛抱強いので、これがなくても我慢できます。

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 食後、売店といっても机の上に名産品を少し並べただけのところで、他の客が従業員の方と話をしているのを漏れ聞きました。
 それによると、このあたり茨城県南部では、子供の七五三に派手な披露宴をやるのだそうです。親戚や近所の人などを招待し、結婚式と同じように披露宴をやる。もちろん祝儀も同じようにやりとりし、引き出物も出す。披露宴の途中で子供が和服から洋装に着替える「お色直し」まであるそうです。
 経費は祖父祖母側が主に負担するらしい。このホテルにとっても、七五三は結婚式と並ぶ重要な収入源だそうです。この風習は、よくテレビでも取り上げられているとのことでしたが、知らなかったのでちょっと驚きました。

 さすがに利根川は大きく立派な川でした。これはホテルの近くの北利根川(常陸利根川)で、霞ヶ浦から流れてきています。ちなみに潮来はこの川の北側ですから茨城県で、川を渡ると千葉県です。

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2015年1月26日 (月)

第二十八番 龍正院

 浅草寺の次は、千葉県成田市にある第二十八番札所、滑河山龍正院(なめかわさん・りゅうしょういん)、滑河観音(なめかわかんのん)です。
 茅葺きで大きな注連縄をつけた仁王門を入ります。立派なものです。

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 この注連縄は龍をあらわしたもので、龍の足として蔦だか木の枝だかが下についているので、上手にくぐらないと帽子をひっかけます。

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 ここの仁王様は、その昔、門前の火事が寺に迫ってくるのを大団扇であおぎ返して防いだという伝説があるそうです。古いけれど強そうです。

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 本堂です。

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 欄間の彫刻や天井の絵もなかなかです。

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 境内には根元から分かれた大きな松の木(夫婦松)があり、側に芭蕉の句碑もありました。
 芭蕉の句は、観音のいらか見やりつ華の雲、というものです。芭蕉が、特にここの観音様を詠んだというものではないようです。

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 このお寺では、お下がりの餅をいただきました。ありがとうございます。後日、うちの奥さんがかき餅にしてくれました。

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 ご詠歌は、

音にきく 滑河寺の 朝日ヶ渕(けさがふち)
あみ衣(ころも)にて すくふなりけり

 この歌は、次のような伝説に基づいています。

 昔、この地が冷害による飢饉で苦しんでいるとき、小田川の朝日(けさ)が淵にあらわれた老僧が、僧衣を網にして小さな観音像をすくい上げ、領主に与え、「この淵より湧く乳水をなめよ」と教えた。そのお告げのとおりにすると、五穀は実り、人々は救われた。この小さな観音像は後にこの寺の本尊の胎内に納められた。

 浅草寺の本尊も、漁師の網にかかった小さな観音像だというのは有名な話です。仏像が網にかかるというのはよくある話のようで、この次に行った銚子の円福寺もそうでした。

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2015年1月22日 (木)

再び浅草寺

 1月9日、また坂東33カ所のバスツアーに行ってきました。千葉の銚子成田に、すでに行った浅草寺も含まれています。(→第十三番 浅草寺

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 まだ正月気分なので、浅草寺は巡礼より初詣のつもりです。バスが着いたのは朝8時50分頃。バスは本堂の脇の方にある二天門の近くで降りました。

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 浅草神社の前を通って本堂へ向かいます。

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 境内にまだ人はまばらで、屋台店も開店準備にとりかかったところです。

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 本堂の前まで来ても、まだ人は少なく、ゆっくり見られました。

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 ここへは何度か来ましたが、いつ来ても人でごった返していて、ゆっくりまわりを見たことはありませんでした。先達さんに教えられて天井を見ると天女などの絵がありました。今までは上を見上げるゆとりもなく、急いでお参りをすませて次へ行っていたことに気づきました。内陣でおつとめをしました。

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 影向堂(ようごうどう)には、十二支それぞれの守り本尊がありました。

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 今まで見たことのなかった、喜劇人の碑映画弁士塚を見て来ました。

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 曽我廼家五九郎(そがのやごくろう)の碑は「群盲撫象」の文字と「ノンキな父さん」の絵。さすがにこれはよく知りません。石井漠「山を登る」記念碑というのもありました。日本の創作舞踊の創始者で、近代バレエの創造、浅草オペラの旗揚げなどの活動をした人だそうです。

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 あそこへ行かないと浅草へ来た気がしない、と同行者の何人かは雷門へ向かいました。それもそうだ。ちょっと遠いけれど、わたしも行きました。ここで写真をとると、浅草訪問の決定的証拠になります。

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 仲見世は、開店作業をしている最中でした。だんだん人が増えていきます。

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 また本堂の方へ戻り、先ほど前を通り過ぎた浅草神社にもお参りしてきました。
 浅草神社は、三社権現(さんじゃごんげん)、三社様(さんじゃさま)といって、三社祭の行われるところです。この三社様というのが、浅草寺の本尊の観音様を川から拾い上げた漁師の兄弟と、それを祀った人の三人ということですから、もともと浅草寺と一体のものでした。それが明治の神仏分離により別になったものです。

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 出発の集合時間9時50分には、もう大勢の人出になっていました。外国人らしい団体客もたくさんきました。
 こういう有名な観光地は、朝の早い時間に来るとゆっくり見られると実感しました。

 納経帳は、前回いただいてあるので、今回はありません。

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2015年1月19日 (月)

秀吉の妻は「ねね」か「おね」か

 もうけっこう前のことになるが、NHKの大河ドラマで、豊臣秀吉の妻が「おね」と呼ばれていて驚いた。子供のころからずっと「ねね」という名前だとされてきたのに、いつから「おね」になったのか。なんらかの理由で「おね」が正しいということになったんだろうけれど、どういう発見や学説によって変更されたのか、よくわからなかった。(どうもこれは平成8年(1996)の「秀吉」竹中直人が秀吉、「おね」は沢口靖子)のときのことらしい。)
 「おね」という名前には違和感があった。「ねね」に慣れていたからというだけでなく、「お」が愛称をあらわす接頭辞だとすれば、名前は「」だということになる。そんな変な、仮名一字だけの名前があるのか、疑問だった。

 だいぶ後になってから、角田文衛(つのだ・ぶんえい)の『日本の女性名 中』(1987、教育社歴史新書)を見て、事情が判明した。
 戦国時代を中心にたくさんの一般向け著書があって有名な桑田忠親が、秀吉の妻=北政所の手紙はみな、「」と署名されているから、「」または「おね」が正しいと言い出したのだ。
 しかし、角田文衛はそれはちがう、やはり「ねね」が正しいと主張している。

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禰々については、桑田忠親博士(一九〇二~一九八七)のすぐれた研究がある。ただ博士は、彼女の名はねね(下線部は原文では傍点、以下同じ)ではなく、またはおね)が正しいとされたのは、この碩学の千慮の一失であった。すなわち博士は、

この定利の次女をおねという。これが、のちの北政所なのだ。このおねのことを、俗に、「おねゝ」といっているが、これは『絵本太閤記』の誤記である。北政所の自筆の消息には、みな、「ね」と署名している。そして、秀吉の自筆消息の宛名には、「おね」としている。「ね」か「おね」が正しい。『木下家譜』や『寛政重収家譜』には、「寧子」と書いている。ただ、『高台寺文書』には、「吉子」としてある。

と述べられている。
 当代の女性は、消息に名の一文字を自署する場合が多かった。桑田博士は、細川元侯爵家に伝世した明智たま(ガラシヤ)の消息を解説されているが、この消息の上書(うわがき)に彼女は、「た」とのみ自署している。
 近年、岐阜市佐野の栄昌院(尼寺)では、将軍・秀忠の正室・おごう(小督、諱は達子)が姉の常高院(字ははつ。諱は、藤子。京極家の高次の妻)に宛てた消息二通が発見された。ここにかかげたのは、その一通であるが、二通ともおごうは、「五」と自署しているのである。このやり方は、女性が署名する場合の慣用であって、秀吉の正妻が「ね」と署名したのは、慣用に従ったにすぎず、それは彼女の名が「ね」であったことを指証するものではない。
(中略)
文禄二年(一五九三〕三月ごろ、正妻に宛てた秀吉の自筆消息には、「ねもじ」とみえるが、これは「ねゝ」に対する略称であって、彼女の名が「ね」であったことを証指してはいない。また、「おねへ」という宛名は、愛称である。これらを採り上げて、秀吉の正妻は、「ね」または「おね」という名であったなどと帰結するのは失当と認められるのである。
 禰々(女)という女性名は、鎌倉時代ごろから現れた名であるが、平安時代末葉に存した可能性が多い。その後、ねねは連綿と続いており(上巻三四四頁、参照)、桃山時代にはごくありふれた名となっていた。他方、とかおねといった女性名は、室町時代にも桃山時代にも全く検出されない。それゆえ、秀吉の正妻の名は、従来言われているとおり、ねゝ(禰々)であったと認むべきである。
 桑田博士が指摘されたように、ねゝは諱を寧子、吉子といった。諱がなければ叙位されないが、彼女は初め寧子(やすこ)、のちの叙位にさいしては吉子と改めたのであろう。(『日本の女性名 中』、1987、教育社歴史新書、p134~137)

 角田の論証にはゆるぎがない。
 桑田説の根拠である「ね」一文字の署名は、一文字の名前だったからではなく、名前の上の一文字を署名するのが、当時の女性の一般的な慣用だったからだ。現に、桑田自身がとりあげた細川ガラシア夫人だって「た」と署名しているが、名前は「たま」だ。「お江の方」は「五」と署名した。「た」や「ご」という名前だったわけではない。秀吉が「おねへ」と書いたのは単なる愛称だ。そもそも「ねね」という名前はいっぱいあったが、「ね」とか「おね」という名前は他にない。
 というわけで、文句なく「ねね」に軍配が上がる。
 今回、この主張がされている桑田忠親の『豊臣秀吉研究』(角川書店、1975)を見てみたが、「おね」という名前については、角田の引用に含まれている文章がすべてで、これ以上の論拠は見あたらなかった。(同書p579)

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 ところが、NHKはその後も、ずっと「おね」のままで、去年の大河ドラマ「黒田官兵衛」もそうだった。先日見た映画「清須会議」では「寧(ねい)」として、「お寧」と呼ばせていた。
 みんな『日本の女性名』を読んでいないのか。どうも納得がいかない。わたしは「ねね」が正しいと思う。
 桑田は大河ドラマの時代考証をやっていたそうだけれど、ドラマで実際に「おね」になったのは、桑田の死後のようだから、桑田が強く主張して、ということでもなさそうだ。
 「ねね」に戻すべきではなかろうか。朝日新聞の例もあることだし、間違いに気づいたら早く改めたほうがいい。
 それとも他に何か「おね」と主張する根拠があるのだろうか。ご存じの方はご教示ください。

 『日本の女性名』(上中下、1980~1988、教育社歴史新書)は、古代から昭和まで、膨大な史料から女性名を集めて、時代ごとの特徴や傾向・変遷などを比較研究した労作である。(2006年、国書刊行会から復刊されている。)

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 この本については、丸谷才一がこう言っている。

丸谷 ぼくは、角田さんの『日本の女性名』という本の書評を書きましてね、絶賛したんです。「これは。蝶の好きな蝶類学者が蝶類図鑑を編纂して、それが完成したようなものであって、女が大好きな歴史学者が、日本の女の名前についての集大成を行ったものである」と。(『日本史を読む』、山崎正和との対談本、2001、中公文庫、p64)

 名前だけが何頁も続いていたりする本なので、全部読み通しているわけではないが、ところどころつまみ読みするだけで、けっこうおもしろい。
 例えば、平安時代の「×子」型の女性名は音読してはならない、と書いてある。

 これらの「×子」型の女性名は、すべて訓読されたのであって、たとえば、「成子」をセイシ(音読み)、「徳子」をトクコ(湯桶(ゆとう)読み)などと読むのは、誤りもまたはなはだしい。江戸時代末から明治時代の学者は、「成子」は、ナリコ、シゲコ、ナルコ、ヒラコ等々幾通りもの訓みがあり、個々の場合、明確に決定できないという理由から、×子型の女性名を音読する不都合な慣例を作った。そしてこの悪弊は、今日なお固執されている。貞子は、サダコ、タダコなどの訓みがあり、個々の場合、必ずしも真実の訓みを知りがたいが、テイシと発音されなかったことだけは確かである。(『日本の女性名 上』、p172)

 昔、学校でならった、紫式部は皇后彰子(ショウシ)に仕え、清少納言は中宮定子(テイシ)に仕えた、というのは間違いで、「アキコ」「サダコ」と読むのが正しいらしい。「慧子」「明子」は「アキラケイコ」、「直子」は「ナホイコ」、「高子」は「タカイコ」と読んだという。音読みは学者の慣習にすぎないのなら、ちゃんと学校でもそう教えてくれなければ、と思う。
 明治から昭和の部分は簡単なまとめだけになっている。角田文衛は2008年に亡くなった。現代の「キラキラネーム」の流行を見たら、どう分析し、何と言ったことだろう。

 

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2015年1月15日 (木)

映画「清須会議」

 昨年12月にテレビで放映された映画「清須会議(きよすかいぎ)」を見た。これがとてもおもしろかった。
 清須会議は、天正10年(1582)実際に開かれた、織田信長死後の織田家の後継問題と領地再分配に関する会議である。この会議の後、それまで織田家の重臣筆頭であった柴田勝家の勢力が低下し、明智光秀を討った羽柴秀吉が家中での実権を握るようになった。秀吉が天下取りの第一歩を踏み出した会議で、対立した勝家は、翌年の賤ヶ岳の戦いで秀吉に破れた。

 小説「清須会議」(三谷幸喜(みたにこうき)、幻冬舎文庫、2013)のカバーにはこう書かれている。

信長亡きあと、清須城を舞台に、歴史を動かす心理戦が始まった。 猪突猛進な柴田勝家、用意周到な羽柴秀吉。情と利の間で揺れる、丹羽長秀、池田恒興ら武将たち。 愛憎を抱え、陰でじっと見守る、お市、寧、松姫ら女たち。 キャスティング・ボートを握るのは誰なのか?五日間の攻防を現代語訳で綴る、笑いとドラマに満ちた傑作時代小説。

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 この小説を三谷幸喜自身の監督で映画化したのが映画「清須会議」である。映画を見た後、小説も読んでみた。登場人物の現代語のモノローグで話が展開していく。おもしろいけれど、はじめから舞台化あるいは映画化するつもりで書かれたもののようだ。映画の方がおもしろい。

 軽快なテンポの喜劇として話が進行するので、史実がどうこうという問題ははじめから無視して見られる。なにしろ後継者選びの一環として、リレーの旗取り競争(小説ではイノシシ狩り)が行われたりする。
 基本のストーリーは、愚直で純朴な武人柴田勝家(役所広司)は、狡猾で手練手管にたけた羽柴秀吉(大泉洋)に丸めこまれ、織田家のナンバー2で勝家の親友丹羽長秀(小日向文世)も、織田家の将来や天下の経営を考えたら、そういう点では凡庸な勝家より秀吉に加担せざるをえなくなるという話。これにお市の方(鈴木京香)の秀吉への恨み(夫浅井長政を殺された)と勝家・秀吉二人のお市の方への思慕がからむ。
 冒頭の本能寺から光秀の死へと、テンポよく進行して、ずっと余計な字幕やナレーションは入らないが、状況はよくわかる。
 なにより主だった登場人物のセリフの切れがよく,、明瞭なのが気持ちいい。言っていることがよくわかるというのはあたりまえだけれど、そうではない俳優もけっこういる。主役の役所をはじめ舞台での経験が豊富な役者が多いからだろうか。
 セリフと言えば、なぜか秀吉の妻お寧(中谷美紀)はじめ秀吉の一家だけは名古屋弁でしゃべっていた。(これが尾張出身のわたしが合格を出してもいいくらいのできである。よくがんばりました。)勝家も丹羽長秀もまわりにいた前田利家たち登場人物のほとんどが尾張の出身なんだから、本当はみんな名古屋弁でしゃべっていたはずである。勝家・秀吉あこがれの美女お市の方だって名古屋弁だ。
 それを秀吉一家だけ名古屋弁にすることで、秀吉の成り上がりぶり、庶民性、土着性みたいなものが際だって感じられ、なるほど、そういう演出かと感心した。もっとも全員で名古屋弁をしゃべったら、名古屋周辺以外では話がわからず、全国上映ができなくなる。小説ではみんな標準語でつぶやいている。
 

 キャストが豪華だ。上記人物に加え、池田恒興(佐藤浩市)、織田信長(篠井英介)、織田三十郎=信長の弟(伊勢谷友介)、織田信雄=信長の次男、バカ殿(妻夫木聡)、松姫=信長の長男・信忠の妻(剛力彩芽)、黒田官兵衛(寺島進)、前田利家(浅野忠信)といったところが出演している。

Photo_10     (映画になったので文庫本についた二枚目のカバー)

 織田一族は、メーキャップもあってか、みんな顔立ちがよく似ていた。特に信長の篠井英介が、肖像画の信長に実によく似ていて驚いた。
 女優陣のメーキャップも凄い。お市の方鈴木京香は、眉を剃ってお歯黒をつけて出て来た。これが恐い。お歯黒も見慣れれば「陰翳礼賛」みたいな話になるのかもしれないが、見慣れないので、これで微笑まれると不気味で恐い。よくこの顔で出演した、鈴木京香えらい。
 映画にお歯黒で出演した最後の女優は、黒澤明の「椿三十郎」で家老の奥方役の入江たか子だという話があったが、鈴木京香は記録を更新した。そういえば黒澤の「蜘蛛巣城」の奥方の山田五十鈴もお歯黒をしていて恐かった。
 松姫剛力彩芽は、眉を剃った結果、誰だかわからない顔になってしまったのがおかしい。
 お寧中谷美紀は、逆に眉を太く描いて、名古屋の田舎のおばさんを陽気に演じて、なかなかよかった。

 清洲城のまわりは青々とした田園が広がっていた。あんまり青かったから、あれはCGかもしれないが、その尾張平野の一角にわたしは育った。なんとなくうれしかった。この1月2日には、帰省ついでに、あまり感心していなかったコンクリート造りの清洲城を見に行った。
 というわけで、楽しみどころの多い、おもしろい映画だった。また三谷幸喜の芝居や映画を見てみようと思う。

 

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2015年1月12日 (月)

清洲城

 1月2日、清洲城(きよすじょう)を見に行った。わたしの育った町からはJRで三駅、名古屋へ行く途中にある。ここは昔から、「清須」と「清洲」の両方の表記が使われていて、昔の町名は「清洲町」だったが、近年合併で「清須市」になった。駅名は「清洲」のままだ。

 

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 高校時代、JRで名古屋まで通っていたので、一度、途中下車で降りたことがあった。わたしの町と同じ、何もない駅前だった。それが今も変わっていないのが、変になつかしかった。当時は城跡があるだけで、城はなかった。
 並行して走る名鉄本線の駅前の方がにぎやかな中心駅になっているそうだから、そこもわが町と同じで、なんとなく親しみを覚える。

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 清洲城まで徒歩で十五分ほどかかる。ときどき雪がちらついたが、だんだんあがっていった。
 平成元年(1989)に再建されたコンクリート造りの城である。このあたりにはそんなに大きな建物はないので、JR東海道線で側を通過すると、橋の赤色がよく目立って見える。派手なものを造ったな、信長当時はこんな城じゃなかっただろう、観光のために変なものを造ったなと、実はちょっと苦々しく思っていた。だからこれまで通り過ぎるだけで、来たことはなかった。

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 それを今回行く気になったのは、12月にテレビで映画「清須会議」をやったから。映画館で見損ねていたので、録画しておいて見たらとてもおもしろかった。映画にこの城がそのまま出てくるわけではないが、ちょっと現場を見ておこうか、という気になった。
 思っていたより立派な城だ。雪が少しある。

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 解説によれば、やはり信長時代はこんな天守閣などなく、平城だったようだ。信長死後、次男織田信雄(のぶかつ)の居城として天守閣も造ったらしい。当時はここが尾張の中心地で、城下町も非常に繁栄していた。その頃の城がこのとおりだったかは、よくわからない。
 徳川家康が関ヶ原を制した後、尾張の本拠地を移すことになり、城を壊して住民もろとも町ごと名古屋に引っ越したのが、「清須越(きよすごし)」である。これがなければここが県都になっていたかもしれないが、湿地帯であるうえ、攻められたとき守りにくいというのが移転の理由だったらしい。

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 城の中は、よくある観光城で、鎧や遺物などが展示されている。目立ったのがNHKの大河ドラマ関係の展示だ。戦国ものに信長はかかせないので、清洲城は何度も大河ドラマに関係している。それとビデオによる短時間の解説が各階にあって、見ているとけっこうよくわかる。
 天守からわが町のある岐阜方面を見た。案内板によれば右奧に御嶽山、乗鞍、左には岐阜城がある筈だが、あいにくの天気で何も見えない。
 映画「清須会議」ではまわりに青々とした尾張平野が広がっていたが、そうもいかない。まわりには工場が多い。ただ、このあたり一面、ずっと平らなことはわかる。高速道路や鉄道のなかった昔はもっとずっと広く見えたんだろうな、ちょっと想像した。

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 城から出ると、入る時にはいなかった鎧武者が入口前に座っていた。せっかくなので写真をとらせてもらった。

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 最後に、この武者入りで城の写真をもう一枚とった。

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 今出来のコンクリートの城は…と思っていたが、けっこう楽しませてもらった。

 お城も、チケット、パンフレットとも「清洲城」になっていた。

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2015年1月 8日 (木)

姉の傘寿祝

1月1日は愛知県の実家で、正月をかねて姉の傘寿の祝いがありました。姉は今年の誕生日で満八十歳になります。わたしより一回り上です。
 兄弟は今では三人です。本来は五人だったのですが、姉のすぐ下の次女が幼いころに亡くなっており、次男の兄が2011年の秋に亡くなりました。

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 姉とは一回り違うので、わたしは幼いころずいぶん面倒を見てもらったようです。うちは商売をやっていたので、中学校から帰ると毎日わたしをおんぶして、三つ上の兄の手を引いて、子守をさせられていたといいます。その頃の記憶はありませんが、この話があるのでずっと頭があがりません。

 わたしが小学校三年か四年の頃、姉は近在の市へお嫁に行きました。
 この尾張地方の当時の風習に、花嫁が嫁入り衣装に着飾って家から出て行く時、集まってきた近所のひとたちに、家の屋根からたくさんのお菓子を投げる「菓子まき」がありました。まかれるのは主に駄菓子です。
 「よーめりよー(嫁入りよう)、菓子おくれ(or まけよ?)」という囃し言葉があったのを覚えています。これは拾う側の、早く菓子をまけという催促だったのでしょうか。
 わが家でも菓子をまきました。叔父達が屋根に登ってまいていた記憶があります。おおぜい人が集まって必死で拾っていました。
 
 この頃はお菓子を一つずつバラでまいていたと思います。当時ポリ袋なんかありませんでした。その後、地面に落ちても大丈夫なように菓子まき用の袋詰めができて、それを袋ごとまいたり、まかないで直接近所にくばったりするようになりました。まかなくなったのは、拾う側の菓子の争奪戦がかなり危険なものだったからでしょう。
 この風習はだいぶすたれたとはいえ、まだ残っているようです。Youtubeにはこんな画像がありました。
https://www.youtube.com/watch?v=BX3WNRF60oU

 兄たちは、姉がお嫁に行ってしまうのが悲しかったようです。しかし、わたしが覚えているのは姉のことより、菓子まきのときの近所の友達に対する誇らしい気持ち、どうだ凄いだろう、たくさんまいてるぞ、うちがまいてるんだぞといばって、高揚していた気持ちだけです。(もちろん近所の子どもたちはみんな菓子を拾いに来ていました。)
 女の子なら別れが悲しかったり、姉の花嫁姿の美しさを記憶にとどめたりするんでしょうが、このくらいの男の子というのは、ほんとにしょうがなくて、こんなことしか考えていないものなのです。(と、わたし個人ではなく、一般的な話にしておこう。)

 お嫁に行った後も近い所に住んでいたので、なにかとお世話になりました。それに、ずっと母の愚痴の一番の聞き役だったと思います。親の言うことを聞かないバカな弟達の悪口をいっぱい聞かされていたのではないでしょうか。本当にありがとうございました。身体の方は、歳が歳なのでいろいろあるようだけれど、どうか大事にして長生きしてください。

 姉の長女の一家も来てくれました。下の女の子はこの春大学卒業で、就職も決まっているそうです。これもおめでたい。兄の子どもたちも名古屋と沖縄とタイから集まって、にぎやかな正月でした。
 去年の正月は兄の叙勲祝いをかねてやりました。来年も何かお祝いできるでしょうか。

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 この日は、朝からときどき雪がちらちらしていましたが、昼すぎにはあがっていたので、 氏神様の籠守勝手神社(こもりかってじんじゃ)へ初詣に行ってきました。来年もよろしくとお願いしてきました。

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 翌日、二日の朝はこんなになっていました。

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2015年1月 5日 (月)

年末の南無谷

 12月27日~29日で南無谷へ行ってきました。例年11月中には終えているビワの花もぎ(摘花)をまだやっていませんでした。あれこれしているうちに暮れになってしまいました。天気予報では28日は雨がふりそうだし、寒いけれど、ともかくやらなければと出かけました。

 前回心配したアシナガバチの巣はもう用済みになったようで、ハチの姿は見えず、巣自体も枯れてしぼんでいました。(→ハチ難去ってまたハチ難

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 ハチの巣の上には、大きなソテツの雌花が咲いて、こんなにたくさん実をつけています。猛々しいと感じるくらいです。ソテツは強い。切っても切っても伸びてきます。

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 庭の雑草もさすがにこの季節は枯れているので、夏のように目立つことはありません。今年はいつもより早く、あちこちでスイセンが咲き始めていました。

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 バラのつぼみがありまいた。

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 ビワはずっと放って置いたので、たくさんの花がついたまま枯れて、こんな状態になっています。

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 中にはまだ花が残って入るものもあり、そろそろ実がふくらみはじめているものもあります。

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 でもほとんどは、一房に百個ぐらいの花がそのまま枯れた状態です。早く花もぎ(摘花)をしてやらないと、大きく甘い実が育ちません。本来11月中には終わらせるべき作業です。

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 着いた27日は寒くて風が強く、脚立の上で足が冷たくなったりして、ちょっとつらいところもありました。28日は風がなく、おだやかに晴れて作業がはかどり、なんとか終えることができました。
 花もぎについては前に何度も書きました。興味がある方はこちらをどうぞ→ビワの花もぎ 。

 11月中に来て収穫するつもりだった温州ミカンは、ほとんどを鳥にやられていました。残っているのはほんのわずか。

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 うちの奥さんは「百個ぐらいあったのに」と言っていましたが、ずっと来なかったので仕方ありません。ミカン農家でも明日あたり収穫しようかと思っていたらその日のうちに全部喰われてしまうようなことがあるそうです。熟して食べ頃になったのが鳥にはちゃんとわかるようです。
 残念ながら収穫はこれだけでした。(真ん中はレモン)

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 そのほかの柑橘類。早生ミカン、夏ミカン

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 甘夏、レモン。

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 そして今年から収穫物のひとつになったキウイです。これはなんとか残っていました。ちゃんと食べられるかどうかはともかく全部取りました。

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 市販のものより二回りぐらい小さい。肥料とか水とかちゃんとやれば、もっと大きなのが穫れるでしょうか。

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 三日目の29日は朝から雨になってしまい、外の作業はほとんどできないまま帰りました。それでもなんとかビワの花もぎは終えました。例年1月にやっている施肥も、また1月に来ようとは思ってはいるけれど、もう歳の暮だし、この際やってきました。これで3月の摘果・袋かけまではなんとかなるでしょう。

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2015年1月 1日 (木)

謹賀新年2015

2015

 上のペーパークラフト「迷える子羊」は下記のページから展開図をダウンロードして作ったものです。作者の坂啓典さん、ありがとうございます。
http://www.zuko.to/kobo/down-f/sheep.html

 自分でこんなものも書いてみましたが、感心できません。でも何十年ぶりかで墨をすって書いたので、ここに載せておくことにします。

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 去年はこのブログを二日おき、三日に一度更新してきました。曜日がとびとびで自分でもわかりにくいので、今年は月曜と木曜の週二回と決めて更新していくことにします。
 1月5日(月)からはじめます。

 今年もよろしくお願いします。

 

 

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