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2015年1月19日 (月)

秀吉の妻は「ねね」か「おね」か

 もうけっこう前のことになるが、NHKの大河ドラマで、豊臣秀吉の妻が「おね」と呼ばれていて驚いた。子供のころからずっと「ねね」という名前だとされてきたのに、いつから「おね」になったのか。なんらかの理由で「おね」が正しいということになったんだろうけれど、どういう発見や学説によって変更されたのか、よくわからなかった。(どうもこれは平成8年(1996)の「秀吉」竹中直人が秀吉、「おね」は沢口靖子)のときのことらしい。)
 「おね」という名前には違和感があった。「ねね」に慣れていたからというだけでなく、「お」が愛称をあらわす接頭辞だとすれば、名前は「」だということになる。そんな変な、仮名一字だけの名前があるのか、疑問だった。

 だいぶ後になってから、角田文衛(つのだ・ぶんえい)の『日本の女性名 中』(1987、教育社歴史新書)を見て、事情が判明した。
 戦国時代を中心にたくさんの一般向け著書があって有名な桑田忠親が、秀吉の妻=北政所の手紙はみな、「」と署名されているから、「」または「おね」が正しいと言い出したのだ。
 しかし、角田文衛はそれはちがう、やはり「ねね」が正しいと主張している。

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禰々については、桑田忠親博士(一九〇二~一九八七)のすぐれた研究がある。ただ博士は、彼女の名はねね(下線部は原文では傍点、以下同じ)ではなく、またはおね)が正しいとされたのは、この碩学の千慮の一失であった。すなわち博士は、

この定利の次女をおねという。これが、のちの北政所なのだ。このおねのことを、俗に、「おねゝ」といっているが、これは『絵本太閤記』の誤記である。北政所の自筆の消息には、みな、「ね」と署名している。そして、秀吉の自筆消息の宛名には、「おね」としている。「ね」か「おね」が正しい。『木下家譜』や『寛政重収家譜』には、「寧子」と書いている。ただ、『高台寺文書』には、「吉子」としてある。

と述べられている。
 当代の女性は、消息に名の一文字を自署する場合が多かった。桑田博士は、細川元侯爵家に伝世した明智たま(ガラシヤ)の消息を解説されているが、この消息の上書(うわがき)に彼女は、「た」とのみ自署している。
 近年、岐阜市佐野の栄昌院(尼寺)では、将軍・秀忠の正室・おごう(小督、諱は達子)が姉の常高院(字ははつ。諱は、藤子。京極家の高次の妻)に宛てた消息二通が発見された。ここにかかげたのは、その一通であるが、二通ともおごうは、「五」と自署しているのである。このやり方は、女性が署名する場合の慣用であって、秀吉の正妻が「ね」と署名したのは、慣用に従ったにすぎず、それは彼女の名が「ね」であったことを指証するものではない。
(中略)
文禄二年(一五九三〕三月ごろ、正妻に宛てた秀吉の自筆消息には、「ねもじ」とみえるが、これは「ねゝ」に対する略称であって、彼女の名が「ね」であったことを証指してはいない。また、「おねへ」という宛名は、愛称である。これらを採り上げて、秀吉の正妻は、「ね」または「おね」という名であったなどと帰結するのは失当と認められるのである。
 禰々(女)という女性名は、鎌倉時代ごろから現れた名であるが、平安時代末葉に存した可能性が多い。その後、ねねは連綿と続いており(上巻三四四頁、参照)、桃山時代にはごくありふれた名となっていた。他方、とかおねといった女性名は、室町時代にも桃山時代にも全く検出されない。それゆえ、秀吉の正妻の名は、従来言われているとおり、ねゝ(禰々)であったと認むべきである。
 桑田博士が指摘されたように、ねゝは諱を寧子、吉子といった。諱がなければ叙位されないが、彼女は初め寧子(やすこ)、のちの叙位にさいしては吉子と改めたのであろう。(『日本の女性名 中』、1987、教育社歴史新書、p134~137)

 角田の論証にはゆるぎがない。
 桑田説の根拠である「ね」一文字の署名は、一文字の名前だったからではなく、名前の上の一文字を署名するのが、当時の女性の一般的な慣用だったからだ。現に、桑田自身がとりあげた細川ガラシア夫人だって「た」と署名しているが、名前は「たま」だ。「お江の方」は「五」と署名した。「た」や「ご」という名前だったわけではない。秀吉が「おねへ」と書いたのは単なる愛称だ。そもそも「ねね」という名前はいっぱいあったが、「ね」とか「おね」という名前は他にない。
 というわけで、文句なく「ねね」に軍配が上がる。
 今回、この主張がされている桑田忠親の『豊臣秀吉研究』(角川書店、1975)を見てみたが、「おね」という名前については、角田の引用に含まれている文章がすべてで、これ以上の論拠は見あたらなかった。(同書p579)

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 ところが、NHKはその後も、ずっと「おね」のままで、去年の大河ドラマ「黒田官兵衛」もそうだった。先日見た映画「清須会議」では「寧(ねい)」として、「お寧」と呼ばせていた。
 みんな『日本の女性名』を読んでいないのか。どうも納得がいかない。わたしは「ねね」が正しいと思う。
 桑田は大河ドラマの時代考証をやっていたそうだけれど、ドラマで実際に「おね」になったのは、桑田の死後のようだから、桑田が強く主張して、ということでもなさそうだ。
 「ねね」に戻すべきではなかろうか。朝日新聞の例もあることだし、間違いに気づいたら早く改めたほうがいい。
 それとも他に何か「おね」と主張する根拠があるのだろうか。ご存じの方はご教示ください。

 『日本の女性名』(上中下、1980~1988、教育社歴史新書)は、古代から昭和まで、膨大な史料から女性名を集めて、時代ごとの特徴や傾向・変遷などを比較研究した労作である。(2006年、国書刊行会から復刊されている。)

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 この本については、丸谷才一がこう言っている。

丸谷 ぼくは、角田さんの『日本の女性名』という本の書評を書きましてね、絶賛したんです。「これは。蝶の好きな蝶類学者が蝶類図鑑を編纂して、それが完成したようなものであって、女が大好きな歴史学者が、日本の女の名前についての集大成を行ったものである」と。(『日本史を読む』、山崎正和との対談本、2001、中公文庫、p64)

 名前だけが何頁も続いていたりする本なので、全部読み通しているわけではないが、ところどころつまみ読みするだけで、けっこうおもしろい。
 例えば、平安時代の「×子」型の女性名は音読してはならない、と書いてある。

 これらの「×子」型の女性名は、すべて訓読されたのであって、たとえば、「成子」をセイシ(音読み)、「徳子」をトクコ(湯桶(ゆとう)読み)などと読むのは、誤りもまたはなはだしい。江戸時代末から明治時代の学者は、「成子」は、ナリコ、シゲコ、ナルコ、ヒラコ等々幾通りもの訓みがあり、個々の場合、明確に決定できないという理由から、×子型の女性名を音読する不都合な慣例を作った。そしてこの悪弊は、今日なお固執されている。貞子は、サダコ、タダコなどの訓みがあり、個々の場合、必ずしも真実の訓みを知りがたいが、テイシと発音されなかったことだけは確かである。(『日本の女性名 上』、p172)

 昔、学校でならった、紫式部は皇后彰子(ショウシ)に仕え、清少納言は中宮定子(テイシ)に仕えた、というのは間違いで、「アキコ」「サダコ」と読むのが正しいらしい。「慧子」「明子」は「アキラケイコ」、「直子」は「ナホイコ」、「高子」は「タカイコ」と読んだという。音読みは学者の慣習にすぎないのなら、ちゃんと学校でもそう教えてくれなければ、と思う。
 明治から昭和の部分は簡単なまとめだけになっている。角田文衛は2008年に亡くなった。現代の「キラキラネーム」の流行を見たら、どう分析し、何と言ったことだろう。

 

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