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2015年2月

2015年2月26日 (木)

第三十三番 那古寺 結願

 九十九里に近いいすみ市から館山まで、海岸沿いを行くのかと思っていたら、バスは行きに通ってきた圏央道をそのまま木更津まで戻って、館山自動車道へ入りました。海岸沿いの一般道路だと眺めはいいけれど、ずいぶん時間がかかったことでしょう。高速道路は早い。12時頃にはもう館山へ着いて、「漁師料理たてやま」へ入りました。
 南無谷にいるとき、ちょっとした買物には館山まで来ています。その買物先のひとつの大きなホームセンターのすぐ近くで、入ったことはありませんでしたが、前を通るたびに「30センチの大エビ天丼」という看板が気になっていました。

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 われわれ一行を含め観光バス4台がいっせいに昼食休憩にやってきて、食堂内はまさにわんわんと音が響く盛況でした。味噌汁や茶椀むしがぬるかったのは、それだけの量をいっせいに出すために前から準備しなければならなかったせいでしょう。われわれが一番遅かったので、食べ終わった頃にはほとんど他の客はいなくなって静かになっていたのが、なにか不思議でした。
 残念ながら昼食は大エビ天丼ではなく、すし定食でした。このあたりでは、魚は繊細に料理するものではなく、新鮮で大量が売り物です。

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 さていよいよ三十三番札所、千葉県館山市の補陀洛山那古寺(ふだらくさんなごじ、那古観音) へ向かいます。前回の地図を見てもらうとわかりますが、南無谷のすぐ近くです。だから南無谷へ来はじめた頃、周辺見物のひとつとして来たことがあり、巡礼をはじめてすぐにも来ました(→第三十三番 那古寺)。なんとなくなじみのあるような感じで、改まって参拝でもないような気もしますが、何と言っても今日は三十三カ所巡礼結願の日です。
 それに、そもそも巡礼をやってみようかと思いたったのは、この那古寺が、三十三カ所の最後の札所になっていると知ったことからでした。(→板東三十三カ所巡礼
 バスが出発してしばらくしてから、先達さんがこう言いました。、
「みなさんの納経帳を見せてもらったら、一番長い人は、五年ほどかけて今日の結願を迎えていらっしゃいます。」
 ほうー、感心な人もいるんだな、と思ったあと、ひょっとすると、それってわたしのことじゃないかと気がつきました。第一番の杉本寺へ行ったのが平成22年(2010)6月ですから、五年近くになります。
 その後、神奈川県内の近いところは行ったものの、遠いところはそのままになっていたのを、地元発のバスツアーができたのを幸い、適当にぽつりぽつりとまた出掛けるようになりました。のんびりと年に一、二回行けばいいやとかまえていました。それが地元発がなくなるというので、昨年末から急遽追い込みにかかって、地元発最後の結願ツアーになんとか間に合わせたところでした。
 感心するほどのことではありませんが、あれから五年かかったんだと、あらためて思いました。
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 境内は、あちこち工事中だったので、仁王門、多宝塔は前回(→第三十三番 那古寺)の写真をごらんください。

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 本堂の正面は海です。

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 館山湾が目の前に広がっています。靜かなことから「鏡ヶ浦」と呼ばれています。対岸は三浦半島です。もう少し高いところから見ると、南房総と三浦半島がすぐ近いことがよくわかります。昔、この寺は山の上にあったのですが、元禄年間の大地震で全壊し、山の下の現在の位置に移転したものだそうです。
 
 坂東三十三カ所巡礼は、鎌倉時代に起こったとされ、鎌倉を起点として関東一円をまわり、最後に千葉県をめぐって、この那古寺で終わっています。この海のすぐ向こうが三浦半島で、鎌倉へ戻る大きな円が完結するということでしょうか。
 

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 ご詠歌は、

補陀洛は よそにはあらじ 那古の寺
岸うつ浪を 見るにつけても

 この歌について、『観音霊場記』にはこうあります。

愚訥この山の地景を見るに、経説の補陀洛に相似たり。山高く海岸に聳へ、山下は南海の潮にひたり、昼夜に岸打つ浪の音は、梵音海潮音の響きにして、まことに余所に求むべきに非ず。大悲の浄土はこの山なりと、しきりに感信して拝見しき。(p356)

 納経帳には、前回の印の上に「重ね印」と、左上に小さな丸い「結願(けちがん)」の印をいただきました。

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 さてこの那古寺では、結願の人にはこんなものがいただけます。「巡拝畢」は「じゅんぱいおわる」と読みます。「畢」は畢竟の「ヒツ」で、「おわる、おえる=全部もれなくけりをつける」という意味があるそうです。

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 これを和尚さんから、学校の卒業式のように一人ずついただきます。有料(二千円)なのでちょっと考えましたが、この先もう賞状のようなものがもらえることはないだろうからと、わたしもいただいてきました。
 その前に、和尚さんの講話がありました。実は前回のツアーのとき、和尚さんの話は長いので覚悟しておくように先達さんから聞かされていました。一番短いときで四十五分、一時間半かかったこともあるそうです。今回の先達さんも同じようなことを言っていました。
 だからみんな覚悟していたようです。畳に座るのではなく、椅子席が用意されていてよかった。やっぱり一時間かかりました。和尚さん、話をするのが好きでお得意のようですが、風邪が治らないとのことで、苦しそうな咳をしながらの講話で、長時間聞くのはちょっと辛いものがありました。これも修行のうちでしょうか。

 ともかく坂東三十三カ所観音霊場の巡礼を無事終えました。
 信仰心というわけではなく、関東地方一円を見てまわるいい機会だと思ってはじめたことでした。途中バスツアーに乗り換えてからは、まわりをゆっくり見ることはできませんでしたから、関八州にわが足跡の残らぬところはない、とまでは言えませんが、かなり広く見ることができました。中禅寺のような有名なところはもちろん、これまで聞いたことがなかったところ、自分で行こうとは思いもしなかったところへ数多く行くことができました。
 またバスツアーで行くことで、先達さんから作法などいろんなことを教えてもらいました。いっこうに覚えられませんが、「般若心経」を参拝の都度唱えてきました。いまだ悟りの境地にはほど遠いけれど、いい経験でした。
 この勢いで、3月の長野の善光寺へのお礼参りツアーにも申し込みました。参加費はちゃんと振り込みました。

 南無大慈大悲観世音菩薩… 合掌。

 

 

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2015年2月23日 (月)

第三十二番 清水寺

 2015年(平成27)2月6日、とうとう坂東三十三カ所巡礼が完結しました。

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 いよいよ明日が最後の巡礼というときに、バスの添乗員さんから電話がかかってきました。
「あのう、未入金みたいなんですけど…」
 情けない。申込だけして、入金手続きを忘れていたらしい。なお情けないのは、いやそんなことはない筈だと、ムキになって反論してしまったこと。
 ところが調べたら入金した形跡がない。すぐ入金して参加OKにしてもらいましたが、電話の向こうで「また年寄りが勘違いして…」とか言われていたことでしょう。
 しょっちゅう度忘れしているんだから、もっと謙虚にならないといけません。観音巡礼も大詰めだというのに、ちっとも人間ができていません。恥ずかしい。

 平成27年(2015)2月6日、前日は横浜でも雪がちらちらしていて、朝は道路の凍結に注意と言われていましたが、だんだん日が射してきて暖かい日になりました。
 まず千葉県いすみ市岬町音羽山清水寺(おとわさんきよみずでら)へ行きました。京都の清水寺と山号も寺号も同じです。その昔、伝教大師が、京都の清水寺に地形が似ているからとここに庵を結んだのが始まりで、名前もそのままつけられたそうです。
 今回の先達さんは京都から来ているとのことで、昔はそうだったかもしれませんが、今は全然似てません、と何度も言っていました。
 まあ、お寺のある山から見下ろした風景はこうですから、京都に似ていないと言われても無理はありません。

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 山道がけっこうありました。結願前の最後の修行と思って登るようにと、先達さんに言われました。

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 息をきらしながら仁王門へ着きました。奧に赤い四天門が見えます。
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 四天門には風神雷神がいました。

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 本堂です。

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 江戸時代に焼けて、建て直したもので、二百年くらい前のもので古い。しかし先達さんは、二百年ぐらいではまだまだ、と京都人の余裕を見せていました。

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 古い奉納額(絵馬)がいろいろありました。

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 本堂の脇は、ちょっとした斜面になっていますが、清水の舞台とはいいにくい。

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 百体観音堂というのがあって、西国三十三カ所・坂東三十三カ所・秩父三十四カ所の本尊の写しが百体祀られています。昔から百カ所まわることは難しかったので、こういう「写し霊場」があちこちに作られました。百カ所には含まれていないお寺にも、写し霊場があるところがあります。

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 この寺と京都の清水寺、兵庫県加東市の御嶽山清水寺(みたけさんきよみずでら、播州清水寺)を日本三大清水寺というそうです。どこも山があって、涸れない清水があって、坂上田村麻呂にゆかりがあるそうです。
 ただ、「日本三大清水」には異説があって、大阪市天王寺区の清水寺や岩手県花巻市の清水寺もそう称されているようです。 京都の清水は必ず入りますが。
 これがここの清水、「千尋の池」です。
 

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 ご詠歌は、

濁るとも 千尋の底は 澄みにけり
清水寺に 結ぶ閼伽桶

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2015年2月19日 (木)

おりょうの妄想?

 龍馬の暗殺犯人については諸説紛々で、たくさんの本が出ている。いろんな説がとなえられているが、結論は出ていないようだ。とにかくこの話は人気があるので、いまだに、かなりとんでもない新説が出て来たりする。
 ただし、暗殺当時は新選組がやったものと思われていた実行犯は、京都見廻組の与頭(くみがしら)佐々木只三郎の指揮下に今井信郎(のぶお)等がやったということで、だいたい落ち着いているようだ。問題の中心は、彼等に命令した黒幕は誰か、ということになっている。
 おおまかに分けると、
 
1 幕府(会津藩含む)説
2 紀州藩説
3 薩摩藩説(西郷隆盛、大久保利通)
4 土佐藩説(後藤象二郎)
5 その他諸説
といったところだろうか。

 わたしとしては、1の幕府側がやったというのが、一番納得できる。西郷や後藤が黒幕だというのは、うがちすぎで無理がある。暗殺後の歴史の結果にあわせて論証をこじつけているように思える。
 例えば西郷説は、薩摩は武力倒幕をするつもりでいたのに、龍馬が大政奉還を画策して邪魔をしたからという理屈で、武闘派と穏便派の対立というわけだ。
 しかし大政奉還をしたからといって、その後の江戸城無血開城が約束されたわけではない。その後どうなるか、その時点では誰もわかっていなかった。混沌のなかであれこれ模索しながら、みんながいろんな動きをしていたのだ。そのことを忘れて、結果だけをつないで理由をこじつけても説得力はない。

 紀州藩説は、「いろは丸事件」で紀州藩が巨額の賠償金を支払わされたことから、暗殺の黒幕であるとするものである。
 前にもちょっと書いたように、海援隊のいろは丸が紀州藩の明光丸と衝突して沈没した事件で、慶応三年(1867)4月に起こった。5月に長崎奉行所のもとで談判し、紀州藩が賠償金八万三千両を支払うことで決着した。その後七万両に減額され11月7日に長崎で支払われたが、11月15日に龍馬は暗殺された。
 この談判のときの海援隊側のやり方は、かなり強引であくどいものであったとも言われている。
 磯田道史(いそだみちふみ)『龍馬史』(文春文庫、2013)は、最初は「米や砂糖」だったいろは丸の積荷が、交渉が進むなかで、銃や多額の現金も積んでいたことになったと書いている。平成になってから実施された「いろは丸」の海底調査では、現金も銃も発見されなかったそうだ。
 積荷が嘘か本当かはともかく、談判に負けた紀州側には十分な理由があったことになる。だから暗殺直後、土佐や海援隊の人々は、紀州藩が新選組を使って殺させたものと思い込み、紀州藩公用人三浦休太郎を襲ったりした。

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 おりょうも当時、「紀州-新選組犯人説」を聞かされ、そう思い込んでいただろうと思われる。そして、おりょうは、さらにこんなことも言っている。
 前に出した資料の3 貴田菊雄伝作者不詳「坂本龍馬未亡人之物語」(→おりょうの言い分1)には、いろは丸事件について、こう書いてある。

 この「いろは丸」沈没は龍馬が深く計る處あつて敢へてしたものであつた。「いろは丸」は餘りにも貧弱な老朽船であつたゝめ賠償金を得、新船を購はうとする目的で、好い機会が來たとばかりこちらから乗りかけて自ら沈没させたものだといふ。(「傳記」の第三巻三号p107)

 なんと龍馬は「いろは丸」で、賠償金目当てに「当たり屋」をやったというのである。
 おりょうは、いったい何を根拠にこう言っているのか。
 当時の龍馬は、倒幕、大政奉還のために東奔西走していた。その中で「亀山社中」を運営し、土佐藩の後援を得て「海援隊」に改組したばかりだった。虎の子の船を賭けて当たり屋をやっている余裕など、とてもなかっただろう。
 当時の関係者の証言などにも、わざと当たったという話はないようだ。また、陸奥宗光が紀州と通じていたと言う者も、おりょうの他にはいない。おりょうの妄想では? と思いたくなる。
 紀州藩黒幕説は、明治以降、紀州藩や新選組関係の記録や証言などが明らかになっていくなかで、次第に薄らいでいった。しかしおりょう在世当時にはまだ有力だったと思われるし、市井の人だったおりょうの元には、それらの証言などは届いてはいなかっただろう。
 自分の不遇のすべての原因は紀州藩が…、と思うあまり、紀州藩出身の陸奥宗光と結びつけるようになった、と考えるのはわたしの妄想だろうか。

 なお磯田道史『龍馬史』(文春文庫、2013)は、おもしろく読んだ。
 単行本を買ってあったが、帯があんまり派手に「龍馬暗殺の謎」を売り物にしているので、なかなか手を付ける気が起きなかった。龍馬本はこういう派手な装いのものが多い。

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 文庫本で読んでみたら、よくある龍馬礼賛本ではなく、歴史学者として史実を見て、土佐の上士下士の対立、当時の社会情勢など、わかりやすく説明してある。
 龍馬暗殺は会津藩の命による見廻り組の犯行という正統派の解答で、これは意見が合う。
 2009年に、伏見奉行所が京都所司代に寺田屋事件の顛末を報告した文書の写しが見つかったという話は初めて知った。龍馬は、寺田屋から逃げるときに関係書類を残してしまい、その中には薩長同盟に関するものもあり、龍馬はさらに幕府から危険視されることになったのだという。
 残念ながら、おりょうについてくわしい記載はなかった。

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2015年2月16日 (月)

また水仙の季節

 2015年(平成27)1月19日~21日まで南無谷へ行っていました。坂東三十三カ所の巡礼で、長南町と木更津市のお寺をまわってから行ったので、初日は作業らしい作業はできませんでした。
 南房総はちょうど水仙の季節で、わが家でもいろんな水仙が咲いていました。

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 勝手に増えて、あちこちに広がっています。

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 ただ、手入れが悪いせいか、昔このブログで紹介したほどたくさんの種類は見られなくなりました。(→水仙いろいろ
 後から植えたものは、勢いの強いものに負けてしまったようです。

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 ここのところ南無谷へ来ても、ビワの摘花とか、どうしても欠かせない作業だけを慌ただしくやって帰っていました。今回は、前回にビワの施肥まですませているので、これまでできなかった、庭のかたづけを主にやりました。
 キウイの枝の剪定と施肥をしました。園芸の本によると、実のついた枝とつかなかった枝とは切り方を変えるようですが、どれがどうだったかよくわかりません。ともかく、ごちゃごちゃ絡まっていたのをすっきりさせました。
 今年の成果を期待していますが、ちゃんと手入れしないことには話になりません。

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 プラムもすっきりさせました。。

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 作業中、こんな鳥がやってきました。スズメが太ったような体型・大きさです。ジョウビタキというらしい。
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 いつも鳥に先行されて、一度もちゃんと収穫できなかったサクランボは病気にやられてしまいました。実のならないリンゴの木、花の咲かない桃の木などと一緒に根元から切りました。
 少し広くなったよう気がしますが、春になって雑草が生えてるまでだけでしょう。

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 椿は、花が咲くけれど、チャドクガにやられるので、二本とも根元からきりました。

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 ビワは、実がふくらんできたもの、まだこれからのもの、といろいろです。ビワは寒さに弱いので、今年の寒さはどの程度なのか、心配です。

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 実がついているのは例によって柑橘系だけです。甘夏とレモンです。

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 帰るとき、フェリーの時刻表が変わっていたのに気づかず、たくさん待ち時間ができてしまったので、久しぶりに鋸南町(きょなんまち)保田(ほた)の「ばんや」へ行きました。
 漁港にある漁協直営の食堂で、新鮮な魚介類が山盛り出てきて、しかも安いので有名になり、拡張に次ぐ拡張を重ねましたが、今でも昼時はいつも満員で、最近はちょっと敬遠していました。(→http://www.banya-grp.jp/
 相変わらず繁盛していました。とにかく量がすごいのが特徴です。食べ始めてから写真を撮っているので、少し減っていますが、刺身一切れの厚さを見てください。

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 これはあら煮です。これも一切れ少なくなっていますが、これで600円ぐらいでした。
 以前、これにはまって、午前中のすいている時間に、鍋持参で買いに行き、持ち帰って晩のおかずにしていました。安くて量があって、しかもうまいのです。

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2015年2月12日 (木)

第三十番 高蔵寺

 次は木更津市の第三十番札所、平野山高蔵寺(へいやさんこうぞうじ)、高倉観音(たかくらかんのん)です。
 『観音霊場記』(→第十四番弘明寺 ご詠歌)によれば、高倉天皇(在位1168~1179)がこの寺を興隆したので「高倉」と称したが、尊号の字を諱(い)んで「高蔵寺」と書くようになったとあります。高倉天皇といえば、後白河天皇の子で安徳天皇の父、平家物語の時代の天皇です。
 さらに藤原鎌足とも縁があり、ここの観音様のおかげで鎌足が生まれたという伝説もあるそうです。このあたり、木更津市に編入される前は鎌足村(かまたりむら)といいました。
 大化の改新や平家物語で忙しかった人たちが、この寺とどれほどの関わりがあったのかよくわかりませんが、こういう話は、わからないところやありえないところに有難味があるのでしょう。

 仁王門から入ります。古そうで立派です。

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 本堂は、高床式の建物です。

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 正面の階段の高さが床の高さで、人が立って楽々入れます。

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 本堂は閉じられていて、本尊は限られたときにしか開帳されないそうですが、床下からなら常時拝観できることになっています。

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 その床下は「観音浄土巡り」になっていて、有料(300円)でした。

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 入って驚きました。地獄・極楽巡りということですが、ともかくやたらと仏像や銅像、置物や掛け軸・絵図の類が並んでいました。閻魔様や鬼はともかく、ビリケンさんに金精様、インド・東南アジア系かと思われる怪しげな神像に、河童などの狐狸妖怪、はてはディズニーの人魚姫まで飾ってありました。
 なんというか、エスニック民芸・骨董店兼秘宝館というと怒られそうですが、ちょっと毒にあてられ、あっけにとられて写真もとりませんでした。またそこら中に賽銭箱が置いてあるのも異様でした。おどろおどろしいのが地獄絵巻だけならいいけれど、極楽まで怪しげな雰囲気が漂っていました。
 正直これはどうかと思ったけれど、こういう摩訶不思議なごった煮が成立するのも、多神教のよさかもしれません。一神教の世界では、原理を研ぎ澄ましていく段階で切り捨てられてしまう魑魅魍魎、妖怪変化の類まで、多神教の世界では、なにかの時には役にたつかもしれないと、なんとなく片隅に残って、それなりの位置を占めている。そういうことだと理解しましょう。最近、一神教の非寛容が、世界を騒がせているときでもあります。八百万の神に合掌。

 肝心のご本尊は、そんなわけで写真を取り損ねたので、パンフに載っていた写真を載せておきます。こんな感じで足元が床下に置かれているので、穴から仰ぎ見ることができるようになっていますが、お顔まではよくわかりませんでした。

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 ご詠歌は、

はるばると 登りて拝む 高倉や
富士にうつろう 阿裟婆なるらん

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 これでもう一回、二月のバスツアーに行けば三十三カ所完了です。

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2015年2月 9日 (月)

第三十一番 笠森寺

 2015年(平成27)1月19日に、千葉県長生郡長南町(ちょうせいぐんちょうなんまち)にある笠森寺(かさもりじ)と、千葉県木更津市(きさらづし)にある高蔵寺(こうぞうじ)へ行ってきました。
 今回はバスツアーではなく、自前の、先日買い替えたばかりのタントで行きました。アクアラインで木更津へ行って、ちょっと遠回りですが、南無谷行きを兼ねることにしました。
 この二カ寺へ行けば、2月のバスツアーで、いよいよ結願(けちがん)を迎えることができます。

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 長南町の第三十一番札所、大悲山笠森寺(だいひざんかさもりじ)から行きました。
 ここは電車で行こうと思って調べたら、電車・バスの乗り継ぎが大変なので、車にしました。ちょっとした山の中で、一帯は県立の自然公園になっていて、笠森寺自然林に囲まれています。
 駐車場から、こんな階段を登っていかなければなりません。今回は、うちの奥さんに無理につきあってもらったのですが、足と腰の問題で、いきなりここで待機してもらうことになりました。

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 この階段がけっこうありました。うちの奥さんにはやっぱり無理でした。

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 自然林ということで、大木、名木もあります。

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 登った先にあるのが二天門。奧に本堂が見えます。

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 その本堂は、さらに高い小山の上に建っています。岩肌に何本もの長い柱を立て、その上にお堂がのっています。「四方懸造(しほうかけづくり)」というそうです。

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 さらに急な階段を登らなければなりません。

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 いただいたパンフレットには、二代目広重の「諸国名所百景 上総笠森寺岩作り観音」 という浮世絵がありました。階段部分が実物よりちょっと長いかな、という気がしますが、気分はこのとおりです。

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 横から見上げると、こうなっています。この作り方を「四方懸崖作り」と書いてある本もありました。なるほど、きっと菊の「懸崖作り」はここからきたのでしょう。

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 登った本堂前の回廊です。

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 かなり遠くまで見晴らすことができましたが、土地勘がないので、どちらがどこ方面なのか、いまいちわかりませんでした。

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 ご詠歌は、

日はくるる 雨はふる野の 道すがら
かかる旅路を たのむかさもり

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2015年2月 5日 (木)

海援隊とおりょう3

 龍馬をのぞいて海援隊出身者で一番有名なのは、陸奥宗光だろう。(ここで武田鉄矢だ、などと言わないように)
 紀州藩士で、維新後曲折を経ながら農商務大臣、外務大臣になった。条約改正や日清戦争講和交渉などにあたり、その外交手腕は高く評価されている。元海援隊士の中でもっとも立身出世したと言ってもいい。明治30年(1897)死亡。

 その陸奥宗光について、おりょうは回顧談の中でとんでもないことを言っている。龍馬暗殺の黒幕の一人だというのだ。
 1-1「反魂香」の第一回で安岡秀峰は、こう書いている。

 龍馬等三人を殺害したのは、近藤勇だと人も云ひ、書にもありますが、実はそうで無いです。其殺害した奴の名は三村久太郎と云つて、此奴が会津、紀州を往来して居たので、殺したのは此奴ですが、殺さした奴は外にあるので、名は知つて居ますが、此の稿へ書き入れ度いですけれど、あまり公に言ふと、飛んでも無い人迄引張り出されますから、僕は名だけは云ひません。そのかわり一寸、天機だけは洩らして置きましやう。
 備後鞆の沖で、海援隊のいろは丸と、紀州藩の明光丸とが衝突して、それが為めに、いろは丸は沈没し、龍馬は中島信行を代理として談判の結果、遂に八万五千両の償金を紀州藩から取った事は、諸君御承知でしやう。(『千里駒』には、沈没せし船の名も無く償金は十万両とあり)で、それも暗殺の原因の幾部分かをしめて居るので、もう一つ明らかに云へは、龍馬は全く飼犬に手をかまれたのです。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p182)

 紀州がからんで、飼犬に手をかまれた、と言えば陸奥のことだと、わかる人にはわかっただろう。
 「三村久太郎」は紀州藩用人「三浦休太郎」の間違いである。当時、海援隊のいろは丸が紀州藩の明光丸と衝突して沈没した事件があって、三浦は龍馬たちとの交渉にあたり、巨額の賠償金を支払わされていた。
 龍馬の暗殺直後、海援隊士たちは、三浦が新選組を使嗾して殺したものだとして、三浦がいた旅籠天満屋を襲撃した。このとき陸奥は率先して乗り込んでいったとされている。三浦は傷を負ったが生きのびた。
 この件について、1-1「反魂香」の第六回ではこんなことも書いている。

  同志の復讐及おくびやうたれ
 龍馬、中岡が殺されたと聞き、同志の人々は大に激昂して、油の小路の新選組の屋敷へ暴れ込みました。行く時に、同志の一人陸奥宗光が、何故か厭と首を振つたそうですが、遂に勧められて行く事となりました。元来、陸奥は隊中で『おくびやうたれ』と綽名(あだな)されて居るので、それを言はれて笑はれる口惜さと、一つは何か外に訳があるのか、出掛けたものゝ、外の者は勢ひよく斬り込むで縦横に薙立(なぎたて)て居るのに、陸奥は裏の切戸に短銃を持つたまゝ立って居たそうです。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p200) 

 そしておりょうは、紀州藩士の陸奥の兄が、以前京都で龍馬に女を取られた恨みがあったと、本当かどうかまるでわからないことを言う。また、

龍馬を殺さした者は紀州と会津の内に居る(原文傍点、以下同じ)ので、中には七重八重の奥深く鎮座ましまして、余がなぞと、殿様風を吹かす奴もあるそうです。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p201)」

とも言っている。殿様風を吹かす奴というのは、外務大臣になり、子爵から伯爵にまでなった陸奥へのあてこすりだろう。
 さらに、勤王の志士たちの世話をしていたことで有名な寺田屋の女将お登勢も、龍馬の死後、陸奥が新選組の奴と一緒に宴会をしていたと聞いて、

龍馬さんや中岡さんを殺した奴等に、陸奥さんは、かゝりやつては居ないか知らと、怪しむで、人を頼むで探らしたそうですが、分からなかつたそうです。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p201)

と言っていたという。お登勢が本当にそう言ったかどうか、おりょうの他にそう聞いたという証言はなさそうだ。

 聞き手の安岡秀峰はこれを受けて、こう書いた。

   僕の決心
 第1回の反魂香に、龍馬等を殺害さした人の名を云はないつもりでしたが、烏水氏の評言『縦横忌憚(きたん)なく隠微(いんび)を訐(あば)け』といふにはげまされて、えゝ何うなるものか、突つ込むなら勝手に突つ込むで来い、尻を持つて来たら亦その時は何うかならうと決心して、此稿へあからさまに書き立てました、誰が殺さしたか、誰が関係して居るか位は分るでせう。飼い犬に手を噛まれたのも、全く之れが為です。(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p201)

 同じ頃、同じ話を聞いたと思われる川田雪山は、2-1「千里駒後日譚」第一回で、陸奥が「臆病たれ」と言われていたという話の後、こう注釈をつけている。(「三浦休太郎」がここでは「津村久太郎」になっている。)さすがにずばり書くのはためらったようだ。

 雪山曰く、陸奥の事に就ては、実に意外なる話を聞けり、されど云ふて益なし、黙するに如かざるべし、読者かの紀州の光明丸と、鞆の津沖に衝突して、いろは丸沈没したる償金に紀州より八万五千両を取りたる一事を知るべし、而(しか)して、当時、紀州の家老は、実に此の陸奥の兄にして、又龍馬を斬つたる津村久太郎等は、常に会津、紀州の間を往来し居たりと云ふ、一々対照し来れば、蓋(けだ)し思ひ半ばに過ぐるものあらん、噫(ああ)(『史料が語る坂本龍馬の妻お龍』p235) 

 おりょうは本気で陸奥が暗殺の黒幕だと思っていたのだろうか。
 暗殺直後からそう思っていたのであれば、土佐にいた頃や東京へ戻った頃にも、まわりに訴えるなどの行動があってもよさそうだが、そういう話はない。
 秀峰がおりょうからの聞き取りを開始したのは明治30年(1897)である。この時期になって、陸奥が黒幕だと言い出したのだとすれば、なにか新しく判明した事実でもあったのか、陸奥との間になにかあったのか、あるいは海援隊当時から陸奥とはうまくいってなかったのか、まったくわからない。
 陸奥は、明治30年(1897)に死亡しているので、明治32年に発表された「反魂香」、「千里駒後日譚」を目にしてはいない。しかし生前、おりょうがそう言っていることを、噂に聞いたりしていただろうか。もし聞いていたとすれば、陸奥は、とてもおりょうの面倒を見る気にはならなかったにちがいない。
 多くの海援隊士に嫌われていたという話があるうえ、出世頭の陸奥を暗殺の犯人だと言っていたのでは、瑞山会が武市半平太の未亡人を手厚く庇護したようにはいかなかったのも無理はない、ということになってしまう。

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2015年2月 2日 (月)

第二十七番 円福寺

 昼食の後は銚子市の第二十七番札所、飯沼山円福寺(いいぬまさんえんぷくじ)飯沼観音です。
 銚子というとまず漁港ですが、町は、この円福寺の門前町として発展したものだそうです。だから広大な敷地がありましたが、太平洋戦争で銚子も空襲にあい、寺の建物は一部を残して焼失しました。戦後、町を再建する時に、大きな道路が寺の敷地を分断してしまい、現在は本堂・飯沼観音エリアと本坊・大師堂エリアに分かれています。
 バスの駐車場は、本坊・大師堂の方にありました。これが大師堂です。

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 観音堂(本堂)へは、少し歩いて道路を渡って行かなければなりません。
 これが入口の仁王門。大きく立派です。

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 本堂(観音堂)の階段の脇には大仏様もあります。ここは戦後に再建された建物ばかりなので、まだ風格はありませんが、みな大きく頑丈そうです。

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 階段を登ったところには、左右に醤油の一斗缶がピラミッド状に積み上げられていました。右はヤマサ醤油、左はヒゲタ醤油の看板がありました。酒の薦被りの代わりに醤油が置いてあるのは初めて見ました。銚子は醤油の産地でもあります。

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 本堂は高いところにあるので、漁港の方を見晴らすことができすが、細かいところまではよくわかりません。境内には平成になってから建てられた、まだ新しい五重塔もありました。

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 また道路を渡って駐車場へ戻りながら、銚子のような町まで空襲したアメリカの意図について考えてしまいました。銚子は、東京(首都)への食料供給の重要拠点だからと、1945年7月に空襲されたそうです。
 銚子にかぎらず、全国の、地方のちょっとした都市にまで空襲の被害がありました。200以上の都市が空襲されたそうです。戦争の帰趨がだいたい決まったころ、非戦闘員に大きな被害が及ぶことも承知の上です。徹底的に日本を痛めつけてやろうという、当時のアメリカの強固な意志を感じます。自分のところがやられたからといって、9・11ぐらいで騒ぐんじゃないよ、と言いたくもなりますが、観音様のお参りに来て、あんまり物騒なことを考えていてはいけません。

 空襲のことはおいといて、駐車場の先の銚子電鉄の「観音駅」へ行きました。江ノ電のように、民家の庭先を走っているそうです。残念ながら電車は見られませんでした。

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 なんとこの駅は「たい焼き」が有名なのだそうです。

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 「たい焼き」と「ぬれ煎餅」を買いました。「たい焼き」はあんこたっぷりでしたが、土産に持ち帰るより、その場で焼きたてを食べるべきでした。「ぬれ煎餅」は醤油がきいていて、おいしかった。

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 ご詠歌は、

このほどは よろずのことを 飯沼に
きくもならはぬ 波の音かな

Photo

 

 アクアラインを通って帰り、途中「海ほたる」で休憩でした。夕方五時半くらいですが、もうすっかり暗く、エスカレーターはイルミネーションきらきらでした。

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 これで行ってないところは三カ寺になりました。結願のためもう一度行かないといけない那古寺を入れて残るは四カ寺です。もうひとふんばりです。

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